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♯128
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未乃梨の苦い顔をよそに、千鶴は楽器店の一階の広いフロアを見て回った。展示されているグランドピアノやアップライトピアノの脇を抜けていく千鶴に、未乃梨は意表をつかれたような顔でついて行く。
「もう。待ってよ、千鶴」
「ねえ未乃梨。あの黒いフルート、格好良くない?」
千鶴は管楽器が収まったショーケースが気になっているようだった。素人目にも、学校で普段見ているものとは違うモデルが混ざって並ぶショーケースは見ているだけで楽しい。
未乃梨は千鶴の隣で、銀や洋銀のフルートと一緒に並ぶ黒い木製のフルートを見た。
「これね。クラリネットとかと同じ、グラナディラっていう硬い木材で作ったフルートよ」
「未乃梨の使ってるフルートとやっぱり違うの?」
「うーん、吹部で吹いてる人って見たことないけど、優しくて柔らかい音がする、っていうのは聞いたことがあるかなあ」
未乃梨の説明を聞きながら、千鶴は他の管楽器のショーケースを見て回った。
(普段吹部の楽器ぐらいしか見てないし、千鶴には珍しいよね)
好奇心の赴くままに店内を見て回る千鶴の後に続きながら、その自分より顔ひとつは高い後ろ姿を、未乃梨は少し微笑ましく思いながら追いかけた。
階段を上った上のフロアでは、二人は楽譜や書籍を見て回った。音楽関連の雑誌や書籍が並ぶ棚を見ていた千鶴が、ふと足を止めた。
「BWV147って、これ『あさがお園』でやった曲だよね?」
「そうね……あれ?」
未乃梨はその楽譜のページをぱらぱらとめくって、少し面食らった。楽譜の中身は何かの合奏の楽譜の真ん中の段に合唱の楽譜がめり込んだような、妙な段組みで印刷されていて、千鶴や未乃梨が見覚えのある泉が湧き出るような三拍子のト長調の旋律は、曲中の真ん中よりやや後ろと一番最後の二回出てきている。
楽譜の中は明らかに英語ではないアルファベットが書かれていて、未乃梨は顔を横に振って楽譜を閉じた。
「うーん。何が書いてあるか、私にもわかんない……」
「誰か、詳しい人が一緒だったら、ねえ」
そう言って本棚に納まる楽譜や書籍の背表紙を眺める千鶴の言葉に、未乃梨はどきりとして立ち止まりそうになった。
(詳しい人って……やっぱり、凛々子さんのこと、なのかな。私じゃわかんないこと、凛々子さんならたくさん知ってるし、そもそも今日だって凛々子さんの演奏を聴きに行くんだもんね)
未乃梨は千鶴の後ろを歩きながら、少しずつうつむき気味になっていった。その前を歩いている千鶴が、急に立ち止まった。
「あれ、なんだろ? ……ベートーヴェン?」
千鶴は今度は書籍の棚の解説書が気になるようだった。作曲家ごとに作品の解説をまとめたシリーズで、「ベートーヴェン」と背表紙に書かれたものを、千鶴は手にとって、ページをめくっている。「あ、これこれ」と千鶴は何かを見つけたようだった。
「見て。この前、『あさがお園』で私が楽器紹介で弾いたの、これだよね?」
未乃梨は少し爪先立って、その解説書の千鶴が指差すページを見た。そのページの隅には「交響曲第九番」と書かれており、千鶴が指差しているのは調号にシャープが二つ付いたヘ音記号の譜例だった。
未乃梨はその譜例が載ったページを見回した。オーケストラの楽曲の解説らしく、専門的な語句に混ざる楽器名は半分以上が弦楽器だ。
「そうね。……千鶴、こういう曲、弾いてみたいの?」
「ほんのちょっと、興味あるかも?」
千鶴はやや高めにリボンで結った、ショートテイルの髪の根元を搔いた。その屈託のない様子が、やはり未乃梨に引っ掛かる。
(千鶴、オーケストラに興味あったりするの?)
そんな思いを隠しつつ、未乃梨は千鶴手を引いた。
「そろそろお昼にしない? 近くに気になってるカフェがあるの」
ちょっとだけ強引なように思いつつ、未乃梨はまだ見たい本がありそうな千鶴を、楽器店の外に連れ出した。
ディアナホールの楽屋では、いつになくリラックスした空気が漂っていた。
そろそろ衣装に着替える者、本番前に軽く楽譜をさらう者、楽屋に届いた弁当と飲み物を受け取りに行く者とめいめいに過ごす中で、凛々子は楽屋の椅子に座ったままゆっくりと腕や背筋を伸ばし直す。
「今日はみんな、なかなか良い仕上がりだね?」
身体をほぐす凛々子に、本条が声を掛けてきた。もうすっかり七分袖の白いブラウスと黒いロングスカートに着替えて、準備をすっかり済ませてしまっている。
「舞衣子先生、準備がお早いですね。今日は『グレート』も序曲二つも楽しんで弾けそうかな」
「おや、凛々子ちゃんも調子良さそうだね?」
「実は今日の本番、ちょっと楽しみなことがありまして。私が学校で教えてる子が聴きに来るんです」
本条は、「ふふん?」と嬉しそうに笑う。
「ああ、例の子か。楽しんでもらえるといいね」
「……ついでに、オーケストラに興味を持ってくれたら、ですけど」
凛々子はそう微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。白のノースリーブのブラウスに、黒のややタイトなロングスカートの衣装に、凛々子はすっかり着替えていた。
(続く)
「もう。待ってよ、千鶴」
「ねえ未乃梨。あの黒いフルート、格好良くない?」
千鶴は管楽器が収まったショーケースが気になっているようだった。素人目にも、学校で普段見ているものとは違うモデルが混ざって並ぶショーケースは見ているだけで楽しい。
未乃梨は千鶴の隣で、銀や洋銀のフルートと一緒に並ぶ黒い木製のフルートを見た。
「これね。クラリネットとかと同じ、グラナディラっていう硬い木材で作ったフルートよ」
「未乃梨の使ってるフルートとやっぱり違うの?」
「うーん、吹部で吹いてる人って見たことないけど、優しくて柔らかい音がする、っていうのは聞いたことがあるかなあ」
未乃梨の説明を聞きながら、千鶴は他の管楽器のショーケースを見て回った。
(普段吹部の楽器ぐらいしか見てないし、千鶴には珍しいよね)
好奇心の赴くままに店内を見て回る千鶴の後に続きながら、その自分より顔ひとつは高い後ろ姿を、未乃梨は少し微笑ましく思いながら追いかけた。
階段を上った上のフロアでは、二人は楽譜や書籍を見て回った。音楽関連の雑誌や書籍が並ぶ棚を見ていた千鶴が、ふと足を止めた。
「BWV147って、これ『あさがお園』でやった曲だよね?」
「そうね……あれ?」
未乃梨はその楽譜のページをぱらぱらとめくって、少し面食らった。楽譜の中身は何かの合奏の楽譜の真ん中の段に合唱の楽譜がめり込んだような、妙な段組みで印刷されていて、千鶴や未乃梨が見覚えのある泉が湧き出るような三拍子のト長調の旋律は、曲中の真ん中よりやや後ろと一番最後の二回出てきている。
楽譜の中は明らかに英語ではないアルファベットが書かれていて、未乃梨は顔を横に振って楽譜を閉じた。
「うーん。何が書いてあるか、私にもわかんない……」
「誰か、詳しい人が一緒だったら、ねえ」
そう言って本棚に納まる楽譜や書籍の背表紙を眺める千鶴の言葉に、未乃梨はどきりとして立ち止まりそうになった。
(詳しい人って……やっぱり、凛々子さんのこと、なのかな。私じゃわかんないこと、凛々子さんならたくさん知ってるし、そもそも今日だって凛々子さんの演奏を聴きに行くんだもんね)
未乃梨は千鶴の後ろを歩きながら、少しずつうつむき気味になっていった。その前を歩いている千鶴が、急に立ち止まった。
「あれ、なんだろ? ……ベートーヴェン?」
千鶴は今度は書籍の棚の解説書が気になるようだった。作曲家ごとに作品の解説をまとめたシリーズで、「ベートーヴェン」と背表紙に書かれたものを、千鶴は手にとって、ページをめくっている。「あ、これこれ」と千鶴は何かを見つけたようだった。
「見て。この前、『あさがお園』で私が楽器紹介で弾いたの、これだよね?」
未乃梨は少し爪先立って、その解説書の千鶴が指差すページを見た。そのページの隅には「交響曲第九番」と書かれており、千鶴が指差しているのは調号にシャープが二つ付いたヘ音記号の譜例だった。
未乃梨はその譜例が載ったページを見回した。オーケストラの楽曲の解説らしく、専門的な語句に混ざる楽器名は半分以上が弦楽器だ。
「そうね。……千鶴、こういう曲、弾いてみたいの?」
「ほんのちょっと、興味あるかも?」
千鶴はやや高めにリボンで結った、ショートテイルの髪の根元を搔いた。その屈託のない様子が、やはり未乃梨に引っ掛かる。
(千鶴、オーケストラに興味あったりするの?)
そんな思いを隠しつつ、未乃梨は千鶴手を引いた。
「そろそろお昼にしない? 近くに気になってるカフェがあるの」
ちょっとだけ強引なように思いつつ、未乃梨はまだ見たい本がありそうな千鶴を、楽器店の外に連れ出した。
ディアナホールの楽屋では、いつになくリラックスした空気が漂っていた。
そろそろ衣装に着替える者、本番前に軽く楽譜をさらう者、楽屋に届いた弁当と飲み物を受け取りに行く者とめいめいに過ごす中で、凛々子は楽屋の椅子に座ったままゆっくりと腕や背筋を伸ばし直す。
「今日はみんな、なかなか良い仕上がりだね?」
身体をほぐす凛々子に、本条が声を掛けてきた。もうすっかり七分袖の白いブラウスと黒いロングスカートに着替えて、準備をすっかり済ませてしまっている。
「舞衣子先生、準備がお早いですね。今日は『グレート』も序曲二つも楽しんで弾けそうかな」
「おや、凛々子ちゃんも調子良さそうだね?」
「実は今日の本番、ちょっと楽しみなことがありまして。私が学校で教えてる子が聴きに来るんです」
本条は、「ふふん?」と嬉しそうに笑う。
「ああ、例の子か。楽しんでもらえるといいね」
「……ついでに、オーケストラに興味を持ってくれたら、ですけど」
凛々子はそう微笑むと、ゆっくりと立ち上がった。白のノースリーブのブラウスに、黒のややタイトなロングスカートの衣装に、凛々子はすっかり着替えていた。
(続く)
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