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1その5
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宿の部屋に入ると、入口の戸を施錠して振り返ったマギエラは、小さく肩をすくめていた。
「チハヤ。さっきのあなた、受付でのアーシェの様子が気になったのね?」
眉尻を下げながら、ため息をついている。「気にしなくていいのよ。彼女は、わたしの身成や言動を見て中産階級のお嬢さんだと思っただけだから。いい? 貴族や中産階級の者に嫉妬かそれ以上の怨嗟や嫌悪を覚える労働者は、あまり珍しいものではないの。まあ、あなたの国では違うのかもしれませんけど、少なくともロンドンでは普通のことよ」
「それは……」
そんなのは、日本だってあまり変わりない。
明治維新以降、富国強兵を掲げてきたとはいえ日本は依然貧しく、内政にしても幕末からずっと不安定なままだ。日露戦争で大国露西亜を討ち破りはしたものの、後に期待した賠償金を得られず民衆が激怒したように、国民の――とりわけ労働者の不満は、日本国内でも常に不穏な火種となって燻ぶっている。この事実がある限り、第二、第三の日比谷焼討事件は、きっかけさえあればいつだって起こり得るのだ。
数多の活動家等が「デモクラシー」などと聞こえの良い言葉を唱えて誤魔化してはいるが、それらの実態は純粋な暴力であり、理性を失った民衆もまた只の暴徒に過ぎないのである。
「分かるでしょう? 貧すれば鈍する、仕方がないのよ。それでも義憤に燃えるというのなら……チハヤ、あなたは優しいわね。それとも日本のサムライは皆そうなのかしら?」
ベッドに掛けながらマギエラは呆れた顔だ。「それにね、言ったでしょう? 児童買春を疑われてはいけないの。そのために、わざわざ演技までしたのだから、アーシェの反応は想定内。それどころか狙い通りですらあるわ。それなのに、あなたに憤られては困るのよ。だからほら、そんな怖い顔をしないで?」
そういうものなのだろうか。たしかに千早を「玩具」と言ったことは、演技だと知らなければ蔑まれもするだろう。しかし施しをして、それをあのような怨嗟でもって返されて、それで彼女は平気だというのだろうか。
なんだろう。やはりと言うか、得心がいかない。
千早が納得できないでいると、ふとマギエラが穏やかな声で呼んだ。
「ねぇ、チハヤ。そんなことよりも……ほら、約束よ?」
ベッドの上で頬を赤らめて、傍らをポフンと叩く。「ねぇ、こっちに来て? わたしを買ってくれるのでしょう? なら、ほら。そろそろ服を脱がせて抱いてちょうだい。ああ、でも初めてなの、わたし。だから……その、優しく……して、ね? お願いよ?」
……変な汗が出た。
うーん、これは……聞き間違いだろうか。
「ええと、服を脱がせて……抱く?」
誰が、誰を? そもそも買う、って。え?「ええと……エリー? 最初の君があんまり早口だったから、どうしてここに連れて来られたのかを、僕はね、実はよく分かってないんだけど……。いやまあ、付いて来て、って言っていたことと君が必死だということは分かったんだよ。ただ、それ以外のことは……」
テムズ川に浮くとかなんとか言っていたから、何も訊かずに無条件に付いて来たわけで、だね。
マギエラは、何度かパチクリ瞬きをしてから、訝しげに目を細めた。
「まさか……とは思うけれど、分かっていなかったと言うつもりなの?」
不機嫌に脹れて、やや乱暴にため息をつく。「そんなの、って……まったく、呆れたわ。それでよくわたしに付いて来たわね。あなた凄いわ、東洋の奇跡よ。人類史上の奇跡、バカ発見。それも奇跡的バカだわ」
よりにもよってローマ法王も涙したという信徒発見の奇跡になぞらえるだなんて、冷静を欠いているし随分と酷い言いぐさだ。間違いなく怒髪天を突いている。
しかし待って欲しい。これは、千早が悪いのだろうか。
いやまあ、思い返せば、少々初々し過ぎる色仕掛けをしてきたり、児童買春について繰り返し言及したりと心当たりは有るのだけれども。それにしたって、誘惑しておきながら自らが羞恥で赤くなる人を、娼婦と思えと言う方が無茶だろう、とも思うわけで。
「あの……、エリー?」
「ああ、ごめんなさい。バカ発見ごときを東洋の奇跡だなんて、厳しい禁教を七代も耐え忍んだナガサキの信徒達に失礼だったわね」
肩をすくめたマギエラは、じっとりとこちらを睨んだ。「でもねチハヤ、言わせてもらうわよ。だって酷いんだもの。……頑張ったのに。それに初めてだ、って言ったでしょう? すごく恥ずかしかったのよ? 今あなたをベッドに誘ったのもその前に胸を触らせたのだって、とても……とっても……」
いつの間にか目に涙を溜めて、マギエラは、なんだか泣きそうになっていた。潤んだ瞳は、濡れた桜のように綺麗で、なによりも儚げで……。
ずるいなと思う反面、仕方がないとも思ってしまう。きっと、千早が傷付けてしまったのだ。するとやはり、これは千早が悪いのだろう。
……我ながら単純だ。
「えっと、エリー?」
「……なによ。サムライハラキリ」
なんとも刺々しく毒を吐かれたが、これもきっと仕方がないことだ。そう言い聞かせて己を律しつつ、千早は、彼女の隣に腰を下ろした。
「その……、ごめんよ。テムズに浮くとか言っていたからなんだか心配で、君の事情も何も分からないまま付いて来たんだ。けれど、そのせいで恥をかかせて……だから、それは凄く失礼なことだったなぁ、と……だね」
「……ふーん、そう」
ハァ、と大きなため息のマギエラだ。涙は頬を既に伝っていて、うち幾粒かはスカートに落ちて染みになっている。
「チハヤ。あなた、女の子にモテないでしょう?」
何故だろう、これまでで一番馬鹿にされた気がする。「仮にも慰めようと思ったならハンケチを差し出すとか涙を拭うとか、ちゃんと最後まで慰めなさい。そんな簡単なこともしないで、あまつさえ中途半端に言葉を引っ込めるだなんて、随分と投げ遣りだわ。そんなことをされて、わたしが惨めな気持ちを半端に引き摺る、って……分からないかしら?」
「いや、その……」
そう言われても、手巾は、ピーター氏が乱暴に着水したせいで、すっかりずぶ濡れだったのだ。だからと言って、頬や眦に指で直接触れてというのは……。
「涙を拭うには、エリーは綺麗過ぎるよ」
「へ?……えっ?」
キョトンとして、マギエラが目をパチクリさせる。
「君みたいな女の子の顔に触れようだなんてのは、簡単なことじゃない。少なくとも僕のような小心者には、相応の覚悟がいるんだ。だからね、エリー。僕が涙を拭かなかったからといって、君に魅力が無いわけでは……」
「も、もういいわ! チハヤ、あなた突然なんてことを言うのよ、それもこんな至近距離で、ああもうビックリするでしょう!」
マギエラはなんだか怒ったふうに言う。心臓の辺りを両手で押さえながら、ふいと顔を逸らした彼女は、肩を上下させつつ荒い息をついていた。
※①1905年9月5日、日比谷公園でポーツマス条約に反対する国民集会が暴動に発展し、17名の死者を出した。負傷者に至っては500名以上にのぼる。
「チハヤ。さっきのあなた、受付でのアーシェの様子が気になったのね?」
眉尻を下げながら、ため息をついている。「気にしなくていいのよ。彼女は、わたしの身成や言動を見て中産階級のお嬢さんだと思っただけだから。いい? 貴族や中産階級の者に嫉妬かそれ以上の怨嗟や嫌悪を覚える労働者は、あまり珍しいものではないの。まあ、あなたの国では違うのかもしれませんけど、少なくともロンドンでは普通のことよ」
「それは……」
そんなのは、日本だってあまり変わりない。
明治維新以降、富国強兵を掲げてきたとはいえ日本は依然貧しく、内政にしても幕末からずっと不安定なままだ。日露戦争で大国露西亜を討ち破りはしたものの、後に期待した賠償金を得られず民衆が激怒したように、国民の――とりわけ労働者の不満は、日本国内でも常に不穏な火種となって燻ぶっている。この事実がある限り、第二、第三の日比谷焼討事件は、きっかけさえあればいつだって起こり得るのだ。
数多の活動家等が「デモクラシー」などと聞こえの良い言葉を唱えて誤魔化してはいるが、それらの実態は純粋な暴力であり、理性を失った民衆もまた只の暴徒に過ぎないのである。
「分かるでしょう? 貧すれば鈍する、仕方がないのよ。それでも義憤に燃えるというのなら……チハヤ、あなたは優しいわね。それとも日本のサムライは皆そうなのかしら?」
ベッドに掛けながらマギエラは呆れた顔だ。「それにね、言ったでしょう? 児童買春を疑われてはいけないの。そのために、わざわざ演技までしたのだから、アーシェの反応は想定内。それどころか狙い通りですらあるわ。それなのに、あなたに憤られては困るのよ。だからほら、そんな怖い顔をしないで?」
そういうものなのだろうか。たしかに千早を「玩具」と言ったことは、演技だと知らなければ蔑まれもするだろう。しかし施しをして、それをあのような怨嗟でもって返されて、それで彼女は平気だというのだろうか。
なんだろう。やはりと言うか、得心がいかない。
千早が納得できないでいると、ふとマギエラが穏やかな声で呼んだ。
「ねぇ、チハヤ。そんなことよりも……ほら、約束よ?」
ベッドの上で頬を赤らめて、傍らをポフンと叩く。「ねぇ、こっちに来て? わたしを買ってくれるのでしょう? なら、ほら。そろそろ服を脱がせて抱いてちょうだい。ああ、でも初めてなの、わたし。だから……その、優しく……して、ね? お願いよ?」
……変な汗が出た。
うーん、これは……聞き間違いだろうか。
「ええと、服を脱がせて……抱く?」
誰が、誰を? そもそも買う、って。え?「ええと……エリー? 最初の君があんまり早口だったから、どうしてここに連れて来られたのかを、僕はね、実はよく分かってないんだけど……。いやまあ、付いて来て、って言っていたことと君が必死だということは分かったんだよ。ただ、それ以外のことは……」
テムズ川に浮くとかなんとか言っていたから、何も訊かずに無条件に付いて来たわけで、だね。
マギエラは、何度かパチクリ瞬きをしてから、訝しげに目を細めた。
「まさか……とは思うけれど、分かっていなかったと言うつもりなの?」
不機嫌に脹れて、やや乱暴にため息をつく。「そんなの、って……まったく、呆れたわ。それでよくわたしに付いて来たわね。あなた凄いわ、東洋の奇跡よ。人類史上の奇跡、バカ発見。それも奇跡的バカだわ」
よりにもよってローマ法王も涙したという信徒発見の奇跡になぞらえるだなんて、冷静を欠いているし随分と酷い言いぐさだ。間違いなく怒髪天を突いている。
しかし待って欲しい。これは、千早が悪いのだろうか。
いやまあ、思い返せば、少々初々し過ぎる色仕掛けをしてきたり、児童買春について繰り返し言及したりと心当たりは有るのだけれども。それにしたって、誘惑しておきながら自らが羞恥で赤くなる人を、娼婦と思えと言う方が無茶だろう、とも思うわけで。
「あの……、エリー?」
「ああ、ごめんなさい。バカ発見ごときを東洋の奇跡だなんて、厳しい禁教を七代も耐え忍んだナガサキの信徒達に失礼だったわね」
肩をすくめたマギエラは、じっとりとこちらを睨んだ。「でもねチハヤ、言わせてもらうわよ。だって酷いんだもの。……頑張ったのに。それに初めてだ、って言ったでしょう? すごく恥ずかしかったのよ? 今あなたをベッドに誘ったのもその前に胸を触らせたのだって、とても……とっても……」
いつの間にか目に涙を溜めて、マギエラは、なんだか泣きそうになっていた。潤んだ瞳は、濡れた桜のように綺麗で、なによりも儚げで……。
ずるいなと思う反面、仕方がないとも思ってしまう。きっと、千早が傷付けてしまったのだ。するとやはり、これは千早が悪いのだろう。
……我ながら単純だ。
「えっと、エリー?」
「……なによ。サムライハラキリ」
なんとも刺々しく毒を吐かれたが、これもきっと仕方がないことだ。そう言い聞かせて己を律しつつ、千早は、彼女の隣に腰を下ろした。
「その……、ごめんよ。テムズに浮くとか言っていたからなんだか心配で、君の事情も何も分からないまま付いて来たんだ。けれど、そのせいで恥をかかせて……だから、それは凄く失礼なことだったなぁ、と……だね」
「……ふーん、そう」
ハァ、と大きなため息のマギエラだ。涙は頬を既に伝っていて、うち幾粒かはスカートに落ちて染みになっている。
「チハヤ。あなた、女の子にモテないでしょう?」
何故だろう、これまでで一番馬鹿にされた気がする。「仮にも慰めようと思ったならハンケチを差し出すとか涙を拭うとか、ちゃんと最後まで慰めなさい。そんな簡単なこともしないで、あまつさえ中途半端に言葉を引っ込めるだなんて、随分と投げ遣りだわ。そんなことをされて、わたしが惨めな気持ちを半端に引き摺る、って……分からないかしら?」
「いや、その……」
そう言われても、手巾は、ピーター氏が乱暴に着水したせいで、すっかりずぶ濡れだったのだ。だからと言って、頬や眦に指で直接触れてというのは……。
「涙を拭うには、エリーは綺麗過ぎるよ」
「へ?……えっ?」
キョトンとして、マギエラが目をパチクリさせる。
「君みたいな女の子の顔に触れようだなんてのは、簡単なことじゃない。少なくとも僕のような小心者には、相応の覚悟がいるんだ。だからね、エリー。僕が涙を拭かなかったからといって、君に魅力が無いわけでは……」
「も、もういいわ! チハヤ、あなた突然なんてことを言うのよ、それもこんな至近距離で、ああもうビックリするでしょう!」
マギエラはなんだか怒ったふうに言う。心臓の辺りを両手で押さえながら、ふいと顔を逸らした彼女は、肩を上下させつつ荒い息をついていた。
※①1905年9月5日、日比谷公園でポーツマス条約に反対する国民集会が暴動に発展し、17名の死者を出した。負傷者に至っては500名以上にのぼる。
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