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33.逃がすわけなんてないでしょう。

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 シャイネがロドハルトに戻ったのは、ラチカのエヴァイアン帰郷の当日だった。シャイネにとっては、ロドハルトをただ経由してすぐさま経つ事になる。しかしそれはさして問題でも何でもない。こういう事はエクソシストであるラチカに付いていると慣れてくる。

「行こうか、ポシャロ」

 帰り道が同じという事で、シャイネがポシャロを連れて帰る事になっていた。ポシャロは一声吠えると、馬車を降りる。まともに接するのは、今回の集会で初めてだった。レヂェマシュトルの犬は基本的に賢く、同胞かどうかも一瞬で嗅ぎ分ける事が出来る。やたら匂いを嗅がれたのも、その一環だったのだろうか。
 馬車を降り、国主邸に足を踏み入れる。出迎えに来たのは、ギャムシアだった。

「おかえりなさい、シャイネくん。ポシャロをありがとうございます」

 ポシャロは嬉しそうに吠えると、ギャムシアへと駆け寄った。そんなポシャロを撫でながら、ギャムシアは微笑む。前から思っていたが、この笑み自体がまず胡散臭い。絶対に、裏面がある。それを隠す笑い方だ。しかしそんな事を指摘するわけにもいかないので、大人しく頷く。

「とんでもないです。ところで、お嬢様は」
「もう準備を終えられて、馬車の中で待たれているはずです。落ち着きが無くて申し訳ないが、もう出られるでしょう」

 現在の時刻からして、恐らくエヴァイアンに健全な時間に戻るなら確かにそうするべきだ。おまけにもうラチカが待っているのであれば、早めに行動する方がいいだろう。

「こちらこそ申し訳ありません、バタバタとしてしまって。あと、先日は……その」

 もご、とシャイネは口ごもる。あまり素直に言いづらいが、これは言わなければならない。不思議そうにシャイネを見るギャムシアに、「治療の手伝い、してもらってたみたいで。ありがとうございます」と小声で告げる。ギャムシアは一瞬きょとんとするが、すぐにくすくす笑い出した。

「その事ならば、お気になさらず。元々の職ですからね。ところで、そろそろ用意された方がいい。妹君がお待ちですよ」
「そうですね。ありがとうございます」

 そうとだけ告げて、歩き出そうとする。そんなシャイネの肩を、ギャムシアが掴んだ。何事かと振り返った彼に、一枚の封筒を渡す。

「これは重要書類です。エヴァイアンに戻り、一人になってからご覧ください。絶対に、ですよ」

 圧を感じながらも、恐る恐る受け取る。まるで手紙のような、小さな封筒にだ。こんなものの中に一体何が入っているのだろうか。ひとまず頷くと、ギャムシアはこちらに背を向けた。もう用はないという事なのか。
 支度をし、馬車へと向かう。中には、すでにラチカが居た。彼女の姿を見つけると、胸の奥がぎゅっと締まるのを感じる。そうだ、昔から集会そのものが毎年憂鬱だった。彼女と離れる時間が。

「お嬢様、戻りました」

 シャイネの浮いた言葉に、ラチカはハッとしたように顔を上げる。彼女はへにゃりと微笑むと「おかえり」とだけ言った。その様子に、どこか違和感。つい先日会っているとは言え、どこか……おかしい。懐かしがってくれる様子が、感じられない。ひとまず気にしないようにして、向かいに座った。
 馬車が、動き出す。

「俺が居ない間、大丈夫でしたか」

 シャイネの言葉に、ラチカは頷く。

「とくに何も、無かったよ。公務も今回は書類整頓ばかりしてたし」
「そうですか。なら、良かったです」

 やはり、様子がおかしく見える。錯覚だろうか。どこか、元気がないというよりよそよそしい感じがする。目も合わせてくれない。
 本当は今すぐにでも触れてしまいたいが、御者の存在がある。元々集会で疲れて帰ってくるであろうシャイネに対する配慮からギャムシアが手配してくれていると、集会へ向かう前に聞いていた。しかし今では邪魔者でしかない。
 あの封筒の事といい、何かあるのだろうか。今ここで読んで何か支障があるのか。……下手な真似はしない方が賢明か。

 エヴァイアン国主の館に到着し、馬車から降りる。いつものように、後に続くラチカの手を取ろうと腕を伸ばした。しかし、ラチカは一瞬それを躊躇うとシャイネの手を取らずに馬車から降りる。戸惑いながらラチカを見ると、彼女は「もう、そこまでしなくても大丈夫だよ」と苦笑した。
 ……知らない。こんな、彼女は。十五年間一度も見た事のない女になっている。

「兄さんのところに報告行くね。シャイネはもう休んで」
「かしこまりました」

 そうとしか、言えない。ラチカはぱたぱたと足早に、館の中へと走っていった。
 胸の奥でどこかぐるぐると渦巻くものを抱えながら、自室へ向かう。久し振りのエヴァイアンの部屋だ。荷物をすべて乱雑に置くと、封筒を取り出す。今ならいいだろう。
 中から出てきたのは、便せんだった。癖のある字。大陸内は共通言語なので読めるのは読めるが、一瞬で誰のものか分かった。ギャムシアの筆跡に違いない。
 読み進めていく。最終行には、やはり彼のサイン。

「……なんで」

 ぼとり、と零れた言葉。
 脳の中が揺れる。嘔吐間が昇ってくる。ああ、もう駄目だ。おかしくなる。
 ……ああ、だからこのタイミングで読むように仕向けたのか。小賢しい。あの男は、本当に……。
 手が、震えてくる。そのままベッドへ倒れ込む。以前ラチカが、自身の匂いを嗅いで自慰をして……はじめて、彼女と繋がった場所。ラチカを自分へと繋げる事が出来た、あの日の記憶が去来する。

「嫌だ」

 声が漏れる。
 離したくない。よりにもよって、何故あの男なのだ。いや、誰でもだ。何故、自分以外のものになろうとする。やっと、堕ちてきてくれたと思ったのに。
 作戦を変える必要性が出てきた。焦ってはならない。強靭な理性で、脳を動かし始める。まだ、まだどうにかなるはずなのだ。そのための最善を、探るのだ。

「……逃がしませんよ、お嬢様……」

 ぼそりと漏れた言葉は、呪詛のそれだった。




 今日はたまたまヴェリアナも居たので、公務室には現在三人居る。偶然にも訪れたタイミングで公務がひと段落したところらしく、ラチカが他の使用人の人払いを申し入れるとコーマスはすぐに応じた。きっと、何か勘付いているのかと思ったが……まさしく、その通りだったらしい。
 ギャムシアがしたためた手紙を、コーマスに手渡す。ヴェリアナと二人で目を通すと、コーマスは忌々し気にラチカを見た。

「本当なのか、これは」

 ラチカは頷く。ヴェリアナはいつものように穏やかな微笑みをたたえていた。

「やっぱりこうなったわね」
「や、やっぱり?」
「ふふ、こちらの話」

 余裕のあるようなヴェリアナと違い、コーマスは頭を抱えていた。手紙の内容は、ラチカも知っている。ラチカの見ている前で、彼が買いていた。コーマスに読ませるように、と持たされたのだ。
 コーマスは再びラチカを見る。そして重々しく口を開いた。

「……で、本当にあいつと結婚する気なのか」

 頷く。ヴェリアナは「あら」と楽し気に声を漏らした。コーマスはそんなヴェリアナを一つ睨みつけると、すぐにラチカに向き直る。

「本当にあいつでいいのか。俺が言うのも何だが、あいつは人の夫になるには最も向いていない男だぞ」
「あの地下牢の椅子、ギャムシアにあげたんでしょ」

 一見、何も脈絡もないラチカの言葉。しかし、コーマスはすべて悟ったらしい。一瞬硬直するも、「やはりお前に使ったんだな」と呟く。

「その上で、あいつがいいのか」

 ギャムシアの事を、思い出す。初めて出会った時、抱かれた時、そして先日の折檻。すべて、色鮮やかによみがえる。今思えば、あの日であった時から……すでに、恋だったのかもしれない。あまりにも、曲がりくねってしまった。
 頷く。コーマスは尚強く頭を抱えた。

「いやもう俺が言うのも何だが……本当に何だが……男の趣味が悪すぎるぞお前……」
「それはまあ、自覚してます」

 何せ、あんな険しい男だ。しかしそんな男に耐性がついた原因は、他ならぬコーマスのせいなわけで。恐らく彼もそれを分かっているからこそ、口出ししづらいのだろう。正直そこは読めていた。
 ギャムシアの手紙には、自分達がすでに恋愛関係である事、互いの国交の件があるのでそこをまず密に話し合いたいという事と、そしてこうなった事に対しての取り繕いの謝罪が記されていた。恐らく内心は、早く認められたくて仕方ないはずなのに。

「結局自分を愛してくれる男がいいのよ、何ならそれをしっかりと味わわせてくれる男ね」

 ヴェリアナの言葉にコーマスは心底げんなりしたように顔をしかめる。手紙を卓上に置いた。

「……まあ、お前が今まで何百と来た縁談をすべて断って選んだ男だ。それに、あの男の事ももう分かっているだろう。もう俺は何も言えん」
「じゃあ、許してくれるの?」

 ドキドキとしながら、問う。コーマスは首をどちらにも振らなかった。しかし心底悩まし気にラチカを見ている。

「許さざるを得ないんだろう。心底複雑ではあるがな。父上と母上にはお前が報告しろよ」
「うん。ありがとう、兄さん」

 思った以上にあっさり進んで、どこか拍子抜けだった。しかし、障害が無いに越した事はない。心の奥底から安堵の息を吐くと、コーマスからは深い溜息が漏れ出した。
 ヴェリアナが、新しいミルクをコーマスのカップに足した。未だ湯気が立つミルクに口をつけ、コーマスは口を開く。

「今日はもう疲れただろう。一旦休め。夜は教会か」
「うん、その予定」
「なら、明日の朝食で色々詳しく話すか。少し心の整理をさせてくれ」

 頷く。立ち上がって、そそくさとラチカは公務室を出て行った。彼女の背を見送って早々、コーマスは卓上に突っ伏する。そんな彼の背を、ヴェリアナは優しく摩った。

「結局こうなっちゃったわね。ふふ、大丈夫?」
「あいつか……よりによってあいつなのか……」

 レヂェマシュトルの集会の際、彼が打診にかかってきたのは記憶に新しい。あの時の時点で本気なのだとは感じていたが、まさかこんなにも早くに来るとは。もっとしっかり外堀を固めに来ると思っていたが。
 ……外堀を埋める必要が無くなったのか。ラチカが、惚れきったから。

「所詮顔なのか……」
「確かに綺麗な顔をしているわね、彼。でもそれだけじゃないんじゃない?」
「さっき言ってたアレか。愛してくれていると味わわせてくれるかどうか」
「ええ。あなたのようにね」

 ヴェリアナの言葉に、コーマスは顔を伏せる。「こんな時にやめてくれ」と言いながら、ふと一つ思った。

「……シャイネが許すと思うか」

 ヴェリアナは首を振る。彼と出会ってまだ浅いが、彼は……確実に、ラチカに執着している。あれはもはや、恋を超えてすらいるだろう。そしてその事に、コーマスはとうの昔から気付いている。

「ヴェリアナ、賭けをしよう」

 不意の言葉。首を傾げると、コーマスは続きを告げた。




 仮眠から目覚めた。恐らく三時間程眠っていたと、体内時計が言っている。そこに関してはそれなりに正確なつもりだ。
 辺りは、薄暗い。この明かりは、蝋燭によるものか。壁の質が、明らかに部屋のものではない。確かに部屋で眠ったはずなのに。いや、この感触は。ハッとして飛び起きる。
 このベッドは知っている。麻で出来た安いシーツ、弾力の無い感触。黴の混じった匂い、幾度も血を浴びて汚れた煉瓦壁、そして少しぬめりすら感じる床……ああ、やはり本物の、部屋だ。これは。

「な、何で……」

 先日似た感覚を味わったばかりなのに、再びの悪寒。むしろこっちは本物だ。何故、ここにいる。時間の軸がズレてでもいるのか。全身の鳥肌が止まらず、全身を抱きしめる。寒い。とにかく、悪寒が止まらない。
 がたがたと恐怖で震える体に、そわりと。風のような、声。

「お嬢様」

 気付かなかった。壁にもたれかかるようにして、シャイネが立っていた。
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