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  Final Moon 21

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 今までわめいていた老女は、背筋を正すようにして座り直す。

 空気が一瞬にして変わった。

 癇癪持ちのようにただ騒いでいたような印象があるタエさんの美幸夫人とはなにか違う、凛としたものを感じる。

 今までの取り乱しようは一体なんだったのか。
 演技というのなら、あたしには真似出来ない芸当だ。
 
 眠れる獅子が目覚めた……そんな気がするんだ。

 ……怖いと思った。

 銀座のホステス出身であろうとも、お嬢様育ちの名取川文乃と似た空気がある。どんな脅しにも屈せず、自分のペースで場をまとめようとする、そうした女の空気が。

 ……名取川文乃と別れた当主が、彼女を見初めたのがわかった気がした。

 専務が恐れていた美幸夫人。そして当主も手を下せなくなった美幸夫人。

 名取川文乃も、タエさんだったから勝ち目があると踏んだ。

 もしこの老女を見ていたら?

 だけどあたしだって、負けるわけにはいかない。

 名取川文乃で大分慣れた、この萎縮しそうな雰囲気に、あたしは呑み込まれない。

 美幸夫人があたしを見て、あたしも彼女を見る。
 目をそらしたら負け、そんな気がした。

「………」
「………」

 こういう時は、名取川文乃が教えてくれた心頭滅却。

 辛いと思うのなら、相手に同化すればいい。
 すべてはあたしの気のもちようだ。

「………」
「………」

 あたしの頬に汗が伝った。
 
「お前が、朱羽の恋人だという、名取川文乃の養女だな」

 ああ、そうだ。
 タエさんとしてならメイド仲間で一同に挨拶したが、美幸夫人とあたしは、個人的には初対面になる。

 ……あたしがなぜここにいるのかは、タエさんに聞いたのか。

「はい。か……名取川陽菜と申します。ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした」

 あたしは両手を床についてお辞儀をする。
 冷ややかに見つめている暗澹とした目が感じられた。

「ふっ……、忍月に愛された娘か。……反吐が出るわ」

 ……怖い。
 闇に呑み込まれそうで怖い。

 老いて嗄れた声が、退廃的な闇の姿の気がして怖い。

「私に殺されたいか? 私達の真相を知り、私のこの姿を見てしまったしなぁ?」

 まるで山姥が包丁を研いでいた場面を見たくらいの威喝。

 ぞくり、としてあたしは縮み上がった。

 朱羽と専務が動くのをあたしは片手で制する。

「殺されるために来た訳ではありません」

「では私達を追い出すために来たのか」

「違います」

「では私達を説得に来たのか?」

「違います」

「ではなにゆえに! 私のこの姿をなにゆえに見た!」

「理解するためです!」

 訝しげに細められた老女の目。

 怪訝な顔のシゲさんと、そして馬鹿にしたように笑うタエさんとを視界に入れながら、あたしは真っ直ぐに老女の目を見据えた。

 僅かにでもそらしたら負けだ。

 これは戦い――。

「私のなにを理解するのだ」

「あなたがなぜこの家に固執して居続けるのか。なぜ朱羽と渉さんの母親を殺すことになったのか。あなたがその姿を見せたくなくて、忍月の使用人達に噂すらやめさせるために、呪いというものを作り上げて、そのために三人の使用人を追い詰めて追放したのはわかります。ですがそこまでしてなぜ忍月にいるのですか? どう見ても、当主への愛ゆえにという気がしません」

「なぜ理解しようとする。どんな理由があったにしろ、私達は三姉妹で忍月に居た。それだけでよかろう、忍月を乗っ取ろうとしていたとでも思えば」
 
「悪いことならどんなことでも思いつきますが、そんな世俗めいた理由ではない気がして。やるのなら、おひとりでさっさとしている気がします」

 そう、これだけの威圧があるのなら、もうさっさと忍月を支配出来ていたはずだ。確かに当主と、権力は二分化しているのかもしれないが、それでも当主の方が忍月を仕切っている。

 この様子の美幸夫人なら、とっくに本家を掌握していてもいいはずなのに。

「ふ……、私のこの姿を見ても?」

「ご自身が前に出られないのは、確かに容貌のせいもあるのかもしれませんが、それはあくまで一因なのでは? そっくりなタエさんがいるのだから、裏からもっと指示して暗躍出来ていたはず。使用人の格好をして、自分の噂を払拭しなくてもいい。あなたの行動はまるで……」

「まるで?」

「追い出さないでくれと言っているよう。もっと忍月に居たいとそう言っているよう。……それが当主への愛ゆえか、あたしはそこが判断尽出来ません。あなたのことをよく知らないから」

「なにゆえに、私達に興味を持ち、私達の琴線に触れようとする。当主が命令したのか。私を理解しないと、朱羽と渉を自由にしないと」

「その前から当主はあたしに言われていました。美幸さんを理解出来るかと。もう当主ではあなたを抑えることが出来ないと。あなたの結婚まではあくまで忍月優位です。なぜそれが、当主を凌ぐものとなってしまったのか。なぜご病気でも治療を受けないのか。タエさんがなりすましているなんてこと……いつかはわかられてしまうのに。たとえ呪いの噂を強めようとも」

「それでも渉は気づかなかった」

「それでも、本家に長くいない朱羽は行き当たった。それは朱羽があなたに、渉さんほど干渉していなかったからです。平たく言えば、肉体関係がなかった……と言えばいいのか」

「ほう」
 
「あなたがしたことは恐怖政治です。渉さんは本家に出てもいまだあなたに縛られている。その証拠に彼の恋人をあなたに近づけさせなかった。お母さんのように殺されてしまうから、と。それだけのトラウマがあったから。しかし朱羽が、あなたの手によりお母さんが死んだと知ったのは、渉さんからです。渉さんが怖がっている美幸さんがしたことだから、怖がっていただけのこと。間接的な関係だったから気づき得た。細かな矛盾点を」

 朱羽の視線を感じる。

「だとすれば、客観的でいられるあたしにもわかりえるはず。あなたがなぜ忍月にこだわって、タエさんとシゲさんを巻き込んでいるのか」

 あたしはしばし美幸夫人と視線を交わした。

 目をそらしたのは……美幸夫人だった。

「……私を理解してやろうとはな。本気にそんなことを考えたのか? 使用人になったのも、私のことを聞くためにか」

「はい。私は美幸さんがどうと言えるだけの知識もなにもない。あるのは、渉さんの私見と、あなたが朱羽と渉さんの母親を殺し、当主とその息子はそれを止めようとしなかったということ。そして渉さんに手を出したりと、手当たり次第に男を食っていたということ。今で言えば、忍月コーポレーションの副社長を次期当主に据えようとしたり、朱羽に手を出そうとしたことをなぜ止めなかったのか。あなたの言い分をあたしは聞いていない」

「……お前には理解出来ぬ」

「あたし自身、不可解な現象に苦しむほど、忘却の彼方にあった過去の出来事に苦しめられてきました。なんでそんなことが起こるのか、理解出来なかった。しかし、朱羽によって矛盾を指摘され、なにが起こったのかを思い出し、不可解な現象に説明がつきました。この世には、原因があって結果があると思っています。なんら理解出来ない、不思議なことはないと。理解できないほどの悪女ならば、少なくともシゲさんがあなたに追従していない」
 
「なぜ私の名前が出ないの?」

 タエさんが愉快そうに尋ねてくる。

「タエさんには、破壊衝動を感じるので、美幸さんを止めることは出来ない。乗じて自分に都合良く周囲を動かせればそれでいい。……だから副社長と組んで、あたしと朱羽の勤める会社を玩具のように利用出来るんです」

「あら、美幸が仕組んだかもよ?」

 あたしは老女を見て言った。

「……いいえ。彼女はもっと違う手を使うように思います。こんな姑息な手を使わずに。もっとあたし達が抵抗できないことを考える気がします」

 するとタエさんは笑い出した。

「あははは! 私は姑息だと言いたいのね」

「そういうわけでは……」

「中々に面白いじゃないの。名取川文乃が養女にするだけあるじゃない。美幸を見て目をそらさないのは、あなたが初めてじゃないかしら。それじゃなくてもこの顔、皆震え上がって、勝手に化け物扱いして怯えて、出ていった。美幸の顔を見て逃亡しただけで、呪いのできあがり。勝手にあることないこと吹聴して、何年後もの後付けだって呪いの信憑性が増す要因」

 タエさんは笑いながら、ふっと真顔に戻る。

「朱羽さん。あなたは私がなぜ影でいるのかと聞いたわね。なぜ双子だと告げなかったのかと。ええ……、美幸は頭がよかったのよ。若くして銀座のホステスになるくらい知識も豊富だった。情報がいつも彼女に集まり、情報は彼女を聡明にさせた。そんな美幸と、悪知恵しか働かない私とは、まるで違うの。顔は同じだけれど、中身がまったく違う。似ていることと言えば、セックスの経験値が高いということかしら。なにせ美幸は、元風俗嬢。うまかったでしょう、渉さん」

 専務はどもった。

 ……うまかったんだね。
 沙紀さん、耐えて。

「私は、昔事故で側頭葉を傷つけてしまったため、薬を飲んでいないと色情狂になってしまうくらいに、セックスが好きで好きでたまらないの。後遺症とか言われたけれど、元々のものが出てきたような気もするし、真実はわからないけど。性依存ではなく、インフォ……マニアとかいう」

 インフォマニア? 情報マニア?

「ニンフォマニアですね」

 朱羽が微動だにしないで、平然と訂正する。

「そうそう。さすがは次期当主に当主が推すだけあるわ」

「いえ。常識ですから」

 眼鏡がキラーンと光る。

 ……非常識でごめんなさい。
 
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