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第7話 ◇

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 戸比氏が明日の決戦を決意した時、わたくしは一足早く決戦真っ最中でした。
 ユーイチロー氏と奇妙な対面を果たした後、総合市民病院の前で待っていた叔母に荷物を預け、車中で待っていた時のことです。
 申し遅れましたが、わたくしの母は神無月の終わりから同病院にて入院しておりました。元々乳がんで十年程前に手術したのですが、春の検診で脊椎に転移がみとめられ、抗がん剤治療を始めておりました。ですが、夏頃から体調を崩し、真っ黒な嘔吐をしてしばしば夜間診療に駆け込み、入退院を繰り返しておりました。
 母一人子一人の暮らしであり、看病は主にわたくしが担っておりました。ですがやはり仕事との両立は難しく、自身が体調を崩すという失態をおかしたのです。
 感染症による面会の制限が大幅に緩和されたとはいえ、わたくしが治療中の間は抵抗力の弱い患者の病室を見舞うことはできず、母の歳の離れた妹である叔母に見舞いをお願いしておりました。
 今日は、着替えの他、口当たりの良いゼリーや葛切りをなどの差し入れを届けてもらうために、病院前で落ち合ったのです。
 叔母は今までも週に一、二度片道四十分ほどの距離を自身で運転して来てくれていました。彼女も体調や家庭に問題を抱えており、申し訳なく感じておりました。ですが、私自身病を得ては頼る他なく、自身のありように心細さと情けなさが募るのでした。
 とまれ、叔母に差し入れを渡したなら帰っても良かったのですが、母の様子を直接聴きたく、また叔母任せにするもの心苦しく、何より洗濯物を回収したく待っておりました。
 病院を取り囲むように連なる銀杏から黄金のごとき木の葉が舞い落ちるのを、掃除するのが大変でしょうねとぼんやり眺めておりました。落ち葉は側溝に入り込み、雨の日に水を詰まらせ、道路を冠水させてしまいます。
 ただ綺麗ね、秋なのね、と感じられない己が心に嫌気が差し、目蓋を下ろしたその時、携帯端末が震えました。
 三十秒ほど鳴り続け、一度目、二度目は無視しましたが、三度目に根負けして応答しました。昼時にかけてくる相手は容易に想像できていたのです。
 案の定、もしもし、でも、今いい、でもなく、相手は開口一番、折り返しぐらいしろよと言ってきました。

「・・・・・・忙しくて、ごめんなさい」
「忙しいっていうなら、俺の方だ」

 彼は今仕事の案件をいくつ抱えている、というような旨を伝えてきました。
 わかったのは彼のいうところの忙しいと、こちらの忙しいは少し意味合いが違うということでしたが、文字通り、心を亡くしつつあったわたくしは黙っておりました。
 まあいいやと彼は呟き、

「今週末からクリスマスイベントが始まるんだよ。ハロウィンは行けなかったから、早めにチケットとったんだ。土日、空いてる?」

 彼は東京にある某テーマパークが好きで、わたくしも度々お供しておりました。自分一人ではまず行こうとしなかった世界が拓かれるのは刺激的で物珍しくあり、わたくしも楽しんでいたのです。けれど、現状、行けるはずもなく、愉しめるはずもなく。これはもちろん、情報共有していなかったこちらが悪いのであり、彼に非はなかったのでした。

「ごめんなさい、今、病気なの。肺炎になっちゃって」

 は、という訝しげな声に、わたくしは端的に己の健康状態について説明しました。

「・・・・・・悪い、全然知らなかった」
「ううん、こっちが言ってなかったから。あと、母もずっと具合が悪くて」

 そっか、そうだったんだ、悪い、彼はしんみり繰り返します。
 ああ、伝わった、良かったとわたくしはどこか肩の荷を下ろした心地になりました。銀杏の葉の間を射し入る光に目を眇め、ほうっと一息吐きました。空の蒼さが目に染みました。

「じゃあ、十二月になったら行こう」
 ──本当は一番乗りでクリスタルイルミネーション見たかったんだけどしょうがない、クリスマスクリスタル絶対えるだろ、カメラも買ったし、あ、有給取れよ、春の花見温泉以来だよな、この一年旅行とかあんまりしてないから休み溜まってるだろう──

 はて、わたくしは春爛漫の桜色煙る湯に浸かっただろうかと記憶を辿り、いや、そんな人違いは些末であり、そもそもそんな気力も体力も時間もなく、ついでに言えば有給はあと片手分もなし、その状況は私の病状が恢復した師走となってもさして変わらないでしょう。いえ、年末進行にさらに忙殺されることが容易に想像できます。でも彼は自分がカノジョだからお誘いしてくれているのであり、その心遣い、つまりは義理立てに応じるにはどうしたら・・・・・・

「セックスぐらいなら付き合ってもいいけど、旅行は時間が無いので無理」

 口を突いた言葉にしばしの沈黙の後。

「頭わいてんのか」

 ぶつり音声が途切れ、それきり。
 視界の隅で、細い枝葉に小指一本でつかまっていたような銀杏の葉が、はらり青空へ舞いました。自ら離したのか、放たれたのか。
 こうして、三年に亘る男女交際は幕を閉じたのでございます。
 運転席でハンドルに突っ伏していると、コンコンと控えめに窓ガラスを叩く音に気付き、顔を上げました。泣いてはおりません。泣くほどの未練はなく、ただただ消耗していたのでした。

「おばさん、ありがとう」

 母の洗濯物であろうエコバッグをいくつか下げてきた叔母に、急ぎドアを開けて荷物を受け取りました。
 叔母は遅くなっちゃってごめんねえ、結構、元気そうだったわ、ゼリーも食べてたし──叔母の口調に、わたくしは心底安堵しました。どこかでお茶でもしていきましょうかという叔母の誘いを、帰って洗濯機を回さなきゃと断りました。
 母の退院に備えてなすべきことは山ほどありました。ベットカバーを洗い、冬に備えて軽くて暖かな掛け布団も用意したく、家中に掃除機をかけて、拭き掃除をして、仕事が始まる前に昼食の作り置きをして、ああ、母は抗がん治療を再開するかもしれず、空気清浄機も買いたいけれど安く手に入るかしら・・・・・・

「せっちゃん」

 算段しているところを愛称で呼ばれ、ぼんやりと声の主──叔母をを見つめました。
 昔はセツコセツコとからかわれたこの呼び名も、今ではごく一部が口にするのみ。叔母もまた、わたくしを見つめ返してきます。母とよく似たまなざしで。

「おかあさん、心配してたわよ」

 母には肺炎ではなく風邪ということで口裏を合わせておりましたが、嘘がばれてしまったのでしょうか。視線で問えば、叔母は微苦笑して、

「身体だけじゃなくね、あの子ったらどこか遊びに行くとか、カレシをつくるとか、旅行するとか、なにか楽しいことあるのかしら、って」

 ぴうっと。柔らかいとばかり思っていた秋風に、ふいに冷たく打ち抜かれたような。
 晩秋の太陽は、早くも傾きつつあり、木々に、電柱に、ポストに、叔母の目尻の皺に深い陰影を落とすのでした。
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