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第十一章 閉ざされた心

第五十一話 精神空間

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「ここは……?」

 地を踏みしめる感触に、沙希はゆっくりまぶたを開ける。
 映った視界には、見知らぬ薄暗い部屋の中に沙希は立っていた。

 目の前には無色のふすまがあり、足元はたたみ敷きで十畳くらい広がっている。
 光のない部屋を照らすように、蝋燭ろうそくの炎が燭台しょくだいの上で揺れている。

(ここが……風夜の精神空間……)

「やあ、試練以来だね」

「!?」

 ここがどこなのか認識した時、不意に聞き覚えのある声が聞こえた。
 沙希は驚いて後ろを振り返ると、全開になっている障子の向こうに縁側が見える。
 そこには月と星がない闇に立ち込まれた景色で、クロが両足を投げ出して座っていた。

「クロ……」

「風夜を捜しにここへ来たみたいだけど……彼は君に会いたくないって」

「……風夜がどこにいるか知ってるの?」

 沙希は縁側に足を踏み入れ、クロの方へ駆け寄る。

「お願い、風夜がどこにいるか教えて!」

「教えない」

「どうして!?」

 上空をあおいでいたクロが沙希の方に視線を向ける。

「あのさ。風夜を見つけたとして、君のところに戻って来ると思う?」

「え……」

「絶望にとらわれている彼に会ったところでどうにもならないよ。記憶が戻っちゃったからね……。今は陽向の機転のお陰で、毒龍の魂に見つからないように風夜の魂を隠すことができたけど……」

 クロはいの表情を浮かべて、溜め息を吐く。

「俺は風夜の〝抑制〟なんだ。長い間、封じ込められていた毒龍の魂と記憶を制御してきた。けど、夕凪が邪魔したせいで、俺の力が弱まってさ……」

 クロは再度真っ暗な空を見上げる。

「この空を見てよ。風夜が心を閉ざして、ずっと光のない闇が続いている。今の彼に、沙希の声は届かないよ」

「……それでも、私は風夜と会って、ちゃんと話がしたい。私は……言いたくないことだったら、聞こうとは思わなかった。でも……それは風夜のことを知ろうとしなかったんだ……」

 沈黙ちんもくが流れる。
 クロは真っ直ぐに、必死で泣くまいとこらえている沙希を見つめる。

「君に天岩戸あまのいわとが開けるかな……」

 クロは手元にある竹とんぼを手に取る。
 心棒を両手で擦り合わせ、回転させた揚力で空へ飛ばした。
 竹とんぼは、遠く真っ直ぐ闇の中へ吸い込まれていく。

「何あれ?」

 いつまで経っても地面に叩きつけられる音が聞こえなかった。
 沙希は不審に感じていると、竹とんぼが飛んだ先に見える闇の地平線から、ぼんやりと赤い物が浮かび上がった。

「え……?」

 目を凝らすと、沙希の目前に赤い鳥居が現れたのだ。

「風夜のこと知りたいなら、あの鳥居をくぐればいいよ」

「あの鳥居に行けば、何かわかるの……?」

 沙希は縁側から降り、鳥居に向かう。
 歩くほどの距離でもなく、すぐに到着する。

「…………」

 沙希は少し緊張して、鳥居に足を踏み入れる。
 一歩踏み出した足が暗闇に溶け込む。
 鳥居を潜ると、急に視界が暗闇に閉ざされた。

 振り返ると、頼りない蝋燭の灯りで照らしていた古い藁葺わらぶき屋根の民家が消えていた。
 前に視線を戻すと、遠く続く先は暗い道しかなく、背筋が冷えるのを感じた。

(行こう……)

 この手掛かりとなる空間を進んで、風夜ともう一度向き合いたい。
 沙希は意を決して、前へ進み始めた。

 周りを見渡しても何もなく、ひたすら暗闇だけが続いている。
 足元と先の道が見えないせいで、どこまで進んだのか方向と距離感が全くわからない。

(真っ暗……何も見えない)

 沙希は歩きながら、中学生の時、京都の修学旅行で訪れた清水寺の隋求堂ずいぐどう胎内めぐりを思い出す。
 歩く度、あの洞窟内で抱いた暗くて何も見えない恐怖と同じ心境になっていく。

 でも、今歩いている空間とは異なり、壁に巡らされた数珠じゅずを頼りに進むことができず、一ヵ所だけ明るい隋求石もないのだ。
 この空間では、虚空しか掴めなく、足元は無限に広がっている。

 自分の直感で進むしかない。

「?」

 歩いて行くうちに、黒以外何もない空間に変化が起きた。
 前方から小さな光が見え、ようやく出口に近づいたのだと、沙希は足を速めた。

「――!?」

 突然、出口だと思っていた光が辺り一面を白く包み込んだ。
 放たれたまぶしい閃光せんこう網膜もうまくを刺激し、沙希は思わず目をつむる。

(……? この匂い……?)

 そよ風が沙希の傍を吹き抜け、空気中を一瞬で立ち込めたさわやかな香りが鼻につく。

「……!!」

 その香りにつられるように目を開くと、沙希の視界に現れたのは白桜しろざくらの巨木だった。
 上を見上げれば、周囲に咲き誇っている桜に切り取られたような雲一つのない青空を覗かせ、眩しい陽光を差し込んでいた。

 暗闇の空間から、幻想的に彩られた美しい光景に変わり、沙希は思わず目を見張ってしまう。
 ほんの一瞬の間がとても長く感じた。
 桜の花弁を乗せた風が舞い、沙希の結った長い髪がなびく。

「おーい! 千明!」

 聞き覚えのある声に、沙希はハッと隣を向く。
 少し遠く離れたところに、舞い落ちる花弁の中で一匹の黒狼が駆け走っていた。

(あれって……風夜!)

 間違いなくあの黒狼は風夜だった。
 しかし、周囲にまとわりついていた邪気が微塵みじんもなかった。
 この光景と健全な風夜の姿に、沙希の中で疑問がすぐに解けた。

(ここって、風夜の記憶……?)


  ✿ ✿ ✿


 風夜は次の巨木を通ると、四足歩行だった足が瞬時で二足歩行に変わり、獣だった体つきが人肌に変化した。

「……ったく、どこに行ったんだよ――いてっ」

 風夜は歩いていると、前頭部に柔らかい衝撃が走り、それが草木の上に転がる。

「……ん? お手玉……何でこんな物が?」

「おーい! 風夜ぁー!」

 花柄のお手玉を拾い上げ、頭に疑問符を浮かべた時、突然風夜の頭上から活気な声が降り注いだ。
 上を見上げると、風夜が捜していた人物が巨木の枝に乗って大きく手を振っていた。

 艶やかな長い髪を赤い髪紐かみひもで結い、雪のように透き通った白い肌と澄んだ黒い瞳。
 巫女みこ装束に身をまとった十代後半の少女だ。

「風夜も登って来なよ! すごくいい眺めだよ!」

「何してんだよ、千明! 危ねぇぞ、早く下りて来い!」

「平気だって!」

 千明と呼ばれた少女は、風夜の注意を聞かず、更に木の枝に足を引っ掛けて登ろうとした。
 この後、風夜が予感していた光景がすぐに視界へ飛び込んで来たのだった。

「うわっ!」

 千明は木に引っ掛けていた足をすべらせ、体のバランスを崩した拍子に重力で容赦ようしゃなく急降下する。

「……?」

 しかし、いつまで経っても恐れていた衝撃は起きなかった。
 代わりに温もりが体を包み、千明は疑問に感じて目を開くと、そこには呆れ顔を浮かべた風夜がいた。

「ほら見ろ……言わんこっちゃねぇな」

「風夜……」

 すんでのところで風夜は、草木の地と千明の間を滑り込んで抱き止めたのだった。

「お前な、何でいつも後先考えずに行動するんだよ! 高いところから落ちたらどうなるっていう想像をどうして働かせないんだ!」

 まるで幼い子供の粗相そそうを叱る親のようで、今の風夜では考えられない性格だった。
 怒りの形相する風夜に、千明は苦笑いしつつ、すぐに屈託のない笑顔を見せた。

「ごめんって! それより、はい、これ!」

 千明は手に持っていた小枝に咲いた桜を風夜の黒髪に差し込み、髪飾りにした。

「過去最高記録まで登れたんだ! すごいでしょ!」

 この桜はその時に摘んだものなのだろう。

「ったく……」

 風夜はハァ……と溜め息を吐くが、何はともあれ千明に怪我がなかったことに安堵あんどした。


  ✿ ✿ ✿


 風夜と千明は満開に咲いた桜のトンネルの先を歩いて行くと、薄桃色だった景色が唐突に広い緑の野原に出た。
 前方の先には小さな丘があり、その中央には周囲にある巨木より一回り大きい桜があった。
 二人はその白桜の下に腰掛けると、風夜は手に持っていた風呂敷を解いた。

「ほら、お前の大好物の甘味だぞ」

「待ってましたー!」

 木箱を開けると、薄桃色をした可愛らしい桜餅が顔を出した。
 千明は待ちきれんばかりに素早く桜餅を手に取ると、すぐにかぶりつく。
 包まれた葉のほどよい塩味と柔らかい餅と餡子あんこの上品な甘味が口いっぱいに広がり、千明の頬は幸せそうに緩んだ。

「んー! やっぱり風夜の作る桜餅は格別だなぁ~」

「そりゃどうも」

 二人は毎年桜の咲く時期になると、この白桜の巨木で風夜の作った桜餅を食べながら美しく咲き誇った桜を見上げる。
 こうして二人だけのお花見を開いていた。

「今年も綺麗に咲いてるね」

 桜餅を食べ終えた千明は、頭上に広がっている桜をもっと近くで見ようと立ち上がった。

「…………」

 立ち上がる千明の姿を見て、風夜も続いて腰を上げた。
 すると、風夜は立ち上がったと思いきや、急に千明の腰に両手を添えてひょいっと軽々持ち上げたのだ。

「わ! ちょ、風夜!?」

 吃驚きっきょうする千明に、風夜は真顔のままハッと気づいた。

「あ……そっか。お前、もうチビじゃないのか」

「一体いつの頃よ! というか、早く下ろして!」

 風夜は従順に下ろすと、改めて千明を見て、切なそうに息を吐いた。

「まさか、小さかったお前がもうでかくなったとか……」

「当たり前でしょ。もう風夜に抱っこされる歳じゃないんだから」

 風夜は十年前、真神一族と繋がりがある陰陽師を代々引き継いだ名門と呼ばれる弓削ゆげ家に配属された。
 そこで出会ったのが六歳の千明だった。

 千明と契約する前、風夜は陰陽師の卵である彼女の世話係を務めていた。
 お花見の時期が来ると、幼い千明はこの白桜をもっと近くで見たく、よく風夜に抱っこをせがんでいたのだ。

「相変わらず、風夜は出会った時から何も変わってないね」

「……それを言うなら、千明も同じだろ。お転婆てんばなところは昔から変わってねぇし、目を離したらすぐにいなくなったりして、俺を困らせたりしたもんな」

「変わったところならあるよ。こうやって……」

「わ! っておい!」

 千明は腕を伸ばし、風夜の黒髪をわしゃわしゃと撫でる。

「もう風夜の頭を撫でられるくらい成長したからね」

 得意げに笑う千明に、風夜は「……やめろよ」と照れくさそうに頬を赤く染めると、外方そっぽを向く。

「…………」

 風夜はちらりと視線だけ動かし、夢中で自分の頭を撫でる千明に気づかれないように盗み見る。
 天真爛漫てんしんらんまんな笑顔を浮かべる千明に、風夜は息苦しいほどの愛おしさが込み上げたのだった。
 ずっと穏やかな日々が続くと思っていた。

 ――あの日が来るまでは。
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