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  Blue Moon 3

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「え……、なんで……」


 あたしの視界に、あるはずのものがない。


「なんでうちがないの!?」


 そんなことがあるなんて!!

 震え上がったあたしは、悲鳴のような細い声を上げた。

「まさか……」

 あたしが記憶していた実家もまた、記憶違いだというのだろうか。

 あたしの実家はどこ? あたしはどこで育ったの?

 だけど隣の家の記憶は、うっすらとあるのだ。壁の色が違うけれど、三叉路渡ってすぐのこの三角屋根は記憶がある。いつもうちを説明する時は、この三角の家の隣と言っていて。目印にしていたはずで。

 だけどうちがないなんて。

 あたしの記憶ってなんだ。なにが正しいんだ。正しいものなんてあるのか。朱羽も、朱羽すらも……あたしの記憶とは違うのか。

 朱羽があたしから離れないというのは、あたしの願望から見せた都合のいい幻覚なんじゃないだろうか……。

「陽菜、混乱しておかしなことは考えてないね?」

 朱羽があたしの両手首を掴んで、あたしを見た。

「あなたの記憶のすべてがおかしいわけではない。俺は、ここにいる」

 掴んだ手を、彼の頬に触らせる。

 その顔は真剣なもので、力強い眼差しが、不安定に揺れるあたしを朱羽の側に居る者だと縛る。

「俺は自分の意志で、あなたの傍に居る。あなたの記憶そのものだ」

 あたしの目から、ほろりと涙が零れた。

「あなたは十年も実家と連絡をとっていないんだ。もしかして、どこかに引っ越ししているのかもしれない。むしろそう考えた方が自然だ」

「それなら、連絡くらい……」

「ねぇ、ふと思ったけど……あなたは、自分の家の住所や電話番号を、家に知らせてあるの?」

「え? そりゃ当然に……」

 あたしは眉を顰めて、口を噤(つぐ)んだ。

 自宅用の電話は、スマホの電話番号だけを使用している。そしてこのスマホは、今年の三月から十年割引が適用になったと通知が来たはずだ。

 記憶違いではないことを確かめようと、あたしはスマホを取り出して、料金請求画面を見てみた。ここに電話会社から割引適用の通知が書かれていたはずだ。

 ある。これは正しい記憶だ。

「え、だったら。このスマホは東京に出た時から使っていたもので、家族はあたしの番号を……知らないはず」

 あたしから家族に電話した記憶はないのだ。
 向こうから電話がなかったのは、連絡手段がなかったからではないか。

「あなたは、ずっとあのマンション?」

「ううん、違う。ムーンに入ってから会社の近くに引っ越した。二回目」

 あたしは、どちらの引っ越し先も家族に連絡していない。年賀状のやりとりすらしていないはずだ。

「住民票は東京に移してたの?」

「うん。N県に極力戻りたくないから。東京行ったら早々に。だけどどこに行ったんだろう、あたしの家族。お父さんとお母さんと、千紗は」

「千紗?」

 朱羽が怪訝な顔を向けてくる。

「うん、あたしの妹の千紗。美人で可愛くて……朱羽に使ったのは、妹の名前を。ごめん……」

「……そうか」

「どこに行ったんだろう。県外に出たのかな……」

「それともうひとついい? あなたは大学時代、すごくバイト三昧だったの?」

「ううん。たまにバイトしたことはあったけれど」

「親と交流がなくても、親の仕送りはあったの?」

「いや、仕送りはない」

「じゃあバイトしないで、どうやって大学の方と生活費出せた?」

「貯金が……あったから。あたし名義の通帳、親が渡してくれた。その金額でやりくりして。ムーンに勤めてからは給料から生活費差し引いて、残りを貯めてたから、今は通帳は元の金額以上に戻ってる。利子つけて返そうと思って」

 朱羽が酷く考え込む素振りを見せた時、三角屋根の隣家から住人が出てきて、花に水を撒きにホースを用意し始めた。

 若い女性だが、リュックのようにベルトを巻き付けて、赤ちゃんを背中に背負っている。

 知らない、こんなに若いお隣さんは。

 あたしの記憶では、よぼよぼのおじいちゃんが亡くなったばかりだったはず。きっとその後、あたしが東京に行っている間に入った住人だろう。

「すみません、ちょっといいですか?」

 朱羽がその女性に近づくと、女性は少し顔を赤らめながら背中の赤ん坊のおしりをぽんぽんと手で叩いて、身体を揺らしている。

「ここのお隣、鹿沼さんはどうなされたかおわかりですか?」

「鹿沼さん? ああ、ごめんなさい。うちがここを買った時にはお隣はもう土地だったので、前の住人がどうなされたのかは……」

「実はここに住んでいた鹿沼さんを探しているんですが、あなたはいつ、ここをお求めに?」

「ここを買ったのは、十年前だったけれど」

「十年前!?」

 あたしと朱羽は顔を見合わせた。

 十年前は、あたしが東京に出た時だ。
 あたしが東京出た後に、家族は引っ越したというのだろうか。

「……参考になるかしら。実はそこの土地、事故物件だったの。それでほぼお隣の土地込みのお値段で、この家を買ったの」

「事故物件?」

「ええ。なんでもそこのご夫婦が自殺したと、不動産屋から聞いたけれど。それで建物を壊したと」

「じ、自殺!?」

 引っ越したわけではなく、自殺!?

「それはなんで……」

「そこまではわからないけど……。そうだわ、山瀬さんのお宅がもう二十年近く住んでらっしゃるはずだから。ちょっと聞いてみてあげるわね」

 それでその奥さんは、子供を背負ったまま向かい側にある三軒奥隣の家の階段を上がり、チャイムを鳴らす。

 山瀬さん……?
 あまり近所のことは覚えていない。

「あら、お留守だわ。でも十年以上住んでいるのは山瀬さんしかいないし。困ったわ」

 あたしはバッグの名刺入れから名刺を取り出した。

「あたし、その事故物件とされるところに住んでいた、鹿沼陽菜と言います。実家がどうなったのかわからないので、知りたいんです。もし山瀬さんが帰ってきたら、奥様でも山瀬さんでも構いません。ここに記載されているあたしの携帯番号に電話頂けますか? お話を聞きたい。今あたしは出張で来ているので、あまり長くこちらにいれないんです」

「あなた……娘さんなの?」

 少し気の毒そうに奥さんはあたしを見る。

「はい。なんで自殺になったのか、妹はどうなっているのか、それを聞きたいと思うので、お手数をおかけしますがお電話下さい。どうしても知りたいんです」
 
   ・
   ・
   ・
  
   ・

 自殺という嫌な単語が頭にぐるぐる回り、どうしてあたしは十年もそれを知らずにいたのか、自責の念に囚われていた。

 電話を一本かけてみてみれば、繋がらないことに違和感を感じたはずだ。

 だけどあたしは、N県の思い出すべてを考えないようにしていた。

 そして実際N県に来てみた途端、知らないことばかりで。

 わかっているはずのものも、突き詰めて考えれば、実を持たない。虚ばかりがあたしの記憶に残っている。
 
 あたしが倒れそうになっているのを見兼ねて、朱羽が近くにあったファーストフード店にあたしを連れ、温かなココアを注文してくれた。

 あまりひとのいない一階の日当たりのいい窓際で、飲み物を飲んでほっと息を零したあたしを、朱羽はじっと見ている。

 そして言った。

「陽菜、誰か知っている高校の教師の名前は? 出来れば担任の名前」

「担任は……、咲川先生だけど」

「すぐそれは出るんだね」

「うん、そうだね。するっと出たけど」

 朱羽は少し考え、そして言った。

「妹の千紗ちゃんは、あなたの高校?」

「うん。ひとつ下」

「だったら、咲川先生は他の教師から千紗ちゃんの行方の情報を知っているかもしれない。もしかするとご両親のことも」

「え?」

「咲川先生に会いに行こう」

 朱羽は厳しい面持ちで言った。

「もし嫌なら、俺だけが聞きに行ってもいい。どうする? ここで待ってる?」

「一緒に行く。あたしは知らないと駄目だわ。今まで放置していたんだから、それは娘としての責任よ」

「……陽菜。もしかすると満月は――」

「なに?」

「いや、はっきりとしたら言う。今の段階は嫌な推測でしかないから」

「いいよ、言って?」

「いや。多分、咲川先生に会うことが出来たのなら、そこで大体がはっきりすると思う」

 朱羽は悲壮な表情で、アイスコーヒーを飲んだ。

 聡い彼には、どんな推測が成り立っているのだろう。



 扇谷高校前――。

 時刻は午前11時前。

 咲川先生がいることは、朱羽が扇谷高校の電話をネットで探して、実際かけて確認してくれた。

 今は教頭になっているらしい。

 いることを確認して、いざ突撃!!

 造りはなんとなく思い出せるのに、初めて校舎に立ち入った時のように、妙に落ち着かない心地になりながら、朱羽と教員室に向かう。

 すると廊下で、ひとりの女性教員とばったり会う。

 肩までのボブに、大きな目が特徴的な小柄なこの女性。

 たしか――。

「あ、小山内先生!」

 咲川先生と同じように、またもやするりとその教師の名前が口に出た。

「え?」

「十年前、ここに居た鹿沼陽菜です。先生の新任早々、うちの3-Bで英語教えて下さいました。"小山内ちゃん"って呼ばないでってよく怒ってて。あたしの推薦対策のための英語の作文、個人的に補講して教えて下さいました」

「ああ。あの鹿沼さん!? 元気だったの!?」

「はい! 今日はちょっと……」

 色々なところから視線を感じるのは、となりの朱羽か。

 生徒も教師も、この小山内先生も朱羽を見ている。

 むっとする。

 朱羽を隠さなきゃ!

 あたしは朱羽を身体で守るようにして、朱羽を壁におっつけながら、言葉を続けた。

「今日は十年ぶりに近くに来たので、咲川先生に会いにきたんです。今は教頭先生なんですって?」

「そうなの! きっと喜ぶわ、教頭。今でもあなたのことと、妹さんのことをよく口にしては嘆いていたから」

 小山内先生を先頭に教頭室に歩き出す。

「……嘆く?」

「そりゃあ。痛ましいことの連続だったから」

「え? 痛ましいことって? 親の自殺?」

「それもお気の毒だったわね」

「それ"も"ってなんですか!?」

 いつの間にか目の前に教頭室のドアが見える。

「だって鹿沼さん、"あんなこと"がなければ、ここを卒業出来ていたのに」

「はあ!?」

――お前はそこを卒業していない。

 コンコンコン。

 小山内先生がドアをノックする。


 そしてドアを開ける。


「教頭。鹿沼さんが会いに来てくれたんです!」


 朗らかな彼女の声に、机から立ち上がった男性もまた朗とした声を上げた。
 

 咲川清志――。

 あたしの記憶に間違いなければ、今年48歳になる元日本史教師だ。


「鹿沼……、鹿沼陽菜か!?」


 ……間違いない。記憶と違うのは、髪の薄さだけだ。

 変わらない馬面。あのサッキーだ。






「先生、とっても偉そうなお部屋の住人になっちゃったんですね」

「偉そうって言うなよ、お前な~。で、こちらは」

 すると朱羽がすくりと立ち上がり、名刺を取り出して渡す。

「初めまして、私香月と言いまして……」

 そしてちらりとあたしを見て、口元をつり上げた。

「陽菜さんの婚約者になります」

「なっ「今日は、どうしても連絡がとれない千紗さんのことをお伺いに参りました。なにかご存知ですか?」」

 朱羽が切り出した。

「鹿沼、お前がわかってるだろ。婚約者……ええと香月くん、いいよ座って。ふたりでわざわざ俺に聞きに来なくても。普通それより、俺に報告だろ?」

 にやにやしているが、それは無視だ。

 だって嘘だもの。

「いや、それより千紗は……」

「ああ……お前、まだダメなのか」

「ダメ?」

「一時酷かったものなあ。学校辞めるほどだ。まあ単位とれていたから、表向き卒業扱いで大学の推薦はうまくいっただろうが」

「は?」

 今なんて?

「なんだ、辞めたことも思い出してないのか」

「ちょっと待ってください。冗談キツいですって、サッ……き川教頭。あたしちゃんとここを卒業しましたって。そんな表向きじゃなくて……」

――お前はそこを卒業していない。
 
「なあ、香月くんも鹿沼の身内になる者として、どうしても聞きたいか? 知らなくてもいいこともある」

「私も聞きたいです。そのために、ふたりで来ました。ある程度は予測しています。ですが、なにが出てもすべて……俺が抱える覚悟です」

「くはっ。なんだそのイケメン、どこまでイケメンよ! お前よかったな、こんな奴と結婚できて。結婚式には呼べよ、いいな」

 あたしの頭をぐしゃぐしゃと撫でて破顔して喜んでいる教頭だけれど、ごめん、それ全く嘘なの。付き合ってもいないの。好きだとも言ってないの。

 十年ぶりなのに、こんな大嘘ついてごめんね。

 悪いのは、このどこまでもイケメンよ。いつまでも、結婚式に呼ばれる夢を見て、元気でいてね。

 教頭は鼻歌を歌いながら偉そうなコの字型の黒いソファを立ち、横に壁のようにずらりと並んだ雑誌を見て、一冊を取り出して戻って来た。

「卒業アルバムだよ、お前の学年の」

「卒、アル……?」

「そうだ。3-B、見てみろ。お前いないだろ?」

 並んだ同級生だった男女の写真。

 思わず昔の口調に戻してしまった。

「ごめん、サッキー、あたし記憶がない。これらがあたしと同級生だったと言い切れない。違う学年のをもって来てない?」

「はあ。後ろ見ろ。いいか、お前の代全部の住所と誕生日。お前の生まれた年のものと同じだろう」

「本当だ……」

 どういうことだろう。

「この中に、あなたの彼氏は?」

 小声で朱羽が囁く。

 あたしの彼氏は顔を覚えている。
 それは――。

「あれ、いない。なんでだろ」

 あたしの彼氏がどこにもいない。
 確か隣のCに居たはずなのに。

「………。結城さんを見つけてみよう」

 また朱羽が小声で囁き、頁を捲る。

「結城……、ねぇ先生。結城睦月って、うちの代にいました?」

 朱羽はぺらぺらとアルバムを見ている。

「結城睦月はいないけど、熊谷睦月はいるが」

 くまがいむつき。

 くまがい……くま……。

 ちらちらと夢の顔が思い浮かぶ。

 結城の顔をした、あたしの苦手な――。


「熊谷睦月……居た」

 朱羽がアルバムのひとつを指さす。


「結城さんですね、この顔は」

 ……夢の通りに学ランを着て、若い顔ながらも昏い目をした結城がいる。

 あたしが載るはずだったアルバムに、彼氏もおらず、結城だけが載っている――。

 これはどういうことだろう。
 あの夢は、あたしの記憶の一部だったのだろうか。
  
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