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Blue Moon 2
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嵐は一転、今日の天気は朝から快晴。付近の土砂崩れも、既に簡易的だが補修工事がなされたようだ。
「本当になにからなにまでお世話になりました!」
スーツ姿に着替えたあたしは、ばっちりメイクもして玄関のところで頭を下げた。
「戻りましたらすぐ、見積書を出させて頂きます。できる限り頑張りますので、これからもおつきあい、よろしくお願いします」
背広姿の朱羽は、艶やかな黒髪に眼鏡を光らせ、夜に魅せたあの色気はどうしたんだというくらい、涼しげな顔で挨拶している。
……絶対、あたしにいやらしいことをしていたとわからないよな、この理知的な外観からは。
「ふふふ、私はあなた方が気に入ったわ。是非是非プライベートでやじまホテルをご利用下さいな。名刺の携帯にお電話下されば、全国どこのホテルでも、ムード満点で声が漏れないお部屋を用意しますので。その時は是非、避妊具のご用意を。もしあれなら、薄いの用意させますから」
矢島社長は、袖を口元にあて、くふふふふと笑う。
朱羽はわざとらしい咳払いをして、ノーダメージぶりを見せつけるが、耳がほんのりと赤いことは、きっとこの女社長なら見抜いているだろう。
「あ、タクシーが来たようね。……あなたっ、早く!」
社長が後ろを見て怒っている。
あなたとは、誰ぞや?と一緒に振り返ったあたしだが、そこに居たのはブルドッグ沼田さんだ。
「はあはあ、間に合ってよかった。包装がうまくいかなくて」
沼田さんは手に提げていた、やじまホテルのロゴが入ったビニール袋を差し出すと、社長がそれを取り、朱羽に渡す。
「では、これお土産。おふたりでどうぞ。すぐなくなると思うけれど」
袋に小さな箱みたいのが入っている。
お土産用に、お菓子を用意してくれたのだろう。
「お気遣い、ありがとうございます」
「いえいえ! 気に入ってくれるといいのだけれど。このひともいいというから、いつもこれなのよ。ね?」
「なかなかに、なかなかです。頑張って下さいね」
全くなにが言いたいのかわからないまま、あたし達はタクシーに乗り込んだ。
行き先は駅ではない。あたしの実家だ。
タクシーの運転手に聞くと、そちら方面はあまりよく知らないらしい。カーナビをつけて、あたしが言う住所に車を走らせてくれることになった。
後部座席に、あたしと朱羽は乗っている。
あたしの秘密を打ち明けたホテル。
朱羽への恋心を自覚して、甘えてしまったホテル。
蜜な夜を過ごした場所から去るのはなにか後ろ髪引かれる思いがしたけれど、隣に朱羽がいるから安心する。
「そうだ、課長。見てみましょうよ、頂いたお菓子」
朱羽はあたしの頬を片手で抓る。
「なにを!!」
「ふたりなのに、また戻ってる。はい、俺のことは?」
「っ、しゅ、朱羽」
すると、するりと手が離された。
どうしてもあたしは、社長やら仕事関係者と朱羽の部下として話すと、それを引き摺ってしまうらしい。
仕事着姿で呼び捨てにするのが気が引けるけれど、逆にそれがいけないことをしている背徳感となり、ぞくぞくするのも確か。
ああ、タクシーの運ちゃんに絶対ただの上司と部下じゃないと思われているに違いない。バックミラー越しにちらちらと視線を感じる。
「開けてみる?」
「ん……」
朱羽が貰ったお土産を取り出すのを躊躇している。
「開けてみようよ。小さいお菓子なら、帰り食べていこう?」
帰りの新幹線に、朱羽と帰れると思えば嬉しくて仕方がない。
あたしははしゃぐように、袋から取り出した……やじまホテルと印刷されている包装紙を開けていく。
「どんなお菓子かな?」
『薄々! 超極上薄 感度抜群0.01ミリ!』
箱の側面の文字で、手が止まった。
「………」
「………」
だけどまあ、箱の真上くらい見てみようと、包装紙から抜いた小さな箱を転がした。
リアルな避妊具の絵。
0.01ミリの文字が、大きく迫力あるように書かれてある。
頭の中で、矢島社長の笑い声が響く。
「あ、あたしいらない。これあげる」
「お、俺にこれを持って帰れって!?」
「あたしが持ってた方がおかしいじゃん。まだ朱羽の方が」
「これ会社用のカバンだぞ? こんなの入っているの見つかった日には、俺変態扱いじゃないか」
「これ使うのは男でしょう!? そんなの持ってたらあたしの方が痴女じゃない。……よし、どこかで捨てていこう」
いい考えだと笑顔を作って朱羽を見たら、朱羽はレンズ越しじとりとした目をあたしに寄越して大きなため息をつくと、渋々と再度包装紙包装でそれを包み、袋に戻し、くるくると、とにかく中身がわからないようにくるくると丸めて、自分のカバンの中に入れ、あたしの耳に囁いた。
「今度、使おう」
「はあ!?」
「捨てるくらいなら、あなたと……使いたい。駄目?」
「あたしに聞くの!?」
あたしは小声で怒る。
「そう。決定権はあなたに。あなたが違う方がいいというなら、そうする」
「知るわけないじゃない、そんなもの!」
凄く顔が熱い。
「じゃあ今度これ使っていい?」
「だから聞かないでよ!!」
思わず睨んだら、朱羽は愉快そうに目を細めて笑っている。
くそっ、またSか。ドSですか!
ふんと横を向いて窓を見てると、腰のあたりに朱羽の手が巻き付いて、彼の隣にぴったりとくっつけられた。
長い足を組んだ、エリートイケメンが優しげな笑みであたしを見ている。
ああ、もう。
本当にもう。
あたしは口を尖らせながら、ウェストのところにある朱羽の手の上から手を重ねて、彼の肩に頭を乗せた。
あたしは……悔しいくらいに、このひとが好きだ。
「あのさ、知ってた? 矢島社長と沼田さん、貰ったこれを愛用する仲なんだということに」
「はあああ!?」
――あなた、早く!
――このひともいいというから、いつもこれなのよ。
「夫婦なのか、恋人なのかわからないけれどね」
絶句する。
だけどあたし達を見送って手を振り続けてくれたふたりは、とても仲よさげに寄り添っていたのは確かだ。
どう見てもアンマッチなカップルと思えるけれど、仕事に忙しい社長を支えて理解があるから、あたし達との打ち合わせにも彼を同席させたのだろう。
プライベートも仕事も信頼出来るパートナーっていいなと思う。
……なりたいな、朱羽のパートナー。
まだまだなあたしだけれど、あたしが朱羽に支えられているように、あたしも彼を支えて上げることが出来ればいいな。
このひととずっと一緒に生きることができたらいいな。
車は駅を通って東側を走る。
大通りを走るバスが、やはりあたしの記憶のものとは違う運営会社のものとなっていたものの、この道は記憶がある。
駅から7つ目のバスの停留所に、高校があるはずだ。
停留所名は「扇谷高校前」。そしてそこから歩いて10分くらいのところに、あたしの実家がある。
夢で見たばかりだから、余計記憶がしっかりしているように思う。
そう朱羽に言うと、
「歩いて行ってみる? 高校から」
「え?」
「あなたが刺激を受けて見た夢の道を通ってみよう。なにかわかるかもしれない」
満月のこと――。
なんであたしは突然満月の日に、あんな色情狂に変貌してしまうのか。
あたしが忘れた記憶があるのだろうか。
思わず手が震撼すると、朱羽がその手を包むようにぎゅっと握った。
「大丈夫。俺がいるから。なにがあっても俺は傍を離れないよ」
「……ありがとう」
涙が出そうになり言葉が震えたが、腰から肩に移動した朱羽の手が優しくあたしを撫でてくれたから、あたしは深呼吸をした。
六つめの停留所に、次の駅が「扇谷高校前」と書かれていた。
朱羽が運転手に言い、扇谷高校の前で降ろして貰うことになった。
七つめの停留所「扇谷高校前」――。
凄く心臓がドキドキして止まらない。
車は停留所から小道を左に入ると、キンコンカンコーンと鐘が鳴る音が聞こえてきた。
そして古ぼけた大きな高校の校舎が見え、タクシーから降りて正門の前に立つ。
懐かしいような気がするが、思った以上に感慨がない。
10年近く見ていなかった母校に、懐古の情が芽生えない。
「気分はどう?」
立ち竦むように校舎を見上げているあたしに、朱羽が声をかけてくる。
「感動がないというか……。本当にあたしここの高校に通って卒業したのかな……」
苦しくて嫌な思いをしたはずなのに、それを思い出すこともなく、なにか映画を見ているような第三者的な立場であたしは眺めている。
「結城が、あたしはここの高校を卒業していないって言ってたの。結城はここの高校に通っていたあたしの同級生だって」
あたしは今朝方に見た夢を思い出す。
あたしが苦手だった同級生の顔が結城だった。
「今のあたしなら、結城が同級生だと言われても、否定出来る要素がない。ここにあたしは記憶がないの。いいことも悪いことも、ぽっかりと穴があいた感じで……」
卒業したらこんな風にひとは昔を忘れていくものなの?
扇谷高校という名称は記憶に刻まれているというのに、この校舎も写真を見ているような感じで、この校舎に思い出がないのだ。
「気持ち悪い……。なんだかあたしひとりが忘れているみたいで。なんで、思い出がないんだろう、この高校に。あたしはここを卒業したはずなのに」
朱羽があたしの手を握った。
「ここから、家に戻れる? その道は覚えてる?」
「うん。夢にも見たから……覚えるはず。あっちの奥、白い車が止まっている道を歩いて行くの」
あたしは朱羽と歩いて行く。
現実味がなかった。
まるで今こそが夢の中にいるかのように、地面がぐにゃぐにゃしているようにも思え、何度も眩暈を感じて立ち止まる。
「陽菜、またにしよう。顔色が真っ青だ」
「ううん、次にしたら、あたしはもうここに来たくなくて拒絶反応が出る気がする。これが最後のチャンスのような気がするから。とにかく実家に戻って、お母さんが居たら話を聞いて見ようと思う。それに……まだ家にあたしの部屋があるのなら、卒業アルバムもあるはずだし」
「じゃああなたの家に行こう」
「はは……。久しぶりで戻ったと思ったら、見知らぬ男とふたり連れなんて、皆びっくりして腰抜かしそう」
笑いながら道を歩くと、夢と同じように古ぼけた煉瓦造りの喫茶店が出てきた。まだやってるんだ。
「……何度も練習させておくといいよ。俺も慣れたいし」
「え?」
「こんな形じゃなく、そのうちあなたの実家にお邪魔しようと思ってたから」
「なんで?」
朱羽はふっと顔を綻ばせて笑った。
「そのうちわかるよ」
「え、変なことを告げ口にこないでよ!? あたしが東京でなにをしてたとか言わないでね、ね!?」
「……なんでそっちなんだよ」
朱羽が明らかに不満そうな顔をする。
「じゃあどっちよ? どっちってなんのこと?」
「わからないなら、俺に聞くなよ」
道なりに歩いて行くと寂れた小さな神社が出てくる。
「道、大丈夫? 合ってる?」
「うん。ちょっと道とかも綺麗になって家とか建物とか増えたけれど、ここの神社はちゃんとある。ここね、七五三とか受験の祈祷によく来ていたところなんだ」
「あなたは、ずっとここで生まれ育ったんだ?」
「うん。県外にも出たことなくて、ここしか知らない」
「……それなのに、東京に来たの?」
「うん。推薦で取れた大学が、東京だったから」
朱羽は少し考え込む素振りを見せた。
「それ以外で外に出たことは? 駅から電車や新幹線でひとりで違う場所に行ったことはあるの?」
「……精神科に行った時。それ以外は行ったことがない。友達ともなかったと思う」
「なんで、その精神科で診察しようと思ったの?」
「大きい病院に、精神科があるの知ってたから。とにかくここ周辺の病院では、誰かにわかられるのが嫌だったから、電車でひとつの大きな隣町に行ったの」
「ここから出たことがないのに、その大きな病院に精神科があると、なんでそんなことがわかったの?」
朱羽は怪訝そうな顔を向けてくる。
「その時代って、今ほどネットが普及していなかったはず。あなたはなんでそれを知った?」
「多分……家族からかと」
「内科ならまだしも、精神科があるなしなんて家族で話すもの?」
「じゃあ学校の友達とか……」
「同じだよ。高校生がそんなこと話題にはしないと思うけど」
「……じゃあなんであそこに行ったんだろう。今は廃院になっているはずだけど」
「なんという名前の病院?」
ひとつの病院の名前を口にすると、朱羽は背広の内ポケットからスマホを取り出して、それを検索にかけたようだ。
「……廃院になったその名前のものは存在しない」
「は? 情報がないってこと?」
「そうじゃないだろう。まるで検索結果がヒットしないのは……」
朱羽があたしを見た。
「あなたはそこに通っていない」
「通ったわよ。それでその先生の紹介でクリニックで薬を……」
「その精神科医の名前は?」
「御堂……大吉だったかな」
「その名前ならヒットする。結構有名な先生らしいね。だけど……その経歴を見ても、その病院の名前はない」
「なんですって!? 写真出てる?」
あたしは朱羽のスマホに飛びついて覗き込んだ。
確かにその写真は、あたしの記憶にある御堂医師だ。
「彼は東大の医学部を卒業した後、社長が入院している東大付属病院の精神科に配属になってから、転院してもずっと東京都内の大きな病院だ。それで今は開業している」
「開業?」
「そう。今、そのHPにある院長経歴を見ているけど、他の頁と同じように、その病院に居たということは書いていない。約十年前というと、東京駅近くの大学病院に勤務中だな。間違うことはないだろう」
「え、隣街の病院にいないの? 東京?」
「うん。仮に御堂医師が非常勤でも短期でその病院に居て、廃院になるからと東京にある他のクリニックにあなたを頼まなくても、彼は東京にいるあなたを診れるのに、なんであなたを手放した?」
「ちょ、ちょっと待って……」
当時のことがよく思い出せない。
「廃院になるから、ここに行けと名刺もらって……薬だけを……」
「紹介状は貰わなかったの?」
「そんなものはなかった。電話で話をつけておくからと……」
「医者同士でそんなことはありえないね。しかも診察なしで薬だけ出すなんて。そのクリニックはどこかなにかわかるものある?」
「診察券が。この"まごころメンタルクリニック"ってところで」
朱羽はあたしが財布から取り出した診察券を見ている。
「担当医は?」
「院長先生で……」
「名前は?」
「名前は……」
自分のことなのに思い出せない。
「え、なんで? 院長先生としか思い出せない」
「陽菜」
朱羽が堅い顔をして、あたしにスマホを見せて言った。
「その御堂医師が院長をしているのが、"まごころメンタルクリニック"だ。住所も電話番号も同じだ」
「ええええ!?」
スマホには、そのHPの院長に、あたしの知る御堂医師の写真がある。建物も地図も、あたしが通っているところだ。
「あなたが会っているのが院長であるのなら、御堂医師だ」
「あたし……そういえば院長の顔ってよく見てことがない。いつも俯いてカルテに書いてて薬をくれて……。だけど、そんなはず……」
あたしは廃院になるからと御堂医師に言われて、そこにいけと言われた。本人であるはずが……。
「あなたのご家族から、お話を聞こう。あなたが故意的に思い出さないようにしていたあなたの家族なら、案外よくわかっているのかもしれない。あなたは、第三者によって記憶を封じられているのかもしれない。だからあなたの記憶には整合性がない部分がある」
否定できない。
あたしの記憶は、こうして事実と齟齬しているところがあるのだから。
「……なにか怖い。怖いけど……」
あたしは朱羽を見た。
「あたしの記憶が誰かに操作されていたのだというのなら、本当のものを取り戻したい。それが嫌なことでも、偽物の記憶だけは持ちたくない」
「朱羽」
「………」
「逃げている時間は、もう終わった気がする。そこを避けて通るのではなく、あたしはちゃんと見て前を進みたい」
「陽菜……」
「だけど怖いの。怖いから……手を握っていて」
「ああ」
……あたし達は歩いていく。
実家という故郷が、まるで魔物の巣窟のように思える。
実家になにがあるんだろう。
家族はあたしのなにを知っているのだろう。
遊具がない小さな公園。
コンクリート塀で挟まれた緩やかな上り坂。
車が行き交う三叉路。
気分が悪い。
頭がずきすぎする。
「陽菜……」
「大丈夫。行く、行きたいの。あたしは……知らなきゃ。忘れていたことを」
もう少しだ。
「三叉路を抜けた、二軒奥隣が――」
冷や汗をかきながら歩いているあたしは絶句した。
「え、なんで……?」
あたしの実家がなかった。
そこには、隣角の家の花や自家栽培の畑になっていたのだ。
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