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3.ブーゲンビリアは、あなたしか見えないと咽び泣く

見積の結果は

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 木曜日――。
 香乃と牧瀬は朝一番で見積を上司に提出し、数点の質問があったもののOKを貰った。

「これが決まりますように、これが決まりますように……」

 以降部長は、席で両手を合わせ、ぶつぶつと唱えている。
 
『ファゲトミナート』では、中堅どころがおらず、若い従業員と年老いた従業員と両極端であることは、香乃も牧瀬も気づいていた。
 若い従業員は最新機器には順応性は高いかもしれないが、まだ仕事の経験値が低い分、この機能を使ってああしてみよう、こうしてみようという応用がきかない。
 またこの仕事歴が長いらしい初老の従業員達は、計算をする時ですら電卓ではなくそろばんを用い、自分のペースをしっかりと守っている。
 そんな部署に、最新式の多機能の事務機をいれたところで、現在のような無用の長物となる。

 牧瀬は既に、どんなものが欲しいかと従業員に直接個々にリサーチをしていた。
 外部が雰囲気を理解したような気になっても、実際のところ使う人間の立場にならないと、見えてこないものがあるからだ。
 
 MINOWA製品は、決して高級ブランドではない。
 現時点、大手競合相手に敵わぬところも、多々あるだろう。

 その中でMINOWAがいいと思って貰える理由が、値段の安さだけでは、営業部所属の社員としては納得がいかない。
 欲しいものは「MINOWAにしてよかった」と言って貰えること。
 事務機が客を制するのではなく、あくまでMINOWAはサポート的な立場を崩したくない――。

(ちゃんと理由があって、商品を選んだわ。これならば従業員が喜んでくれる)

 確かに総支配人に決定権があるが、それでも仕事柄みっちりと携わることがない真宮ではなく、現場で働く従業員に喜んで貰い、もっと仕事の可能性を模索して貰いたかった。
 なによりも、自らの意志をもって仕事を楽しんで貰いたい。
 ……それが、ホテル見学をした香乃の感想だった。

 MINOWA商品の魅力と誠意を、見積に盛り込んだ。
 あとは牧瀬に任せよう。

「牧瀬、母さんをよろしくね」
「ああ、わかってる」

 牧瀬は車で香乃の母親を送迎してくれるようだ。

 昨日、セックスが出来なかったというのに、牧瀬はいつもと変わらない。
 ……変わらないように、努力してくれている。

 女としての役目も果たせない自分。
 それが、牧瀬に悪い気分になる。

「大丈夫、そんな顔するなって。俺を信じろ。終わらせたら電話するから」

 牧瀬は香乃の憂いを仕事のことだと思ったようだ。
 香乃の頭をぽんぽんと軽く叩くと、笑顔で出て行く。
 
 そしてそれは同時に、真宮との終焉も意味する。
 心にまだもやもやしたものが残るのは、まだ母親があのアレンジメントを届けていないからだ――香乃はそう思うことにして、通常業務に追われるのだった。





 時刻は四時を過ぎたが、まだ牧瀬から電話が来ない。
 揉めているのだろうか。

「課長、お戻りが遅いですわね」

 圭子が、時計を見て険しい顔をしている香乃に、紅茶を持ってきた。
 それはアップルティーで、仄かな甘酸っぱさに心が少し融解する。

「ありがと。凄く美味しい」
「ティーバッグなのに、恐縮でございます」

(これ、お買い得用の安物ティーバッグなはずなのに、どうしてリーフで淹れたようにこんなに美味しいんだろう……)

 大和撫子のお嬢様というものは、魔法も使えるのだろうか。

(魔法使い……)

――だからあんたに頼むわ、穂積を男にしてやってくれ。魔法使いにだけはさせないでくれ。

 香乃は、そんな大役を果たせないことを、河原崎に心で詫びる。

――部屋を予約していきます。来てくれるのなら、あなたを家に帰しません。

「……っ」

 香乃は振り切るようにして頭を横に振った。


 午後八時――。

 営業部の面々は粗方帰ったが、圭子だけは気になるからと一緒に残っていてくれた。
 無論、ちゃんと仕事をこなしながら、だ。

 ようやく牧瀬から『今戻る』とメッセージが入る。
 結果を書かないということは、交渉はうまくいかなかったのか。

「結論は、見積は失敗だ」

 戻ってきた牧瀬は、かなり疲れた顔をしていた。

「どうして!?」
「〝現状維持〟の従業員レベルに合わせたものでは、今後の生産性がないというのが主張。あまりにホテル側をバカにしていると」
「……っ、でもその分コストを抑えたはずよ? ランニングコストだって……っ」

 牧瀬は近くの椅子を引き寄せ逆向きに座ると、背もたれの上に片肘をついて前髪を掻上げた。

「それはいいんだとよ。……あの総支配人、すげぇわ。重箱の隅を突いて、反撃してくる」
「突かれるものは出していないはずだけれど」
「いや、それがあるんだわ。俺達がわかっていなかっただけで」

 牧瀬はため息をつきながら説明する。
 その内容に香乃は唖然とする。
 
「だってそんなこと、一言も……」
「言われてないことを提案するのが、営業の役目ではないのかと言われた。しかもカタログも一度目を通しただけで、お前レベルの記憶力。むかつくけど総支配人の言う通りだ。あまりに今現在のものに固執した、表面的なものばかり捉えた見積だと言われれば、そうだ。公私混同抜きにして、総支配人の言うことは正しいと俺も思った」

 圭子が頷きながら言う。

「だてに真宮の御曹司をしていないってわけですわね。かなり冷徹で、敵にすると怖い殿方だということは聞いたことはありますわ。誰もが、真宮穂積の腹の底を読めないと。父親ですら」

 確かに仕事モードでは、牧瀬を翻弄していた。
 だが、香乃とふたりの時の彼は、もっと人間らしい部分を見せていた気がする。

(父親よりも、わたしに……素の部分を見せていると?)

「ぐぅの音も出ないってこういうことを言うんだな。俺、今まで色々と気難しい社長クラスを相手にしてうまくいった気でいたけれど、器が違うというか。さらにそこに、河原崎支配人も加われば、崩せねぇんだよ、時間をかけても」
「……引き下がってきたの?」
「それだけは回避した。なんとかな。来週、二度はねぇ、再提出ということで」

 香乃は腕組みをして、静かに長い息を吐いた。

(結論は、持ち越しか……)

「花はどうなった?」

 香乃は首を傾げて問うた。

「お前のお母さん、うまく立ち回って、なんとかとりあえずのところは花担当になったけれど。たださ……、お母さんの実力を見ずとも、あの総支配人が無条件で従ったというか……」

 牧瀬が香乃の目をじっと見つめて言う。

「お母さん、真宮と知り合い?」
「いいえ?」

 真宮とは大学の図書館で会っただけなのだ。
 母親が知るはずはない。

「……ん、なんというか。真宮の顔を認識した瞬間、ぶわっと殺気めいたものが、明るいお前のお母さんから立ち上ったような気がして」
「殺気? 意味わからないんだけど」
「表だってはなにも言わないんだけれど、ただすれ違いざまに一言……」

 牧瀬は、香乃が怖く思えるほど真剣な眼差しを向けて言った。

「〝また、繰り返す気?〟と」

 香乃の心臓が大きく脈打つ。

 わからない。
 意味がまったくわからないけれど。

――『わたしを忘れないで』。あなたが教えてくれた勿忘草を、その花言葉を、何度でもあなたに捧げ、守ります。

 香乃が記憶していないことを口にした真宮。
 どうしてもそれが思い出され、遠き過去に記憶を巡らせようとすれば、警告のように火花が散って気分が悪くなる。

(もしかして……わたし、忘れている記憶があるの?)

「真宮とお母さん、知り合い?」
「そんなわけないって。うち、ただの花屋だよ。真宮とのコネなんてないから」

 ひりついた喉奥から出てくる言葉は掠れきり、香乃の笑いはどこまでも乾いていた。

 ……自分で手一杯の香乃は気づけない。
 牧瀬の顔に、深く翳ったものがなにかを。





――お前が来ないことに、かなり真宮、キてたぞ。あの支配人が気の毒なほど狼狽してて。

 もしかして、怒りのボルテージは最悪ステージDに達してしまったのか。
 その元凶であるのは、よりによって河原崎が救いを求めた自分だ。
 真宮よりも河原崎に、土下座したい心地になってしまう。

――でも納得したよ、最終的には。明日は、俺ひとりでのアポをなんとかとったから、仕事での断絶は回避した。

(納得、したのか……)

 わかってくれたのかとほっとすべきなのか。
 それとも、納得出来る程度だったのと詰るべきか。

――アレンジメント? 真宮、総支配人室に持って行ったけど、どこに飾るつもりかはわからねぇ。

 ……香乃からのプレゼントだと、彼はきづいただろうか。

 もう、彼に聞くことはできない――。




 午後十一時、牧瀬と圭子と作戦会議を兼ねた飲み会の帰り。
 実家で母親に問い質したい気分ではあったが、この時間なら寝てしまっているだろうし、居酒屋からは一人暮らしをしているマンションの方が近い。

――今日は寝てろ。お前、昨日寝てないんだろう。

 タクシーに同車した牧瀬は、香乃のマンション前にタクシーを着けさせると、香乃だけ下ろした。
 そして手を振って見送ろうとした香乃に、牧瀬は苦しげな顔をしてタクシーから下りると、香乃の唇を奪う。
 街灯の光を映した黒い瞳を不安げに揺らし、なにか言いたそうに口を開いた。
 しかしそれは言葉にならず、牧瀬は茶目っけたっぷりに笑って言う。

「今日の頑張り賃ということにして?」

 タクシーの運転手の視線を感じ、文句も言えない香乃は、言葉の代わりに牧瀬を突き飛ばすようにしてタクシーに押し込むと、再度笑って手を振った。

 そしてタクシーが走り去ったのを見送ると、マンションに入ろうと道路を横切った。
 ……その時である。

「――!?」

 花壇になにかの影と視線を感じて、思わず香乃はびくりとしてそれを見つめる。

(不審者!?)

 ……否、鼻に漂うのは勿忘草の香り。

 気のせいだと香乃は思った。

 ありえない。
 彼が、自分のマンションを知るはずもない。

 だが――。

「ようやく、会えた……」

 香乃の心を惑わす、深く透明なその声音は。

「総支配人!?」

 花壇に腰を掛けていたのは、まごう事なき、真宮だった。
 ひどく苦しげな顔をして、香乃を見つめていたのだった。

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