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 きっとこれは、人生初めてで自分から心を動かした出会いだった。目が離せなかった。本当に、初めてだったんだ。

「はい自己紹介自己紹介!」
「っあ、えっと……藍田灯、です。熱田くんの下で働いてます」

 柔らかな声。その、微笑み。一目惚れって本当にあるんだ、ってその時初めて知った。
 その人は本当に、可愛かった。どれだけ言葉を取り繕っても、最終的にはその一言に集約されて終わる。さらさらの黒髪、少し切長だけど愛嬌のある目。清純さの塊だった。

「は……初めまして、渡部響っていいます」

 声が裏返った。それに、熱田だけが気付いていたらしくて顔を背けた。きっと笑っているに違いない。けれどあくまでその動きを自然な流れのようにしてこちらへ向き直ると、あいも変わらずのやかましい笑顔。

「ごめんなーあかりん!ひーさ、めちゃくちゃ人見知りで!」
「ひー?」
「そ、その。呼び名、昔からずっとそうなんですよ」

 俺はずっと熱田って呼んでるけれど。何せこいつは幼稚園の時から自己紹介で下の名前より苗字の方を優先して自己紹介するタイプだった。そう考えると、こいつとの付き合いももう二十年以上になるのか。こいつは一切変わっていないし、俺もきっと変わっていない。

「可愛い」

 そうやって微笑むあなたが可愛いんですが、と言いそうになった。意識していう事なんて絶対無いような台詞すら、いとも簡単に浮いてきそうになる。そんな自分に怯えながら、注文して届いたキティのグラスを口に運ぶ。強い酸味と仄かな渋みが、炭酸と共に流し込まれた。
 そんなこと、今まで思った事も無いのに。どうにか話題を逸らしたくて、慌てて笑顔を取り繕う。

「その、俺はなんて呼んだらいいですか」
「あかりんでいいんじゃね」
「それはお前の距離感だろ……」

 というかこいつの人との距離の縮め方は昔からすごかった。元々は実家同士が隣の幼馴染という間柄だけれど、一つ歳下の俺のところにすら色々な人間の会話の中によく名前が出ていた。直接聞いたことなんて、こいつ以外の他人と仲良くする事を禁じられていた実家時代の俺には無かったわけだけれど。
 そもそも今日も、元々熱田と二人で飲む予定だったのだ。そこに、「今もう仕事の子と向かってっから!」と言ってきた。流石に驚いたが、向かっていると聞いたからにはさすがに無下に出来なかった。でも、今はその時の自分の判断は正解だったって自信を持って言える。

「灯、で大丈夫です。私は……響くん、でいいんですかね」
「はっ、はい。じゃあ灯……ちゃんで」

 駄目だ、言葉を向けられるだけで心が跳ね上がる。こんなの幼稚園の初恋以来だ。そんな俺を見て、熱田はずっと「灯ちゃんねえ」ニヤニヤを繰り返している。苛立ったが、今日はこいつが奢ってくれる日だから留めておいた。何より、この人の前でそんな汚い自分を見せたくない。
 店は俺が元々指定していた。熱田と何度か来たことある、繁華街の地下にあるバルだ。お酒も料理も美味しくて、近所でも評判なため俺達の入店で席はギリギリだった。とはいえ俺は先に店に入っていて、この二人を待っていただけだったのだけれど。

「てかさ、ひーはともかくあかりんはタメ口でいいんじゃね。あ、そうそう。あかりん俺と同い年」

 そう紹介された灯ちゃんは、少し恥ずかしそうにキールを口にした。駄目だ、この人何しても可愛い。何でだろう。

「それなら響くんも、私にタメ口でいいよ」
「え、あ、はい。じゃなくて、うん」

 駄目だ、今日なんか本当に駄目だ。そう思って、俺はキティ飲み干すと次はウーロン茶を頼んだ。下手にアルコールを摂取し過ぎて、取り返しのつかない事だけは避けなければ。

「あれ?よく考えたらこの二十年近くでひー俺に敬語なんて使った事なかったくね?俺先輩ですけど?」
「幼稚園からの幼馴染なんでしょ、そんなものなんじゃない?」

 灯ちゃんの言葉に「まあそれもそうか」と熱田はけらけら笑う。仲良さそうで、どこか羨ましかった。

「その。熱田とは知り合って長いの?」
「同じ店舗になったのは今年からだよね、それまでもよく研修とかで一緒だったけど」
「そうそう。俺初店長だからさ、仕事出来る副店長がいるところって回してもらったんだよね」

 熱田がカジュアルジュエリー店に新卒で入社していたのは知っていた。ショッピングモールの中にあるお店で、何度も来店を誘われていたけれど何だかんだで都合がつかなくて行ったことがなかった。でも、そうか。こいつの店には……灯ちゃんもいるのか。もしお店で出会っていたら、その時でも俺は一目惚れしたのだろうか。した気がする。

「そういやあかりん、ひーの仕事って何だと思う?」
「え?何だろ、でも……サラリーマンとかではなさそう」

 じっと見られて、顔が熱くなる。駄目だ、これは……確定だ。
 熱田はにやつきながら、「俺達の得意分野だよ」と俺の手を指差した。すると灯ちゃんは「なるほど」と呟く。そして。

「少し、触るね」
「えっ」

 こちらの反応よりも早く、灯ちゃんの両手が俺の右手に触れた。滑らかで毛穴ひとつない、綺麗な手だ。その見栄えもそうだし、何より少し温かくて、それでいて柔らかくて。ドキドキが、手を伝ってばれてしまいそうで。
 何度も裏返したりしながら、灯ちゃんはじっと俺の手を見ていた。そしてちらりと左手見る。

「もしかして左利き?」
「えっ?う、うん。分かるんだ?」
「多分だけど、クラフト系のお仕事?」

 俺がぽかんと口を開けると同時に、熱田が「おおっ」と声を上げた。灯ちゃんは悪戯っぽく熱田を見て「当たり?」と口にした。それがどうも二人の距離感を目の当たりにしたようで、胸の奥がずきりとする。いや、出会って数十分の俺が言えた事ではないんだけど。

「うん、いい線いってる。ひー、ヒント」
「革細工作りしてる……」
「うーんもうそれ答えなんだよなあ」

 熱田の言葉なんてもうどうでもよかった。未だ触れている滑らかな熱が、あまりにも柔らかくて。駄目だ、顔が熱い。

「そうなんだ、すごいね。お財布とか?」
「う、うん。財布とかキーケースとか。メーカー勤務でまだ見習いみたいなものだけど……何で分かったの?」
「小さい傷多いなって。だから動物関係かと迷ったんだけど」

 確かに、こういった小さな傷は絶えない。だからこそ、灯ちゃんの綺麗な手との対比が気にってしまう。爪も派手じゃない、綺麗に見えるようなネイルが施されていて。見惚れてしまう。

「待って、ひーってあかりんより手大きいの?」
「え?」

 灯ちゃんはハッとしたように、俺の右手と自分の左手のそれぞれの手の平を合わせた。そこで気付いたけれど、確かに俺の方が大きいとはいえ大きさが近い。女性の中でも大きい方だろう。それでも、指はかなり細い。女性の手っていう感じだ。

「えっ結構レアじゃね?見てひー、俺これ」

 熱田は自分の左手と灯ちゃんの右手のそれぞれを重ねた。確かに熱田の方が見るからに小さい。いやそれよりも、熱田と灯ちゃんが触れ合っている事に舌打ちしそうになった。必死に耐えた。それを察してか、熱田は笑いながらすぐ下ろす。

「何でだろな。俺の方が身長高いのに」
「って言っても三センチくらいでしょ?私は女性平均だけど」
「あっこれ俺喧嘩売られてるね!そういやさっき思ったけどひーまた身長伸びた?」
「あー……178だった、この間の健康診断で」
「えっそんなにあるの?」

 灯ちゃんの顔に、不意に不安になる。どうしよう、背が高い男が地雷とかだったら。でも表情は少なくとも引いている気配はなくて、何とか安心した。

「並んだらでけーってなるんだけどね。顔がほら、ひーって美少女顔だし」
「男に使う表現じゃないだろそれ」

 でもそれは実際よく言われてきた。自分でも顔つきは男性よりは女性寄りだとは思う。背が低い頃は女性に間違えられる事が多くてコンプレックスだったけれど、ありがたい事に成長期になってから一気に身長が伸びてそういう機会も減った。

「羨ましいけどなあ、私は」

 ぼそり、と聞こえた灯ちゃんの言葉に目を剥いてしまう。熱田はにやつきながら灯ちゃんを見た。

「え?好み?」
「嫌いな人いないと思うよ?」

 ……上手い。どうとも取れるしどうとも取れない。これが天然じゃなくて計算だったらこの人はとてもやり手だけど、灯ちゃんならそれでも全然いい。だから、ただ俺は勘繰るために心臓を鳴らすしかない。でも灯ちゃんが好意的に捉えてくれるなら、過去のコンプレックスなんてどうでもよくなる。
 熱田が改めてハイボールを注文する。すぐ届いたグラスの中のレモンを潰しながら、熱田は笑った。

「そういやそもそも何で俺が今日あかりんを連れてきたか言ってなかったよな」
「……確かに」

 何だ、理由があるのか。すると灯ちゃんは気まずそうに顔を逸らした。可愛い。熱田も苦笑いしながら目を逸らした。

「いやさ、俺ひーと今日約束してたじゃん。先週くらいから。で、それをすっかり忘れてて」
「おい」
「で、あれいつだっけ」

 熱田の言葉に、消え入りそうな声で「一昨日」と灯ちゃんは口にした。

「そうそう。一昨日、灯ちゃんが無事彼氏と別れる事が出来たんだよな。その祝勝会しようぜって企画してからひーのこと思い出して、それならもう一緒でいいやって」
「え」

 まさかの情報だった。つまりは今彼氏はいないという事か。そもそもいたら流石に熱田でも気は使うだろう。しかし、ひとつ言い方が気になった。

「それだと、別れたかった、みたいな」
「その……結構、色々ちょっとアレなひとで」

 灯ちゃんはどもりながら呟く。そして、キールを一気に飲んだ。軽くしゃくり上げる姿すら、可愛い。

「そうそう、すっげーモラハラ気質。俺ですら引いたもん」
「……そんなやばかったの?」

 俺の問いに、灯ちゃんは頷いた。

「しかも浮気もされてた」

 こんな可愛い彼女がいて浮気とは、どんな神経の持ち主なんだろう。そもそも浮気をする人間の気持ちなど、俺には分からない。もっと言えば、人と付き合いたいなど自分から思った事なんて今まで一度も無かった。だからこそ、怖い。こんなに、急激にこの人に惹かれている今が。

「で、泥沼も泥沼。やっと連絡先消せたもんな」
「熱田くんが『ぽちっとな!』ってブロックしてくれて。でも助かった、本当に。やっぱりちょっと……その、怖かったから」

 グッジョブである。しかし、それならば。

「灯ちゃんから振ったってことだよね?その……ストーカーになったりとか」

 俺の問いに、「一応話はついてるし大丈夫」と熱田が返してきて少し安心する。灯ちゃんも、頷いた。
 その後は、主に熱田主導の他愛も無い話だけだった。けれど俺の心臓はやはり高鳴りっ放しで、お酒をあそこで止めておいて正解だったと痛感した。
 時間もほどほどに過ぎてきて、灯ちゃんはタクシーで、俺と熱田は徒歩圏内の家に帰る事になった。店の前に呼んだタクシーに乗り込む灯ちゃんは、やはり最後まで可愛かった。タクシーが完全に見えなくなったのを確認すると、熱田は先に歩き出した。どうやら少しいい感じなようだった。

「あかりん、どうよ」
「……ガチで一目惚れした」

 どうせこいつには絶対バレる。でも実際口にすると、一気に顔が熱くなる。そんな俺を、熱田はニヤニヤと見上げてくる。

「思った。ほらあの手のくだりとか。あんなに俺を睨むひーなんて初めてだったし」
「ご、ごめん。その……あれ、灯ちゃんにもバレてるかな」
「さあ?まあバレてたらバレてたでいいんじゃね?どうせ狙うんだろ?」

 頷くか、迷った。そんな俺を、熱田は意外そうに見る。

「彼氏と別れたて、って言ってたじゃん。しかも別れるのもしんどかっただろうし、話聞いてると。そこに付け込むのってどうなのかなって」
「いいだろ別に!」
「即答かよ」

 信号を待ちながら、熱田は伸びをした。

「いやだってさ、逆に塗り替えてやりゃいいじゃん。俺ひーの事、あかりんの元彼の真逆だと思ってるし。だから紹介しようと思ってさ」
「って、紹介?」
「俺は最初からそのつもり。さすがにあかりんには言ってねーけど。まあひーの言う通り、さすがに本人も今ゆっくりしたそうだし。新しい恋するぞーって燃えるタイプじゃないだろうしさ」

 ……となれば、少なくともこいつは味方か。なら、いってもいいのだろうか。と、そこまで考えてハッとした。

「そうだ、連絡先。聞けてなかった」
「あ、本当じゃん。後で送っておくー」

 すぐさま解決して、ほっと息をついた。しかし連絡先を聞いたところで何を送ればいいだろう。ひとまず、今日のお礼を言おうか。そう悶々してると、熱田は変わらずニヤニヤしていた。

「いやーでも初めて見たかも、ひーがそんなんになってんの」
「実際初めてだよ」

 別に恋愛経験、というか女性と付き合った事が皆無なわけではない。けれど、今のこの気持ちの事を考えると、今までの恋愛ってままごとだったように思う。実際続いて三ヶ月だったし、振られた理由も「響くんってつまらないよね」だった。実際、気を使うような恋愛をする暇があれば仕事していたいと思うくらいに色恋沙汰に興味はなかった。

「え、何が決め手?ガチの一目惚れ?」
「……そう、だな。決め手らしい決め手というのは、多分無い」

 特別な事なんて、きっと互いになかった。ふと目に入った瞬間、惹きつけられただけだった。本当に、それだけだった。
 携帯が震えた。メッセージだった。その送信者を見て、落としそうになる。そんな俺を見て、熱田は「にゃはは」と笑った。

「あ、もうきた?」
「おっ、お前!」
「さっきの話の前に俺すでにあかりんにもひーのアカウント送っておいたんだよね、まあこの先は各個人で頑張りな」
「いやいやいや!何送ろうどうしよう!」
「その前に内容見ろよ……」

 それもそうだ。息を飲みながら、内容を確認する。

「……『今日は突然お邪魔してごめんね、楽しかったです』」
「あ、絵文字ついてる。普段あかりんもっと素っ気ないのに。やっぱり初対面だから猫被りなのかにゃー」
「どうしよう!」
「結局!?」

 その後はだらだら帰りながら、熱田にどう返せば自然かどうかを教授してもらった。熱田はこういう親しみやすいキャラなおかげか、結構モテる。何度か熱田を攻略する方法を知りたい、という女性はいたがいかんせん本人が「俺束縛嫌いなんだよね~」と特定の相手を作るのは避けているようだった。
 ひとまず熱田が見守る前で『こちらこそありがとう、無事帰れた?』と送信する。疑問文にして返事を続けさせるというテクニック、とのことだった。ドキドキしながらアパートに到着し、熱田を見送って部屋に入る。玄関で気力が尽きてしまって、座り込んだ。

「はあ……」

 まだ送って数十分だけど、未だ既読がつかない。タクシーだし何かあったとかではないだろうけれど、単純に返事が気になる。すると、携帯が震えた。慌てて開くと、灯ちゃんだった。一気に手汗が湧く。
 駄目だ、二十代後半にして中学生みたいな事をしている気分になる。でも本当に、……俺は、恋を始めた。
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