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4.アネモネは、あなたを信じて待つと約束をする
気持ちが通じた後は
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自分が何度も、愛し愛された真宮を忘れたというのなら。
真宮からの愛になにかを感じて逃げようとしていたというのなら。
この九年の自分は、彼を忘れたくても忘れられなかった。
どんなに逃げていたつもりでも。
どんなに別の大切な男性を見つけても。
どんな話を聞いても。
彼がどんな姿でいても。
それでもどうしても真宮に戻ってしまう。
彼に引きつけられてしまう。
結局、逃げようが逃げまいが、自分は――宿命のように、何度でも……真宮しか愛せないのだ。
このふわりと漂う勿忘草の香りが。
彼が忌む勿忘草色の瞳が。
どうしようもなく香乃を捕らえて離さず、どうしても彼がいいと香乃に思わせる。
その彼が、穂月を殺したという罪悪感の中で生きているのがたまらなく悲しくて、なんとかしたいと香乃は切に願う。
「……総支配人。正直に言います」
「……はい」
仕事口調を崩さない香乃から、なにか嫌なものでも感じたのか、真宮の口調もまた堅くなる。
それでも真宮は、抱擁を辞めようとはしなかった。
「……今わたしは、あなたとの記憶の半分も思い出せていません。さらに厳しいことを言えば、わたしが可愛がったみっちゃんについて親愛の情はあっても、それが恋情に変わる過程も、あなたと恋人という形で、共に進みたいと決心したことも、思い出せずにいます。わたしは、当時のわたしの心を取り戻せていません」
「……はい」
香乃は真宮にしがみつくようにして、想いを零す。
「それでもわたし……、きーくんの、あのおぞましい手術については、ここであなたの話を聞いて思い出しました。そりゃあ当時ほど鮮烈な記憶ではないにしても、わたしの記憶がなくなるに至るNGはなにか、それとなくわかったような気がしています。あなたは、わたしが記憶をなくす原因は、あの手術を思い出させるきーくんの面影を、あなたの中でわたしが見出した時にと思われているんでしょうが、百%それだけが原因というわけではない気がするんです」
「しかし……」
「だったら、あなたの話によって手術のことを思い出したわたしは今、記憶を失ったっていい。だけど特にフラッシュバックすることもなく、あなたに対して嫌悪感なんて微塵も生じていません」
うまく、伝えられるかわからない。
しかし香乃は言いたいのだ。
「違うんです、わたしは……あなたを怖がって記憶を飛ばしているのではなくて、わたしがきーくんを助けられなかったという後悔に起因している。だからあなたを免罪符にして、きーくんが生きていると事実をねじ曲げるために忘れてしまうのではと。だから私が都合良くあなたを利用してしまっただけで、あなた自身をわたし、嫌悪も恐怖も感じていないことをわかって欲しくて」
「……っ、それは無理しているからでは……」
「無理しているのなら、今あなたとこうしていません。泣いて叫んでわめいて、帰っています。そして多分、その帰り道にでも、あなたのことを忘れていますね」
それで納得したのか、真宮は口を噤んだ。
真宮は不思議だ。
すべてを告白して愛を懇願していたのに、香乃がどんなに真宮のことを好きなのかをわかっていないようだ。
昔の香乃の方が、真宮でもわかるような、明確な恋情を体現していたのだろうか。
――あんたの顔には、穂積が好きだって最初から書いてあるからだ。
――わからないのは、あんたと穂積くらいだろうよ。
(本当に、河原崎支配人の慧眼には恐れ入るわ)
三十歳ともなれば、酸いも甘いも経験し、色々なしがらみの中で処世術を覚える。
だから子供のように、「好きだから」でまかり通ることができないのも知っている。
なにより自分は真宮を拒み、牧瀬を選ぼうとした。
こんな自分になにも言える資格はないだろうが、それでもこのホテルに駆けつけた時点で、否、昨夜抱き合ってキスをした時点で、気づいて欲しい。
自分は、覚悟を決めてここに来ている。
彼の話に揺らいで無理だと思える恋はしていない。
「わたしに、昔の記憶がなくても……わたしは九年前、勿忘草の瞳をしているあなたを好きになりました。どんなにあなたの目がわたしにとって禁忌であっても、この九年間、怖い思いはしなかった。あなたを忘れるどころか、忘れようと思っても忘れることが出来なかった。あなたが好きな気持ちと、あなたに裏切られて苦しいという……至って普通の恋を、引き摺るだけで」
「……っ」
「勿忘草が、断片的になっているだろうわたしの記憶と、わたし達の絆を繋ぐものだとすれば、その勿忘草を纏うあなたを新たに好きになったんです。わたしは……きーくんの瞳に恋をしていたわけではない」
香乃の背中に回っている真宮の手が震えた。
「でもあなたは、事故を思い出した……」
「確かにあなたと再会して、事故の断片が夢に出ました。だけど手術のことではない。きーくんは出ていたけれど、あなたも出ていたんです。……わたしの記憶は。わたしの心は。あなたへの恋を拡張するように、あなたについて思い出したかったのかもしれません。いい加減、逃げてばかりいる自分に嫌気をさしていたのかもしれません」
自分の記憶なのに、唐突に消えて唐突に出現するというのが、なんとももどかしい。
ただ、自分が制御不可能な防衛本能の支配下に、記憶があるのだとしても、自分の心は自分の意志で制御が出来るものだと、香乃は信じたかった。
「あなたのこと、忘れてしまっていてごめんなさい」
香乃は真宮から少し身体を離すと、真宮の勿忘草の瞳を見つめて言った。
「あなたをいつも傷つけて……しまっていて、ごめんな……さ……い」
涙にまみれた言葉尻は震えてしまい、香乃はきゅっと唇を噛んで自分を立て直す。
(謝ってすむ問題じゃない。彼を傷つけてしまった時間は戻ってこない。だけど……)
「あなたが謝ることでは……」
「いいえ。わたしはいつも被害者意識ばかり募らせ、あなたを傷つけることで自分を保とうとしてきた最低な女です」
「そんなことはない! 悪いのは俺で……」
香乃は涙を流しながら頭を横に振る。
「わたしは、自分の罪悪感から逃れるために、あなたから逃げました。わたしが忘れている過去から今までずっと。……こんな弱くて卑怯なわたしに、根気強く向き合ってくれてありがとう……。ずっとずっと……愛してくれてありがとう……」
香乃は嗚咽混じりに言った。
「こんなわたし、ですが……あなたが、好きです」
真宮の目が見開いたのがわかる。
(そこまで、驚く!? バレバレじゃないの!?)
香乃は半ばヤケ気味に言った。
「とてもとてもあなたが好きなんです!」
言い切ると、香乃からぶわりと滝のように涙がこぼれ落ちる。
(ああ、駄目だ。決壊が崩壊……)
それでも言わなくては。
それでも伝えなければ。
香乃は豪快にしゃくり上げると、一気に言った。
「九年前の恋を終わらせたはずが、また九年後にあなたに恋をしてしまいました。実らないものだとまた逃げて……牧瀬を選んだはずなのに、それでもわたし、すべてを聞いてもわたしは……っ、総支配人のこと……」
香乃が言葉を途切れさせたのは、真宮が香乃の唇の前に人差し指をたてたからだった。
「穂積です」
「え?」
「俺を……肩書きで呼ばないで、香乃」
香乃の心臓がぎゅんとおかしな音をたてる。
「ほ、穂積……さん」
「さんはいらない。呼び捨てで」
優しく甘い声に導かれるように、告白も半ばにして香乃は、泣きながら顔を赤らめて言った。
「穂積……」
すると、ふわりと真宮……穂積が微笑んだ。
どきりとする香乃の前で、静かに人差し指が外されると同時に、傾けられた彼の顔が近づき、香乃と唇が重なった。
やはりそれは、互いの震えがわかる触れるだけのキスだった。
「香乃、もう一度言って」
唇を離した穂積の眼差しが、香乃に熱く絡みつく。
「……好きです」
「……もう一度」
「好き。わたし、穂積が……んんっ」
穂積の唇が香乃の唇に、荒々しく噛みついた。
香乃からすべての吐息を奪おうとする、性急な口づけだった。
ふわりと漂う、勿忘草の香り。
彼の熱い肌。
彼の力強さ。
それが図書館の記憶へとなっていく。
かさり、かさりと、頁を捲る音。
古紙特有の懐古的な匂い。
(ああ、わたしの恋は……)
九年前、途切れていた恋が、今繋がった――。
穂積からのキスを甘受しながら、香乃は彼が震えていることを知る。
慌ててキスをやめようとすると、穂積はその広い胸に香乃を掻き抱き、香乃の肩に顔を埋めて言った。
「……少しだけ、このまま……」
香乃の首筋に、穂積の柔らかな髪先が掠める。
……彼は泣いていた。
「格好悪くて、ごめん……」
愛おしい――香乃は思う。
彼は何度泣いてきたのだろう。
思えば昔から彼は、泣いてばかりいた。
泣きながら自分の後を追いかけてきた。
――カノちゃん。
消えてしまいそうに線が細くて。
だけど次第に、しっかりと香乃の目を見つめるようになった〝みっちゃん〟。
黒い瞳の奥にはやがて小さな炎が揺らめき、みっちゃんは激情家だということを知った。
それが恋の炎だと知らぬまま、生きたいというひととしての意志だと思えばこそ、どうにかみっちゃんの環境を変えて上げたくて。
(あの頃から……追いかけてくれたんだ)
穂積の蒼い瞳にも、あの頃の炎はあった。
瞳の色が違うことが、なんだというのだろう。
彼という本質は、なにも変わってはいない。
(どうして気づかなかったのだろう)
彼がいつでも傍にいたということに。
「わたし……思い出したい」
香乃の目に溢れた涙は、香乃が目を閉じた時、音もなく流れ落ちた。
まるで穂積の涙と共鳴しあっているかのように。
「あなたとの思い出のすべてを、取り戻したい……」
九年前、引き千切られた勿忘草の手紙によって、彼は忘れたい男となった。
そして実際、それ以前に二度も、真宮穂積という男のことや、彼との思い出の一切を忘れていた――。
それほどまでに忘れたかった男性は、今……香乃の中で絶対に思い出していたいひとへと変わったのだ。
「もう……忘れない? 俺のこと」
顔を上げて、拗ねたように尋ねてくる彼が可愛くて。
「忘れても、また好きになる。そっちの方が信憑性があるでしょう?」
「だったらまた俺、頑張らないと」
「よろしくお願いします」
そう香乃が笑うと、真宮も微笑んだ。
(あ、みっちゃんってこんな感じで笑っていた……)
忘れていないこともあることに、香乃は歓喜する。
そして、見つめ合う視線に熱が宿り、僅かに瞳が揺れる。
どちらからともなく吸い寄せられるようにして、再び唇が重なろうとした瞬間――。
ぐぅぅぅぅぅ。
香乃の腹の虫が鳴る。
ぐぅぅぅぅぅ。
途端に穂積が笑って、天井を仰ぎ見る。
「あはははは」
「い、いや、その……わたし、ここに来るまで、走って行ったり来たりしていて……」
「そんなに急いで来てくれたんですか? あなたの会社からファゲトミナート、また会社に戻り、そしてここまで」
穂積が小首を傾げるようにしながら、嬉しそうに言う。
「な、なんでわたしの経路を……」
「ふふふ、秘密」
これがさっきまで泣いていた男だろうか。
吸い込まれてしまいそうになるほど、実に艶やかに笑う。
(今まで以上に……なんだか男の艶が……)
じっくり見ていると体温が上がりそうで、香乃は慌ててカクテルを飲む。
すると空腹にアルコールは、さらに香乃の熱を上げてしまったようで僅かに景色が揺れる。
「別にゆっくり来ても、俺はここから離れなかったのに」
「いや、でも……」
穂積がテーブルの片隅におかれてある、店員を呼ぶブザーのようなものを手にした。
それは地模様に花が彫られている。
「……アネモネ?」
花言葉は――。
「「『あなたを信じて待つ』」」
穂積と香乃は同時に言って、笑った。
「では、あなたのお腹の虫を満足させに行こうか」
穂積は立ち上がると、香乃に向けて手を差し出した。
その手を取り立ち上がった香乃は、てっきり隣のレストランで食事をするのかと思った。
だが、彼は会計をすませると、レストランとは反対の方に歩き出す。
「あ、あの……どこへ?」
すると香乃の肩を引き寄せた穂積は、香乃の耳元で囁いた。
「ルームサービス」
穂積はポケットの中から、ルームキーを取りだして見せた。
どくん、と香乃の心臓が跳ねる。
――部屋を予約していきます。来てくれるのなら、あなたを家に帰しません。
(……た、確かに部屋を取ると先に宣言されていたし、そのつもりが無かったというと嘘になるけれど。でも……なんだろう、わたし、初めてじゃないのにこの緊張感)
固まる香乃にくすりと笑うと、穂積は香乃の頬に唇を落として、流し目を寄越す。
「昨日も、俺……我慢したでしょう?」
――明日は覚悟して下さい。俺……もう、止まれる自信、ないので。
「だから今夜は、あなたを逃さない」
その目は妖艶でもありながら、捕食者のようにぎらりと光った。
途端に香乃の身体も呼応するように、熱く蕩けてくる。
酒を言い訳にしたくはなかった。
嬉しくてたまらないのだ。
女として彼に求められていることが。
ああ、自分は彼に抱かれたいのだ。
「……はい。わたしも、逃げません」
……九年前、いやそれ以上昔から。
真宮からの愛になにかを感じて逃げようとしていたというのなら。
この九年の自分は、彼を忘れたくても忘れられなかった。
どんなに逃げていたつもりでも。
どんなに別の大切な男性を見つけても。
どんな話を聞いても。
彼がどんな姿でいても。
それでもどうしても真宮に戻ってしまう。
彼に引きつけられてしまう。
結局、逃げようが逃げまいが、自分は――宿命のように、何度でも……真宮しか愛せないのだ。
このふわりと漂う勿忘草の香りが。
彼が忌む勿忘草色の瞳が。
どうしようもなく香乃を捕らえて離さず、どうしても彼がいいと香乃に思わせる。
その彼が、穂月を殺したという罪悪感の中で生きているのがたまらなく悲しくて、なんとかしたいと香乃は切に願う。
「……総支配人。正直に言います」
「……はい」
仕事口調を崩さない香乃から、なにか嫌なものでも感じたのか、真宮の口調もまた堅くなる。
それでも真宮は、抱擁を辞めようとはしなかった。
「……今わたしは、あなたとの記憶の半分も思い出せていません。さらに厳しいことを言えば、わたしが可愛がったみっちゃんについて親愛の情はあっても、それが恋情に変わる過程も、あなたと恋人という形で、共に進みたいと決心したことも、思い出せずにいます。わたしは、当時のわたしの心を取り戻せていません」
「……はい」
香乃は真宮にしがみつくようにして、想いを零す。
「それでもわたし……、きーくんの、あのおぞましい手術については、ここであなたの話を聞いて思い出しました。そりゃあ当時ほど鮮烈な記憶ではないにしても、わたしの記憶がなくなるに至るNGはなにか、それとなくわかったような気がしています。あなたは、わたしが記憶をなくす原因は、あの手術を思い出させるきーくんの面影を、あなたの中でわたしが見出した時にと思われているんでしょうが、百%それだけが原因というわけではない気がするんです」
「しかし……」
「だったら、あなたの話によって手術のことを思い出したわたしは今、記憶を失ったっていい。だけど特にフラッシュバックすることもなく、あなたに対して嫌悪感なんて微塵も生じていません」
うまく、伝えられるかわからない。
しかし香乃は言いたいのだ。
「違うんです、わたしは……あなたを怖がって記憶を飛ばしているのではなくて、わたしがきーくんを助けられなかったという後悔に起因している。だからあなたを免罪符にして、きーくんが生きていると事実をねじ曲げるために忘れてしまうのではと。だから私が都合良くあなたを利用してしまっただけで、あなた自身をわたし、嫌悪も恐怖も感じていないことをわかって欲しくて」
「……っ、それは無理しているからでは……」
「無理しているのなら、今あなたとこうしていません。泣いて叫んでわめいて、帰っています。そして多分、その帰り道にでも、あなたのことを忘れていますね」
それで納得したのか、真宮は口を噤んだ。
真宮は不思議だ。
すべてを告白して愛を懇願していたのに、香乃がどんなに真宮のことを好きなのかをわかっていないようだ。
昔の香乃の方が、真宮でもわかるような、明確な恋情を体現していたのだろうか。
――あんたの顔には、穂積が好きだって最初から書いてあるからだ。
――わからないのは、あんたと穂積くらいだろうよ。
(本当に、河原崎支配人の慧眼には恐れ入るわ)
三十歳ともなれば、酸いも甘いも経験し、色々なしがらみの中で処世術を覚える。
だから子供のように、「好きだから」でまかり通ることができないのも知っている。
なにより自分は真宮を拒み、牧瀬を選ぼうとした。
こんな自分になにも言える資格はないだろうが、それでもこのホテルに駆けつけた時点で、否、昨夜抱き合ってキスをした時点で、気づいて欲しい。
自分は、覚悟を決めてここに来ている。
彼の話に揺らいで無理だと思える恋はしていない。
「わたしに、昔の記憶がなくても……わたしは九年前、勿忘草の瞳をしているあなたを好きになりました。どんなにあなたの目がわたしにとって禁忌であっても、この九年間、怖い思いはしなかった。あなたを忘れるどころか、忘れようと思っても忘れることが出来なかった。あなたが好きな気持ちと、あなたに裏切られて苦しいという……至って普通の恋を、引き摺るだけで」
「……っ」
「勿忘草が、断片的になっているだろうわたしの記憶と、わたし達の絆を繋ぐものだとすれば、その勿忘草を纏うあなたを新たに好きになったんです。わたしは……きーくんの瞳に恋をしていたわけではない」
香乃の背中に回っている真宮の手が震えた。
「でもあなたは、事故を思い出した……」
「確かにあなたと再会して、事故の断片が夢に出ました。だけど手術のことではない。きーくんは出ていたけれど、あなたも出ていたんです。……わたしの記憶は。わたしの心は。あなたへの恋を拡張するように、あなたについて思い出したかったのかもしれません。いい加減、逃げてばかりいる自分に嫌気をさしていたのかもしれません」
自分の記憶なのに、唐突に消えて唐突に出現するというのが、なんとももどかしい。
ただ、自分が制御不可能な防衛本能の支配下に、記憶があるのだとしても、自分の心は自分の意志で制御が出来るものだと、香乃は信じたかった。
「あなたのこと、忘れてしまっていてごめんなさい」
香乃は真宮から少し身体を離すと、真宮の勿忘草の瞳を見つめて言った。
「あなたをいつも傷つけて……しまっていて、ごめんな……さ……い」
涙にまみれた言葉尻は震えてしまい、香乃はきゅっと唇を噛んで自分を立て直す。
(謝ってすむ問題じゃない。彼を傷つけてしまった時間は戻ってこない。だけど……)
「あなたが謝ることでは……」
「いいえ。わたしはいつも被害者意識ばかり募らせ、あなたを傷つけることで自分を保とうとしてきた最低な女です」
「そんなことはない! 悪いのは俺で……」
香乃は涙を流しながら頭を横に振る。
「わたしは、自分の罪悪感から逃れるために、あなたから逃げました。わたしが忘れている過去から今までずっと。……こんな弱くて卑怯なわたしに、根気強く向き合ってくれてありがとう……。ずっとずっと……愛してくれてありがとう……」
香乃は嗚咽混じりに言った。
「こんなわたし、ですが……あなたが、好きです」
真宮の目が見開いたのがわかる。
(そこまで、驚く!? バレバレじゃないの!?)
香乃は半ばヤケ気味に言った。
「とてもとてもあなたが好きなんです!」
言い切ると、香乃からぶわりと滝のように涙がこぼれ落ちる。
(ああ、駄目だ。決壊が崩壊……)
それでも言わなくては。
それでも伝えなければ。
香乃は豪快にしゃくり上げると、一気に言った。
「九年前の恋を終わらせたはずが、また九年後にあなたに恋をしてしまいました。実らないものだとまた逃げて……牧瀬を選んだはずなのに、それでもわたし、すべてを聞いてもわたしは……っ、総支配人のこと……」
香乃が言葉を途切れさせたのは、真宮が香乃の唇の前に人差し指をたてたからだった。
「穂積です」
「え?」
「俺を……肩書きで呼ばないで、香乃」
香乃の心臓がぎゅんとおかしな音をたてる。
「ほ、穂積……さん」
「さんはいらない。呼び捨てで」
優しく甘い声に導かれるように、告白も半ばにして香乃は、泣きながら顔を赤らめて言った。
「穂積……」
すると、ふわりと真宮……穂積が微笑んだ。
どきりとする香乃の前で、静かに人差し指が外されると同時に、傾けられた彼の顔が近づき、香乃と唇が重なった。
やはりそれは、互いの震えがわかる触れるだけのキスだった。
「香乃、もう一度言って」
唇を離した穂積の眼差しが、香乃に熱く絡みつく。
「……好きです」
「……もう一度」
「好き。わたし、穂積が……んんっ」
穂積の唇が香乃の唇に、荒々しく噛みついた。
香乃からすべての吐息を奪おうとする、性急な口づけだった。
ふわりと漂う、勿忘草の香り。
彼の熱い肌。
彼の力強さ。
それが図書館の記憶へとなっていく。
かさり、かさりと、頁を捲る音。
古紙特有の懐古的な匂い。
(ああ、わたしの恋は……)
九年前、途切れていた恋が、今繋がった――。
穂積からのキスを甘受しながら、香乃は彼が震えていることを知る。
慌ててキスをやめようとすると、穂積はその広い胸に香乃を掻き抱き、香乃の肩に顔を埋めて言った。
「……少しだけ、このまま……」
香乃の首筋に、穂積の柔らかな髪先が掠める。
……彼は泣いていた。
「格好悪くて、ごめん……」
愛おしい――香乃は思う。
彼は何度泣いてきたのだろう。
思えば昔から彼は、泣いてばかりいた。
泣きながら自分の後を追いかけてきた。
――カノちゃん。
消えてしまいそうに線が細くて。
だけど次第に、しっかりと香乃の目を見つめるようになった〝みっちゃん〟。
黒い瞳の奥にはやがて小さな炎が揺らめき、みっちゃんは激情家だということを知った。
それが恋の炎だと知らぬまま、生きたいというひととしての意志だと思えばこそ、どうにかみっちゃんの環境を変えて上げたくて。
(あの頃から……追いかけてくれたんだ)
穂積の蒼い瞳にも、あの頃の炎はあった。
瞳の色が違うことが、なんだというのだろう。
彼という本質は、なにも変わってはいない。
(どうして気づかなかったのだろう)
彼がいつでも傍にいたということに。
「わたし……思い出したい」
香乃の目に溢れた涙は、香乃が目を閉じた時、音もなく流れ落ちた。
まるで穂積の涙と共鳴しあっているかのように。
「あなたとの思い出のすべてを、取り戻したい……」
九年前、引き千切られた勿忘草の手紙によって、彼は忘れたい男となった。
そして実際、それ以前に二度も、真宮穂積という男のことや、彼との思い出の一切を忘れていた――。
それほどまでに忘れたかった男性は、今……香乃の中で絶対に思い出していたいひとへと変わったのだ。
「もう……忘れない? 俺のこと」
顔を上げて、拗ねたように尋ねてくる彼が可愛くて。
「忘れても、また好きになる。そっちの方が信憑性があるでしょう?」
「だったらまた俺、頑張らないと」
「よろしくお願いします」
そう香乃が笑うと、真宮も微笑んだ。
(あ、みっちゃんってこんな感じで笑っていた……)
忘れていないこともあることに、香乃は歓喜する。
そして、見つめ合う視線に熱が宿り、僅かに瞳が揺れる。
どちらからともなく吸い寄せられるようにして、再び唇が重なろうとした瞬間――。
ぐぅぅぅぅぅ。
香乃の腹の虫が鳴る。
ぐぅぅぅぅぅ。
途端に穂積が笑って、天井を仰ぎ見る。
「あはははは」
「い、いや、その……わたし、ここに来るまで、走って行ったり来たりしていて……」
「そんなに急いで来てくれたんですか? あなたの会社からファゲトミナート、また会社に戻り、そしてここまで」
穂積が小首を傾げるようにしながら、嬉しそうに言う。
「な、なんでわたしの経路を……」
「ふふふ、秘密」
これがさっきまで泣いていた男だろうか。
吸い込まれてしまいそうになるほど、実に艶やかに笑う。
(今まで以上に……なんだか男の艶が……)
じっくり見ていると体温が上がりそうで、香乃は慌ててカクテルを飲む。
すると空腹にアルコールは、さらに香乃の熱を上げてしまったようで僅かに景色が揺れる。
「別にゆっくり来ても、俺はここから離れなかったのに」
「いや、でも……」
穂積がテーブルの片隅におかれてある、店員を呼ぶブザーのようなものを手にした。
それは地模様に花が彫られている。
「……アネモネ?」
花言葉は――。
「「『あなたを信じて待つ』」」
穂積と香乃は同時に言って、笑った。
「では、あなたのお腹の虫を満足させに行こうか」
穂積は立ち上がると、香乃に向けて手を差し出した。
その手を取り立ち上がった香乃は、てっきり隣のレストランで食事をするのかと思った。
だが、彼は会計をすませると、レストランとは反対の方に歩き出す。
「あ、あの……どこへ?」
すると香乃の肩を引き寄せた穂積は、香乃の耳元で囁いた。
「ルームサービス」
穂積はポケットの中から、ルームキーを取りだして見せた。
どくん、と香乃の心臓が跳ねる。
――部屋を予約していきます。来てくれるのなら、あなたを家に帰しません。
(……た、確かに部屋を取ると先に宣言されていたし、そのつもりが無かったというと嘘になるけれど。でも……なんだろう、わたし、初めてじゃないのにこの緊張感)
固まる香乃にくすりと笑うと、穂積は香乃の頬に唇を落として、流し目を寄越す。
「昨日も、俺……我慢したでしょう?」
――明日は覚悟して下さい。俺……もう、止まれる自信、ないので。
「だから今夜は、あなたを逃さない」
その目は妖艶でもありながら、捕食者のようにぎらりと光った。
途端に香乃の身体も呼応するように、熱く蕩けてくる。
酒を言い訳にしたくはなかった。
嬉しくてたまらないのだ。
女として彼に求められていることが。
ああ、自分は彼に抱かれたいのだ。
「……はい。わたしも、逃げません」
……九年前、いやそれ以上昔から。
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