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第十一章 閉ざされた心

第五十五話 本当の気持ち

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「……っ!」

 そこはまるで、別世界に入り込んだような空間だった。
 暗闇に立ち込まれていた洞窟から青の照明で照らされたような光が広がっていた。
 光を創り出しているのは、岩の地に数々生えている青い水晶が反射し、青く澄んだ川の水面が空でも映したような輝きに満たしていた。

「水の音はここからしてたんだ……」

 沙希は納得したように呟いた。
 青くけがれのない美しい光景に目を奪われていると、幻想的な色を帯びた一匹の蝶が沙希のところへ飛んで来た。
 しばらく見入っていると、蝶は沙希を待っているかのように離れなかった。

(ついて来い、ってこと……?)

 そう思い歩を進めると、蝶は沙希の距離を保つように前方に向かって浮上し始めた。
 蝶が上下左右に身を揺らすたび、羽ばたいているはねが万華鏡のごとく、鮮やかな色彩に変わる。

「どこに向かってるのかな……」

 沙希は見失わないように導く蝶の燐光りんこうを追っていると、目的地と思われる場所に辿り着いた。
 蝶は岩壁に沿って高く浮上したかと思えば、光の粒子に分散して消えた。

 すると――。

「わ……!?」

 突然、岩壁だと思っていた場所が横にすべるように開き、その向こうに板張りの細い通路が見えた。

「隠し扉……」

 沙希は迷いなく、板張りの通路に踏み込んだ。
 通路の中は薄暗いが、全く暗闇というわけではなかった。

 壁に飾られている蝋燭ろうそくの炎が照らし、長く続く通路の先は真黄色まきいろすすけたふすまが一つだけあった。
 そうして程無くして襖の前に辿り着いた。

「ここに何があるんだろう……?」

 沙希は胸に恐怖を抱きつつ襖を横に滑らせた。
 襖を開けた途端、暖かい光が沙希を包み込んだ。
 まぶしい光で閉じていた目を開くと、沙希は辺り一面を覆い尽くす草原の中に立っていることに気づいた。

「ここは……」

 すると、遠くから陽気にはしゃいだ幼い女の子の笑い声が聞こえた。
 振り返って見ると、草原の向こうで黒い和服を着た青年と巫女装束を着た幼い女の子が仲睦まじく手を繋いで歩いていた。

(あれは……風夜。それにあの女の子は……千明さん?)

 幼い千明は繋いでいた手を離すと、風夜と向き合う形で前に出て両手を上げた。

「風夜! 肩車して!」

「しょうがねぇな……ほら、来い」

 風夜は幼い千明の腰に両手を添えると、小さな体を軽々と持ち上げ、自分の肩に乗せた。

「わーい! 高い! 高い!」

「楽しいか?」

「うん!」

 風夜はそのまま肩に幼い千明を乗せ、草原の通り道を歩いて行った。

(もしかして……ここ、風夜が見ている夢の中……?)

 そこで、葉をのせた風が沙希の前を通り、風圧で視界がさえぎられる。

 再び目を開くと、草木の匂いに包まれた草原はどこにもなく、高い塀のある豪邸ごうていな屋敷の敷地内に沙希は立っていた。
 桜が舞う木の下で、幼い千明が手毬てまりで遊んでいた。

 縁側では、見守る視線を注ぐ風夜の姿があった。
 一際強い風が吹き、幼い千明の長い髪を結っていた赤い髪紐かみひもがするりとほどけた。

「風夜! 髪結って!」

 幼い千明は艶やかな長い黒髪をなびかせながら、風夜の元へ駆け寄った。

「はいはい」

 勢いよくひざの上に飛び乗られ、風夜は苦笑を浮かべながらも慣れた手つきで幼い千明の黒髪を後ろへ束ねる。

「ほら、できたぞ」

「風夜、ありがとう!」

 幼い千明は首だけ振り返らせ、太陽に負けないくらい眩しい笑みを浮かべた。
 それが風夜の頬を自然とほころばせ、彼は愛おしそうに幼い千明の頭を撫でた。
 景色は再び変わり、十六歳を迎えた千明は風夜と契約を結び、数々世に災いをもたらす鬼神を現世からほうむった。

「風夜……」

 つづられる思い出の中の風夜は、沙希が今まで見たことのない幸せな表情と笑顔をしていた。
 思い出が幾度も繰り返されていく光景は、まるで幸福の時間に満ちた箱庭みたいだ。

「…………」

 兄妹のように睦まじい仲を邪魔するのが忍びなく、沙希は自分の中で何かが揺らぎ始めたのを感じた。
 甘く切ない空間にいる風夜はとても幸せそうだ。
 それを残酷に引き離すということは、風夜にとって耐え切れない苦痛を背負わせてしまう。

(でも……このままじゃ、風夜は救えない……)

 先の方を見やると、絵巻物のように繰り広がる光景の向こうに濃くて深い闇の境目があった。

(あそこに風夜がいる……)

 沙希はそう直感し、境目に向かって歩き出した。
 この先への不安と微かな期待がせめぎ合う中、沙希の足は前方へ目指していた。
 やがて遠く見えていた境目に辿り着いた。

「風夜、そこにいるの?」

 声を掛けてみるが、向こうからの反応はなかった。

「……!?」

 沙希は緊張な面持ちで一歩踏み出そうとした時、足先から見えない衝撃が走り、反射的に引っ込めた。
 キーンと甲高い耳鳴りがした。
 遅れてから獣の低い唸り声が聞こえ、その威嚇いかくを帯びた鳴き声は「こっちに来るなッ!!」と言っているような強い拒絶を感じた。

「そこにいるんだね……」

 確信した沙希は意を決し、境目に踏み込んだ。


  ✿ ✿ ✿


 そこは見覚えのある家屋の敷地内だった。

「……?」

 壁に囲まれた仄暗ほのぐらい部屋の中央には物思いに沈んだ人物の姿があった。
 沙希は目を凝らすと、その人物が誰なのかすぐに気づいた。

 風夜だ。

 彼の手足には頑丈なかせめられていて、鎖がともなく知れない闇の中へ伸びている。

「風夜……!」

 沙希が呼び掛けた時、風夜はハッと驚いて顔を上げた。

「よかった……」

「来るなッ!!」

 沙希は風夜の元へ行こうとした途端、彼は声を上げた。

「俺の居場所はここしかないんだ……帰れよ」

「風夜。私は風夜と話がしたいの。だから……」

「帰れよッ!!」

 すると、沙希の腕が何かに引っ掛かり、体が後方へ戻ってしまった。
 よく見ると、沙希の腕に透明な細い糸が絡まっていた。
 そして、暗がりで気づかなかったが、壁には異様な大きさの蜘蛛くもの巣が無数に張り付いていた。

「お願い、風夜! 話を聞いて!」

 沙希は腕に絡まった蜘蛛の糸を取り払い、風夜の元へ行こうとすると、壁に張り付いている蜘蛛の巣が行く手をはばむように糸が伸びた。

「絶対に守りたかった人を死なせた俺に戻る資格なんかねぇ‼︎」

 風夜が拒絶を繰り返す度、沙希との間に蜘蛛の巣が囲った。

「風夜……アンタが答えてくれるまで、私は何度でも呼ぶよ」

 糸の強度と粘着力は思ったよりももろく、沙希は四肢に絡みつく蜘蛛の糸を払い落とすことができた。

「風夜。昨日風夜が言った質問に、答えられなくてごめんね。言い訳になるけど……私の気持ちを風夜に言ったところで信じてもらえないって思ったの……」

 沙希は言葉を紡ぎながら、前へと進んでいく。
 風夜に近づく度、蜘蛛の糸は沙希の動きを封じるだけで、大して抵抗はなかった。

「でも、今なら言える」

 そうして沙希はしつこく体に絡み続ける蜘蛛の糸を全て取り払った。
 風夜との距離が近くなった途端、壁に張り付いていた蜘蛛の巣が灰になって崩れた。

「私は風夜と出会えてよかったよ。本当に後悔しているなら、風夜との契約は解除してるよ……。それに、風夜と出会えたお陰で、私の世界が広がった。だから、風夜にはすごく感謝している」

 沙希の瞳に真剣な思いが込められていた。

「…………」

 沙希の口から出た思いに、風夜は言葉にはできないくらいの感情が込み上げた。
 長い沈黙ちんもくが流れた。

「……失うのが怖いんだ」

 風夜がポツリと呟いた。

「夕凪が下界に襲来したあの日、俺はあいつが守ってきたものを壊されるくらいなら、自分の命くらい差し出せる覚悟はあった」

 でも……と風夜は言葉を続ける。

「その結果、夕凪を助けられなかったどころか、千明まで死なせてしまった。守るとか言っといて……結局は口先だけだった」

 千明を失ったあの日から、風夜は計り知れないほど打ちのめされていただろう。
 それが風夜にとって、千明を守れなかった不甲斐ふがいなさや怒りや後悔によって生まれた絶望感、虚無感、喪失感、無力感、あらゆる感情が体中に駆け巡った。

「あの事件以来、俺は誰かと繋がる考えを捨てた……繋がりを失って苦しむくらいなら、独りの方がずっといい……」

「…………」

「そう決めていたのに……沙希と出会って……そこから陽向たちとの繋がりができた。お前らと一緒にいて、居心地が良いと感じる度、俺はどこか恐怖を覚えたんだ」

 風夜はふっと俯かせ、顔に影を落とした。

「記憶を失っても……あの日抱いた喪失感が強く根付いて、そう簡単に消えなかった……」

 風夜は己をむしばんだ感情から心身の破壊を防ぐため、無意識に孤独の道を選んだのだろうと思った。
 しかし、完全に記憶が消えたわけではなく、人との繋がりができる度に風夜は恐怖心を抱くようになったのだ。

「もう……千明に謝ることもできねぇ。何で……夕凪と千明のことを忘れて、俺はのうのうと生きてんだよ……俺は間違えて――……」

「違うよ」

 風夜の言葉を沙希はさえぎって言う。

「千明さんも風夜が思っているように、生きていて欲しかったんだよ。だから、風夜のことを恨む気持ちなんてないし、謝罪なんか望んでない」

 沙希は悲しみを抑え、言葉を紡いでいく。

「風夜は夕凪を助けたかったんでしょ? 皆を守りたかったんでしょ? それが自分で正しいと思ったなら、簡単に間違えたって決めつけちゃダメ。風夜は千明さんの思いまで否定するつもりなの?」

「……!」

 沙希の言葉に風夜はハッとする。
 風夜は千明を失ったことで、自分を責め立て追い込み、最終的に自分を見失ってしまった。
 それが風夜の償いで、『枷』になっていたのだ。

「風夜……。アンタが言いたいのはそこじゃないでしょ」

 沙希は風夜の大きな背中に両腕を回し、そっと引き寄せるように抱き締めた。

「風夜、もう一人で抱え込まないで……風夜が私を助けてくれたみたいに、私も風夜を助けたいんだよ」

「……っ」

「大丈夫、大丈夫だから……」

 いつしか風夜が介抱してくれたように、沙希は風夜の背中を優しく撫でた。

「――風夜の本当の気持ちを聞かせて」

「……俺は」

 沙希の心地良い声と背中から感じる温かい体温が心を溶かし、風夜はせきを切ったように言葉が溢れ出た。

「本当はわかってたんだ……。でも、違うんだ……俺はただ……千明とずっと一緒にいたかった。また、桜を一緒に見たかった……」

 風夜は絶対に泣くまいと決めていた。
 いや、泣く資格がないと思い込んでいた。
 だから、千明の葬儀でも泣かなかったのだ。

「――好きだって……伝えたかった」

 もう限界だった。
 それ以上言葉は続かず、風夜は嗚咽おえつを漏らした。

 まるで縛られていたものから解放されたかのように、とうとう沙希の腕の中で泣き崩れた。
 目尻に大粒の涙が浮かび、一筋一筋が頬を濡らして止まらなかった。

(やっと言ってくれた……)

 子供のようにしゃくり上げる風夜を沙希は安心させようと黙って強く抱き締めた。
 風夜の手足に嵌っていた枷と鎖が割れ、自由になった両腕が沙希の華奢きゃしゃな背中に回る。

 同時に部屋の壁に大きな亀裂きれつが入り、裂けた隙間から光が差し込んだ。
 次の瞬間、壁全体が音を立てて崩れ落ち、辺り一面が真っ白に包まれた。


  ✿ ✿ ✿


 深い昏睡こんすいの水底から、意識が薄っすらと明るい場所へと浮かび上がる。
 風夜の耳に微かな音が聞こえた。
 ゆっくり耳を澄ましてみると、その音は柔らかく澄んでいて、不思議と泣きたくなるくらい心安らぐものだった。

(……誰だ?)

 音と認識したものが言葉となって形を表し、風夜を呼んでいるように聞こえた。
 その声を辿るように、風夜の意識が徐々に現実へと引き戻され、暗闇に沈んでいた水底にまぶしい光が降り注いだのだった。

「う……ううん……」

 うめき声を漏らし、ゆっくりと開いた風夜の視界には草木に覆われた天井が入る。
 そのわずかな隙間からは橙色だいだいいろをした細長い雲に色づいた空を覗かせ、差し込んだ西日が風夜の目にみた。

 耳を澄ませば、遠くに聞こえるひぐらしの鳴き声が幾つも重なっていた。
 それが風夜の意識を更に覚醒させ、自分はどこかの公園の屋根付きベンチの下で横になっていることに気づいた。

「風夜」

 ぼんやりとした視線で辺りの様子を伺っていると、不意に自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
 首だけ動かすと、隣で安堵あんどを浮かべた祐介と陽向の姿があった。

 己の左手から温もりを感じ、誰かに掴まれている感覚がある。
 視線を動かすと、傍で涙を浮かべた沙希がいた。

「沙希……」

 そこで、深い暗闇の意識から自分を呼び掛けていたのは、沙希なのだと気づいた。
 唐突にそれまでの出来事が風夜の胸の奥底から言い表せない感情が溢れ出ていた。
 沙希は命を懸けてまで、夢にとらわれた自分を光の元へ引き戻してくれたのだ。

 ――君のことを待っていてくれる人を心配させるなよ。

 と、紫雨の言葉が過る。

 その瞬間。

 風夜は今まで目を逸らしてきたものの大切さが心の底から実感させられた。
 そして、今もしっかり掴んで放さない陽の光のように優しい沙希の手をそっと握り返した。

 ずっと繋がることを躊躇ためらっていた手に、抵抗感も恐怖感もなかった。
 握り返してくれた風夜の手に、沙希は泣き笑いを浮かべた。

「……おかえり、風夜」

 風夜は知らずに笑みを浮かべ、万感ばんかんの思いで呟いた。

「――ただいま」
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