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♯66
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千鶴が凛々子にもちかけた「G線上のアリア」のピッツィカートの相談は、さして長い時間を取らずに終わった。
凛々子は音出しを終えてやっと自分や千鶴に背を向けるのをやめた未乃梨を見ながら、ヴァイオリンで「G線上のアリア」の主旋律をいつもよりゆっくり、フレーズをまるで区切らずにヴィブラートを多めに掛けて弾いてみせた。
「こういう演奏だったら、千鶴さんもヴィブラートを掛けて演奏をするのはありだと思うの。でも、今回このメロディは未乃梨さんの担当で、テンポは早めの方が合いそうよね」
「未乃梨だったら、もっとすっきり吹く感じ、ですもんね」
「そう。未乃梨さんだったら、さっきの濃すぎるお化粧みたいな表現はしないわよね。主役をどう引き立てるか考えるのも、伴奏に回った楽器の仕事よ」
凛々子に頷くと、千鶴はコントラバスを構え直した。未乃梨も、慌ててフルートを構えた。二人を見て、凛々子も悠然とヴァイオリンを顎に挟んだ。
「それじゃ、『G線上のアリア』、やってみましょうか」
千鶴の右手がコントラバスの弦に掛かり、未乃梨がブレスを取って、凛々子が弓を上げて、三人での「G線上のアリア」が始まった。
千鶴のピッツィカートは朝の練習よりずっと軽く、粒の立った音で未乃梨のフルートに寄り添った。要所で未乃梨のブレスに合わせて息を吸う動作を見せるのは今まで通りで、どこまでも未乃梨が演奏しやすいよう気を使っているのが見てとれた。
それでも、千鶴の演奏が良いものに磨かれて行くほどに、未乃梨の表情にどこか寂しげな影が差しているように、千鶴には思えた。
(未乃梨、どうしたんだろ?)
未乃梨を心配した千鶴の演奏は、それでも揺らがなかった。朝に試した見よう見真似のヴィブラートを入れないコントラバスのピッツィカートは、かえって低音の豊かさを感じさせた。
千鶴は、部屋の中で混ざる自分たち三人が演奏している楽器の響きに耳を傾けた。時折ヴァイオリンとコントラバスより大きめに吹いている未乃梨のフルートが、押されがちに聴こえることに気付いて音量をやや抑えると、未乃梨のフルートは更に聴き映えした。それでも、未乃梨はどこかしら、伏し目がちに演奏をしているように思われた。
「G線上のアリア」に続いて、「パッヘルベルのカノン」を合わせた後で、休憩に入ると、未乃梨は「お手洗いに行ってきます」とだけ告げて、空き教室を出た。
コントラバスを床に寝かせてから身体を伸ばしている千鶴に、凛々子は「今日は、調子はまずまずといったところね」と微笑んだ。
「そういえば、前に言っていたお友達とのこと、どうなったの?」
「それなんですけど……しばらく、考えさせてって伝えて、返事を待ってもらうことになりました」
少しためらいがちに、千鶴は凛々子に答えた。
(私に告白してきたのが未乃梨だってこと、凛々子さんには気付かれてないといいけど……)
小さな心配事を気にする千鶴に、凛々子はヴァイオリンを開いたケースに置いてから、教室の机に腰掛けて脚を軽く組んだ。くつろいだその所作に、千鶴は一瞬目を奪われた。
「そう。にしても、そのお友達、立派ね。千鶴さんに自分の気持ちを伝えて、考えさせてほしいって返事が来たら待ってくれるんですもの」
「そう……ですよね。宙ぶらりんにさせちゃって、悪いかなって思ってます」
「あなたも、ちゃんと考えた上で返事を待ってほしいって伝えたんでしょう? そういう優しいところをお友達は好きになったのよ」
凛々子は微かに嘆息した。
「私なら、誰か好きな人がいたとして、そのお友達みたいに待てないかもしれないし、そもそも誰かに告白するなんて勇気は出ないかもしれないわね」
「凛々子さんも、誰か好きな人ができたときにそういう経験があるんですか?」
「あら、聞きたい?」
凛々子は、緩くウェーブの掛かった長い黒髪に手櫛を通すと、千鶴に笑いかけた。
「私だって女の子ですもの。好きになった相手の一人や二人ぐらい、いるわよ」
声に艶の掛かった凛々子に、千鶴は内心でたじろいだ。
「……聞かないでおきます」
「あら、残念。千鶴さんには話してもいいと思ってるのだけど」
この場から未乃梨が外していることに、千鶴は内心安堵していた。自分に告白する前なら目尻を釣り上げて騒ぎ出していたようにも思うし、今となっては他人の恋愛の話ですら未乃梨が聞くと辛く抱え込んでしまいそうに、千鶴には思えるのだった。
未乃梨は手洗いの洗面台で顔を洗うと、鏡に映る自分の姿を見た。
への字に落ちた口角に気付いて、未乃梨は背筋を正した。
(今日の私、ちょっとイケてない……よね。こんなんじゃ、折角千鶴に告白したのに、振り向いてもらえないよ)
下がった口角を両手の人差し指で押し上げて、未乃梨は無理矢理に笑顔を作った。
(可愛くない私に告白されたって、千鶴はきっと嬉しくないよね。いつだって最高に可愛い私じゃなきゃ)
「お、何してんの? アンブシュアの確認?」
背後から急に声を掛けられて、未乃梨はびくりと振り向いた。そこには、前下がりボブの髪の二年生がいた。
「え!? 植村先輩?」
「あたしもトイレ休憩さ。ま、蘇我のやつも今日は通院だし、今日はユーフォもテューバものんびりだけど」
悪びれず笑う植村は、未乃梨を面白そうに見た。
「にしてもさっきの小阪さん、なんかキスするときみたいな顔になってたね?」
「ええっ!? ……なんてこと言うんですかぁっ! 先輩、まるでそういうことしたことあるみたいに!?」
未乃梨は慌てふためいて声を上げた。
「ごめんごめん。まぁ、あるっていうか、たまにしてるもんだから、つい、ね」
「先輩、そういう相手が!?」
千鶴のことで袋小路に陥りかけた未乃梨は、驚きのあまり先程まで悩んでいたことを棚に上げて、再び声を上げた。
(続く)
凛々子は音出しを終えてやっと自分や千鶴に背を向けるのをやめた未乃梨を見ながら、ヴァイオリンで「G線上のアリア」の主旋律をいつもよりゆっくり、フレーズをまるで区切らずにヴィブラートを多めに掛けて弾いてみせた。
「こういう演奏だったら、千鶴さんもヴィブラートを掛けて演奏をするのはありだと思うの。でも、今回このメロディは未乃梨さんの担当で、テンポは早めの方が合いそうよね」
「未乃梨だったら、もっとすっきり吹く感じ、ですもんね」
「そう。未乃梨さんだったら、さっきの濃すぎるお化粧みたいな表現はしないわよね。主役をどう引き立てるか考えるのも、伴奏に回った楽器の仕事よ」
凛々子に頷くと、千鶴はコントラバスを構え直した。未乃梨も、慌ててフルートを構えた。二人を見て、凛々子も悠然とヴァイオリンを顎に挟んだ。
「それじゃ、『G線上のアリア』、やってみましょうか」
千鶴の右手がコントラバスの弦に掛かり、未乃梨がブレスを取って、凛々子が弓を上げて、三人での「G線上のアリア」が始まった。
千鶴のピッツィカートは朝の練習よりずっと軽く、粒の立った音で未乃梨のフルートに寄り添った。要所で未乃梨のブレスに合わせて息を吸う動作を見せるのは今まで通りで、どこまでも未乃梨が演奏しやすいよう気を使っているのが見てとれた。
それでも、千鶴の演奏が良いものに磨かれて行くほどに、未乃梨の表情にどこか寂しげな影が差しているように、千鶴には思えた。
(未乃梨、どうしたんだろ?)
未乃梨を心配した千鶴の演奏は、それでも揺らがなかった。朝に試した見よう見真似のヴィブラートを入れないコントラバスのピッツィカートは、かえって低音の豊かさを感じさせた。
千鶴は、部屋の中で混ざる自分たち三人が演奏している楽器の響きに耳を傾けた。時折ヴァイオリンとコントラバスより大きめに吹いている未乃梨のフルートが、押されがちに聴こえることに気付いて音量をやや抑えると、未乃梨のフルートは更に聴き映えした。それでも、未乃梨はどこかしら、伏し目がちに演奏をしているように思われた。
「G線上のアリア」に続いて、「パッヘルベルのカノン」を合わせた後で、休憩に入ると、未乃梨は「お手洗いに行ってきます」とだけ告げて、空き教室を出た。
コントラバスを床に寝かせてから身体を伸ばしている千鶴に、凛々子は「今日は、調子はまずまずといったところね」と微笑んだ。
「そういえば、前に言っていたお友達とのこと、どうなったの?」
「それなんですけど……しばらく、考えさせてって伝えて、返事を待ってもらうことになりました」
少しためらいがちに、千鶴は凛々子に答えた。
(私に告白してきたのが未乃梨だってこと、凛々子さんには気付かれてないといいけど……)
小さな心配事を気にする千鶴に、凛々子はヴァイオリンを開いたケースに置いてから、教室の机に腰掛けて脚を軽く組んだ。くつろいだその所作に、千鶴は一瞬目を奪われた。
「そう。にしても、そのお友達、立派ね。千鶴さんに自分の気持ちを伝えて、考えさせてほしいって返事が来たら待ってくれるんですもの」
「そう……ですよね。宙ぶらりんにさせちゃって、悪いかなって思ってます」
「あなたも、ちゃんと考えた上で返事を待ってほしいって伝えたんでしょう? そういう優しいところをお友達は好きになったのよ」
凛々子は微かに嘆息した。
「私なら、誰か好きな人がいたとして、そのお友達みたいに待てないかもしれないし、そもそも誰かに告白するなんて勇気は出ないかもしれないわね」
「凛々子さんも、誰か好きな人ができたときにそういう経験があるんですか?」
「あら、聞きたい?」
凛々子は、緩くウェーブの掛かった長い黒髪に手櫛を通すと、千鶴に笑いかけた。
「私だって女の子ですもの。好きになった相手の一人や二人ぐらい、いるわよ」
声に艶の掛かった凛々子に、千鶴は内心でたじろいだ。
「……聞かないでおきます」
「あら、残念。千鶴さんには話してもいいと思ってるのだけど」
この場から未乃梨が外していることに、千鶴は内心安堵していた。自分に告白する前なら目尻を釣り上げて騒ぎ出していたようにも思うし、今となっては他人の恋愛の話ですら未乃梨が聞くと辛く抱え込んでしまいそうに、千鶴には思えるのだった。
未乃梨は手洗いの洗面台で顔を洗うと、鏡に映る自分の姿を見た。
への字に落ちた口角に気付いて、未乃梨は背筋を正した。
(今日の私、ちょっとイケてない……よね。こんなんじゃ、折角千鶴に告白したのに、振り向いてもらえないよ)
下がった口角を両手の人差し指で押し上げて、未乃梨は無理矢理に笑顔を作った。
(可愛くない私に告白されたって、千鶴はきっと嬉しくないよね。いつだって最高に可愛い私じゃなきゃ)
「お、何してんの? アンブシュアの確認?」
背後から急に声を掛けられて、未乃梨はびくりと振り向いた。そこには、前下がりボブの髪の二年生がいた。
「え!? 植村先輩?」
「あたしもトイレ休憩さ。ま、蘇我のやつも今日は通院だし、今日はユーフォもテューバものんびりだけど」
悪びれず笑う植村は、未乃梨を面白そうに見た。
「にしてもさっきの小阪さん、なんかキスするときみたいな顔になってたね?」
「ええっ!? ……なんてこと言うんですかぁっ! 先輩、まるでそういうことしたことあるみたいに!?」
未乃梨は慌てふためいて声を上げた。
「ごめんごめん。まぁ、あるっていうか、たまにしてるもんだから、つい、ね」
「先輩、そういう相手が!?」
千鶴のことで袋小路に陥りかけた未乃梨は、驚きのあまり先程まで悩んでいたことを棚に上げて、再び声を上げた。
(続く)
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