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第一章
予兆
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コポ、コポコポ……。
気泡が登っていく音が耳を掠める。
葵は底なしの海底へとゆらゆら沈んでいく。
そのうち光が遮断されるところまで落ちてきた。
落ちていくにつれて、今度は軽快な音楽が近づいてくる。
いつの間にか地に足がついていて、ついに底に辿り着いたのだとわかった。あたり一帯が闇でおおわれて何も見えない。
急に音楽のボリュームが高くなり、ビクリとする。そんな奇妙な空間とは裏腹に、軽快な鼓と、小鳥のさえずりにも似たお囃子が、祝言を祝う音であることを告げている。どこかで聴いたことのあるような音楽だ。いつ、何処でかは覚えていないが。
葵の前には、いつの間にか白無垢を着た花嫁がうつむき、鎮座していた。
顔は見えないが、その様子は決して幸福ではなく、むしろ失望感が伝染してくる程に生気がない。
その花嫁と対峙するように、葵は立ち尽くしている。
何度も近づこうとしてみたが、地に足が張り付いたようにピクリとも動かず、声を掛けようにも、喉が枯れたように空気中で掠れるだけだった。
ピタリと音楽が不自然に止まり、しんと静まり返った。闇がより深くなったような気がして、葵の心に不安が津波のように押し寄せる。
これから何かが起こる予感がする。
ツーっと、葵の額を雫が伝うのを感じた。
(──何?)
花嫁の様子がおかしい。
急に身をよじりだすと、車で急ブレーキでもかけたかのようにガクンと前のめりになった。その勢いで純白の綿帽子吹っ飛び、葵の足元にくしゃりと落ちた。
葵は棒のように動かない足元を見つめることしか出来ない。
花嫁が言葉にならない声で呻き出した。
その嗚咽は怒り狂った獣のようだが、どこか哀愁が漂っている。
(──怖い!)
両手で自分の体を抱いて震えを止めようとするが、恐怖は増すばかりだ。
今すぐ逃げ出したいのに、やはり体は思い通りにならない。血管がドクドク脈打ち、呼吸が荒くなる。
花嫁が伏せっている床から、赤黒い液体が這うように流れ、葵の足元をドロドロと覆っていく。
足元から視線を戻すと、花嫁がゆっくりと上体を起こすところだった。
まるで地中から這い出でるような動きを、見てはいけないと思うのに、視線を逸らすことも、目を閉じることさえも出来ない。
遂に花嫁が顔を上げる。
葵は目を見開いた。
綿帽子の下から覗くのは、葵と瓜二つの顔。
その目から地面を覆う液体と同じ赤黒い血が流れ、純白の着物にシミを作り、じわじわと染め広がっていった。
荒い呼吸に混じって洩れる声は悲鳴にすらならない。
(──嫌だ! 助けて! 誰か!)
額から流れ落ちた汗が目に入り、反射的に目を瞑ってしまった。
目を擦り、恐る恐る瞼を持ち上げる。
全身の筋肉が硬直した。
赤黒く汚れたもう一人の葵の顔。
瞬間移動でもしたかのように音もなく、目の前スレスレに立っていた。
同じ背格好で頭の位置も一緒なせいで、互いの顔を間近で視認し合う。
光のない瞳は、この空間と一緒の色をしている。
────死神。
少なくとも葵の眼にはそう映った。
(──私、死ぬんだ……)
葵の胸、ちょうど心臓の位置に同じ顔をした死神が手を置いた。
その瞬間、血で汚れた皮膚から腐敗したようにただれ、みるみるうち剥がれ落ち、筋肉、骨すらもボロボロに砕け、その灰は最後まで残っていた手を伝って、葵の体内へと侵入していき、やがて姿を消した。
大きく痙攣して飛び起きた。
鮮やかな緑で覆われた木々の隙間から見える、澄んだ色の青空を、数匹程度の小鳥の群れが悠々と横切り、葵はようやく安堵した。
暖かな小春日和と穏やかな潮騒が心地よくて、いつの間にか居眠りしてしまったらしい。
「──夢じゃん、バカみたい」
じんわり汗までかいている。
本気で死ぬなんて思い込んで、今のを誰かに見られていたら、さぞ恥ずかしい思いをしたことだろう。
幸い、こんな場所に人が来ることなどまず無いが、それにしても、ただの夢であったことに脱力した。
海岸から鳥居をくぐり、手漕ぎボートでほんの五十メートル程進んだ先、離島とまではいかない規模だが、草木が青々と茂る芝生の上にぺたりと座ったまま、ぼんやり地平線を眺めた。
葵の背後、島の中央にはポツンと小さな祠があり、その前には直径一メートル程の古い井戸が祀られていて、安全を考慮してか、木製の蓋が被されている。さらに側面にしめ縄がぐるりと一周巻かれているせいもあり、一見、神聖なもののように見えるが、葵は何となく、それが良い物に感じたことがない。といっても、蓋やしめ縄で封印されているし、怖がる程でもない。
その脇に添えられた石碑には達筆な字で、井戸にまつわる言い伝えが長々と綴られているが、年季が入っている為、所々が消えかかっており、肝心な神様の名前すらも解読が出来ない有様だ。
(井戸だから水にまつわる神様かな?)
いずれにせよ、葵にとってはあまり興味のないことだった。
ただ、来客が滅多にないという地元の穴場スポットなだけに、考え事をするのにこれ以上の好条件が揃った場所は他に無いだろう。
一人になりたい時は必ずここに足を運ぶ程、葵にとっては一番落ち着ける場所なのだ。
それも、まだ赤ん坊だった葵が、この場所で発見されたことも理由のひとつかもしれない。
つまり、ここは葵にとっての始まりの場所でもある。
木板をぐるりと繋げただけの、簡素な箱、──ほとんど銭湯にあるような桶にしか見えないようなものだったらしいが、とにかくその中に、ボロ布に包まれ、祠の前に置かれていたらしい。状況からして、相当貧困に悩んだ末の結果なのか、なんなのか……。
(なら、子供なんて作らなきゃいいのに……)
葵はすぐに施設に預けられ、一歳にもならずして、今の養父母に引き取られた。
当然だが、生みの親の顔も、本当の誕生日すら知らない。まあ、高校を卒業出来たとしても、決して探そうなどとは思わないが……。
葵はギリギリ肩につかない長さの髪をかき分けて、首の後ろに手を当てた。そこには火傷のような痕がある。
────五枚葉の花のような形。
この痕がアオイの花の形に似ているという理由で、今の両親は〝葵〟と名付けたらしい。
なぜこんな所に火傷痕があるのかは、生みの親にしか分からないだろう。
(ほんとは髪、伸ばしたいのに……)
そう思うのにできないのは、学校の校則で肩に着くと髪を結わなければならないからだ。こんな所に疵なんかがあるせいで、髪を結ったら目立ってしょうがない。
「あおちゃーん!」
本土の方からの呼び声が賢者タイムの終わりを告げる。
このまま考え続けていたら、徐々にネガティブな方へ落ちていってしまう。考え過ぎるのも良くないと分かっているのに、ついその傾向に陥るのは葵の悪い癖だ。
狙ったのかどうかは定かじゃないが、声の主はまさにグッジョブだ。その声が誰なのかは、この秘密の場所を知り、わざわざ葵を呼びに来る人物はごく限られるので、すぐに予想がついた。
「ナナ…… 」
立ち上がって制服のスカートに着いた草や土を手で払うと、手漕ぎボートを寄せた岸へと階段を下る。
反対側の岸の赤い鳥居の下に、同じ学校の制服を着た少女がピョンピョンと跳ねながら、これでもかと大きく両手を振っている。ツインテールにしている赤みの入ったブラウンの髪が、まるで兎の耳のようで可愛らしい。何度も跳ねるせいで、短く調整されたスカートがリズム良くめくれ上がり、今にも下着が見えそうだ。
葵はハラハラしながら手を振り返し、手漕ぎボートに乗り込むと、オールに手を伸ばした。
『……が……うす』
一瞬、手を止めたが、構わずオールを取り、急いでボートを漕ぎ出した。
(またか……)
直接頭の中に響く感覚。それが誰の仕業でもない事を知っている。
スイスイと、後ろ向きに進みながら遠ざかる島を端から端まで眺める。
もちろん、島には誰も居ない。
(なんでもない、大丈夫)
早くナナの元へ辿り着きたくて、手に力を込めた。
気泡が登っていく音が耳を掠める。
葵は底なしの海底へとゆらゆら沈んでいく。
そのうち光が遮断されるところまで落ちてきた。
落ちていくにつれて、今度は軽快な音楽が近づいてくる。
いつの間にか地に足がついていて、ついに底に辿り着いたのだとわかった。あたり一帯が闇でおおわれて何も見えない。
急に音楽のボリュームが高くなり、ビクリとする。そんな奇妙な空間とは裏腹に、軽快な鼓と、小鳥のさえずりにも似たお囃子が、祝言を祝う音であることを告げている。どこかで聴いたことのあるような音楽だ。いつ、何処でかは覚えていないが。
葵の前には、いつの間にか白無垢を着た花嫁がうつむき、鎮座していた。
顔は見えないが、その様子は決して幸福ではなく、むしろ失望感が伝染してくる程に生気がない。
その花嫁と対峙するように、葵は立ち尽くしている。
何度も近づこうとしてみたが、地に足が張り付いたようにピクリとも動かず、声を掛けようにも、喉が枯れたように空気中で掠れるだけだった。
ピタリと音楽が不自然に止まり、しんと静まり返った。闇がより深くなったような気がして、葵の心に不安が津波のように押し寄せる。
これから何かが起こる予感がする。
ツーっと、葵の額を雫が伝うのを感じた。
(──何?)
花嫁の様子がおかしい。
急に身をよじりだすと、車で急ブレーキでもかけたかのようにガクンと前のめりになった。その勢いで純白の綿帽子吹っ飛び、葵の足元にくしゃりと落ちた。
葵は棒のように動かない足元を見つめることしか出来ない。
花嫁が言葉にならない声で呻き出した。
その嗚咽は怒り狂った獣のようだが、どこか哀愁が漂っている。
(──怖い!)
両手で自分の体を抱いて震えを止めようとするが、恐怖は増すばかりだ。
今すぐ逃げ出したいのに、やはり体は思い通りにならない。血管がドクドク脈打ち、呼吸が荒くなる。
花嫁が伏せっている床から、赤黒い液体が這うように流れ、葵の足元をドロドロと覆っていく。
足元から視線を戻すと、花嫁がゆっくりと上体を起こすところだった。
まるで地中から這い出でるような動きを、見てはいけないと思うのに、視線を逸らすことも、目を閉じることさえも出来ない。
遂に花嫁が顔を上げる。
葵は目を見開いた。
綿帽子の下から覗くのは、葵と瓜二つの顔。
その目から地面を覆う液体と同じ赤黒い血が流れ、純白の着物にシミを作り、じわじわと染め広がっていった。
荒い呼吸に混じって洩れる声は悲鳴にすらならない。
(──嫌だ! 助けて! 誰か!)
額から流れ落ちた汗が目に入り、反射的に目を瞑ってしまった。
目を擦り、恐る恐る瞼を持ち上げる。
全身の筋肉が硬直した。
赤黒く汚れたもう一人の葵の顔。
瞬間移動でもしたかのように音もなく、目の前スレスレに立っていた。
同じ背格好で頭の位置も一緒なせいで、互いの顔を間近で視認し合う。
光のない瞳は、この空間と一緒の色をしている。
────死神。
少なくとも葵の眼にはそう映った。
(──私、死ぬんだ……)
葵の胸、ちょうど心臓の位置に同じ顔をした死神が手を置いた。
その瞬間、血で汚れた皮膚から腐敗したようにただれ、みるみるうち剥がれ落ち、筋肉、骨すらもボロボロに砕け、その灰は最後まで残っていた手を伝って、葵の体内へと侵入していき、やがて姿を消した。
大きく痙攣して飛び起きた。
鮮やかな緑で覆われた木々の隙間から見える、澄んだ色の青空を、数匹程度の小鳥の群れが悠々と横切り、葵はようやく安堵した。
暖かな小春日和と穏やかな潮騒が心地よくて、いつの間にか居眠りしてしまったらしい。
「──夢じゃん、バカみたい」
じんわり汗までかいている。
本気で死ぬなんて思い込んで、今のを誰かに見られていたら、さぞ恥ずかしい思いをしたことだろう。
幸い、こんな場所に人が来ることなどまず無いが、それにしても、ただの夢であったことに脱力した。
海岸から鳥居をくぐり、手漕ぎボートでほんの五十メートル程進んだ先、離島とまではいかない規模だが、草木が青々と茂る芝生の上にぺたりと座ったまま、ぼんやり地平線を眺めた。
葵の背後、島の中央にはポツンと小さな祠があり、その前には直径一メートル程の古い井戸が祀られていて、安全を考慮してか、木製の蓋が被されている。さらに側面にしめ縄がぐるりと一周巻かれているせいもあり、一見、神聖なもののように見えるが、葵は何となく、それが良い物に感じたことがない。といっても、蓋やしめ縄で封印されているし、怖がる程でもない。
その脇に添えられた石碑には達筆な字で、井戸にまつわる言い伝えが長々と綴られているが、年季が入っている為、所々が消えかかっており、肝心な神様の名前すらも解読が出来ない有様だ。
(井戸だから水にまつわる神様かな?)
いずれにせよ、葵にとってはあまり興味のないことだった。
ただ、来客が滅多にないという地元の穴場スポットなだけに、考え事をするのにこれ以上の好条件が揃った場所は他に無いだろう。
一人になりたい時は必ずここに足を運ぶ程、葵にとっては一番落ち着ける場所なのだ。
それも、まだ赤ん坊だった葵が、この場所で発見されたことも理由のひとつかもしれない。
つまり、ここは葵にとっての始まりの場所でもある。
木板をぐるりと繋げただけの、簡素な箱、──ほとんど銭湯にあるような桶にしか見えないようなものだったらしいが、とにかくその中に、ボロ布に包まれ、祠の前に置かれていたらしい。状況からして、相当貧困に悩んだ末の結果なのか、なんなのか……。
(なら、子供なんて作らなきゃいいのに……)
葵はすぐに施設に預けられ、一歳にもならずして、今の養父母に引き取られた。
当然だが、生みの親の顔も、本当の誕生日すら知らない。まあ、高校を卒業出来たとしても、決して探そうなどとは思わないが……。
葵はギリギリ肩につかない長さの髪をかき分けて、首の後ろに手を当てた。そこには火傷のような痕がある。
────五枚葉の花のような形。
この痕がアオイの花の形に似ているという理由で、今の両親は〝葵〟と名付けたらしい。
なぜこんな所に火傷痕があるのかは、生みの親にしか分からないだろう。
(ほんとは髪、伸ばしたいのに……)
そう思うのにできないのは、学校の校則で肩に着くと髪を結わなければならないからだ。こんな所に疵なんかがあるせいで、髪を結ったら目立ってしょうがない。
「あおちゃーん!」
本土の方からの呼び声が賢者タイムの終わりを告げる。
このまま考え続けていたら、徐々にネガティブな方へ落ちていってしまう。考え過ぎるのも良くないと分かっているのに、ついその傾向に陥るのは葵の悪い癖だ。
狙ったのかどうかは定かじゃないが、声の主はまさにグッジョブだ。その声が誰なのかは、この秘密の場所を知り、わざわざ葵を呼びに来る人物はごく限られるので、すぐに予想がついた。
「ナナ…… 」
立ち上がって制服のスカートに着いた草や土を手で払うと、手漕ぎボートを寄せた岸へと階段を下る。
反対側の岸の赤い鳥居の下に、同じ学校の制服を着た少女がピョンピョンと跳ねながら、これでもかと大きく両手を振っている。ツインテールにしている赤みの入ったブラウンの髪が、まるで兎の耳のようで可愛らしい。何度も跳ねるせいで、短く調整されたスカートがリズム良くめくれ上がり、今にも下着が見えそうだ。
葵はハラハラしながら手を振り返し、手漕ぎボートに乗り込むと、オールに手を伸ばした。
『……が……うす』
一瞬、手を止めたが、構わずオールを取り、急いでボートを漕ぎ出した。
(またか……)
直接頭の中に響く感覚。それが誰の仕業でもない事を知っている。
スイスイと、後ろ向きに進みながら遠ざかる島を端から端まで眺める。
もちろん、島には誰も居ない。
(なんでもない、大丈夫)
早くナナの元へ辿り着きたくて、手に力を込めた。
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