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〈二幕 美雪〉第6話 交歓
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しおりを挟む「……私、推薦の学内選考落ちるかも」
ショートケーキを食べ、熱い紅茶を飲み干したところで、私は呟いた。寒さと空腹は人をネガティブにする。だけどケーキと紅茶で温まった今、思考のメーターはほぼ正常まで戻っていた。冷静に考えて、私はその結論を導き出した
「どうして? 学年末テストの勉強、一生懸命しているでしょう」
「大日向さんの内申点、多分、私よりも良い。きっと彼女に決まるよ」
大日向有加の成績がどれほどなのか、実のところまったく知らない。
秀才か劣等生ならばわかりやすいが、その間の幅広い中間層の成績は見えにくい。小学生の頃ならテストの点に加え、授業中の挙手や発言やリーダーシップで「この子は頭のイイコなんだな」とわかるけれど、中学生の『頭が良い』は単純に内申点、テストの点、そして偏差値の高い高校に合格することに尽きる。順位を貼り出すこともないし、高校合格は最後の最後にしかわからない。大日向有加の部活や委員会での華々しい活躍の記憶はなく、髪は脱色しているけれど、別段不良というわけでもなく。特筆すべきところが見当たらない生徒。
それなのに、あの余裕に満ちた態度。だからこそ不安になるのだ。一緒に面接の練習をしよう、なんて。そして彼女のクラス担任は学年主任でもある。学年期末テスト後に行われる学内選考での発言力はきっと大きい。
「推薦枠は一つじゃないでしょう。それに推薦じゃなくて一般を受けたら良いじゃない」
香世子さんは私の斜め向かいに座っていた。自分の紅茶のカップをローテーブルに置き、慰めを口にしてくれる。
「お母さん、許してくれない。推薦枠とりなさいって言ってたから」
「私立推薦は二学期の内申点で決まるんでしょう? 学年末テストで良い点をとれば大丈夫。それにお母さんはきっと、美雪ちゃんにやる気を出させるために、そんな方便を使ったのよ」
学年末テストの範囲は総合で、プレ受験の役割がある。だから学年末テスト勉強=受験勉強となるわけで、長期的な目標を立てるのが苦手な私の特性を母は見抜いており、香世子さんが言う通り、発破を掛けただけなのかもしれない。
しかし、母は時折、無慈悲で無情で容赦無い。小学生の頃、絶対に寄り道せずに帰ってくるという条件の元、ピアノを習わせてもらっていたけれど、友だちとお喋りして十五分ほど帰宅時間が遅れた時、母はピアノ教室まで迎えに来て、その足で講師と話しをつけ、私を辞めさせた。
母は、私に一度だけはチャレンジを許すけれど、それは逆に失敗させて納得させようとしているのではないだろうか。
自分の目の届かないところに一人娘が行くのを極度に嫌う人だ。友だちの家に遊びに行く時は、必ず相手のフルネームと電話番号と住所を言わされ、遠出して遊びに行く時はメンバー表を書かされた。ここ最近は、そこまで過干渉な行為は少なくなったが、それは単に私が香世子さんと親しくなり、同級生とあまり遊ばなくなったせいもあるだろう。心の底では、電車通学であるN西女よりも、自転車で十分のT高校を望んでいるに違いない。
「このままじゃ、落ち着いて受験勉強できない?」
心中を見透かされて、私は反射的に頷いた。頷いてから、なんて甘えているのかと我ながら呆れるが、今更、隠し切れなかった。私はそのまま顔を俯かせる。
「わかったわ。じゃあ、大日向さんに一学期の内申点と今までのテストの席次を訊いてきてあげましょうか」
「え?」
「そしたら、美雪ちゃんは落ち着いて勉強に専念できるでしょう?」
顔をあげれば、化粧品のポスターに出てきそうな整った微笑みで、一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「大日向有加さんは、私と仲が良いと言っていたのでしょう。好意を持たれているのなら、聞き出すのは難しくないはずよ」
香世子さんはいっそ無邪気と言える口調で、
「美雪ちゃんに教えるとは悟らせずに誘導するから大丈夫。私もインタビュアーのはしくれだもの」
「でも、それって」
できる、できないではなく、悪いことなのではないか。喉まで出掛かった言葉を、私の唇に触れるか触れないかのところまで突き出された白い指先が止める。そのあわく、くすぐったく、もどかしい感触に、背筋が粟立った。
「別に悪いことじゃないわ。美雪ちゃんだって他の誰かに話すわけじゃないでしょう?」
大日向有加の成績。それは自分にとって大きな安心材料になる。学年末テストに向けての勉強も集中できるだろう。だけど。
――ちょっと参考にさせてもらうだけよ。
――大日向さんだって、美雪ちゃんの志望校を知ってしまったんだから、お互い様。
――テストで実力を出すには、できるだけストレスを減らさなきゃ。
私を安らかにする、甘く優しい言葉が紡がれる。
だあれも、中にはいれていけないよ。そう小人たちに注意されていたにも関わらず、飾り紐、櫛、林檎――品物に目が眩み、甘言に弄され、あっさりと変装したお妃を入れてしまった白雪姫をなんとはなしに思い出す。
「でも……どうして?」
指先が唇から離れ、名残惜しかったけれど、訊かずにはおれない。
親でもない、教師でもない、同級生でもない。そんな貴女が、なぜ、そこまで。
眼差しに想いを込めて、香世子さんを見つめる。香世子さんは瞳を逸らさなかった。その黒々とした瞳。
「言ったでしょう。私にとって美雪ちゃんは大切な女の子。ずっとずっと、あなたが来るのを待っていた。それこそ、王子を待ち続けたいばら姫と同じ。あなたのためならなんでもしてあげる」
「…………」
あなたのためならなんでもしてあげる。囁きに背中が粟立った。けれど同時にわからない。どうして待っていてくれたの。私なんかを。香世子さんはいばら姫と同じく美女だけれど、私は王子でもなんでもない。
大好きな人の言葉を何の疑いもなく信じられたらどんなに素敵だろう。この甘い甘い毒を飲み込んでしまいたい。だけど。
黙ったままの私に、香世子さんは立ち上がって手を差し伸べてきた。
「いらっしゃい、美雪ちゃん」
それはダンスでも誘うような優雅な仕草だった。珊瑚色に塗られた爪が蛍光灯に反射してきらめく。私は戸惑いながらも、踊れもしないくせにその手を取ってしまう。
香世子さんの白い手は、リビングから玄関ホールへ出て、その正面にある階段へと私を導いた。右手を香世子さんに引かれ、左手を緩やかな曲線を描くシルバーの手すりに添えて上がる。
二階へ行くのは親しくなってしばらく、家の中を案内してとほしいとせがんだ時以来ではないだろうか。二階には秘密の部屋がある。おいそれと入ってはいけない場所。童話のように『開けるなの扉』と言われたわけではないけれど、それは私なりのわきまえでけじめだった。以前も案内してもらった時、自ら固辞したその部屋。
「入って、美雪ちゃん」
「でも」
「いいのよ。さ、早く」
秘密の部屋の主に促され、躊躇いながらも足を踏み入れる。
そこは、なんとはなしに校長室を彷彿させる部屋だった。大きな黒光りするどっしりとした机、ぎっしりつまった本棚。小さな椅子が2脚とそれに合わせた小さなティーテーブル、そして休息用のものだろうか、細いソファベッドにはブランケットが置いてあった。
机は窓や壁に面しておらず、部屋の内側を向いており、机の主がドアから入った人を迎えるように置いてある。本棚は、窓やドアを除き、壁を埋めるように設えてあった。シンプルモダンな白い家の外観を良い意味で裏切る、どこか古めかしい印象がするこの十畳ほどの部屋は、香世子さんの書斎、すなわち仕事場だった。
『ライターって職業に興味があるんだ。仕事場とか見てみたいし』――大日向有加の望みをはからずも実現させたことにかすかな優越感を覚えないでもなかったが、それでも気持ちは沈んだままで、香世子さんの意図もわからない。
香世子さんは私をソファベットに座らせてから、
「美雪ちゃんに見せてあげる。私の秘密の宝物」
と、部屋の中央で軽やかにくるりと向きを変えた。
ドア横――机の真向かいに配置された本棚。その区切られた一つのスペースには本が並べてあるのではなく、両手に収まるぐらいの宝石箱が置いてあった。香世子さんの肩あたりの高さ。ちょうど、机の椅子に座っている時、ふと視線を上げたら目に入る、そんな絶妙な位置。
たしか螺鈿細工というのではなかっただろうか。真珠色の貝殻でびっしりと幾何学模様が描かれたその箱は、仄かに発光しているように見えた。箱の下には、刺繍が施された布が敷かれていて、大切にされているのが見て取れる。
香世子さんは、恭しく両手でその小箱を私の前へ捧げ持ってきた。うっすら輝く、とても美しく高価そうな箱。
これが香世子さんの宝物? ――視線で問うと、彼女は頷いて蓋を開ける。と、オルゴールの音色が流れ出てくる。とてもメジャーな曲で聞き覚えがあるのだが、すぐに曲のタイトルが思い出せなかった。
オルゴールの中は赤いビロード張りで、光沢がある白い布――シルクだろうか?――が何かを包んで置いてあった。香世子さんはオルゴールを机に置くとその小布を取り出す。そして、手の平の上でゆっくりと開くと。
「……指輪?」
そこには銀の輪に、ハートにカッティングされた赤い石が嵌った小さなリングがあった。もしかしたらピンキーリングかもしれない。石は輪とは不釣り合いに大きく、親指の爪ほどにもある。
なるほど石は大きくて高価なものなのかもしれない。けれど、こう言ってはなんだけれど香世子さんが身に付けるには子どもっぽいデザインだった。
香世子さんは指輪を左手の薬指に嵌めるけれど、小さすぎて第二関節で止まってしまう。それでも香世子さんはさも愛おしそうに、うっとりと眺めている。つられて、私もしげしげと見つめて。
「アミュレス・アミュレット?」
私は十年ぶりぐらいにその言葉を口にした。もう一度見れば、その石のてかてかした輝きは宝石どころか、ガラスでもなく、プラスチック製のおもちゃのものだとわかる。
アミュレス・アミュレット。
昔、流行った魔女っ子七人組のアニメ『七色アミュレス』に出てきていた魔法アイテムだ。身に付けているアミュレットで正義の魔女『アミュレス』に変身し、人々の間に蔓延している人狼化現象に立ち向かう魔女っ子は、当時の女の子たちに絶大な人気を博していた。
香世子さんの指に嵌っているのは、間違いなく主人公の女の子が身に付けていたアミュレットで、おもちゃメーカーが売り出した商品だ。私もこのアニメが大好きで、七人の魔女っ子グッズ、アミュレットセットもねだって買ってもらっていた。指輪、ネックレス、イヤリング、ブレスレット、ブローチ、アンクレット、ティアラ。でも、遊んでいるうちにいくつか失くしてしまって……そこで、気付く。
「これって、もしかして」
香世子さんは微笑む。蕾がほころびるような、控えめで、それでいて抑えきれない嬉しさが溢れたそれ。
「十年前、美雪ちゃんからもらったのよ」
やっぱり。私は思わず香世子さんのしなやかな手を取り、
「懐かしい、まだあったんだ」
「もちろん。ずっと大事にしているのよ」
私はここきてようやく笑顔を浮かべた。瞬間、大日向有加の存在が頭から消え失せる。
「むかしむかし、美雪ちゃんは自分の宝物を私にくれたの」
真っ赤なルビーを模したアミュレットは七つのアイテムの中、一番のお気に入りだった。当時の私の宝物に違いない。
「随分昔のことだから忘れているんじゃないかと心配してたの。でもやっぱり、覚えていてくれたのね」
私は勢い込んでうんうんと頷いた。十年前とはいえ、宝物を忘れるはずがない。七色アミュレスは本当に大好きなアニメだったのだ。
「幼稚園ぐらいの頃の美雪ちゃんと私はね、とても仲良しだったのよ。私が美雪ちゃんちにお邪魔して、一緒にケーキを食べたこともあったわ。さっきのココアみたいに食べさせてあげたのよ。美味しいって笑ってくれたわ」
「……あ、それ、覚えてるかも」
言われて、浮上してくる記憶がある。銀のフォーク。アミュレットのルビーと同じくぴかぴかに光っていた苺。真っ白でキラキラ輝くクリームを差し出す白い指先。クリームはとろけるほどに甘く、私を陶酔させた。そんなシーンが、確かにあったはず。
私と香世子さんは十年前から交流があった。そんなにも昔からの付き合いならば、私に特別親しくしてくれるのも頷ける。
「指輪をくれた時は本当に感激したわ。だから私も私の宝物をあげたの。この宝石箱の中に入っていたものと交換こしたのよ。美雪ちゃんも大事にしてくれているでしょう?」
「うん……?」
私は反射的に頷いて――固まった。そんなこちらの様子には気付かず、香世子さんは手をかざして指輪を見つめる。それが恋人から貰った婚約指輪であるかのように。私と交換。こうかん。こうかんこ……?
左手の薬指の第二関節で光る赤い石は、指から血の玉がぷっくり膨れ上がっているようにも見えた。香世子さんはプラスチックの赤い石に、艶やかな唇を寄せて口付ける。それは神話の女神様の祝福の仕草にも似て。
「ずっと待っていたの。思い出してくれるのを」
思いの丈が込められた台詞。健気な妹が鹿になってしまった兄の呪いが解けるのをずっと信じていたような。
香世子さんのしなやかな手が頬に添えられ、黒々とした瞳が真正面から私を捕らえる。
「随分昔のことだから忘れているかと不安だったわ。でも、貴女は覚えていてくれた。仕事や家のことで忙しくなって、大分間が空いてしまったけれど、私達はずっと前からのお友達。私が貴女を助けるのは当然なのよ」
いつかの玄関の時のように、香世子さんはもう一歩、ソファベットに座ったままの私に身を寄せてくる。どきりと不必要に胸が高鳴った。単に親愛の情を示しているだけで、深い意味はない。期待すればその分裏切られるというのに。漆黒の眼差しを勘違いしそうになり、私は視線を逸らそうと顔を横に向けようとした。けれど、香世子さんの手はそれを許さない。華奢な見た目を裏切る力強さだった。
「N西女、受かりたいでしょ。茉莉ちゃんのためにも」
落とされた囁きにはっとする。そう、私がなんとしてでもN西女に通いたいのは、心を閉ざしてしまった幼馴染のためでもある。彼女の転居先はN西女の沿線上にあるから。それを伝えたことはなかったのに、香世子さんは察してくれていた。
「全部任せて。心配することなんて、なにもない」
香世子さんが言っているのは、大日向有加を含む受験のことのはず。なのに、私は頷くことができなかった。
覆いかぶさるようにして、さらに身が寄せられる。見下ろす眼差しはどことなく冷ややかで、同時に物憂い気怠さを感じさせた。
怯えが走った。立ち昇るのは、いつも香世子さんが纏っている優しく柔らかな聖母のごとき美しさではない。あやうく、不均衡な、挑むようなそれ。もしかしたらこれを色香と呼ぶのだろうか。
普段と違う雰囲気が怖い。逃げ出したい。けれど目が離せない。矛盾する情動に混乱し、自然と涙が滲んでくる。逸らした背中がソファベットの背につく。そんな私に、香世子さんは勇気付けるようにうっすらと微笑んだ。
「私を信じて。なにもかも、うまくいくわ」
吐息と共に、耳元で囁かれる。私が欲していた、私を甘やかす魔法の言葉に、がちがちに強張っていた身体がわずかにほぐれる。
香世子さん、喘ぐように呼ぼうとした口を香世子さんの紅い唇が塞いだ。
当然ながら私にとって初めての行為で、目を閉じることさえかなわない。ただ、冷たく柔らかな感触におののいた。
遠くでオルゴールの音色が響いている。宝石箱からの流れてくる曲名を今更ながらに思い出す。『星に願いを』――けれど今、私の願いは、私の女神が叶えてくれようとしていた。
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