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紫雨編

第一話  灰色の世界

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 ――……無意味なことだとしても……それでも俺は、なりたい自分になりたいんだ。


 曇り空の下で広がる廃れた灰色の街。
 出入り口である森の境に誰も通らないようにロープが張られており、その前には『立入禁止区域』と看板が立てられている。

 その向こうには、屋根や壁が所々剥がれ落ちている廃屋が並んでおり、荒廃した大通りにはゴミや鉄パイプなどが散乱していた。
 並んだ廃屋の一つに、人間社会から身を隠すように暮らしている少年。

 紫雨しぐれがいた。

「ん……」

 小さなうめき声を漏らし、紫雨の目が薄らと開く。
 ひびの入った窓に顔を向け、朝がきたのだと気づいた紫雨は横に寝ていたマットレスから上体を起こす。

「ご飯……」

 紫雨はマットレスから足を下ろし、億劫おっくうそうに部屋から出る。
 玄関の引き戸を開け、廃屋の裏に回ると、澄みきった川が流れている。
 紫雨は川岸にしゃがみ、水をすくった両手で歯や顔を洗い流す。

「ふぅ……」

 顔を洗ったことで、寝惚ねぼまなこだった紫雨の意識が覚醒する。
 ゆっくりと立ち上がり、きびすを返した紫雨は縁側の方へ向かう。
 やがて辿り着くと、そこには紫雨が川で釣った魚がひもで吊るされていた。

「うん……いい具合」

 紫雨は言いながら、付近にある戸が壊れた物置から七輪を引っ張り出す。
 マッチで着火した七輪にまきべ、紫雨は陰干しした魚を網板に乗せる。
 しばらく経つと、干物は程良く焼き上がり、芳ばしい匂いが鼻をつく。

「…………」

 紫雨は黙々と焼き上がった干物を食べ始める。
 上を見上げれば、一羽のからすがけたたましく鳴いて飛んでいく。

 紫雨はそれを呆然と眺める。
 食事を終えれば、町のゴミ置き場から収集した様々なジャンルの小説や絵本、雑誌、漫画を読んで楽しむ。

 十分に読書を楽しんだら、川で衣服の洗濯をする。
 夜になれば、ドラム缶に溜めた水を沸かし、髪と体を洗う。

 そして、眠る。
 その繰り返しだった。

 ――いつも通りの変わらない生活だ。


  ✿ ✿ ✿


 その日の夜、紫雨は人通りのない街中を歩いていた。
 紫雨は週に一度、廃墟地帯を出て、生活で必要最低限な物を収集している。

「ん?」

 粗大ゴミが捨てられるゴミ捨て場に向かっている途中、爪先に何かが当たり、紫雨は足を止める。
 視線を下げ、落ちている物が気になって拾ってみると、それは革でできた財布だった。

「……誰かが落としたんだ」

 紫雨は身分証を確認しようと、財布の中身を開く。

「……‼︎」

 開いてみると、万札と千円札が数枚入っていた。
 紫雨から見たら、かなりの大金だ。

(……これだけあれば、当分食事には困らない)

 紫雨の脳内に悪魔がささやく。
 常に食事が不定期で、紫雨は腹一杯にご飯を食べることを夢見てた。

(でも……)

 ――財布の落とし主はきっと困っているだろう。

 ――お金を盗んでまで、自分の望みを叶えてもいいのか?

 頭の中でもう一人の自分が紫雨を制する。
 心臓がドクンドクンと脈を打って、紫雨の心が揺さぶられる。

「……っ!」

 紫雨は脳内に響いてくる声を振り払うように大きく頭を振る。
 そして、踵を返し、ゴミ捨て場とは違う方向へ走り出したのだった。


  ✿ ✿ ✿


「ご協力ありがとうございます!」

 二十代くらいの若い警察官が紫雨にお礼を述べる。

「い、いえ……」

 あの後、紫雨は交番に足を運んだのだった。
 握り締めていた財布を警察官に手渡すと、紫雨はホッと息を吐く。

「そうだ。あなたの名前を伺いたいので、この書類に記入をお願いします」

 警察官は書類を取り出し、紫雨の前に置く。

「えっと……か、書かないとダメ……ですか?」

「はい、決まりなので。きっと持ち主もお礼したいと思いますし」

 それを聞いて、紫雨はバッと椅子いすから立ち上がる。

「あ、あの……お礼とか結構です。持ち主が見つかりさえすれば十分です」

 そう言って、紫雨はくるりと背を向け、交番から走り去った。

「え、ちょっと! 君!」

 警察官は慌てて追い掛けようとするが、紫雨は夜闇やあんに溶けて見えなくなってしまった。


  ✿ ✿ ✿


 「ハァ……ハァ……」

 交番からかなりの距離を離したとわかると、紫雨は立ち止まり、肩でぜえぜえと息をする。
 紫雨が逃げ出したのは、自分の正体を知られたくなかったのだ。
 妖怪という自覚はないが、常とはかけ離れた存在であることを理解していた。

(持ち主……見つかるといいな)

 財布を届ける前、紫雨は以前読んだ辞書の言葉を思い出していた。

 ――情けは人の為ならず。

 親切な行いが、巡りに巡って良い報いが自分に戻って来る。

(もし……これで叶うなら)

 ――誰しもが持っている幸福を手に入れたい。

 それは紫雨にとって憧れで、願いでもあった。
 紫雨はせめぎ合う不安と希望を胸に、今日もただ時間が過ぎる灰色の世界を生きるのだった。


  ✿ ✿ ✿


 街灯の照らされない路地裏で紫雨は不機嫌そうに歩いている。

「……最悪」

 足元に落ちている小石を蹴飛ばす。
 長年住処にしていた廃屋が取り壊され、寝所を失った紫雨は途方に暮れている。

「仕方ない。新しい住処が見つかるまで、公園で寝るか……」

 寝る場所を思案しても公園の他なかった。
 外で寝るのは、無防備な状態をさらけ出すことになり、紫雨の中で不安が過ぎる。

「最近あの事件が多発しているからな……」

 紫雨の言う『あの事件』とは、この地区で起きている連続猟奇殺人事件のことだ。
 最初の事件に巻き込まれた被害者は、立ち入り禁止とされている林の中で変わり果てた姿で発見された。

 正確に述べると、遺体の手足と首がバラバラに見つかり、肉片化していたそうだ。
 現場に残された足跡からして、どうやら犯人は集団だと判明した。

 警察は懸命に犯人の行方を追っているが、未だに捕まっていない。

「ハァ……物騒な世の中……」

 紫雨はここから近い公園へ目指そうと、次の角を曲がったところで足を止めた。

「……?」

 フワッと香ばしい匂いが鼻につく。
 どこかの飲食店から匂いが漂っているのだと思い、紫雨は気にせず公園の道のりを歩き始めようとする。

「…………」

 紫雨は先ほど鼻についた匂いが離れなく、目的の公園とは反対の道に振り返る。
 公園に行きたいのに、紫雨の体はまるで誘われるように匂いの先を辿って行く。
 初めてぐその匂いに、紫雨はどこか懐かしみを覚える。

(あそこからだ……妙にいい匂いがする)

 近づくにつれ、匂いが濃くなる。
 この向こうに一体何があるのか考える余地もなく、紫雨は歩を進める。

 ぴちゃ……

「?」

 ふと足元にできている水溜まりを踏む。
 最近雨は降っていないのに、どうして水溜まりができているのか不審に思い、紫雨は視線を下に向ける。

「――っ!」

 紫雨は驚愕きょうがくで顔を引きらせた。
 水溜まりだと思い込んでいたそれは――血だったのだ。

 街灯がない真っ暗な路地裏だが、夜目よめが利く紫雨にははっきりと見える。
 辿るようにゆっくり視線を上げると、壁際に人が寄り掛かっていた。

 身なりからして、年老いたホームレスの男性だ。
 いや、問題はそこではなかった。

 彼に――腕がなかったのだ。

 腕だけじゃない。
 足が引き千切れたみたいに無くなっていて、腹はえぐられ内臓が飛び出ていた。

 頭部に目がいくと、左右の眼球は取り出され、ただ穴となった二つの黒い眼窩がんかがおびただしい血を流しながら紫雨を見ている。
 明らかに死体だ。

 辺りを見渡すと、壁面のいたるところに血が飛び散っていて、蜘蛛くもの巣が無数に張り付いていた。
 蜘蛛の巣にしては、獲物を捕らえる網のような大きさだった。

(な……!)

 ホームレスの周囲に三つの人影が血の海に浮かんだ赤い肉塊をむさぼるように食べている。
 恍惚こうこつに自身の肌についた血を舐め取り、美味いと言いながらまたかぶりつく。
 よく見ると、彼らは人のような姿をしているが、背後には細くて長い虫のような足が八本ある。

(つ、土蜘蛛つちぐも……)

 彼らの特徴から正体を認識した紫雨。

(まさか……)

 変わり果てた死体。
 目の前にいる彼らが集団となって人を襲っている。

 この惨状さんじょうな光景に紫雨はあることに気がついた。
 自分は今、連続猟奇殺人事件の犯人に出くわしていることを……。


「…………」

 この光景に、紫雨は目を逸らさず眺めている。
 彼らが喰らっている血肉を見て、妙に空腹感を覚える。
 食欲をそそる血肉の匂いに、紫雨はゴクリとのどを鳴らした。

「……俺……何考えて……」

 人間の思考回路が染みついている紫雨にとって、信じられない感情だった。
 今すぐこの場を離れたいのだが、足が地面に張りついたみたいで動かない。

(やめろよ……人間を食べるとか冗談じゃない……)

 紫雨は頭では理解しているのに、それとは意に反して彼らが持つ血肉から目が離せない。
 自覚したくないのに、彼らが手に持つ血肉を奪い取り、欲望のまま血肉を貪りたい自分がいた。

(違う……違う……!)

 甘美な血の匂いが、まるで麻薬におかされたみたいに脳を刺激した。
 もう立っていられず、紫雨はその場でひざをついて両手で頭を抱える。
 その拍子に被っていたフードが外れ、隠していた獣耳があらわになる。

「ん?」

 食事で夢中になっていたリーダー格な土蜘蛛男がようやく紫雨の存在に気づき、こちらへと近づいて来る。

「チッ……んだよ、妖怪かよ」

 人間かと思って近づいたのか、男は期待外れして舌打ちする。

「ん? 何だこいつ……」

 男は鼻孔びこうにつく紫雨から漂ってくる匂いに怪訝けげんな表情を浮かべる。

「ちょっと、そいつ誰よ?」

 離れたところで土蜘蛛女が食事をしていた手を止め、男と向い合っている紫雨に気づく。

「おい、お前ら。来てみろよ」

 男は珍しい物でも見つけたかのように、他の土蜘蛛たちに声を掛ける。

「どうした? また獲物でも引っ掛かったのか?」

 彼の声に反応した他の土蜘蛛たちは、期待する笑みで駆け寄って来る。
 が、紫雨を見てすぐ落胆した顔になる。

「おい、こいつ妖怪だろ……」

「期待して損した~!」

「お前ら。こいつの匂い、何か変だぜ」

 男の言葉に、土蜘蛛女が紫雨の匂いを嗅ぎ始める。

「ホントだ……妖怪なのに、人間の匂いがするわ」

 彼女の発言に、他の土蜘蛛もそれを確かめるように紫雨の匂いを嗅ぎ始める。

「こいつ……妙にいい匂いするな」

「妖怪なのに変ね」

「だろ?」

 混乱していた紫雨はハッと我に返り、自分の目の前に土蜘蛛が群れていることに気づいて声を上げる。

「うわっ!」

 紫雨は三人の土蜘蛛を払い除け、尻餅ついたまま両手を使って後退する。

「おいおい、逃げんなよ」

 男は不敵な笑みを浮かべ、尻餅をつく紫雨と向い合わせにかがむ。

「お前、本当に妖怪か?」

「俺は……」

 紫雨は戸惑いながら視線を下に向けると、男が手に持つ赤い血肉が目に入る。
 紫雨の視線に気づいた男は血肉に目を向けた後、すぐに紫雨に戻す。

「欲しいのか? でも、やらねぇぞ」

 悪戯いたずらな笑みで言うと、紫雨は血肉から目を逸らしてこう発した。

「いらない……」

「は?」

 期待していた反応が違ったのか、男は面食らった顔をする。

「その割には、食べたそうな顔をしてるぞ」

 男は紫雨の反応を面白がるように、血肉を紫雨の目前にかかげる。

「い……いらない!」

 紫雨は強く理性を保って、男が持っていた血肉を払い落とす。
 落ちた血肉はベチョと生々しい音を立てて変形する。

「チッ……うぜぇ」

「うっ!」

 次の瞬間、紫雨は腹に大きな衝撃を受け、呼吸が止まる。
 体はガクンと前に倒れ、意識が闇の中へ落ちていく。

「おい、お前ら。連れてけ」

 意識を失ったことを確認すると、男はあごをしゃくって仲間を紫雨の方へうながす。
 仲間たちは言う通りにし、何やら楽しげに紫雨をどこかへ連れて行ったのだった。
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