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第11話 ◆

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 瀬名は先に点滴を終え、明日の11時、第二駐車場で待っていますとわざわざ腰を屈めて、耳元に落としていった。
 やけくそか、本気にしたらどうする、親子ほど歳が違うんだぞ、 ──その吐息は冗談にしようとした私の言葉を封じさせるに十二分な効力があった。追いかけようとしても腕に針が刺さった状態ではどうしようもない。
 耳が熱く、ほどなくやってきた看護師には「あれ、暑かった? 今年初めて暖房入れたから」と言われ、咄嗟〝聞かざる〟のポーズとなる。
 待合室へ戻るとすでに瀬名の姿はなく、安堵なのか、落胆なのか、詰めていた息を吐いた。
 真に受けるな、真に受けるな、真に受けるな、念仏さながらに唱えて医院を出る。駐車場にはやはり赤い軽自動車はない。からかわれたのだ。点滴隣人関係は解消され、きっともう、瀬名と会うことはない。
 だというのに、帰宅後、掃除だ洗濯だ買い物だを済ませ、月曜の朝に備えてスーツやらシャツやら鞄やら出社の準備を整え、日曜をまるっと自由にできるようはからった。本当は凹んだ車を修理に出そうかと考えていたがすっ飛ばした。
 土曜の夜は長風呂して、日曜の朝には軽くストレッチ運動をしてまた念入りにシャワーを浴び、長々と歯を磨いた。
 まったくもって馬鹿げていた。娘でもおかしくない年頃の女の冗談を真に受けて掌でころころ転がされている。やらしい、きもい、ヘンタイ。会社でも管理者としてこの手のハラスメント研修はさんざん受けており、その末路を知っている。そう、真に受けてなどいない、たんに無視できないだけ、逆に叱ってやらねば、年長者として。
 私は成すべきことを成しつつ、平行して優一郎へ連絡をとろうと試みた。それは救いを求めるようでも、出てくれるなよと祈るようでもあり、畢竟、息子は応答しない。時計は人の心中慮ることなく針を刻み、11時5分前となり、マンションを飛び出した。
 果たして、赤い軽自動車は医院の第二駐車場にちょこんと停まっていた。遠目に小鳥が羽根を休めているようにも見えたそれ。
 そのまま駐車場に入らず、通過しようかとも考えたが、こちらに気付いたのか、人影が出てきて手を振ってくる。
 ゆっくりと車を進めると、人影も歩み寄ってきて、解像度が上がる。
 今日の瀬名は、柔らかな色のニット地のワンピースにいつもの分厚いストールを羽織っていた。マスクも外して素顔をさらしている。そしてわざとなのか、無意識なのか、脚には黒いタイツを装着していた。歩くたびに、きゅっと締まった細い足首と仄白く照り映えるふくらはぎが交互に覗く。
 〝物語的な姿ね〟──亡妻の声が甦り、さらには晩秋の陽光が、瀬名をやたらときらきら見せた。すべては己の脳の処理、感情補正、単純思考極まれり。相手は瀬名だというのに。
 車窓を下ろせば、おはようございます、とはにかんだ笑顔を向けてくる。
 これはまずい。大変にまずかった。嘘でもフリでも、自分に好意を向けてくる相手を好きになってしまうのは、どうしようもないさがなのだ。くりかえすが、相手が私を準痴漢行為者呼ばわりした瀬名であっても。

「戸比さんの車は目立つし、ボコられてますし、わたしの車で行きましょう。よさげなホテルをピックアップしておきました」

 のろのろと車を降りると、腕をとられ、ふわりキンモクセイのごとき甘い香りに鼻腔をくすぐられる。ひじょうによろしくない。私はなけなしの理性を振り絞り、逆鱗であると承知の上で踏み込んだ。

「はしたない、親が泣く」
「心配無用です。そも、母に言われたのです。ちょっとは遊べと」

 いや、意味違うだろ。少なくとも十も二十も歳上の男やもめと真っ昼間からしけこめという意味ではない、絶対に。

「仕事も看病もしていて、遊ぶ暇がないのは当然でしょう。なのに、娘がどんくさいみたく言うのです、親ってだけで言いたい放題、心配しているのはこっちだというのに、いつまでたっても子ども扱いしてそのくせ誰か見つけろなんて虫のいい」 
「いや、そりゃ、おまえ、」
「お望み通りにしてさしあげるのに、なんの文句がありましょうや」

 主張する瀬名は目論見とは裏腹、幼く感じられた。親を困らせるのに、露悪的なことをしてやろうという子ども。
 さ、参りましょうと瀬名は私の腕を引っ張る。その華奢でありながら柔らかい矛盾の感触におののき、私は硬直した。

「ご妻女に操を立てていらっしゃるのですか」
「そういうわけでは」
「ではよろしいですね。みんなの鼻を明かしてやりましょう」

 瀬名の言うことは支離滅裂だった。『みんな』の鼻を明かすため、『みんな』にふれまわるつもりなのか、『みんな』に私たち同衾しましたと。そも、『みんな』って誰だ。

「おい、ちょっと、落ち着け、」

 と。テッテレ、テッテレ、テッテーと某携帯電話の独特な着信音が閑散とした駐車場に響いた。優一郎からかと慌ててコートのポケットをまさぐろうとして、そこで初めてコートを着忘れてきたのだと気付く。
 瀬名は手を離して、赤い軽自動車の運転席側に回り込む。鳴ったのは私の携帯電話ではなかった。
 はい、そうです、お世話になっております、瀬名が応答する。
 声は高すぎず、低すぎずで、若い女のそれにしては心地良い。
 どうやら私は聴覚もおかしくなっているらしかった。強いバイアスがかかっている。その別名に心当たりがあったが内心であっても言葉にはできなかった。

 ──はい、・・・・・・はい、はい。

 仕事の電話だろうか。近くにいるとつい聞くともなしに聞いてしまう。私は並んで停めた車から少し離れた。
 風は清く冷たく、身震いするほどだった。今秋一の寒さだ。週明けにはもう冬がやってくるのかもしれない。瀬名の頭も冷えるだろう。残念なような、安堵するような、間違いなく両方の気持ちがあった。
 寒さにぐるぐると駐車場を回り歩く。しばらくして気付けば、瀬名の姿が無くなっていた。
 まさかの置き去りかと慌てて周囲を見回す。いやいや、愛車を置きっぱなしなのだからと車の方へと向かえば、瀬名は運転席の横でしゃがみこんでいた。膝と膝の間に顔を押し込んで、小さく蹲っている。通話はすでに切れているようだったが、携帯電話は手に握られたまま。

「おい、どうした。腹でも痛いのか」

 うっかり忘れそうになるが、私たちは病み上がりだ。まだ本調子ではないのに動き過ぎたのかもしれない。
 大丈夫かと肩をさすろうとして、許可なく触れるのはまずいと手を引っ込め、いやいやいやハラスメント怖がっている場合か、でもしかしと、葛藤の狭間で手は宙に浮いたまま留め置かれる。
 瀬名がのろのろと蒼い顔を上げた。

「・・・・・・母が、病院で転倒して。骨折したかもしれないと」
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