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1.ゼラニウムは、予期せぬ出会いを誘い寄せる

祝いの花は、不吉な花言葉

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 ◇◇◇

「蓮見、今夜のために勝負下着つけてきた?」
「うるさい、あんたには上と下がばらばらの型崩れしたもので十分!」
「それでもいいぞ、大事なのは中身」
「お黙り! このセクハラ課長!」

 絶対に外部には聞こえない小声でのやりとり。
 それをじっと見つめて、姿勢を正したままで聞いている者がいる。

「え、えっと……圭子ちゃん、なにかな」

 黒いスーツに、耳下の長さのおかっぱ頭。厚い前髪は眉毛の上でばっさりと一直線状に切り揃えられ、まるでこけしだ。とにかく直毛の量が多すぎて、細い首が折れないか心配になる。

 外見のインパクトが強すぎて、可憐な顔立ちが印象に残らない女子社員は、名取川圭子と言う。
 名取川流という有名な茶道流派の分家で育ったお嬢様らしいが、高校を出たばかりで社会勉強としてMINOWAにコネで入社してきたらしい。

 香乃が新人教育をし、そのまま香乃がコンサルで引き取り、二年目となる。
 浮世離れしているところはあるものの、香乃を尊敬する上司として慕ってくれている可愛い後輩で、頭がよくて観察眼が鋭い子だ。この二年で色々と世の流行り廃りを覚えたようで、二十歳ながらどこか人生を達観している。

「蓮見係長は一段と牧瀬課長を遠ざけ、それなのに牧瀬課長は一段とご機嫌なことから、わたくしこう推測しましたの。本日、おふたりのアフターファイブが実に匂うと!」
「は!? そ、そんなこと……」

 香乃は声を裏返させ、くんくんと自分の服の匂いを嗅ぐ。
 特殊な匂いなど感じない。

「よくわかったな、こけ嬢」
「なに言っているのよ、あんたはあっちに行ってなさいよ! なにもないわよ、全然!」

 すると圭子は意味ありげに、ふふ、と笑った。

「三十歳はお年頃。とはいえ、お遊びはほどほどになさって下さいませ。特に、糸を引くまでトロトロしすぎていらっしゃる牧瀬課長!」
「ひとを汚ぇ菌扱いするなって」

 圭子は品のある笑みを浮かべながらも、いつもなぜか牧瀬には容赦がない。

「ならば、長きの間、きのこが繁殖しそうな……暗く湿り続ける環境から抜け出して、からっとしたお天道様の下で、堂々とご自分のものだと宣言下さいませ! 無論、妄想癖を拗らせるのではなく!」

(なんのこっちゃ……)

「よろしいですか、どこに係長を虎視眈々と狙う輩が潜んでいるかわかりません。いかに課長が、排除してこようとも、かっ攫われるのは一瞬! 全身を掻きむしりたい心地を堪えて見守ってきたわたくしを、発狂させないで下さいまし!」

 牧瀬を見る黒目がちの大きな目が、さらに大きく、カッと見開いた。
 まるでなにかに憑依された巫女のようだ。

「……こけ嬢、こわっ! 触らぬナントカに祟りなしということで、俺はこれで……」
「お待ち下さいませ。本題はこれからです。牧瀬課長、蓮見係長。営業部長がおふたりをA会議室でお待ちです。では伝達者メッセンジャーのわたくしめは、これにて失礼致します。ごきげんよう」

 ……こけし女子は、どこまでも優雅なお辞儀をして、ふたりに背を向けて歩き出した。

 立てば芍薬、座れば牡丹。歩く姿は、まさしく……百合の花。

 そんな大和撫子の黒髪はどんな震動にも揺れもせず、今日も一段とびっちりと密林仕様のようだ。

 それを眺めながら、ふたりは呟いた。

「……こけ嬢、あの性格とあの髪でなければ、めっちゃ美人なお嬢様なのにな。スタイルもいいし」
「ええ。有能で美人なのにあの髪が残念よね。あの髪、刈っても刈っても、すぐああなるんだって」
「形状記憶密林かよ……」

 ◇◇◇

 東京都心の一角で、高層ホテルが蒼穹を突き抜けるかのように聳え立っている。

 ホテルの名前は『ファゲトミナート』。
 つい最近リニューアルしたらしく、名前までをがらりと変えた。

 ホテル自体にそこまで古い歴史はないものの、イベントなども頻繁に行われ、そこそこ知名度はある。だが、ネットなどで口コミを見てみれば、いまだ高いだけで接客サービスがなっていないと利用者の評判は芳しくないようだ。

「しっかし、言いにくいよな。ファ、ファゲト……」
「ファゲトミナート。総支配人に会うまでに、ちゃんと覚えておきなよ。足元見られる」

 香乃が言うと、牧瀬は笑う。

「さすがは一度聞いたら忘れない才女の蓮見! 意味もわかるわけ?」
「……知らない」
「ふぅん? 造語かな」

――真宮まみやHDホールディングスは知っているか?

 香乃は、少し前の部長の言葉を思い出していた。

「しかし真宮HDとはな。黒宮、鷹宮と並ぶ、拮抗状態の宮御三家HDのひとつが、なぜにうちを候補にいれてきたんだか。こんな新参者より、古くから取引ある事務機メーカーがいるだろうに」

――その系列のホテルの総支配人に、真宮社長の息子が就いた。前代の総支配人のやり方を一新し、事務機も総入れ替えしたいらしい。

「俺達より年下らしいが、ホテル名から内装からがらりと替えさせるとは、随分と強気だよな。まあ、次期真宮を担うのか、中枢を支えるのかは知らねぇけど、所詮はホテルもこけ嬢のような社会勉強、本職ではないだろうにさ」

――その彼が、うちを含めて五社に相見積もりあいみつをとりたいと、社長に電話をしたようだ。

「もしも御曹司に気に入って貰えれば、彼を通して真宮HDのグループ会社を紹介して貰えるかもしれない。しかし気に入られなければ、もう二度とこんなチャンスはないから、今まで通り独自路線を開拓するしかない。……部長も、随分とプレッシャーをかけてくるよな。部長、一軒家を買ったから、業績を上げて絶対ボーナスをたくさん貰いたくてはりきっているんだぞ? じゃあ自分でやれよっていう話だよな!」

――うちの営業一の交渉術を持つ牧瀬くんと、うちのすべての商品の値段と寸法その他の諸情報を記憶している蓮見くんなら、向こうが気に入るものを提案出来ると信じている。

 ……煽てられたのか、丸投げされたのか微妙なまま、まずは初顔合わせということで、牧瀬がアポを取ったのだった。

 ホテルに入ると、水色の制服を着た男女が一斉に頭を下げて、にこやかに出迎えた。
 しかし数秒の挨拶を終えると、従業員達は揃って笑みを消して、通常業務をしたりお喋りをしたり、思いきり大口を開けて欠伸をしている者までいる。

(少なくともここに、まだ客がいるんだから、とりあえずは上辺だけの愛想をしました……とわかる態度はやめましょうよ)

 真宮の御曹司は、こうした真心のない接客を知っているのだろうか。
 それとも、ホテルトップがこうした接客を許しているのだろうか。
 もしくは――御曹司は従業員を束ねるだけの人望も力量もないのか。

(まあ、余計なお世話よね)

 香乃の目は、大理石で出来た大きな支柱の前の花瓶に向けられた。
 色とりどりの花が躍動的なフォルムで飾られている。

「……リニューアルオープンしたばかりのホテルで、これはないわよね。というか、これ作ったのってド素人なのかしら」

 牧瀬が従業員と話している間、香乃は腕組みをしながら、眉間に皺を寄せて花を見つめていた。やがて彼女は手を伸ばし、花を一本、また一本と抜いていく。

「蓮見! 人様のホテルで一体なにを……」

 慌てて止めに入る牧瀬に振り向かずして、香乃は抜いた花をすべて牧瀬に押しつけて答えた。

「これ、返してきて。花言葉が不吉だし、このカーネーションも偶数はよくないわ。というか、客のいないところで活けて使ってと伝言をお願い。捨てさせちゃ駄目よ、捨てさせちゃ! それも可愛い子達なんだから!」

 香乃は穴が開いてしまった部分を埋めるようにして、花を活け直していく。そして正面だけではなく、左右からも全体の形を確認すると、満足げに笑った。

「ふう、これぞ喜びのお花よね!」

 香乃は物心ついた時から、花に囲まれて育った。実家の一階が店舗となっている花屋で、飾っている花々をいつも眺めていた。花の名前や花言葉を覚えるのが好きで、それがMINOWAの全商品を覚えるまでの記憶力に育ったのだ。

 高校を出たら花に関する勉強や資格が取れる専門学校でも出て、家の花屋を盛り立てようと思っていたが、実家は不景気の煽りを食らった。
 そこで未来を見据えて奨学金で国立大に入り、バイトに明け暮れた末に高給のMINOWAに就職し、この八年で奨学金を完済した上で、実家を援助してきた。

 だが近年、東京に進出してきた大手フラワーショップが、様々な花を安く仕入れてくるために、古くからの得意先が鞍替えをしてしまい、牧瀬の力を借りて新規開拓をせねばやっていけないのが現状だった。

 どうしても花屋を潰させまいと働く香乃に、親孝行の娘だと泣いていた親も、香乃が二十五歳を超えたあたりから、娘を結婚もさせないで働かせていることに罪悪感を芽生えさせた。それが小言となって香乃に向かうために、そこから逃れるように一人暮らしをしたり、彼氏を作って親に紹介してきたが長くは続かない。

 今の仕事にやりがいは感じるが、やはり花を弄っている時の高揚感は違う。
 それでも好きな花だけを触って、一家が食べていけるほど、世の中は甘くないのはわかっている。

「お前の言う通りにしてきたけど、蓮見……」

 牧瀬が戻ってきて声をかけた時、自分の掌を見た香乃は声を上げた。

「あ、手がオレンジ色! これ、あのゼラニウムのだわ。ごめん、速攻手を洗ってくる!」

 香乃はカツカツとヒールを鳴らして、化粧室に駆けた。

 同じ種類の花でも、花の色によって花言葉は変わってくる。

 オレンジのゼラニウムの花言葉は……『予期せぬ出会い』。

 運命的なものを感じさせる花言葉を持つ花の色が、手に染みついてしまい洗い落とせない。

「仕方がない、こんなところで切り上げるか」
 
 化粧室から出て歩くと、仄かに甘い香りが鼻腔に広がり、香乃は目を細めて思わず足を止めた。

 化粧室に行く時には感じなかった、花の香りがある。

 これは――勿忘草の香りだ。

 忘れたい、あの香りがこのフロアに漂っている。

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