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Crazy Moon 13
しおりを挟む結城はふと思いついたように言った。
「……あいつはお前に告ったの?」
「されてないけど」
「告りもしねぇのにそんなとこにキスマークつけたのか!?」
「結城もつけたくせに」
「陽菜、あいつに流されるのではなく、お前の意志をちゃんと見ろよ。俺、負けたくはねぇけど、お前がちゃんと出した答えなら、俺も納得出来るように努力するから。俺、お前を女としても好きだけど、友達や同期としても好きなんだわ。だからお前がいい加減に出したものでなければ、俺もいい加減にはしないから。……お前を尊重する」
「ありがと。結城、ほんとにありがとね! あたしも真剣に受ける」
「よし、告白その1成功!」
結城は笑いながらあたしを胸に押しつけた。
「……実は俺、お前に隠していることがあるんだ。お前が真剣に受けてくれると思ったら、そこがすげぇ気になってきた」
「なに?」
「……だけど言えない。どうしても言えない。……お前が今、香月に満月のことが言えないように」
課長の名前が出てきて、びくりとする。
「……結城は夜の帝王で、実は女侍らせていたとか?」
「アホ。他の女なんて抱く気ねぇよ、俺女作らなかっただろうが。そうじゃなくて、それをするより最低だと思う。だから……今まで告らなかったのもあるんだ。告れないというか、その資格がないというか」
結城の声のトーンが沈んだ。
「言いなよ、あたし大丈夫だよ。あたし結城にずっと助けられて救われてきたの。だから告白同様、前向きに受け止められるよ」
「駄目だ」
「結城、言ってよ! 隠し事なしで行こう? あたしも結城に隠し事しないから」
かなりの沈黙の後、結城は身体を離して呟いた。
「……俺、高校の時荒れてたんだ」
「うん? 社長が助けてくれたって言ってたよね?」
「……俺の高校、N県の扇谷なんだよ」
「はあああああ!? なにそれ!! そこはあたしが卒業したとこじゃない!!」
「違うんだ」
結城の辛そうな声が聞こえる。
「はい?」
「お前はそこを卒業していない」
「え? なにを……」
思い出したくない高校だけれど、卒業した高校の名前くらいは覚えている。そこに結城なんていう同級生はいなかった。
一体結城はなにを――。
「あのさ」
結城が決意したように口を開いた時だった。
やけにパトカーやら救急車やらが騒がしいなとは思っていたけれど、見下ろす施設の中はさらに喧噪で。
「結城、なにか事件でも起こってるのかな」
「え? あ、本当だ。なんだろう、火事とかか?」
「じゃあ早く逃げなきゃ!」
ピンポンパンポン♪
館内放送がかかった。
『迷子のお呼び出しを致します』
それはここにいる時、何度も聞いている。そりゃあ大きな施設だ、迷子になる子供くらいいるだろう。
だけどこんな時に、長閑(のどか)すぎるよ。
『カヌマヒナ様、カヌマヒナ様 いらっしゃいましたら……』
「あたし!?」
そして同じところからなのか、違うところからなのか、割り込んできたのは――。
『カバ、早く来い! フロントだ、俺を助けろ!』
『ですから! 渉は確かに下半身と頭はここのキャラみたいにゆるゆるだとは思いますけど、女の子襲ってませんから! ヒナちゃんの誘拐犯でもないですから! ロリコンでもないです、私は28で……はああああ!?』
「今の、宮坂専務と沙紀さんの声のように聞こえるけど」
「ああ。なにやってるんだ?」
そんな時下のざわめきがさらに大きくなり、ひとの波が左右に割れた。
向こうから、豆粒みたいな誰かが闊歩してくる。どうやらそれを恐れて道が作られたようだ。なんだかここからでも、姿はわからないのに異様なオーラを感じて、ゾクゾクする。
「ちっ!」
先に気づいたのは結城だった。
「誰だ、ここに居るというのを教えたのは!!」
「え?」
「陽菜、ばっくれるぞ。俺が"健全"のルール違反したから殺される! なんですぐわかるんだよ!! つーか、なんで俺、あいつに遠慮しなければなんねぇんだ!?」
「健全!? あいつ!?」
結城は岩から降り、あたしを両腕で下ろした。
「誰、一体だれなのよ!? あたし知ってるひと!?」
「うわ、早っ! なんでここにいるってわかるんだよ!? お前キスマークの下にGPSでも仕込まれたか!?」
「はあああ!?」
なんだかわからず逃げるあたしの前に現れたのは――
「こんばんは」
なにやらコメカミに酷く青筋が浮き出ているような……香月課長だった。
「こ、こんばん……は? なぜ課長がここに?」
遊びに来たわけではなさそうだ。
水着姿ではなく、私服だ。
ネイビーブルーの丸みある襟のショールカーデガンに白いVネックの柄のついたTシャツを着て、ベージュ色の細身のパンツをはいている。
オシャレさんでとてもお似合いだわとか思ってしまったが、考えればここは水着必須の場所だ。なんで私服でしかも土足で堂々と入れるの?
「不健全な通報を頂きまして。後ろを向いて頂けます?」
「不健全?」
「おい、香月。なにを……」
「おや? なんでこんなところにキスマークが?」
背後から、ぞくりとした氷気を感じた。
……殺気のような。
「お前だって、してんじゃねぇかよ!」
「それは今までの分のお返しです。鹿沼さん、ふふふ……裸にそんな僅かな布きれで覆ったのを男性に見せびらかして、随分と楽しそうですね」
水着って言えよ!!
なんで男性限定なのよ、女性もいるでしょうが!!
「ちょっと、はしたなくはありませんか? いけませんね、すぐそういう格好をして誘惑するなんて」
「ゆ、誘惑!?」
「夏でもないのにそんなの布、纏う意味あるんですか?」
「ここはプールですよ!?」
布を纏うって、あたし原始人かよ!!
「なんでプールに来る必要が? ん?」
ひぃぃぃぃぃっ!!
冷視線で身体が凍りそう!!
なに、なんなのよ!
このひとなにをしに来たのよ!!
「さあ、帰りますよ。部下の教育は上司がしなきゃ」
課長があたしの手を取った。
「あ、あの、課長……?」
「あのさ、鹿沼は俺が」
結城が声をかけた時だった。
「黙れ」
ひぇぇぇぇんっ!!
このひと怖いよ、結城にもなにぶちギレてるのよぉぉぉ!!
眼鏡が怖いよぉぉぉぉ!!
しかし勇者結城はそれで怯まなかった。
「あのさぁ、俺が鹿沼連れてきたの。お前は先週末鹿沼を独占してたんだろう? なんでキレるわけ? こいつに一週間も残るキスマークをこんなにたくさん強くつけて、キレたいのこっちなんだけど」
あたしは逃げたいんだけど!!
「それで? これが健全なやり方ですか?」
「お前はどうなんだよ」
「ちょ、なに喧嘩……」
「「黙れ」」
あたしにぶちキレなくてもいいでしょう!?
炎の男結城と氷の男課長が睨み合っての対峙に、あたしが口を挟むことは許されないらしい。
一体なんなのこの状況。
それじゃなくてもなんでこんな場所にぶちギレ課長が私服で現れたのか、頭ついていけないっていうのに、なんで健全だの不健全だの、そんな話をしてるの!?
ふと思った。
炎と氷が戦ったら、どっちが勝つんだろう。
炎が温度を失って凍るの?
氷が溶けて蒸気になるの?
ピンポンパンポン♪
一度聞いた、明るい電子音が響き渡る。
『迷子のお呼び出しを致します。カヌマヒナちゃん、カヌマヒナちゃん……』
今度はちゃん付けだ。心なしか切迫しているような気がする。
なにがあったんだろう、カヌマヒナちゃんに……って。
「同姓同名なのかしら」
……それだけではなかった。
『ヒナちゃーん、どこに居るんだ!?』
『大丈夫だよ、おじさん達が今助けて上げるよ、犯人は捕まえたから安心して出ておいで~』
メガホンを持った、警察の制服を着ているおじさん達が叫んでいる。
なに、ヒナちゃんがどうしたって? 犯人ってなにか犯罪でも起きて、それで騒がしかったの?
少なくともあたしじゃないことだけは確かだ。あたしは、警察官から猫なで声をかけられるような年ではない。
それでもこの居たたまれない心地になるのはなぜなのだろう。
課長があたりを見渡して言った。
「……一時休戦です。さあ、あそこの自販機に身を隠して。……ちっ」
このひと今、思い切り舌打ちしましたよね?
すごく目つきが「悪」なんですけど!!
・
・
・
・
長身のイケメンふたりに挟まれた貧弱な女が、大きな自販機の影に隠れている。
ここは狭い、狭すぎる。
なんでこんなところに隠れることになったっけ。
視界に居るのは、コスプレ警察官ではなく本物の警察官のようだ。
「……香月、なにかしたのか?」
結城が小声で聞きながら、さりげなくあたしの手を繋いで彼の後方に持っていき、驚くあたしに悪戯っ子のような笑みを見せる。
狭すぎて動く隙間がない。取り払えるほどの空間がなく。色々抓ったりひっかいたりしているのに、結城は笑って身体を震わせている。
課長はそんなあたし達よりちょっと前に身を乗り出すようにして、警官の様子を伺っている。まるでスパイ映画でも見ているようだ。
「私、さっきまで都心に出ていたんです。そうしたら不健全で不埒な通報を頂いて」
その目は警官の動きを真剣に追っているというのに、
「家に戻って車とってくるのも時間の無駄だし、タクシーなら渋滞に巻き込まれたら苛つくし」
あたしの小指と彼の指が軽くぶつかると――、
「傍に駐車違反取り締まっている警官が、パトカーに乗っていたので……」
手を引こうとしたあたしを逃さないというように、あたしの小指に彼の指が絡みつき、何本かの指できゅっと握られた。
――っ!!
手の中で一番小さな指なのに、身体の中で一番敏感な部分のようにも思える、このぞくり感。焦らされた身体にやっと触って貰えたような、そんな引き攣ったような快感に喘ぎ声が出そうになる。
課長の熱にくらくらする――。
いかんいかん、なにを考えているんだ、あたし。
なにをやっているのよ、こんなとこで。指が偶然絡んだのかもしれないし、指を離さなければ。課長だけではなく結城とも。
そんなあたしの耳に届いたのは。
「私の娘が誘拐されたと騒いで、パトカーに乗せて貰いました」
「「はああああ!!?」」
驚きすぎて、手を離すタイミングを失ってしまった。
結城と手を繋ぎ、こっちは小指同士を繋いだまま。
僅かにでも離そうとしたあたしの決意を察したのか、させまいとするかのように両側からがっちりと守られる。
だから逃げてるのわかれよ、離れてくれよ、ここは狭いし動くと肘が壁に擦れて痛いんだってば!!
「しっ、動かないで」
警官ばかりを見ていた課長の目があたしに向いた。
ぞくりとするその目は、憤りを抑圧しているもので。彼を感じた瞬間、今さらのように課長のあの匂いが広がって、心臓が早くなる。
やっば、不意打ち!
思わず俯けば、結城が手に指を絡め、ぎゅうぎゅうと握ってきて、痛い。
わかったから、くらりとしてごめんよ、だから馬鹿力はやめて!
それが通じたのか、力が抜けたあたしの手の甲を、いい子いい子というように指の腹で撫でられた。
「か、課長、お子さんいらっしゃるんですか?」
思わず聞くと、課長は口元だけ笑いを作った。
そしてひっそりと、小指を思い切り手の甲の方に曲げられて、あたしの身体が傾く。
「いっ」
「どうしました?」
「い、いいえ。なんでもありません」
眼鏡の奥の目が、なにやら愉快そうで。
この、ドS!!
「勿論私には子供なんていませんが、誘拐犯からこれを貰ったと。だから一緒についてきて欲しいと」
課長はズボンのポケットから取り出したスマホを、あたし達に見せた。……勿論反対の手で。
スマホの画面は、ひとつのメールの内容を映し出していた。
『ヒナは俺のところだ。欲しければ下の住所に来い』
そして下のアドレスをクリックすると、この施設の地図が出る。
「な、なんですかこれ。ヒナって誰? あたし? 俺って誰よ、結城?」
「違う、こんなの出してねぇし」
結城は頭を横に振った。
じゃあこれはなに?
「すべて私の意図です。言うなれば、社内で私を騙ったあのメールのような。これを警官に見せて、もしこの危機を無視するようなら警視総監に直に掛け合うと言いました」
け、警視総監!?
「警視総監と知り合いなのか?」
「知り合いというか……ただパーティで総監に挨拶したくらいで、向こうが私を覚えていれば儲けもの、程度です。ですけど、後日パーティー主催者の秘書の方が写真を送って下さったので、なにかの時のためにそれを写メしておいたので、それを見せました」
さらりと。実にさらさらさらと、課長派そんなことをのたまう。
なにかの時ってなにがあるんだよ、とか思いながらも、あたし達も見せて貰った、スマホで撮られたその写真は。
ホテルかなにかの広間で、両端に爽やかに笑う課長とでっぷりと太ってハゲたおっさんとが一般的なスーツ姿で、真ん中に気むずかしそうな顔をしたひょろっとしたおっさんは、警察のものと思われる帽子を頭に乗せ肩章や飾り緒がついた制服を着ており、三人真ん中で手を伸ばして握手をしているカメラ目線のものだ。
イケメン過ぎる課長が目立つ目立つ。
警視総監は痩せた方だとして、このデブハゲ――。
「これまさか、財界の裏ボスと言われている通称鷹栖大老!?」
毎朝、新聞を読むあたしとしては、慈善事業を称えられているにこやかな写真を見る度に、顔からして胡散臭く思う。
そう、胡散臭い男までもが課長と握手している写真だったのだ。
「はい、その大老です。大老のパーティーだったので」
またなんでもないように、表情を変えずにさらさらさら……。
パーチーねぇ……。
挨拶した程度、ねぇ……。
秘書が送りつけた写真ねぇ……。
何でそんなところに――
行 け る ん で す か!?
「どれが功を奏したのかわからないけれど、警官はすぐにパトカーに乗せて、サイレン鳴らして爆走してくれました。大ごとにしたくないから、あなた達で助けてくれと応援はやめさせて、高速フルスピード&ノンストップで来ました。これが別の車なら免停です。ただ"いろは坂は、あまりにもたもたするから、そこは私が運転しましたが」
「しましたって、いいんですか?」
「いいか悪いかだったら駄目でしょうね。だけど、子供になにかあったらあなた達の首も覚悟してと言ったら、快く運転代わってくれましたけど。ひさびさにドリフトの連続で坂道駆けました」
表情を変えない課長に、結城が引き攣った顔で言った。
「いやまあドリフトであの坂を抜けれるのなら、フェラーリ持っててもいい……なんて問題じゃねぇよ。パトカーでドリフトするって、俺だってしたことねぇのに。なんだよ、その度胸。大体警官を扇動したメール、嘘だとばれたらどうするんだよ」
「そのメールのヒナ、私の娘とするものかどうかは読み手の想像。まあそう思える文章にしたんですが。私は娘と勘違いしたと、切り抜けます」
「でもですね、課長。この差出人メルアド、わかりにくいアドレスから送ったとしても、調べられたら課長保有のものとわかられるのでは?」
「誰がそんな足の着くことすると思います? これは別のプロバイダからの別の人間のアドレスで、形跡を残すヘマなどしませんから」
「なんかしたのか?」
「私は出先だったから、私の従弟に頼みました。ここの施設の電気系統ならすぐハッキング出来ると言うんで、まずは監視カメラの映像をタクシーで見ながら、あなた達がどこにいるのか見当つけてました。迷子のお知らせをした女性、泣きそうな声だから彼が圧加えて探させてたんでしょう。なんで迷子センターにアクセスしたかは、理解し兼ねますが。だけどまあ、なにかあれば隠蔽にいろんなところにハッキングして変えればいいだけですから、問題ない」
問題あるでしょ!!
怖っ!!
課長も従弟さんも怖っ!!
慣れてる感じが余計怖っ!!
「あなた達はここに居て下さい。私は渉さんを助けないと」
「え、専務どうしちゃってるんですか?」
「はい、私のヒナの誘拐容疑で、身柄拘束されているので」
「「はああああ!?」」
「犯人の心当たりを聞かれたので、渉さんの特徴を」
「なんで専務を!?」
「ああ、ほぼ裸の格好で私より先にあなたを見ていたと思ったら、イラッとしてしまいまして。ちょっとロリコン癖があると言っておきました」
「それは怒られるんじゃ……」
「どうせ、ただの野次馬根性でしょうから。ま、ちゃんとフォローはしますので。別にこういうことするの、初めてじゃないですし」
「怖ぇぇ……」
結城の声にあたしも頷く。
専務、それでも課長を可愛がっているのなら、かなりのドM。
沙紀さんが28だと騒いでいたのは、彼女もまたロリコンの餌食になったと思われたのかしら。
うわ……。
「渉さん、あんな感じでも手乗りインコオスとメス飼っていて、最近交配が上手くいって子供が生まれたんです。沙紀さんも喜んでいるようで」
「は、はあ」
それがなんなんだろう。
あの専務がインコを可愛がる姿なんて、気色悪いけど。
「だからヒナが沢山で。それは事実です」
「……?」
「私もちょっと欲しいように、メールに書いたのは脚色です。実際私は既に断りましたので」
あたしは結城と顔を見合わせた。
『ヒナは俺のところだ。欲しければ下の住所に来い』
「「まさか、インコのヒナにする気!?」」
「初めからそのつもりでしたが、それがなにか?」
眼鏡のレンズがキランと冷徹に光る。
「な、なんでもありません……」
ま、まあ……騒いだこの鉄仮面がそうだと結論づければそうなるのでしょうが、専務があまりにも不憫すぎる。
「では、ちょっといって参ります」
指が離れて、課長の熱がなくなる。
代わりに視線が絡み、ほんの少し……切なげに笑われた気がする。
「……っと、これを着て下さい。そんな簡単にひとに身体を見せるなんて、安っぽいことをしないで下さい」
「俺は見せたいけど」
「私は見せたくない」
苛立った声を出した課長は、結城を遮るようにして、彼が脱いだカーディガンをあたしの肩に羽織らせた。
その時、彼の髪先が汗で濡れていることに気づいた。
「濡れてる……。汗……まさか熱!?」
「それはもう大丈夫、おかげさまで今日は平熱です。……最短でここに来るのに必死で、渉さんすらダシに使うほど焦っていたのだから、汗くらいかくでしょう。別に驚くことでもない。ではまた」
会釈しながら課長が出て行った。
ねぇ、課長。
そんなにまでしてここに来た理由、なんだったんですか?
それが聞けないあたしは、結城から手を離してその場で蹲る。
カーディガンから課長の匂いがした。
遠くに見える警察官となにか喋っている課長がぼんやりと……滲んで見えたのは、汗のせいか涙でも出ているのか、よくわからない。
ただ――ここに課長が居た。それが感慨深くて、課長の感触がまだ残る小指をじっと見つめていたら、後ろから結城に抱きしめられた。
「結城っ、見られてる!!」
課長がこっちを見ている気がして、焦った。
「あいつくせぇ。こうやって守っているつもりかよ、ここに来たのも……騎士(ナイト)気取りか。俺は自慢してぇのに、あいつにとってはそれが不健全か。……ここまでするほどの独占欲だって言うのか」
「結城ってば!!」
「あいつの見ているところで、お前を抱きたい」
「な!」
「俺の名前呼ぶお前を、最後まで抱きたい。……あいつに見せつけたいっ」
結城の声が震えた。
「……なんでそんな顔をさせるのが、あいつなんだよ。どうして俺には、満月しかそんな顔をしねぇんだよ……」
「そんな顔って? あたし何か違うの?」
「……無自覚か。誰が言うかよ、くそっ」
……課長は警官と共に既に視界から去り、そこにはもう課長の影すら見えなかった。
置いていかれた寂寥感と、結城を置いてはいけない諦観のようなものに苛まされる。
いつもあたしを引き上げ明るくあたしを守ってくれる結城が、子供が泣いているような頼りなさを見せていた。
置いていくなと縋られている――。
まるで満月の現場を初めて見られた時のように、彼は泣いている気がした。
あの時連れ出した結城は、泣いてあたしを叱り、満月の相手は自分にしろと宣言した通り……それであたしを今まで救い続けてくれたのだ。
結城がこうなっているのは、課長を追ってしまうあたしのせいだと十分にわかればこそ、心が膿んでいるような、じくじくとした鈍い痛みを感じながら、あたしはそこから動くことが出来なかった。
結城に笑って貰いたい、それを強く願えばこそ――。
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