上 下
123 / 165

  Fighting Moon 6

しおりを挟む
 

 ***


 見合いの前夜、あたしは朱羽といたかった。

 だけど、力になってくれるという名取川文乃の言葉を信じ、名取川家で朝を迎えたが、ろくに眠ることが出来なかったのは、朱羽も同じだったようだ。

 寝ている杏奈を残して洗面に出ると、丁度朱羽が顔を洗い終わった時だった。

 おはようよりもまず朱羽は言う。

「……約束。今晩、うちに来て」

 まるで迷い子が母親を探しているかのように、朱羽の顔は、彼が隠そうとしても隠しきれぬ不安があった。

「そのことだけを考えて俺、やりきるから」

「うん……」

 言葉数が少なく、絡む視線は強く長く。

「陽菜……」

 朱羽が切ない顔で手を伸ばし、あたしの頬を触ろうとした。

 だが、朱羽はその手を丸め、触れるのをやめた。

「……願掛けにする。今日が終わって、あなたに触れるために」

 茶色い瞳が揺れて、静かに細められた。

「あなたを永遠に傍におくために」

 それは苦しげながら強い語気で放たれ、思わずあたしが泣きそうになった時、複数の給仕さん達の声が聞こえてあたし達は離れた。

 すれ違いざま、微かに触れた小指と小指。

 それが偶然なのか故意的なのかわからずして、朱羽の温もりが消えた。

 彼の温もりを長く感じるために、戦おう。

 なにがあっても、たとえ蔑まれてもあたしは朱羽を取り返す。

 ……そんな決意と、感傷的な気分を吹き飛ばしたのは、朝食のマナーから始まった、名取川文乃の猛レッスン。

 昨晩の夕食は洋食、今朝は和食。

 なにも気にしたことがなかった箸が難問だった。

「忍月当主は、箸でひとを判断するところがあるの。箸の持ち上げ方から、見られています。木島さん、がっと上から鷲づかみにしてはいけません! 三上さん一本ずつでもいけません。鹿沼さん、下からそんなに箸先を掴まないの!」

 OH、お腹がすいているから普通の癖が出てしまったよ。

「右手で箸の中央あたりを上から摘まむように少し取り上げ、次に左手を下から添えて、右手を右端に滑らせ箸の下に添え、そして持つ。置くときは、それを逆に。はい、やって見て下さい」

 逆、逆……。

 頭がこんがらがってくる。

 アメリカ帰りの朱羽の方が、お箸歴が長いあたしよりも、所作が自然で上品だ。

 まさかハンバーガーを、お箸で食べていたとか?
 
「はい、では箸置きに箸を置いて。その状態でお椀をお箸で頂いて下さい」

 ええと、お箸は両手から持って……、そうするとお椀のふたは左手で開けないといけないの? 汁もので重いお椀を左手で持ち上げるのも、なにか苦しいぞ。

 ふたがついたお椀、どうやって飲むんだ!?
 あれ、どちらの手が箸? お椀?

 誰もがパニックになり、お椀を持てない。

 朱羽は?

「はい、香月さん合格。そう、臨機応変よ」

 なにをやったのか見ていなかったあたし達に、名取川文乃は実演してくれた。

 両手でお椀の蓋を取り、そのまま両手で持ち上げた。箸を右手だけで掴むとお椀を持つ左手の指に挟んで箸を持ち上げ、右手を下から滑らせ箸をを持つ。鮮やかなるその所作、あっぱれだ。

 お椀を持つ時、持たない時と何度もやり直しをされて、なんとか指が攣りそうになりながら出来るようになった時、食べてみなさいと言われる。

 見られていると箸がうまく動かず、ばってんになる。

 お豆が取れない。煮っ転がしが掴めない。

 ぐさりとさしてしまうと、名取川文乃の目がつり上がり、慌てて箸を抜いた。

 ひぃぃぃっ、ごめんなさい!!

 木島くんがお椀に箸を入れてずずっと飲むと、そちらを見た彼女の頬がひくひくと動く。

 やはり取れないにっころがしを、杏奈が箸を揃えて掬って食べれば、さらに反対側の頬がひくひくと動いた。

 なにか怖くて、箸先を噛んでしまえば、さらにぎろっと怖い目が寄越された。

 なにをやっても怒られてしまう身の上は、どうやって箸を使って朝食が食べられるのかがわからない。

 木島くんから空腹を知らせる音が鳴り響く。彼も迂闊には食べられなくなってしまったらしい。

 その中で朱羽が食べている。
 黙々とお腹に入れている。

 ……彼女に注意されない。
 
「課長、お箸の使い方も習っていたっすか?」

 木島くんの問いに、朱羽は頭を横に振る。

「渉さんが、昔教えてくれて。今、普段通りにしていたんだけど……」

 ああ、さすがは本家育ちの宮坂専務。

 彼が朱羽に仕込めるということは、彼もまた本家でそう教育されていたのだろう。つまり、当主も箸さばきを注視するんだ。

「ふぅ……。そんな彼に引き替え、あなた達はやってはいけない食べ方を、すべて網羅してしまっているとは」

 名取川文乃が頭を抱えて、ふらりとよろけた。

「いいですか。食べ物を突き刺してはいけません。お箸についたご飯を口でとってはいけません。料理に箸を伸ばしてとりかけてやめて、他の料理に移ってはいけません。汁を垂らして食べてはいけません。箸を持った手で器をとってはいけません。おかずばかりを食べてはいけません。器に口をつけてかき込んではいけません……」

 その他たくさん言われたが、これ以外の食べ方ってどんなものがあるのか、逆にわからなくなってしまう。

「鹿沼さん!! せめてあなただけでも、頭に叩き込みなさい!!」

 ……朝ご飯が食べれたのは、それから三十分後のことだった。

 いかに庶民は、自由にがっついて食べられるか、それを思い知りながら、そういえば衣里姫は食べ方が綺麗だったことを思い出す。

 やはり生まれや育ちが、箸の使い方に出てしまうのなら、もっと頑張って上品に食べれるようになりたい。

 当主対策というより、あたしのなけなしの女子力がそう訴えた。
 あたしは、女子力も知識もなさすぎるようだ。
 
 ご飯が食べ終えれば、茶室に行き昨日のおさらいが始まる。

 お茶だけではなく、お花もひと通り習った。

 あたしが活けるお花のセンスだけは、なんとか及第点を貰っている。
 色や配置のセンスを求められるWEB部での経験値が、ようやく役だってくれたようだ。
 

 ……なぜ、朱羽を財閥から遠ざけようとしているあたしが、財閥に近づくための猛特訓をしているのか。

 それは昨日の、心頭滅却からの話に隠されていると思う。

 忍月財閥当主や、朱羽の義理の母親(美幸さんというらしい)の懐に入るためには、彼らと同化しないといけない。そこで初めて、話が出来る土俵に上がれる。

 作法だけではなく、最低限持たねばならないといけない知識も習った。

 現代日本に居座る、忍月や向島などを含めた五大財閥の成り立ち、財界・政界・経済界の誰が誰と手を組んで、それらが過去の歴史においてどういう力を持つものか。

 朱羽が足を踏み入れている世界は、本当に頭が痛いものだ。

 人間がひとり生きていくのに、そんな知識は要らないが、話の場につくための試験として、わからないことを前提で聞いてくるのが当主だと教えられれば、ムーン入社時の月代会長を思い出してしまう。

 実際はそこまで必要としない知識でも、それを選考の基準とされたことに、なにかやりきれない理不尽なものを感じながら、あの時もなんとか必死で覚えて乗り越えた。今は朱羽以外にも杏奈も木島くんも、あたしにクイズを出す形、或いはわからないことを積極的に名取川文乃に質問する形で、あたしに覚えさせようと協力してくれるから、その思いに応えるためにもあたしは頑張った。

 根性だけは誰にも負けない。

「人間が一番力が発揮出来るのは、一夜漬。とにかくも鹿沼さんは、記憶が薄れる前の今日、恐らくはテストをされるはず」

「て、テストですか!?」

「さあ、一夜漬のお嬢様を作り上げるわよ!」

 青ざめて慌てるあたしとは対照的に、なにやら名取川文乃は興奮したように嬉しそうだった。

  
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

女体化してしまった俺と親友の恋

無名
恋愛
斉藤玲(さいとうれい)は、ある日トイレで用を足していたら、大量の血尿を出して気絶した。すぐに病院に運ばれたところ、最近はやりの病「TS病」だと判明した。玲は、徐々に女化していくことになり、これからの人生をどう生きるか模索し始めた。そんな中、玲の親友、宮藤武尊(くどうたける)は女になっていく玲を意識し始め!?

茶番には付き合っていられません

わらびもち
恋愛
私の婚約者の隣には何故かいつも同じ女性がいる。 婚約者の交流茶会にも彼女を同席させ仲睦まじく過ごす。 これではまるで私の方が邪魔者だ。 苦言を呈しようものなら彼は目を吊り上げて罵倒する。 どうして婚約者同士の交流にわざわざ部外者を連れてくるのか。 彼が何をしたいのかさっぱり分からない。 もうこんな茶番に付き合っていられない。 そんなにその女性を傍に置きたいのなら好きにすればいいわ。

【R18】ショタが無表情オートマタに結婚強要逆レイプされてお婿さんになっちゃう話

みやび
恋愛
タイトル通りのエロ小説です。 ほかのエロ小説は「タイトル通りのエロ小説シリーズ」まで

ルシアナのマイペースな結婚生活

ゆき真白
恋愛
 ある日、トゥルエノ王国に一通の親書が届く。それは北部統一を果たしたシュネーヴェ王国から送られてきたもので、現国王の甥であるレオンハルト・パウル・ヴァステンブルクと、トゥルエノ王国の王女との婚姻を望むものだった。  会ったこともない相手との間に持ち上がった縁談話に、王女であるルシアナ・ベリト・トゥルエノは頭を悩ませる……というようなことは一切なく、己の気の向くまま、流れのまま、ルシアナはマイペースに異国での生活を始めるのだった。 ●この作品は他サイトにも投稿しています。 ●R-18の話には「※」マークを付けています。

ドン引きするくらいエッチなわたしに年下の彼ができました

中七七三
恋愛
わたしっておかしいの? 小さいころからエッチなことが大好きだった。 そして、小学校のときに起こしてしまった事件。 「アナタ! 女の子なのになにしてるの!」 その母親の言葉が大人になっても頭から離れない。 エッチじゃいけないの? でも、エッチは大好きなのに。 それでも…… わたしは、男の人と付き合えない―― だって、男の人がドン引きするぐらい エッチだったから。 嫌われるのが怖いから。

ポンコツ女子は異世界で甘やかされる(R18ルート)

三ツ矢美咲
ファンタジー
投稿済み同タイトル小説の、ifルート・アナザーエンド・R18エピソード集。 各話タイトルの章を本編で読むと、より楽しめるかも。 第?章は前知識不要。 基本的にエロエロ。 本編がちょいちょい小難しい分、こっちはアホな話も書く予定。 一旦中断!詳細は近況を!

【完結】騎士団をクビになった俺、美形魔術師に雇われました。運が良いのか? 悪いのか?

ゆらり
BL
 ――田舎出身の騎士ハス・ブレッデは、やってもいない横領の罪で騎士団をクビにされた。  お先真っ暗な気分でヤケ酒を飲んでいたら、超美形な魔術師が声を掛けてきた。間違いなく初対面のはずなのに親切なその魔術師に、ハスは愚痴を聞いてもらうことに。  ……そして、気付いたら家政夫として雇われていた。  意味が分からないね!  何かとブチ飛でいる甘党な超魔術師様と、地味顔で料理男子な騎士のお話です。どういう展開になっても許せる方向け。ハッピーエンドです。本編完結済み。     ※R18禁描写の場合には※R18がつきます。ご注意を。  お気に入り・エールありがとうございます。思いのほかしおりの数が多くてびっくりしています。珍しく軽い文体で、単語縛りも少なめのノリで小説を書いてみました。設定なども超ふわふわですが、お楽しみ頂ければ幸いです。

今日から悪役令嬢になります!~私が溺愛されてどうすんだ!

ユウ
恋愛
姉の婚約破棄により、公爵家だった我が家は衰退の一途をたどり。 嫉妬に狂った姉は壊れて行った。 世間では悪役令嬢として噂を流されてしまう。 どうしてこうなってしまったのだろうか。 姉はただ愛を望んだだけだったのに、そんなことを想いながらマリーは目を覚ますと体が小さくなっていた。 二度目の人生を終えて新たな転生を果たしたと思ったら何故か再び転生して、悪役令嬢の妹として転生するのだが…何故か姉のポジションになり私は誓った。 こうなったら私が悪役令嬢になって私が姉と家族を守ろうと誓ったが… 悪役令嬢ってどうしたらいいんだけっけ? 間違った方向に努力を続けたら、冷たい婚約者は何故か優しく微笑んで来たり、ライバル令嬢も何故か優しくしてくれる。 「あれ?おかしくね?」 自称悪役令嬢の奮闘劇が始まる!

処理中です...