月の隣

満月

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月の隣

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誰もいない夜の街を一人で歩く。
家から少し遠い方の公園まで、もうすぐだ。随分と歩いた気がする。時間を確認しようとして、家を飛び出てきたことを思い出す。生憎何も持っていない。
空を見上げてみた。星も月も、よく見えない。きっと分厚い雲に覆われているのだ。今日は満月だったのに。

「私もあんな感じかなあ」

お先真っ暗。なんちゃって。
コンクリートに擦れるスニーカーが立てる音は、私の意図によって軽快に響いている。せめて気持ちは明るく持とうと、足取りだけは軽いのだ。
静かだなあ。
季節は冬。初冬だ。それでも肌寒いというよりは寒く、あまり着込まずに出て来てしまったことを今更後悔する。いや、正確には、出て来てしまったこと自体を後悔し始めているのだけれど。

「さむ」

冬は好きだ。空気は澄んでいるし、何より空がよく見える。今日は見えなくても、きっと明日にはまた綺麗な空が見えるだろう。ますます、今日は出て来るべきではなかったと思う。タイミングが悪い。
私には母がいない。
十年近く前、病気を拗らせて手の届かないところへ行ってしまったのだ。残された私たちは住んでいた街を離れ、今の家に移った。父はこれといった理由は明かさなかったけれど、きっとあの街には母との思い出がありすぎるのだと思う。小学校からの幼馴染だったらしいから。
少し離れたこの街で新しい生活を始めようとした父は、恋人との思い出と家族で過ごした時間を丸ごとアルバムに閉じ込めた。
真面目すぎる父と、まだ子供な私がぶつかることはしょっちゅうあった。今回もそれだ。ただのくだらない親子ゲンカ。少し頭を冷やすために外に出て来ただけ。
私は父のことが好きだし、父も私を育てるために毎日頑張ってくれている。父にばかり頑張ってもらうのは申し訳ないからと、少しでも大人になろうとした私が躍起になって衝突するのも、またありがちなことだった。


公園に着いた私はまず自販機の前に行った。ポケットを探り、何も持っていないことを思い出して大きく肩を落とす。手が冷えていくのを覚えながらベンチに座る。じっとしているとどんどん体が冷えてしまいそうなので、手軽に動かせるブランコに乗ることにした。

「高校生にもなって、ブランコを漕ぐ日が来るとは」

幼い頃はあんなに大きく見えたブランコも、今見てみると意外に小さいものだ。いくら体が大きくなったところで、大人にはなれない心がもどかしい。
父の役に立ちたいのに、今もきっと心配をかけている。喧嘩なんてするんじゃなかった。いつもいつも嫌だと思いながら喧嘩をする。喧嘩しなくなる方が怖いとも思う。私たち親子は、ぶつかり合いながらお互いを知っていくのだ。母がいなくなってからずっとそうだった。
ブランコを漕ぐのを止め、再びベンチに座った。体は温まっても手は冷たいままだったので、太腿とベンチで挟む形をとる。一つ欠伸が出た。白い息が空気と混ざる。電灯は光を揺らしながら、静かにベンチの周りを照らしていた。


しばらく空を見ていた。
何も見えない空には何の面白味もないが、余計なことをごちゃごちゃと考えるよりかは頭が冷える。
「真っ暗だなあ」とか「寒いなあ」とか、当然のことをわざわざ考えてみるのは無意味であっても嫌いではない。だらしなく足を投げ出しベンチに浅く腰掛け、背もたれに頭を預ける。脱力すると尚良し。
そろそろ帰ろうかと思い、重たい頭を背もたれから離して上じゃなく前を向いた。ベンチから数メートルのところに人が経っているのが見えて、小さく悲鳴を上げてしまう。
全く気付かなかった。突然のホラー展開に思わず身構えると、その人は小さく会釈をして近づいてきた。更に身構える。電灯が照らす範囲に到達したその人は、私の警戒があからさますぎたのかふわりと笑って首を少し倒した。

「隣」

「となり?」

「座っても?」

「…はあ、どうぞ」

「どうもありがとう」

同い年くらいだろうか。それにしては大人びた雰囲気を醸し出している男の人だった。丁寧にお礼を口にして微笑み、私の右隣に腰を下ろす。その一連の動作が流れるようで、ただベンチに座るだけのことなのに一瞬見惚れていた。
「寒いでしょ」と言いながら既に自分のしていたマフラーを解いて、私の首にかけてくれる彼。
不思議なことに、不快感は全くなかった。

「…ありがとう」

「どういたしまして」

彼は不思議な人だった。突然現れて隣に腰掛けたと思えば、親しげに話題を振ってくれる。何一つわからない人だったけれど、最初の警戒はどこに行ったのだと自分で問い詰めたくなるくらいには彼の隣は安心した。
余計に不思議。

「ねえ、私たち、会ったことあるの?」

「どうだったかな」

「なに、それ。あるの?いつ?」

「手、冷たいね」そもそも上手く誤魔化そうという気がないのか、徐に私の手に自分の手を重ねながら彼は笑った。「何か、あったかい飲み物でも飲む?」

「いいよ。こすってればあったかいし」

「じゃ、俺も協力する」

私が首を傾げれば、彼は両手で私の手を包み込んだ。

「俺ね、子供体温だから」

「…あったかい」

「冬は湯たんぽとして活躍するんだよね」

「湯たんぽよりカイロがいい」

「なら、カイロにしよう」

「湯たんぽだとなんか古いよ」

彼は私の手を包んだまま、またいろんな話を聞かせてくれた。
もうすぐ駅前に新しいカフェができること、大通りを外れたところに知る人ぞ知る名店があること、友達がどこかでストリートライブをしていること、テストで失敗したこと。
ジャンルの統一性こそなかったけれど、彼は私の蟠りを払拭するようにたくさん笑わせてくれた。

「ねえ、今何時?」

「ちょっと待ってね」片手で携帯を取り出し、時間を確認してくれる。「22時半になるところ」

家を出てから2時間ほど経っていた。彼とは1時間以上話し込んでいただろう。全く苦ではなく、むしろ彼のおかげで随分と気が楽になった。
初対面で、知らない人なのに。

「そろそろ帰った方がいいね」

彼は私の手から両手を離した。途端に冷たい空気が私の手に触れる。嫌だなと思ってしまった。不覚にも。

「…帰りたくないなあ」

ポツリ、呟いてみる。
彼は聞こえないフリをしているのか、ゆるりと笑って「ほら、行こう」と立ち上がった。

「…もう少しいちゃダメ?」

「ダーメ」

「ケチ」

「君には」なかなか立ち上がらない私を見兼ねてか、彼はもう一度私の手を握ってぐい、と引っ張った。

「帰らなきゃいけない理由があるんじゃないかな」

彼によって立たされ、その拍子にバランスを崩した私は彼の胸に顔を埋めることになる。

「…ある、けど」

「ね?」彼はすぐに私を離した。「だから、帰ろう」

私に背を向けて公園の出入り口へと足を進める彼の言葉を反芻する。彼は「君には」と言った。彼にはないのだろうか。帰る理由が。

「ねえ、あなたには」

「うん?何か言った?」

確かに距離は遠くなった。けれど、聞こえない距離ではないはずだ。答えてくれる気はない、ということだろうか。少し悔しい。

「何でもない」

「そう?」彼は笑ったのだろう。少し遠くなった彼の首が、斜めに傾いた。「おいでよ」

私に向かって手を伸ばす彼に、これ以上何かを聞くのは野暮だと思った。伸ばしてくれた手を掴むため、私は彼の隣へと走る。


「君の家はどの辺りにあるの?」

「もうすぐ。家から遠い方の公園を選んだんだけど、それでも結構近いの」

「なら家の近くまで送るよ」

「家まで、じゃないんだ?」

少し我儘を言ってみる。
彼は眉を下げて「そうだね」と笑った。
つい先ほど出会ったばかりの男の人と手を繋いで歩いているというのに、ずっと昔から知っているような感覚に陥る。この人は誰なのだろうか。懐かしいような、真新しいような、矛盾しているけれど、そんな気がする。
隣にいればいるほど、彼は不思議な人だった。

「手、やっぱり冷たいね」

「さっき一回離されたもん」

「ごめんね」

「嘘だよ」

彼に触れている右手は温かい。行き場のない左手だけがどんどん冷えていく。
左手は家を出たときの私。右手は彼と出会ってからの私。そう例えると、人はほんの数時間で変われる生き物なのだなと思った。

「家、そこの角を曲がって少し歩いたところ」

「じゃあ、角まで行こうか」

「…ん」

ほんの少しの抵抗をしようと、歩く速度を落としてみる。彼は静かに微笑みながら、私の歩幅に合わせてくれる。余計に帰りたくなくなってしまった。彼は実は意地の悪い人なのだろうか。

「はい、到着」

私は彼の手を離せなかった。彼はそれでも、私の手からするりと抜けだしてしまう。彼がいなくなった右手は一気に体温を失っていく。やはり人は変わってしまうのだ。
二人から一人になった途端、いとも容易く。

「…今日はありがとう」

私は弱すぎる女になりたくなかったから、もう我儘は言わないことにしてお礼を言った。なるべく笑顔で。

「無理しないで」彼は私の髪を撫でる。「公園で話してたときの笑顔の方が見たいな」

その声は優しいのに、言うことは意地悪だ。

「見たいなら」

「なら」

「…また話してよ」

「そうだね」

彼はまた、その気があるのかないのかわからないことを言いながらふわりと微笑むのだ。
温もりを覚えたばかりの右手を握りしめ、私は彼に背を向けた。彼は引き止めることもしないで、きっと黙って立っているだけ。角を曲がるとき、ちらりと盗み見た彼は俯いて左手を握ったり開いたりしていた。
私と同じようなことをしている彼の心に、どれだけ「私」が残っているだろうか。
頭を左右に振って、家の玄関を目指す。そこには父が立っていて、私を見つけると駆け寄って来てくれる。毎度同じことだ。

「お父さん、あのね」

私の肩に手を置いて心配そうに顔を歪ませながら「よかった」と呟く父に、精一杯の気持ちを込めて「ごめんなさい」を言った。
こんなにも素直に心配かけてしまったことを謝れるのは、酷く久しぶりのことだった。


学校へ続く道を歩きながら、彼のことを考える。というよりも、目が覚めてからずっと考えてしまっているのだけれど。私は至極単純な人間なのかもしれない。十六にもなって漸く気付く私が鈍感なだけで、実はずっと単純で簡単な人間だったのかもしれない。情けないような恥ずかしいような、微妙な心情だ。
胸に溜め込んだ息を吐く。右手をそっと握る。昨日は彼の手を必死に捕まえていたというのに。誰の手も触れていない今の私の手は、手袋をしていても冷えたままだった。
寒いなあ。
冬になったばかりなのに、空気の冷たさが痛い。
彼はどこの学校にいるのだろうか。そもそも何歳なのだろうか。私と同じくらいに見えたけれど、童顔も老け顔もいるこのご時世では高校生かどうかもわからない。老け顔といってしまうのは失礼だとは思うが、童顔の対義語はこれ以外に思いつかなかった。

「蓮見」

その日、放課後になったというのに、先生は私を自由にしてくれなかった。

「これ、今日のプリントなんだけどさ」大きめの封筒を差し出され、受け取る。「柳に届けてやってくんねえか」

「柳くんに、ですか」

「そ。住所と地図書いた紙、これな。気の毒だがお前が1番近いんだよ。これ絶対提出のやつだから頼むわ」

「気の毒に思ってくれるなら頼まないでくださいよ」

「そう言わずに。今度ジュース奢ってやるよ」

「しょうがないなあカナちゃんは」

「カナちゃん言うな!金澤先生、だろ、優等生」

「はぁい、金澤せんせ」

「お前が優等生とは思えねえな」と笑いながら私の髪をぐしゃぐしゃと乱してくる。
カナちゃんこと金澤先生、自称24歳。実際にはもう少し上らしいけれど、大して変わらないので訂正することもなく流しているのが生徒たちの優しさ。接しやすくノリのいい先生なので、割と人気は高い。

「じゃあ蓮見、頼んだぞー」

「ジュースですからね」

「わかってるわかってる」

私に背を向けながらひらひらと手を振るカナちゃんの仕草は、教師とは思い難いものがある。ちなみに英語の先生だ。帰国子女なんだそうで発音だけは無駄によくて、それがまた生徒たちにからかわれるネタとなっている。
先生の言う柳というのは不真面目な人で。今日も今日とて、きっと元気にサボっているのだろう。学校でサボるのか家でサボるのかは日によって違う。プリントは親御さんに渡せばいいらしい。不真面目な子供の親に会いたいかと聞かれたときは、私は即座に首を振るつもりでいる。


「いるのかな」

渡された地図を元に、何とか柳くん邸へ到着。大きくも小さくもない大人しめの一軒家だ。インターホンを押して、しばらく待ってみる。玄関から出てきたのは、何と親御さんではなく不真面目な柳くん。

「…誰だっけ、委員長?」

「ああ、まあうん、こんにちは」

「こんにちは」

「久しぶり、柳くん。これ、先生から預かってきたの。今日のプリント」

「まじか、さんきゅ」

私が差し出した封筒をさらりと受け取る柳くんの顔は、どこか少しだけ赤らんでいる。

「柳くん、ひょっとして具合悪い?」

「別に、普通」

「よく見たら汗すごいよ」

「よく見んなよ照れるだろ」

「出てこさせちゃってごめんね」

「だから普通だって」

柳くんは、もう一度「ありがと」と言って覚束ない足取りで家の中へと消えてしまう。
大丈夫だろうか。
元気にサボっているわけではなさそうだったので、前言撤回。
何はともあれ私の役目は終わって、あとは帰るだけとなった。途端に思い出すのは彼のことで、私は一体どうしてしまったのか。それを考える時間すら惜しい。いよいよ壊れてしまったのかもしれない。
今日もあの公園に行けば、会えるだろうか。他愛もない話を聞かせてくれるだろうか。私の手を、両手で優しく包み込んでくれるだろうか。
もしそうなら、幸せなんだろうな。
温もりを忘れた右手が、彼を思い出してほんの少し温かくなったような気がした。


「お父さん、少し出てきてもいい?」

「どこに行くんだ?」

「近くの公園」

父は不思議そうな顔をして、「何をしに?」と尋ねた。きっと行動を制限するためではなく、単なる疑問だろう。

「ちょっと」彼のことを何と言うか迷い、一度言葉を切る。「ともだちにね」

「…そうか?あんまり遅くならないようにな」

「うん、わかってる」

「遅くなりそうなら連絡しろよ」

「お父さん携帯見ないじゃん」

「見るよ」

私は思わず笑う。
きっと天国にいる母も微笑んでいるだろう。父は機械音痴で携帯電話という優れ物の利便性をなかなか認めようとはしなかった。母が生きていた頃は意地を張っていたのかどうなのか、ほとんど携帯を触っているところを見たことはない。そんな父が携帯を握りしめながら私を見下ろす姿はなんだかおかしかった。

「わかった、また連絡するよ。じゃあ行ってきます」

「気をつけて」

いつでも携帯を持っているぞ、とでも言うようにその手を持ち上げる父に笑ってから家を出た。昨日とほぼ同じ時間だ。会える保証もないというのに、今日もあまり着込んでいない。もちろん寒いのだけれど、彼に会えたときのため。彼に会ったとき着込んでいたら、ひょっとすると昨日みたいには温めてくれないかもしれないから。
はやる気持ちを押さえ込みつつ、それでも自然と早足になってしまうのがもどかしい。
少しだけお金を持ってきた。
手袋は持ってこなかった。
今日もし会えたら、昨日のお礼に温かい飲み物をご馳走するつもりだった。ご馳走というほどのことでもないけれど。
公園に着いて、ベンチに腰を下ろす。当然といえば当然だが、彼はいない。空を見ていれば、現れてくれるだろうか。そんな淡い期待を抱いて視線を空へ向けてすぐのことだった。幻聴が聞こえたのかと思った。けれど明らかに地面を擦る足音は近づいてきている。

「来てみるものだね」彼は微笑む。「会えるとは思ってなかった」

「…私も同じ」

彼は昨日のように、「隣いい?」と聞いて私の右隣に座った。そしてまた、マフラーを解いて私の首にかけてくれる。

「今日はどうしたの?」

「どうしたの、って?」

彼は口元を緩めたまま首を振ると、「温かい飲み物でも飲む?」と言った。昨日の繰り返しだ。私はチャンスをものにするため、頷いた。彼が音もなく立ち上がる。私も素早く腰を上げ、彼の前に少し飛び出した。不思議そうな顔をする彼に、ポケットから小銭を出して見せる。

「飲む?」

「俺はいいよ」

「じゃあ、自分で買ってくるね。座ってて」

「うん?」

納得していないような表情になりながら、彼は再びベンチに腰を下ろした。自販機の前に立って、もう片方のポケットからも小銭を取り出す。私の分と、彼の分。何を買うか迷ったけれど、無難にお茶と珈琲のボタンを押して彼の隣へ戻った。

「はい」

「え?」

「お茶と珈琲」両手に持った缶とペットボトルを彼に向かって突き出す。「どっちも嫌いだったらちょっと困るけど」

「俺に?」

「もちろん」

「え、返すよ」

「いいの。…間違って押しちゃって」

彼はその後も受け取ろうか迷っているように手を伸ばしたり引っ込めたりしていたけれど、「冷めちゃうよ」という私の言葉に、おずおずと珈琲を手に取った。

「ありがとう」

「どういたしまして」残ったお茶のペットボトルの蓋を開ける。「珈琲、好きなの?」

「ん?あ、お茶でよかった?」

「平気」

「ならよかった。間違ったって、珈琲?」

本当は間違ったわけではないけれど、頷いておく。彼も缶コーヒーのプルタブを引いて、珈琲を口に含んだ。「あったかいね」と私の頬に缶を当ててふわりと笑う彼に仕返しをするため、私もペットボトルを口から離して彼の頬に当てた。
本当は手で触れたかったというのは、押し隠しておこう。
それからまた他愛のない話をして、今日は大人しく家路に着いた。彼は当然のように私の手を握って隣を歩いてくれる。
あの曲がり角に来れば、もうお別れ。
わかってはいるしそれは当然なのだけれど、やっぱり私は少し抵抗したくて、歩く速度を落とすのだった。


私は毎日彼に会いに行ったし、彼も毎日公園に来た。
私に会いに来てくれているのかどうかはわからないけれど、私がベンチにいるのを見てふわりと微笑んでくれるので、彼が公園に来る理由の中に少しでも私がいるのならそれだけでいいと思うようになった。
毎日たいして着込まずに出て行って、彼に何度もマフラーを巻いてもらった。何度も手を握ってもらった。その都度胸に積もってしまうものが何なのか、名前自体は知っているつもりだった。ただほんの数時間で惹かれてしまった私が信じられなくて、認めたくない自分がいる。
そう思っている時点で手遅れなのも、流石にわかってはいるのだけれど。

「委員長」

「柳くん?」

珍しく柳くんが学校に来ていると思えば、お昼休みの今、唐突に声をかけられた。

「俺昨日委員長見た」

「…どこで?」

「道」

「はあ」

「八時半くらい」柳くんは一度言葉を切って、首を傾げながら私に口を開く。「委員長、あの時間にどこ行くわけ」

「…聞いて、いいことがあるの?」

たいした理由はないが、彼とのことは誰にも知られたくないと思ってしまった。
柳くんは首を傾げたまま「ねえな」と呟き、私に背を向けて去って行った。
夜に出歩くのは確かに印象が悪くなるかと思ったけれど、八時半ならたいして支障はないなと思い直す。塾だとでも言えばいい。柳くんに見られたとして、知られたくないだけでやましいことは一つもない。
悪いことは何もしていないのだ。
今日はどんな話が聞けるかと胸を躍らせながら、午後の授業の準備に取り掛かった。

「今日も冷えるね」彼は当然のように私の首にマフラーを巻く。「それ、あげる」

「え?」

「マフラー」

「いや、でも」

「貰って?」

「…ありがと」

「明日からちゃんと巻いてきてね。風邪引いちゃったら俺もやだし」

こくんと頷くと、彼は満足そうに微笑んで私の両手を包んだ。やはり彼は温かくて、私の手もじわじわと熱を帯びていく。寒々とした空気とは対照に、彼のあたたかい声が耳に残る。止まりそうな時間の中、世界は私たち二人だけのもののように感じる。いや、この世界にいるのが私たち二人だけのような気がする。それでも私たちの関係を何と言えばいいのかわからないまま、変化はない。
私の勇気が足りないだけなのだろうけれど。

「休みの日とか、何してる?」

「勉強とか、家事とか」

「そっか、偉いね」

「そっちは?」

「んー、そうだなあ」彼は遠くを見るように、私から視線を外した。「特に何もしてないかなあ」

「寝てる?」

「かも」

「引きこもりだ」

「どうしようね」彼は遠くを見たまま笑う。
私の手を握る手に力がこもった。横顔を盗み見ても、笑顔を崩さない彼からは表情を読み取ることはできなかった。
彼は今、何を考えているのだろう。

「そうだ、これ」

彼は私の手を離すと、ポケットを探った。小銭を出そうとしているのなら私が立ち上がろう。そう思ったが、彼のポケットから出てきたのは手袋だった。

「俺が右、君が左で、半分こしない?いつも俺が一方的みたいでしょ」

「つまり?」

「こうすれば」手袋を右手にはめると、ジャンパーのポケットに突っ込む。「握ってもらえるかなって」と言いながら左手を私の方へと伸ばした。

「…ん」

左手に手袋をはめて、彼の手の上に私の右手を乗せる。彼はきゅっと私の手を握り、目尻を下げて笑った。彼と会う一時間弱。
その間、私はいつになく幸せだった。


同時に、私はきっと視野が狭くなった。現を抜かしていたせいで、父の変化に気づくのが遅れた。

「お父さん、顔色悪いよ、大丈夫?」

「…そうか?」

いつも通りだろ、と言いながら小さく笑う父の顔色は、確かにいいとは言い難いのだ。
生真面目で頑固な父は、強がりでもある。自分の体調が悪いことを認めないのは今までにも何度かあったことだけれど、ある程度若かった頃とはもう違うのに。

「悪いこと言わないから、一度見てもらった方がいいよ」

「そのうちな」

食事を終えた父は立ち上がって食器を台所へと運ぶ。その後ろ姿がくたびれて見えて、私はどこまでこの人に無理をさせているのだろうと恐ろしくなった。どこが悪いだとか、そういうのは全くわからないけれど調子が悪いのは確かなはずだ。
母を病気で亡くした。
病気で誰かを亡くすのは嫌だった。説得できるだろうか。私なんかに。
彼に会いたかった。会って話したかった。彼に相談すれば、もし答えが出なかったとしてももう少しまともに思考が働くと思った。
父の顔色が悪いまま3日経った。父はいつも通り仕事に出かけ、きっとたくさん働いて帰って来る。疲れているだろうに、私が食器を洗っていると手伝おうとさえする。休んでほしいと頼むと、決まって眉を下げて自室に戻った。家事は、数少ない私の仕事だ。
ちっぽけでも、私にできることをするしかなかった。
私と父は喧嘩をすることもなくなり、けれど父を説得できていないまま更に2日が過ぎた。彼には変わらず会っていた。彼と会うことはやめられなかった。

「お父さん、頑固だから」

「うん」

「私、度胸が全くないんだなあ」

ポツリポツリとこぼす独り言のような大きさの声もにも、彼は頷いてくれる。私はそれだけで安心して、それが情けないとも思った。
彼の横顔を盗み見た。最近、彼の横顔ばかり見ている気がする。

「…俺と会ってて、いいの?」くしゃり、彼の顔が歪む。

「…え?」

「親父さん放って、俺と会ってて、平気?」

言葉を少しずつ切って、彼はそんなことを言う。
あなたの声で、そんなこと言わないで。
出かかった言葉を必死に飲み込む。彼はやはり、意地悪だ。彼の言うことは正論だとわかっている。ひょっとしなくても当然のことなのだ。それが余計に悲しかった。
家に帰ると、父がリビングにいなかった。嫌な予感がした。家中を見て回って、仕事の邪魔になるからとあまり入ることのなかった父の自室のドアを開けた。

「お父さん!」

きっと、私のせいだ。自分のことばかりで、無理をさせていた私のせい。父はうつ伏せに倒れていた。
私は震える手で救急車を呼んだ。帰って来るどのくらい前に倒れたのだろうか。どれくらい時間が経っただろうか。救急車が来るまでの時間を、果てしなく長く感じた。


父は過労だと言われ、大したことはないらしかった。念のために少し入院するけれど、すぐに退院できるんだそうだ。

「悪いな」

父はベッドで横になりながら私に謝った。私は首を振ることしかできなかった。幼馴染から妻になった母なら、父に何と言っていたのだろう。「情けない」と笑ったかもしれない。「心配かけないで」と安堵の溜息を洩らしたかもしれない。

「明日、また来るね」

父にそう告げて、私は病室を出た。
家に帰ってやるべきことを済ませる。父の部屋を少し片付けた。場所を変えるとやり辛いかもしれないので、床に落ちている物を棚や机に上げる程度だけれど。
部屋の隅にある棚の上には、伏せられた写真立てが二つあった。そっと立ててみると、そこには幼い男の子と女の子が写っていた。女の子が男の子の肩に腕を回してピースサインを突き出して歯を見せ、男の子はそれに戸惑いながらも笑っている。父と母の幼い頃の写真だろう。昔から、母の方が若干優位だったのだ。
もう一つの写真にも目を落とす。ウエディングドレスを着た母と、スーツに身を包んだ父。純白の美しいドレスを着ているというのに、母のすることは変わっていなかった。母が父の肩に腕を回してピースを突き出し、父はそれに戸惑いながらも笑う。大人になって顔立ちも雰囲気も変わっているはずなのに、その笑顔は同じに見えた。
きっと父も、この二枚だけはアルバムにしまいきれなかったのだ。幼い頃の二人を知らない私でも、「らしい」写真だと思った。


父が運ばれた翌日、学校へ行くと柳くんが席に座っていた。目が合うと何故か片手をひょいと上げるので、私は小さく会釈する。柳くんの席の横を通り過ぎようとしたとき、彼は遠慮なく私の手首を掴んだ。
手首から下じゃなくてよかった。そこは、あの人の場所だから。

「昨日も委員長見た」

すぐに合点がいった。恐らくは病院からの帰りだろう。柳くんの家を通り過ぎて、我が家に着く。公園に行くのも、柳くんの家の方向。目撃されるわけだ。

「こないだより遅かったな」

「そうだろうね」

「いいんちょ」

彼は中途半端に単語を切ると、覗き込むような目をして私を見た。

「好きな奴でもいんの?」

「は、えっと、何で?」

「いや、こないだ見たときさ」柳くんは私の手首をぱっと離した。「何か、そういう顔してた」

「…なにそれ?」

「わかんね」

私を見上げて笑う柳くんの顔は、ほんの少しだけ困っているように見えて、それが何故かはよくわからない。きっと何の意味もないのだと思う。

「それは、聞けばいいことがあるの?」

「んー」

「あるの?」

「や、なんつーか」彼はにっと口角を上げて、「好奇心?」と語尾も上げた。

「お勧めしないよ」

「興味ある」

柳くんは不思議な人だ。あまり他人に関心がないのだと思っていたけれど、実はそうでもないらしい。

「いる、かもね」

「ほう」

「いるの?って質問だったから、これだけ」

「ケチか」

「あとね、柳くん」

「ん?」

「私、委員長じゃないんだよ」

しばらくキョトンとしていた柳くんは、裏切られたとでも言いたげな顔をしていた。プリントを届けに行ったとき、「委員長?」と聞かれて訂正するのも面倒だったのでそのままにしていたのだ。
学校に来れば自ずと気付くだろうと思っていたのだけれど、彼は存外鈍かったようだ。そこは思っていた通りの、他人に関心がなかった故なのかもしれない。金澤先生からは優等生などと呼ばれている私だが、委員長だからとか、生徒会に入っているからだとか、そういう事実は一切ない。ただ、成績が割と上位の方だからというだけの話だ。

「なら何だよ」

「ただの生徒」

「プリント届けに来たのは?」

「あれは委員長の仕事でも何でもないよ。ただ先生に頼まれただけ。家近いから」

「委員長じゃないのに」

「柳くん、どんだけ委員長に夢抱いてるの」

「まじかお前、委員長じゃねえのか」

ブツブツと何やら呟きながら私を凝視する柳くんのせいで、少し居心地が悪い。

「なんかごめんね」

よくわからない謝罪を口にして、柳くんのそばを去ろうとした。すると柳くんは私を「委員長」と呼び止める。

「委員長、名前は?」

本当に知らないのか。一応、クラスメイトなんだけれど。

「蓮見」

「はすみ」

「そう。蓮見彩葉」

「イロハ?」

頷いて、踵を返す。
私の名前を、覚えてくれるのだろうか。柳くんは歌うように「い、ろ、は、に、ほ、へ、と」と私の後ろで呟いていた。聞いたことのあるリズムだ。頭の中にどこか懐かしい歌声が過ぎった。私の名前を聞いていろは唄を歌う人は、意外といないものだった。あまり学校に来ていない柳くんでもきちんと唄を知っているらしい。彼の後ろ姿を見ながら、私はそそくさと席に着いた。


夜になった。あの日のように曇った空だった。私は八時半になっても病院にいて、それを過ぎても居座った。父は「いつものともだちはいいのか」と気を遣ってくれたけれど、家族を優先すべきだと結論付けたので引き返すことはしない。
彼に一言、言っておけばよかった。何せ父が運ばれたのは彼と会った後のことで、言う暇などなかったのだ。
一日くらい、きっと何てことはない。
彼は明日もあそこに来て、柔らかく微笑んでくれる。私が巻いたマフラーを見て、「風邪ひいてない?」と目尻を下げて笑うのだ。彼との会話を思い浮かべ、温もりを覚えた右手を膝の上で握る。強く強く握る。忘れてしまうことのないように、今日会わなかった分の温もりを覚えておけるように。
彼のいない右隣が、妙に寒く感じる。

「やっぱり、会いに行った方が」

「いいの」

「連絡とか、してないんじゃないのか?」

「うん、平気だよ」

もともと、会う約束をちゃんとしてるわけじゃなかったから。
そう言って小さく笑うと、父は「お互い、大事なんだな」と困ったように笑った。
写真の中にいた、あの少年とスーツ姿の男性の笑顔を見たような気がした。
頃合いを見て病院を出ると、雲はある程度どこかに逃げていて、星が見えるようになっていた。立ち止まって空を見上げる。どこを探しても、月だけは見つけることができなかった。ちょうど隠れてしまっているのだろうか。せっかく見えると思ったのに。

「あ、いいんちょ、じゃなくて」突然、後ろから声がした。「いろは」

「イントネーションが平仮名だね、柳くん」

「すげえな、平仮名で思い浮かべてた。どうやって漢字書く?」

「彩られた葉っぱ」

「ああ」

頷いた柳くんは、自身の手のひらに何かを書き付けるような動作をして「綺麗な字」と言った。

「柳くん、字、綺麗なの?」

「何で。綺麗な字の組み合わせだなって」

「ありがと」

「名付けは親父さん?」

「名付け自体はお父さん。だけど、漢字を考えたのはお母さんだって聞いたよ」

「お袋さんセンスいいな」

「私もそう思う。私、私の名前は好きなの」

柳くんは私の隣を歩き始めた。左隣だった。少し安堵して、私も歩き始める。

「私の名前は、って何だよ」

「自分のことは、あんまり好きじゃない」

「そんなもんじゃね?」

「柳くんもそう?」

「好きとか嫌いとか考える以前にこういう人間なんだからどうしようもねえよ」

「意外に正論かも」

「俺の持論」

柳くんと話すのは、彼との会話とは別の意味で落ち着いた。何と言うのが正しいだろう。
彼の言葉と声は私の中にすっと入ってきて、私たち二人だけしかいないような感覚に陥る。
柳くんは、そうじゃなかった。左隣で淡々と表情をあまり変えずに話してくれる柳くんといると、彼といるときとは随分と違った景色が見れるような気がする。世界には、私たち以外のたくさんの人がいるんだと教えてくれるような、外の音をたくさん聞かせてくれるような、そんな気が。

「好きな奴」

「え」

「と、上手くいくといいな」

柳くんは別れ際、こんな言葉をかけてくれた。あまり抑揚もないのに、笑ってもいないのに、不思議と何でも叶ってしまうような気もした。


その翌日。父はもうすぐ帰ってくるらしい。本人から連絡が入り、心が軽くなる。早く彼に会いたかった。父を説得できたわけでも、私が背中を押せたわけでもなかったけれど、父の体調はたいしたことはなかったと言いたかった。
午前の授業が終わり、昼休みに入る。柳くんがひょこひょこと歩いてきて、私の机にお弁当を置いた。

「食お」

「…何で?」

「何となく」

「フリーダムだね」

「よく言われる」

お昼を食べるのに誘ってくれていた友人に断りを入れて、私は何故か柳くんと向き合ってご飯を食べることになった。私の机に二人分のお弁当なので大分と狭いことになるが、彼は気にしていないようだった。

「彩葉、それうまそう」

「食べる?」

「まじか。彩葉もなんか選べ」

「私はいいよ。柳くんたくさん食べそうだし」

「めっちゃ食うよ俺」

柳くんは本当によく食べる人だった。
私があげたおかずも、もともと自分のところに入っていたおかずもあっという間に平らげた。「足りねえ」と言う柳くんに連れられ、購買まで歩いた。二種類のパンを購入してほくほくしている柳くんは、どこか幼かった。

「そういや今日、満月だってな」

「今日だったんだ。そろそろだと思ってたけど、昨日見えなかったからわかんなかった」

「好きな奴と見ねえの?」

「柳くんはそればっかりだね」

「彩葉みたいな奴がどんなの好きになんのか気になる。いつか紹介してもらおうと思ってる」

「だから親しくしてくれてるの?」

「そこは俺の好奇心」

「そこも、でしょ」

「好奇心旺盛なんだよ」

他愛のない話をしながら、教室に戻る。
そうか、今日は満月か。綺麗に見えたらいいな。

「…満月ねえ」

「おう」

いつ聞いてもおかしくない言葉なのに、満月という二文字が少し引っかかった。


柳くんから聞いた満月の情報を胸に抱え、夕方の家路を歩く。
そろそろ暗くなり始める頃だ。彼と会う時間帯なら綺麗に月が見えるだろう。今日は幸い晴れている。雲はなかった。
家でじっとしているのも落ち着かないので、掃除機をかけた。洗濯物を畳んで、ご飯を作ってそれを食べる。気付けば八時前になっていた。
引っかかった言葉を、文字を思い出してみる。
満月。月が満ちて欠けるのは当然のことなのに、どうしてそれが引っかかるのだろうか。何かを忘れているような気がする。
何か、大事なことを。

「満月…綺麗…当たり前かあ」

昔、誰かと満月を見上げたような。笑い合ったような。曖昧な記憶だけれど、確かに私は誰かと、満月の夜に空を見上げたのだ。

『お月様、まんまるだね』

どこからか、幼い頃の私の声が聞こえた。今よりほんの少し高い声。子どもらしさを隠しもしなかった幼い女の子の声。

『まんげつだ』

またどこからか、幼い子供の声が聞こえた。高くて分別は付け辛いけれど、男の子だろう。私の記憶の奥底に、隣で微笑む小さな男の子の姿が浮かんでくる。

『どんな字?』

『わかんない』

『きれいだね』

『きれいって、うつくしいともいうよね』記憶の中の小さな男の子は、どこかで習ってきたのであろう漢字を思い出そうと首を捻る。

『うつくしいの漢字は、み、とも読むんだって』

『あっ、じゃあ、みづきだ!』

幼い私はその子の手を強く握りながら、大発見をしたような興奮に包まれていた。

『うつくしいつき、なら、みづきになるね!』 

昔見た情景が頭を支配し始める。
八時半になる前、私は家を飛び出した。


公園までの道を走る、走る、走る。
息を切らし、いつもよりずっと着込んでいないことに気付かないくらい、彼から貰ったマフラーだけを引っ掴んで、ひたすらに走る。
早く彼に会いたい。会って確かめたいことがある。付けっ放しにしていた腕時計に目を落とせば、八時半になる頃なのが何とか読み取れた。
彼はもう来ているだろうか。ベンチに座っているだろうか。私の方が、早いだろうか。心臓がうるさいのは走っているせいか、彼への恋情か。
どちらもそうか。とにかく、早く会いたい。
足を動かすことに疲労を覚え始めた頃、どうにか公園に辿り着く。呼吸を整えながらいつもの場所まで歩いた。ベンチに腰を下ろす。彼はまだ、来ていないようだった。

「早く来ないかなあ」

呟いてみる。だからと言って彼が来るわけでもなく、待ちぼうけをくらう。
彼のいない公園は、いつもより寒い。着込んでいないせいで、余計に。手袋も片方だけ預かっていたのに、嵌めてくるのを忘れてしまった。貰ったマフラーを首に巻く。彼の匂いは、我が家の柔軟剤に掻き消されていた。
空を見上げ、脱力する。
時刻は九時前。彼はまだ来ない。
待っても待っても、彼は来なかった。
いつしか、私が少し遅れて行ったときに彼が茂みに隠れていたことがあった。彼は後にそれを「隠れんぼ」と称して笑った。それを思い出した私はベンチから立ち上がり、公園の中を探し回った。


探せるところは全部探した。公園の中をくまなく時間をかけて。それでも彼は見つからなかった。私に笑いかけてくれる彼は、どこにも。

「…どこ行っちゃったの」

思い出したのだ。
小さい頃、前の街にあった公園で遊んでいた男の子がいたこと。私よりも小さくて、弱々しくて、いじめっ子に囲まれていたその子を助けるのが私の役目で。しゃがみ込んで泣くその子の手を掴んで立ち上がらせて、一緒に公園で遊ぶ。
握る手がいつも湯たんぽを思わせるその子の名前は、月が満ちるのと同じ。

「…瑞季(ミズキ)」

思い出したのに。
彼があの瑞季だったなんて思わなかった。
私の知っている昔の瑞季とは似ても似つかないのだ。会うときはいつも暗くてはっきりとは見えないけれど、黒かった瑞季の髪は今や少し明るくなっている。茶色か、その系統の色に。泣き虫だった瑞季はよく笑うようになっていたし、声だってしっかり男の人のものだ。気が付かなかった。
瑞季は私を覚えていてくれたのだろうか。
覚えていて、会ってくれていたのだろうか。
覚えていたのならどうして言ってくれなかったのだろう。
考え始めるとキリがない。瑞季は変わっているのだから。

「…会いたいよ、瑞季」

私は、確かに彼に恋をしている。そして私は瑞季に恋をしていた。幼い頃に抱いた恋情というものは不確かなものに過ぎなかったけれど、今ならわかる。
巡り巡って、私は初恋の人にまた恋をしているのだ。


私は変わらず公園に通い続けた。八時半から九時まで待って、来なければ頻繁に振り返りながら家に帰る。毎日それの繰り返し。
瑞季がどこに住んでいるのか、聞いておけばよかった。けれど何も聞かず、「彼」のことを知らないまま話していたかった気付く前の私はそれをしなかった。気付かなかった自分に腹が立つ。きっと、見ず知らずの彼に甘えたかったのだ。知らない人だと思っていたから、様々なことを話せたのもまた事実ではある。それにしても、後悔が大きい。気付くのが遅すぎたのではなかろうか。

「彩葉」

「柳くん?どうしたの」

「プリント分からん。解いて」

「自力で解こうね」

「教えて」

「いいよ。どこ?」

「このへん」

「よく聞いててね」

「うん」

柳くんは相変わらず私に声をかけてくれて、けれども程よく不真面目だ。最近はどうやら少しずつ態度を改めてはいるらしい。こうして時々分からないところを聞きに来てくれる。理由を聞いてみても、やはり柳くんは「好奇心」だと笑う。そういうことにしておくため、気にすることはやめた。


父が帰ってきた。
「迷惑かけたな」と申し訳なさそうに眉を下げる父に、「ほんとだよ」とわざと笑ってやった。一人じゃない食卓は楽しい。父に言えばどんな顔をするのだろう。私の作ったご飯を頬張りながら「美味い」と頷く父を見るのは好きだ。
これも本人には言わない。
父の部屋にある二つの写真のことを、それとなく口にしてみた。父は最初驚いたような顔をしたけれど、すぐに顔を綻ばせて気恥ずかしそうに髪を触った。
父がまた倒れなくて済むよう、私は前より家ですることが多くなった。もちろん学校から帰ってきてからでないとできないことがほとんどなので、友人からの誘いを断ってそそくさと帰ってはせっせこ働いている。とは言っても父の労働時間や密度に比べればまだ序の口だろう。いつか父に敵うようになりたい。
そう思ってバイトを始めた。八時半までに家にいることはほぼなくなった。バイトを始めた頃から、必然的に公園に行くこともなくなった。
瑞季との思い出は、記憶の中にそっと閉じ込めてある。ずっと昔の懐かしい思い出と、再会してからの思い出。一度だけ彼に我儘を言って、二人で写真を撮った。暗くてぼやけているけれど、現像して写真立てに入れてある大切な写真。瑞季に会いたくなったときは、それを見て涙を落とす。
写真の中の瑞季の頬は私の涙でよく濡れた。


瑞季に会わないまま二ヶ月が過ぎた。私の右手は以前よりずっと冷たくなった気がする。瑞季の体温が、どんどん抜けていく。忘れるのが怖い。瑞季にもらったマフラーと、預かっている手袋を強く抱きしめる日々が続いた。
私と父はしばらく良好な関係で暮らしていたのだけれど、お互いに「働きすぎ」だと言い合って久しぶりの喧嘩なった。
ついさっきの話だ。
マフラーと手袋と携帯と、ついでに小銭を持って家を出た。存外冷静だったのは大きな喧嘩じゃなかったからで、公園に足を向けるなら今日だと勢いづいたからでもある。
逆に今日を逃してしまえば、瑞季を求めて公園に行くこと自体を恐れるようになってしまったかもしれない。実際問題そこまで深く考えて出てきたわけではないけれど、近くの公園に行こうとした足を瑞季と会える場所に変更したのはそういう理由だった。
夜道に足音が響く。ポケットで小銭がぶつかり合う。マフラーが風に靡き、手袋をしていない右手が凍りそうに冷たい。
あと数週間すれば冬が終わると言うのに、随分と冷え込む空気がますます私を泣かせようとする。


いるはずのない面影を探してベンチに腰掛けた。思い直して自動販売機の前に立ち、二回に分けて珈琲とお茶を購入する。
人工的な温かさにほんの少しだけ救われた。
両腕で抱えてベンチに帰る。彼のいない右隣には、珈琲の缶を置いた。温かさは確かにあっても、私の心は満たされない。
記憶の中の瑞季の声が耳を掠める。瑞季を思い出すだけで居心地はよくなる。
それでも右隣は相変わらず寂しかった。
あの時のように足を投げ出し、だらしなく空を見上げた。

「…皮肉だなあ」

幸いというのか生憎というのか、今日はどうやら満月だったらしい。夜空にぽっかりと浮かぶ満月は、鏡に映った私のようだ。煮え切らない思いで満月を睨む。とてつもなく大きな存在は、消えてくれることはなかった。
喧嘩、遠い公園、だらしない座り方。その辺りの条件は揃っているのに、珈琲も美しく満ちた月も私もいるのに、ここには瑞季だけがいない。
その事実には寒さよりも泣きそうになる。

「満月は見えるのに」暗い空に向かって吐くせいか、白い息が酷く目立った。「瑞季は」

吐く息は揺れながら空へと登っていく。ゆらゆらと行き、途中で消えてしまう。私の感情は、こんな風には消えやしないのに。
お茶のボトルじゃ温まらなかった右手を強く握る。上を向いたまま泣いたせいで、涙は私の耳の上を冷たく伝った。瑞季の声が抜け落ちそうで、必死に涙を拭う。

「い、ろ、は、に、ほ、へ、と」

どこかで聞いたような、まるで歌っているかのような。柳くんかと思った。都合のいいことが、あるわけないと。寧ろ声が聞こえてきたこと自体、私の都合のいい幻聴なのではないかと。
思い出した。私の名前を聞いていろは唄を歌ったのは、柳くんともう一人。

「ごめんください」

私の求めていた声が、遊ぶように言った。恐る恐る、頭を上から正しい方向へ。声のせいで誘発された涙は一般的な軌道を辿って頬を濡らした。

「隣」

心臓が熱い。
彼がそこにいる。瑞季が、すぐ近くにいる。

「座っても?」

柔らかく微笑む瑞季に、思い切り飛びついた。
ねえ瑞季、やっぱり瑞季は湯たんぽだね。
記憶の中の瑞季の笑顔と、私の頭を撫でる瑞季の笑顔だけが、多数変わっている中で唯一同じに見えて、何故だか涙が止まらなかった。
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