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第四部 四章――斯くして彼は大変傷付いた

第二十話 狂騒恋喜劇

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(――頬がくすぐったい)

 視界がはっきりとしない。

(――誰かが頬にキスしてる)

 意志もあまりはっきりとしない。
 ただ分かるのは、自分の体がまるで人形のように動かないことで、陽炎は、あれ、と言いたかったのに、これまた動かなかった。
 でも、どうやら背筋が粟立つ感覚を与えてくる人物は、己が何を言いたいのかくみ取れるようで、くすりと笑う気配がした。

「陽炎さん、愛している」
「――俺も」

 違う、本当は誰だと言いたい、なのに己は相手が欲しがる言葉をあげてしまった。
 陽炎は眉を寄せて、首をふった。
 その仕草に相手はくすくすと益々おかしそうに笑って、陽炎に深く口づける。
 抉り込むような舌先で味わうキスは、呼吸がし辛くて、終える頃には銀糸で繋がれていた。
 獣のような呼吸で口から急激に酸素を取り入れるしかないのに、それをすると、相手は「エロい、陽炎さん」と揶揄してくるので、顔が少し赤面したかもしれない。

「鴉座くん、どう思うかな。こんな姿の貴方を見て。この絵本ってな、外の世界から読むことが出来るようになってるんだ」

 何となく相手が笑った気配がした。
 何故笑った気配がしたか分かったかと言われれば、自分が傷ついたからだ。

 自分が傷つけば、傷つくほどこの男は、こういう声の男は笑う。それを陽炎はよく知っていた。

 でもその笑う目の中には時折、狂おしいほど己を思う、狂った愛属性の特徴が見られる。
 嗚呼、この男は己を傷つけるだけではなく、皆から引き離して独占するのが目的なのだな、と感じた。

(嫌だ、鴉座。俺はお前が好きなんだ――お前を愛してるんだ、こんなわけわかんない奴じゃない)

 また抉るようなキスをしてきたので、抵抗をしたかったのに、舌先を噛むことなく、寧ろ絡めるように陽炎は受け入れた。
 涙が一筋も流れない、生理的な涙がうっすらと目に溢れるだけのこの体が憎く、陽炎の心が傷つけば傷つくほど、男の力が増していくような気がした。

「陽炎さん、鴉座クンはきっと貴方のことなんか嫌いだ。鷲座もこんな姿見たら嫌うだろうね。はしたない人だ」
「もっとキスして――」
「キスだけじゃ勿体ないだろう?」

 陽炎はぶん殴りたかった。
 ぶん殴って、触るなと言いたかった。
 でも体はすっかり身を彼に預けて受け入れ態勢で、気がおかしくなりそうだった。

(やめろ! 俺はこんなことしたくない!)
 
「貴方はね、心の中で何を叫んでるのか、聞こえないのかって思ってるだろう。でも、聞こえてるから安心してよ」

 聞こえた上で行っているのなら、よっぽどのサディストだ、と陽炎は少し震えた。
 その様子に字環はくすくすと笑い、陽炎の服の下に手を伸ばそうとしたとき、鷲座がやってきた。
 やってきた鷲座を見ると、字環は細い目を細めて、眼鏡を持ち上げる。

「早かったね。でも早ければ早いほど、貴方たちの悲劇になる」
「――どういうことだ?」
「こういうことだよ。意志奪いの力って便利だと、今知ったな!」

 字環は陽炎を操り、陽炎に円形剣を持たせて、鷲座の前に立たせる。
 鷲座は目を見開き、一瞬躊躇ったが、すぐにこぶしを作り、腹に一発「お許しを!」とか言いながら強烈なのをお見舞いしてきた。
 だがそれでも意志は戻ってこないので、陽炎が痛いだけだった。

「迷わなかったね、迷わなかったよな!? 何それ、怖ッ! どんな愛なんだ!? またドメスティックバイオレンスか!」
「小生はただ、いつもの陽炎どのならこうやってテメェに操られるよりかは痛みを負ってでも、意志を取り戻したい筈だと思っただけだ。というわけで、失礼します! 失礼します!」

 往復ビンタが二回きた。

 陽炎は痛みを堪えてそれを受け入れたかったが、字環の意志通り己は避けて、円形剣を巧く使い、鷲座に攻撃を与えようとする。
 鷲座はこれまた素早く動き、陽炎から距離を置く。

「地球上の皆から元気を与えてもらって攻撃するしかないですか……」
「何か混ざってるよ、遺物の名作と!? 貴方、それでも愛してるのか、陽炎さんを?」
「愛してるからこそですよ――小生は、分かった。この愛は本物だと。だから、きちんと正気の時に彼に愛を囁きたいと!」

 鷲座は陽炎の迫ってきた円形剣を白刃取りして、それをぐぐっと力を込めて、押しとどめさせる。

「小生はね、羽根色が違う鳥です。だから、羽の色を覚えて貰うんですよ、今度こそ! 夜に似たあの闇鳥ではないということを! 都合の良い存在はうんざりだ!」
「わ、しざ……愛してるから、死んで?」

 これも字環が言わせてる言葉。
 陽炎は、自分も字環もぶん殴りたかった。
 鷲座の思いを遊んでるような言葉を絞り出した己が嫌で嫌で仕方なかった。
 だが鷲座は、ふっと力を抜いた笑みを浮かべると同時に円形剣を手放せさせて、己から剣を奪った。

 そして己に「失礼します!」と思いっきりグーで頬を殴った。
 
「陽炎どのを甘くみないでください。彼は高いんです、そんなこと軽く言うような方ではありませんよ」
「甘くも見るよ。あれほど競争率の激しかった彼が、たった一言で僕の物だ」

 鷲座の言葉に可笑しそうに笑う字環は陽炎に視線をやり、ほら、と低く甘い囁きで強請る。
 強請られれば陽炎は簡単に、彼を慕う誰もが欲しがっているのに簡単には手に入らない言葉を口にする。
 
「あいして、る」
「ほらね、安っぽい。安っぽいちゃちな玩具だよ」
「では何故その玩具を欲しがるんだ?」
「……蒼の作った仕組みだから、としか言えないけれど。それと同時に特別な思い入れもあるんだ。――悔しいことに、仕組みでも夏のように熱い思いが宿ってるから、それを解消する為に彼の安い言葉と体を手に入れたいだけだ」
「……君の安さとは随分高いもののことを、いうものだな!」

 鷲座は陽炎に蹴りを放ちながら、言葉を発した。
 陽炎の動きは流石と言うべきか、例え操られたものだとしても機敏で避けるどころか、更に剣を奪い返した。
 陽炎は剣を奪い返すと、鷲座に剣の切っ先を向けた――かと思えば、何か不穏な動きをする。
 字環が嫌な笑い方を浮かべたので、嫌な予感がした瞬間、陽炎が己を切ろうとしていたので、鷲座は慌てて精一杯の腕力で止める。
 鷲座の小さな腕力ではいつまでもつか分からなかったが、陽炎に傷一つだけでもつけるのはいやだったので、鷲座は必死に顔を真っ赤にしながらも剣を止める。
 
「鷲座、俺を愛してるなら離してくれよ」

 いつもの陽炎らしからぬ妖艶な笑みで、鷲座を惑わす言葉を吐く。
 鷲座はそれに一瞬どきりとしたものの、決して離すわけにはいかないと覚悟する。
 かといってこのままでは力に負けてしまう。
 鷲座は一つの賭けに出た。
 小さく何かを呟いた。陽炎は目を見張らせて、鷲座? と問いかける。

「君が傷つくくらいなら、小生が君によって傷つけられた方がマシだ」
「鷲座? 殺してもいいの?」
「君の望むままに――」
 
 鷲座が力を抜いて剣から手を離すと陽炎は鷲座に向かって、剣を振り下ろす。
 何の迷いもない。
 そして、瞳はくもりの夜空から、晴れの夜空になる。
 陽炎は嫌だと叫びかけたが何かに気づいたのか、目を細め、次の瞬間には鷲座を切っていて――陽炎は、顔を俯かせる。
 字環がくすっと小悪魔めいた笑いを浮かべて、陽炎に言葉を投げかける。
 
「可哀想に。自我を取り戻す切っ掛けが、彼の死だなんて」
「……死? 死だって? っは、はははは……」
「陽炎さん?」
「……これが死なら、お前はまだ俺への思いが昇華しきれてない幽霊だな。おい、切った感触で分かるんだよ。鷲座、返事しろ」

 陽炎がニィっと笑うと、倒れている鷲座の妖術で作った幻が消えて、鷲座が現れる。
 鷲座は糸目を半目にして不敵な笑みを浮かべて、字環を見やってから、陽炎に歩み寄る。
 陽炎は鷲座に苦笑を浮かべて、サンキュ、と頭を撫でてやった。それから、焦る字環に視線をやり、陽炎はこの世の悪魔のように恐ろしい氷の微笑を送る。
 
「字環ぁ、俺、お前のこと助けたかったけど、今はこれっぽっちもそんな気ねぇよ。今はな――お前にどうやって生き地獄を味わわせるかってことばかり、考えてるよ……」
 
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