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第1話 ◆

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 濃淡のない青一色のキャンバスに鳥が描かれている。
 雀ほどの大きさだろうか。翼は灰から黒のグラデーションを描き、一か所、紋付き袴のような白斑が染め抜かれていた。ふっくらとした胸から腹にかけては熟柿じゅくし色に染まっており、齧り付いたならきっと果汁が滴り落ちる。

 ――なんという鳥だったか。

 ひとりごとが突いて出た。痰がからみ、マスクの壁もあったため、ほとんど音にはならなかったが。
 昔、誘われて野鳥観察に何度か足を運んだことがある。早朝観察後の有志による真っ昼間からの飲み会が主目的であり、真剣に取り組んだわけではなかった。それでも以前にこの鳥を双眼鏡に収めた記憶はある。百舌とよく似ているが違う。〝しゃ〟とか、〝しゅ〟とか、〝しょ〟とかがついた気がする。しゃう、しゅう、しょう。響きを頼りに、適当に組み合わせていく。しゃほ、しゃも、しゃよ、しゃよう……斜陽。
 転がり出てきた単語に内心舌打ちした。まさしく言い当てられたようで。
 私がいるのは近所の町医者の点滴ルームである。ベッドが五台、足の方が窓辺に向かって並べられており、手前から数えて三番目に横たわっていた。
 当然、眼前に広がるのは青いキャンバスではなく、一辺の壁の大部分を占める窓のガラス越しの風景である。件の鳥は空に張られた電線に一羽、ちょこりと留まっていた。
 ひどく良い天気だが、秋晴れと評するには季節がやや下りすぎているだろうか。霜月の中旬、空は青く澄んでいるが、差し射る光は金色に煙っているように感じられる。晩秋特有の、どこかしら甘やかな懐かしい色味。そんな感傷じみた思いに囚われるのはやはり体調を崩しているからだろう。
 会社を休み二日。風邪をこじらせて十数年ぶりに町医者をおとなった。新型感染症については自宅にてキットで陰性を確認済みだったが、決まった手順なのか、こちらを信用していないのか、水色ムックのような人影に鼻の奥をぐりぐりされて待つこと小一時間。やはり陰性との結果が出た。
 ようやく診察室に通されてレントゲンを撮ると、今度は顔見知りの老医師があっさり肺炎との診断を下した。紹介状を書くから総合市民病院で十日間ぐらい入院してこい。なんでもっと早く受診せんのだ、いつまでも若いつもりか、阿呆が、と辛辣に言われた。多分、昔馴染みであるにも関わらず、無沙汰への咎めもあったのだろうが。
 いや、入院は困る、仕事があると言い返せば、周りが迷惑だろうよとすげない。それでも入院だけは死んでも嫌だむしろ死ぬと縋れば、老医師は自宅で養生して毎日来院して点滴を打てと、さも蔑むように半眼になって告げてきた。
 五十過ぎの男がとる行為としてはいささか大人気無かったとは自覚しているがしょうがない。そも、病人が我が儘なのは多めにみてほしい。
 仕事を気にしたものの、実際には何も問題なかったようで、今日まで携帯電話は沈黙を守っている。あるいは上司を気遣っているのか。いずれにせよ、部下が育った証だ。喜ばしい。だというのに。

 ――いっそ、死んじまいたいな。

 ぽろり、脆くなった漆喰が剥がれるように。なぜだかこの呟きははっきりと音になった。心の一部が剥がれ落ちた偽りのない本音だから、かもしれなかった。
 思って苦味を噛み締める。病を得ると気弱になるというのは本当らしい。同時に痰の絡んだ激しい咳に襲われた。この咳というやつは非常に厄介だ。途中で止めるのも出し切るのも苦しく、辛く、容赦なく体力を削ぐ。
 ようよう収まり、拳一つ分浮き上がっていた頭を枕にぐったりと着地させた。と、

「あらあ、戸比とくらべさん、まだいたんですか?」

 遠慮のない声に目だけをやれば、申し訳程度に設置されていた薄い布張りのパーテーションに影が映り、中年女性の看護師が顔を出した。
 まだいたの、とはずいぶんな挨拶だった。強面と歳のわりにがっしりした体躯で部下からは怖れられていると自負していたが、医師と同じくここの看護師たちはまったく臆する様子がない。
 ちょっと速めるわね、と看護師が点滴の管の途中についた歯車のような部位を操作すると、透明な雫が落ちるスピードが上がる。

「瀬名さん、お待たせ。こっちのベッドに来て」

 そこでようやく気付いた。看護師は自分の様子を見に来たのではなく、別の患者を案内しに来ていただけなのだと。一番奥手のベッド、つまりは私の右隣へとその患者は通される。
 パーテーションの背は低く、幅も狭い。プライバシーの保護というよりも単純にベッドとベッドを隔てるという意味合いしかないのだろう。だから、その患者は格別に意識するともなく、自然と目に入ってきた。
 若い女だった。艶のある髪を耳が隠れるほどの長さで潔く切り落としている。自分と同じくマスクをしているので顔の造作はわからないが、黒目がちな目は大きい。薄手の黒いセーターに深い赤のロングスカート、そしてタータンチェックの分厚いストールを纏っている。
 
 〝 ──物語的な姿ね 〟

 普段、人の姿形など詳しく見ない。だけれどふいに死んだ人間の声が降ってきて、なんとはなしに目で追ってしまった。
 連れ立って観劇に行った際、ポスターの女優を眺めて評した言葉だ。その女優の名も舞台の結末も覚えていなかったが。
 物語的な。述べた本人の解説によると〝印象的な〟〝雰囲気がある〟、そして何より〝予感させる〟――そんな意味合いが混ぜ込められた形容動詞であるとのことだった。
 女に予感めいたものを感じたとか、そういうわけではない。ただ、故人の声が再生された、それだけなのだが。

 ――右と左どっちが良い? いつも右にしてもらっています。少しちくっとするわよ、ごめんねー。大丈夫です。気分が悪くなったらこのスイッチ押してね。はい、ありがとうございます――

 しばらく二人のやりとりが聞こえ、看護師は慌ただしく点滴ルームを後にする。
 部屋は明るく暖かく、静寂に満たされていた。点滴の雫が落ちる音が響くのではないかと夢想するほど。右上に吊り下げられた点滴をなんとはなしに見上げ、すぐにその視線を下げた。
 見間違いかと思ったのだ。私の右手には、先ほどの女が点滴を受けるベッドがある。パーテーションは置いてあるが、元からそうだったのか、急いでいた看護師が動かしてしまったのかわからないが、斜めになっており、女の横たわる姿が覗いていた。
 それだけなら問題ないのだが。
 まず連想したのは黒い土手だった。緩やかな上り下りの坂を描く、ふっくりはちきれんばかりの。
 つまりは、女のスカートが捲れ上がり、黒いタイツに覆われた太腿が付け根の下からあらわになっているのだ。
 タイツというものは実に嗜虐的だ。柔らかい肉をぎゅうぎゅう窮屈な布地に詰め込むのだから。部分的にほの白く照り返って見えるのは、光の加減か、布地が薄く引き延ばされ素肌を透かしているのか、その両方か……

「戸比さん、点滴落ちた?」

 咄嗟、横たわったまま限界まで腕を伸ばし、パーテーションの位置を直して隣への視界を遮った。私が歪ませたのではないし、いわんや女のスカートを捲り上げるという破廉恥行為に及んだわけではない。であるが、妙な汗を掻いてしまった。ついでに激しい咳も出る。
 やってきた看護師は何を疑うでもなく、腕から針を抜いて処置を終えるとさっさと点滴ルームを後にした。私も籠に投げ入れてあった上着を手にするとそそくさと立ち上がり部屋を出る。
 ちらり、肩越しに眺めたパーテーションの水色の薄布地には、なだらかな土手のシルエットが映し出されていた。
 病院は待ち時間が長い。待合室をぐるり取り囲むように設置された椅子に座り、ぼんやりと名を呼ばれるのを待ち続けていた。膝には週刊誌が置かれていたが、眠気が勝って読む気はしない。
 通院するようになり、抗生物質を点滴して薬を服用し、症状はかなり軽くなっている。受診するまで夕方から夜にかけて三十八度、朝には三十六度の平熱になるという上下を繰り返していたが、今のところは落ち着いている。だが、咳と痰とだるさは未だ拭い切れていない。

「瀬名さーん。清算でお待ちの瀬名さん」

 その響きに、私はうつらうつらと閉じかけていた目蓋を押し上げた。時計を見上げれば、すでに十二時を回っており、午前診療の受付は終了していた。風邪の老人やら予防接種の母子やらで混雑していた待合室は、いつの間にか閑散としている。私の他に三人だけ。その中の一人には先ほどの女――瀬名とやらもいた。彼女は私の真向かいに座っていた。
 彼女の背後には窓があり、逆光になっていて表情は見えない。読んでいた雑誌を閉じ、鞄を肩に掛けて立ち上がる。
 ふと疑問に思う。どうして彼女の方が先に呼ばれるのだ。順番が抜かされたのではないかと反射的に疑い、次に上着のポケットに入れていた小さなカードの存在を思い出す。点滴受付の番号カードで、そういえば点滴が終わったらこのカードを窓口に出せと言われていた。点滴は終わる時間がまちまちで、カードを出した時点で終了とみなされ清算に回されるのだろう。つまりは己のうっかり八兵衛で無為の時間を過ごしたに過ぎなかった。
 ふいに影が揺れ、気配に顔を上げる。
 なぜだか女――瀬名は、こちらに向かって歩いてきていた。一体何事だと狼狽しかけ、いや何もしとらんぞと開き直り、大体近頃の女は慎みがなくていかんと内心で小言を言う。
 と、瀬名がこちらに向かって腰を屈めてきた。正午の短い、けれど過ぎ去った季節とくらべて随分と長くなった影が私に重なる。そして、持っていた雑誌を私の左隣・・に設置されていたマガジンラックに戻した。
 彼女の影に組み敷かれたまま、私はなんだと安堵の息を吐いた。思いの他緊張していたらしく、その呪縛がほどけようとしたその時。
 瀬名は身を引きつつ何事か呟いた。そして、こちらの返答を待たずしてさっさと窓口へと向かう。
 私は秋の燦々たる陽射しを全身に受けたまま身動きできずにいた。
 最後の一人となり、受付の事務員から肩を叩かれるまでずっと。その間、瀬名のマスクで湿ったせいか、どこか甘ったるく、くぐもった声音が頭の中で繰り返されていた。

 ――死にたいわりにご覧になるのですね、ふともも。
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