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第3話 ◆

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 ――死にたいわりにご覧になるのですね、ふともも。

 確かにその一言は効果覿面で帰宅してからも思い出しては、心を千々に乱れさせた。新聞を読んでいても、テレビを観ていても、食事の用意をしていても、ああああ、と呻きを上げさせて耳を熱くするほどに。
 が、人は時間に支配された生き物であり、その夜に起きた出来事にあっさりと心の座を受け渡す。三月みつきに一度、それは義務と情の絶妙な狭間を狙って鳴らされるのだった。

「もしもし?」

 今年二十八となる一人息子だ。息子は他県の地方大学で院まで行った後、研究職として大企業に勤めるも勿体なく退職し、今は塾講師をしていた。別に講師が悪いわけではないが、親としては少々苦々しい。

「……なんか声にハリがない?」

 ――風邪をこじらせたと思ったら肺炎になっていたらしくてな。ああ、大丈夫、入院するほどじゃない、現にもう治りかけだ。馬鹿、心配だからって仕事放り出して帰ってくるやつがあるか――
 肺炎になったと言うのであれば、このタイミングしかなかったであろう。事実、そのための父一人、子一人の定期連絡なのだから。
 しかし頭の中で構築された台詞は、通行禁止の標識でも喉元に掲げてあるのか、まったく出てこない。代わりに出張ってきたのは、いや、まあ、な、とどちらでもとれるような断続的な呟きだけだった。息子は息子で、ああ、うん、そ、とだけ素っ気無い相槌を打つ。
 父子の会話は息苦しいものだった。息子――優一郎が大学進学のため別々に暮らして十年。しかし、それが直接的な原因では無いと理解している。この定期的な安否確認こそが何よりの証左だった。
 寂しいから退屈だからあるいはなんとなく電話を寄越す、そんな温度のあるものではなく、ましてやうっかり忘れるなんてありえない。着信履歴は正確に三月を刻み、もう三年も儀礼的なやりとりを続けている。最も追求すべき研究テーマを避けて。
 しかし、その日はいつもと違い、他のテーマが議題に上げられた。ちょっと教えてほしいんだけどさ、頭でっかちな息子が珍しく訊いてくる。

「中学の時に貸し別荘借りたと思うけど。あれって富士五湖?」
「あ、ああ。覚えていたのか」

 乞われて、大体の住所を教えてやる。忘れるわけなかった。家族最後の旅行となったのだから。

「行くのか? 昔行ったのも今ぐらいの季節だったな、いいところだったよなあ。月内ならまだ紅葉のライトアップもしているかもしれんぞ」
「俺はあの時、車酔いで死にそうだったけど」

 都合の良いように覚えてるよな、父さんは。付け足された言葉にこちらが反論を挟もうとする直前、息子は先手を打つ。

「後輩が旅行先を探してたから一応おすすめしておく」

 人に勧める前に彼女と一緒に行ってきたらどうだ、もういい歳だ、一人や二人いるんだろう?  紹介しろよ――

「あと、七回忌はこっちで適当にやるから」

 息子のさもことのついでのように話す内容に、脳内で練っていた軽口を呑み込んだ。

「適当って」
「ばあちゃんの法要と一緒に伯父さんたちがお寺さん呼ぶって。父さんは忙しいだろうから、来なくていいと」
「いや、行く、行くに決まってるだろう、場所と時間は――」
「いいって。その代わり戸比の法要は俺行かないから。互いに仕事があって忙しいんだから、役割は折半すべきだ」

 折半って、おまえ、そういうもんじゃ──
 言い掛けたその時、しばらく治まっていた咳が計ったかのようなタイミングで爆発した。早く止めねばと思い息を吸おうとすれば妙なところに入り込み収拾がつかなくなる。

「……なに咽せてんだか。水飲めば」

 じゃあ。息子の声音は一切はねつける硬さがあった。あとには空虚が残るのみ。
 息子とは昔から反りが合わない。そもそも私は『優一郎』ではなく『雄一郎』と当てたかったのだが、当時、珍しく頑なに拒否されたのだった。二十八年前のやりとりは年を重ねるごとに苦々しさを増していた。昔話を思い出という甘味に変えることができるのは、一部の特権なのだと身を持って知る。ツケは時間が経てば経つほど高くなるのだ。
 前述したように、人は時間に支配された生き物である。息子とのやりとりの後、薬の作用も相まってか、ぼんやりした私はここ数日のルーティン通りに動いた。歯を磨き、ベッドに入り、起床し、朝食を摂り、薬を飲み、医院へ赴き、そうして点滴ルームで再び瀬名と顔を合わせぎょっとしたのである。
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