どうあれ君の傍らに。

湖霧どどめ

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11.二月の浅田光。

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 ちらほらと学校に来なくなった生徒が出だした。それを一般的にはサボりというのだが、実行しているのは進路と卒業が安定して「もう学校に行く必要がない」と判断した生徒達だ。俺も一応進路は決まっているものの、どうしても来たかった。
 自覚、してしまった。あの日、修治と葵のあの行為を目撃してから。案外自分は嫉妬深かったのだと思い知らされる。
 教室には勿論二人がいる。一緒に居るわけではない。葵は自分の友達と居るし、修治は俺やクラスの男子と居る。しかし、俺は気付いていた。修治はしっかりと、葵を見張っている。もう俺は完全に葵に近づけなくなっていた。だから。

「最近どうなんだよ、凪野さんと」

 こうやって修治に直接聞くしか、学校で葵の様子を知る事は出来ない。修治は訊かれる度、幸せそうに顔をとろけさせる。

「土曜に二人でサッカー見に行った」
「凪野さんサッカー好きだっけ」
「いや、俺が無理矢理連れてった。でも修治が行きたいならってついてきてくれたんだよ、本当にもう……何て言うか、優しいんだよなぁあいつ」

 優しい。ああそうだろう。俺にもよく分かる。

「つーか最近よくそういうの訊いてくるよな。何、心配してくれてんの」
「まあ、そうだな」

 そうとしか言えない。

「一応俺が、お前達が付き合うきっかけの助太刀したわけだし」

 今思えば本当にやってしまったとは思っている。しかしそれはどうしようもないことで。

「まあ、そうだな。本当にありがとうな」
「別に」

 もし修治が居なければ。彩が居なければ。俺と葵は真っ当に付き合う事が出来たのだろうか。
 そう、真っ当に。





 葵を初めて抱いた時、俺もまた童貞だった。実は彩とは一切そういう行為はしていなくて、先に葵とする羽目になった。後悔は一切してない。
 数学の授業中、俺は見つからないようにスマートフォンのビデオメモリーを作動させた。イヤホンをつけても、もはや誰も注意してこない。
 聞こえてくるのは、痛みにうめく……葵の、声。日曜に撮影したものだ。

『っん……んんっ……』
『ごめん、まだ痛い?』

 それでも腰の動かし方さえ分かれば案外どうにかなるもので、問題は葵だった。修治とのあの行為がやはり破瓜だったらしく、未だ慣れてきっていないらしい。もう三ヶ月程経つのに。

『だい、丈夫……いいよ、大丈夫だからっ……』

 俺のベッドの縁に固定させていたおかげで、葵の顔がよく見える。痛そうではあるが、それでも……たまらなく、綺麗で。
 あの日の記憶は鮮明に残っている。あれを目撃して俺は散々悩んだ末、俺は葵を呼び出した。そして葵も、来てくれた。修治は散々謝って、葵に許してもらった気でいるらしかった。その隙間をついて、だ。
 俺のこの気持ちは、まだ葵には伝えていない。きっと、ただ当てつけで俺自身も浮気を始めたと思っているだろう。それは、あいつ自身がそうだから。
 イヤホンから聞こえる葵の声、時たま流れる俺の声。それは完全に二人で繋がった、あの日の記憶。
 今となっては葵の都合がつき次第、俺の家に呼んでいる。
 チャイムが鳴った。これが最後の授業だ、皆片しだす。担任のホームルームも終わり、修治は葵に目配せをしてそそくさと教室を出る。葵は俺を見る事なく、教室を出て行った。
 ああ、もう。本当に苛々する。
 葵を抱いてから、急激に独占欲が増した。でも本来葵は修治のもので、俺もまだ彩と付き合っている。互いに相手と別れる様子は一切見せない。相手がそれぞれ、執着が強すぎる。修治はあの様子だ、もし葵に別れ話でもされようものなら何をしでかすか分からない。最近どうも、そんな狂気すら感じられるようになっていた。
 彩は、彩で。

「……またか」

 スマートフォンが鳴る。校内なのでさすがにマナーモードにしているが、もううんざりしつつある。開いてすぐの画面に、メッセージの通知があった。

『お願いだから返事して』

 葵への気持ちを自覚してから、俺はすぐに彩に別れ話をした。受験勉強が佳境だったはずなのに、俺が一言「別れよう」とメッセージを送ると家まで飛んできた。もうあげる気もなく、ただ告げた。葵への気持ちは勿論伏せた上で。
 納得してもらえるわけがなかった。泣いて喚いて、最後は土下座までされた。それでも俺は、もう彩に気持ちを戻せなかった。
 あの彩の様子なら、もし俺が仮に葵と付き合えたとしても絶対妨害してくるだろう。それだけは避けなければならない。
 葵は近隣の大学に合格した。俺もまた近隣の、違う大学に合格している。遠くで二人で、と提案するにはあまりにも遅すぎた。

「はあ……」

 身勝手だとは思う。親友の彼女を付き合ってから好きになって、手を出して、自分の彼女を捨てて。それでももう、俺は。

「浅田」

 ふと、呼ばれた。浦見先生だ。

「何やお前、まだ帰らんのか」

 ハッとして周囲を見渡す。教室にはすでに誰もいなかった。

「何か一人でぼーっとしてるから気になって来てみたけど。大丈夫か」
「あ……はい」

 先生は「そうか」と呟くと、背を向ける。そんな彼を、俺は呼び止めた。先生は不思議そうに振り返る。

「その、相談したいことあるんです」

 先生は一瞬きょとんとしたが、「何や何や」と言いながら俺の前の席に腰掛けた。元林の席だ。そういえば、最近彼も学校に来ない。
 呼び止めたはいいものの、うまく言葉が出ない。その沈黙を察したのか、先生は鼻で笑った。

「何や、恋愛系か」

 頷く。どうも恥ずかしくて、顔が熱くなる。先生はそんな俺をニヤニヤ眺めた。

「前の話の続きかいな。お前ほんま意外やな、そんな色恋ごとで悩むようには見えんのに。クールなイメージ」
「全然そんなんじゃないですよ」

 ただ、出せないだけだ。ずっと。流されるままで。初めて、こんなにも人を自分のものにしたいと強く思った。

「で、何。お悩み事は」

 ごくり、と喉を鳴らす。そして、絞り出した。

「……友達の女を、好きになりました」

 先生は黙っている。だから、続けた。

「俺が仲介に入ったようなものなんです。友達はずっとその子が好きでやっと付き合ったんですけど、その後に……その、色々あって自覚して。俺が」

 思えば、たった半年と少しの話だ。それなのに、こんなにも。

「その子じゃないと駄目ってくらいになってるんです、今。でも友達も勿論その子が好きで、その子は……多分、迷ってくれてるんだと思います」

 最後は正直願望だった。そうであってほしかった。
 先生は少しだけ黙った。しかしやがて、口を開く。

「しんどいよなぁ、それ。俺は経験ないけど」
「……ないんですか」
「でも、その子の過去とか身内にはめっちゃ嫉妬するよ。お前もその友達に嫉妬めっちゃしてんちゃうん」

 頷く。先生は、深い溜息を吐く。

「人のもん、か。難しいなそれ」
「はい」
「でも、好きなんやろ」

 頷く。そして、付け加えた。

「そして、彼女が別れてくれないんです」
「お、おおう……」

 先生の顔が露骨に歪み、「二重不倫かぁ」と呟かれる。言葉は悪いが、その通りとしか言えない。

「ちなみにどっちが手強そうなん。お前の彼女と好きな子の彼氏」
「どっちも同じくらい……」
「うわあ……」

 先生もまた頭を抱えだした。いやそれはそうだろう。本人ですらややこしさで泣きそうだというのに。
 しかし先生はふと、俺を見た。そして、放つ。

「お前とその友達、どっちの方がその子幸せにできそう?」
「え」

 先生は一度だけ、椅子に座る姿勢を正した。

「俺さ、結局そこやと思うんよね。仮にお前が奪ったとして、その子が不幸になったらそれこそ最悪やろ」
「……はい」
「お前の彼女に関しては、お前がそんなんやったらまず絶対幸せになれんわ。それは断言できる。『貴方と居るだけで幸せ』って絶対言うやろけど、絶対の絶対にないから。そんな破滅願望に付き合ったらお前も幸せになられへんやろ」

 何だか、先生の言葉にいちいち重みがある。経験でもあるのだろうか。
 でも、そうか。それを、一番に考えないといけないのは確かだ。

「ありがとうございます」
「え、もう解決?」
「ちょっと考えようと思って、そこを冷静に」

 俺の言葉に、先生はふふっと笑った。

「いやーでも何となく誰かってのは察してもうたわ」
「え、何で」
「いやそりゃお前、ほぼ毎日半強制的に300人近く見てるのに分からんわけないやろ」

 それもそうだ。何となく笑えてきた。何だか、こんなに必死で隠しているつもりになっていたのが馬鹿みたいだ。
 でも。修治は、まだ気付いていないはずだ。葵の変化にも、まだ。

「まあ頑張り」

 先生はそうとだけ言って、教室を出た。そういえば、先生の恋愛は今どうなっているのだろう。
 ……自分だけが、こういう事で悩んでいるわけではないのだろう。先生のさっきの恐らく体験談を聴いているとそう思った。
 それなら、俺に今出来る事を。





「っは、葵……っ!」

 先生との問答から約一週間かその辺りだろうか。日曜日、俺は葵を抱いていた。

「や、あっ……あっ」
「呼んで、俺の名前、呼んでっ……」

 一度だけ子宮の入り口を突き込むと、葵は悲鳴のような声をあげた。それでも。

「ひ、光くんっ……」

 強く抱きしめる。出会った頃に比べれば肉はついてきたように思うが、それでもまだまだ細い。折れてしまわないか不安になる。
 修治もまた、この体を散々抱いているのだろう。それは葵の背中に散々ついた跡で察していた。だからこそより、苛立つ。修治にも、それをどうにかして隠そうとする葵にも。
 奥を突きすぎるとまだ痛がるので、優しく内部を圧して拡げていく。しかし俺の方がもうもたなそうだ。

「ごめん、出そうっ」
「うん、うん」

 強く抱きしめて、射精する。熱い。あまりにも、熱い。
 引き抜くと、コンドームの精液だめにはしっかりと液体が溜まっていた。この壁さえなければ、葵は妊娠するのだろうか。そうすれば、さすがに俺を選んでくれるだろうか。そんな自分の考えに、ゾッとした。

「光くん……?」

 未だに荒い息で、熱っぽい目で俺を見てくる。そんな葵が愛おしくて、俺はすぐにコンドームを外すと強く抱きしめた。

「光くん、大丈夫?」
「うん、大丈夫。幸せ」

 そうだ、俺は幸せなんだ。葵がここにいて、片時とはいえ恋人のように振る舞ってくれて、体も通じ合って。でも。

「葵は、幸せ?」

 俺の問いに、葵は一瞬詰まった。しかしすぐに。

「幸せ」

 そう、微笑んで。胸の奥が掻き毟られたような心地がして、抱きしめる力が強まる。
ああ、どうすれば。どうすれば、葵を幸せに出来るのか。

「葵」
「うん」

 ……もう、いいのかもしれない。

「俺、彼女と別れた」

 厳密に言えば、まだ連絡はきている。それを俺はずっと無視している。
 葵は目を少しだけ見開いた。しかしすぐに「そっか」とだけ呟いて、抱きしめ返してくれる。ああもうこれは、期待してしまう。

「好きな人が、出来た」

 葵は、何も言わない。

「葵」

 もう、離したくない。

「俺と付き合ってください」

 葵の反応は、なかった。ただ抱きしめる力を固定したままだ。それでも、俺は止めない。

「勿論、修治の事もあるし急には難しいと思う。でも、いつかは」
「光くん」

 葵の声に、俺の口が止まる。葵の表情を見ると、困ったような泣いてしまいそうな……でも、確かに微笑んでいた。

「ありがとう」

 その声はあまりにも甘くて、優しくて。でも。

「ごめんね、すぐには返事できない」

 頷く。

「私も、こんな事しておきながら言えた事じゃないんだけど」
「大丈夫」

 そうだ、俺が悪い。だから。

「修治と別れてもいいってなったら、言って。俺も全部あいつにちゃんと話す」

 これが、俺から出た結論だった。幸せにすると決めた以上、不幸を生み出すのもよくない。そのために……修治には申し訳ないが、犠牲になってもらうしかない。あいつはきっと激昂するだろうし、相応の事は覚悟しなければならないだろう。それでも、やるしかない。
 ただ、彩をどうするかは決めかねていた。そういえば連絡は来るものの最初の時のように家まで来ないのは何故だろう。

「分かった」

 葵は、確かにそう言ってくれた。だからこそまた強く抱きしめて、「ありがとう」と囁く。葵はそっと、頷いた。

「でもごめん、自分勝手なんだけど……来週の金曜までに、答えをもらえたら嬉しい」

 これは、理由があった。来週の金曜が最終登校日だ。その後会うのは、三月の卒業式になる。そこまで持ち越すのは、さすがにまずい。修治と話せない。
 葵は分かってくれたようで、頷いた。





 その日の晩だった。風呂からあがってすぐ、修治から電話がかかってきた。

『葵が……葵が!』
「何だよ、どうした」

 心臓が、バクバクとうるさい音を立てる。一体、何が。

『襲われたらしくて、うちの系列の病院に搬送された……!』

 一気に、血の気が引いた。

「っ無事なのか!」

 声が荒くなる。修治は相当狼狽しているらしく、声が震えていた。

『殴られた衝撃で脳震盪を起こしてるって言ってた。命に別状はないって言ってた、けど』
「系列の病院って言ったな、どこだ」

 俺の問いに、修治は病院の名前を答えた。それを聴き、俺の手からスマートフォンが滑り落ちる。しかしすぐにハッとして、拾い上げた。

「そうか、分かった。行くのか」
『もう向かってる、俺の親戚がやってる病院だからどうにかして入れてもらう』
「そうか、俺も行く」

 俺の言葉に一拍だけ間を置いて、修治は『待ってろ』と返した。そのまま、電話を切られる。俺は急いで、寝間着から外出着に着替えた。
 葵が家を出たのは昼の三時過ぎだ。夜から修治に会うから、と言っていた。今の時刻は、七時。修治の様子からして、発覚した瞬間だろう。修治に会う直前に、か。
 襲われた、と言っていた。つまり、その意味は。
 メッセージが入った。『下についた』と一言。俺は家を飛び出すと、急いでマンションの下へ降りた。車が一台停まっている。後部座席を開けると、修治が居た。

「出してくれ」

 運転手が頷くと、車が走り出す。修治は重い溜息を吐いた。

「悪い、急に」

 声は完全に沈んでいる。首を振り、俺は修治の丸まった背中に手を添えた。

「でも、何でまた……」

 修治は頭を抱えながら呻く。

「マジで分かんねぇ。今日あいつと七時に待ち合わせしてて、過ぎても来ないから電話したんだよ。そしたら、出なくて。心配になってさ、俺」
「うん」
「そしたら、いとこから電話が来たんだ。『凪野葵って女が搬送されてきた』って」

 いとこ。それは。

「なあ修治。さっき言ってた茂木病院ってことは、お前のいとこって」

 そう発した瞬間、修治はこちらを見た。ゾッとする程、凍てついた目で。

「ああ。茂木彩。お前の彼女だよ」

 ……俺は、言っていない。つまり彩が言ったのだろう。でも、修治はその関連を一度も言及してきた事はない。一番茶化しにきそうなのに。
 そうか、じゃああの時二人が一緒に居たのは。修治は何ひとつ、嘘も誤魔化しもしていなかったのか。その上で、誤解だったとはいえ俺と葵は。
 茂木病院に到着した。修治の指示で車を降ろされ、二人で病院の裏へと回る。

「こっちに裏口があんだ。開けてもらうように話はつけてある」
「修治」

 背中に声を掛けたところで、流される。もしかして、こいつは……全部、知っていたのだろうか。
 修治は簡素な扉のノブを回し、開いた。ようやくこちらを見て、促される。その目は相変わらずだった。仕方ないので一旦中に入る。中は真っ暗だ。修治は扉を閉めてすぐにスマートフォンを開いた。ライトを起動させ、辺りを照らし出す。

「三階らしい。行くぞ」

 修治が先導で、階段をのぼる。胸騒ぎが、止まらない。
 まずい予感がする。これはまさか、はめられたのか。
 三階に着き、俺の予感は的中した。修治が止まったのは病室だったが、名前が出ていない。空き病室だ。修治を呼び止めようにも、間に合わなかった。病室が開かれ、「入れ」と告げられる。
 中に踏み入れると、やはり……居た。

「光くん」
「彩……」

 やつれていた。大きな目は窪んでいるようにも見える。
 修治は扉を開けたままで、声をとばした。

「どうする、俺居ない方がいいか」

 彩は首を振る。

「ううん、居て」

 修治は扉を閉めた。その手は、荒い。
 ……まずい。囲まれた。口火を切ったのは彩だった。

「酷いよね、私」

 その声は冷ややかで、ただでさえ寒い病室の中をゆらりと舞う。

「試すような真似になっちゃった」
「試す?」

 彩は何も言わない。かわりに、いつの間にかベッドに腰掛けていた修治が口を開く。

「お前彩をずっと無視してたろ。だから相談されたんだよ、『どうやったら確実に会えるか』って」
「そんなの……最初、家まで来たくせに」
「二回目は無いと思った。下手すれば通報されちゃうかなって。それは修治に言われて納得した」

 あくまで、冷静だった。

「最初はただの恋愛相談だけだったんだよな。でもあれ何だっけ、何で分かったんだっけ」
「私がたまたま写真見せたんだよ」
「ああ、そうだっけか」

 俺の傍らで交わされる会話はあくまで穏やかなのに、あまりにも、冷たい目だった。

「で、俺も俺で一個疑ってるところあったんだよ。なあ光」

 修治の手が、強くシーツを掴む。その目は、怒りでたぎっていた。

「お前さ、俺が葵の携帯に何か仕込んで見張ってるって線は一切考えなかったのか?」

 ゾッとした。修治は続ける。

「葵一回携帯壊したろ、先月か。その時に俺がうちの病院のスタッフの過去職のよしみで、格安で修理してやるって預かったんだよ。葵も馬鹿だよなぁ、『修治の知ってる人なら信頼できる』って。履歴消したところで復元出来る手段なんざいくらでもあるのに」
「まさか……」
「その時についでにちょっと入れさせてもらったんだよ、あいつの携帯の使用履歴が全部俺のパソコンに送信されるような隠しアプリ」

 足が震えるのを、必死に耐える。そんな俺に気付いているのかいないのか、修治はにやけながら続ける。

「なあ、葵はマジで可愛かっただろ。最近ずっとヤる度笑ってくれるようになったんだよ。最初はずっと痛がってたのに。いやあれはあれで俺があいつを染めてる感じがしてよかったなぁ……」
「修治」
「でも」

 急に、声が冷える。

「お前もそこに荷担してたなんてな。よくもまあ俺の前で白々しくいられたもんだぜ。何が『凪野さん』だよ下手くそが」

 こいつは。全部、知ってた上で。そうかつまり、泳がせていたのか。

「ああ、もう気付いてると思うけど葵はここには居ねぇよ。葵には悪いが、今日の約束は断った。今日の事は何も知らねぇ、あいつはな」

 彩を見る。彩の目もまた、ひどく冷たい。いとこだからって、こんな似かたをするものなのか。

「電話の時までは、正直お前が俺を裏切ってるなんて信じたくなかったよ。でも、お前が葵の危険を知ってあんなに焦ってるの聴いたら……もう信じざるをえないだろ」
「まさか、そのために」
「ああ。仮に本当に遊びだったら……それでも許さねえけど。でもまさか、そこまで本気かよって」

 彩は深く溜息を吐く。その手は、震えていた。

「私と別れたいっていうのは、それが理由なのね」

 頷くしかなかった。もうここまで来れば、どうすることも出来ない。

「言っておくけど、俺は絶対葵を手放すつもりなんて無えから。お前には感謝してるけど、だからこそ遠ざけたってのは気付いてただろ」

 修治は彩を見る。彩は頷くと、俺に向き直った。

「光くん。私ね、反省したの」
「反省?」
「うん。本当にわがままだったし、束縛もしてしまってたなって。それからすり抜けたかったんでしょう、だから裏で他の子に現を抜かしたのよね」

 黙る。彩は、続けた。

「私には、光くんしかいない。光くんしか、私を助けてくれない。光くんさえいれば、私は幸せ」

 先生の言葉が、蘇る。ああ、それ以前の問題だ。こいつは自分の精神の平定しか考えていない。こういうところなんだ。

「ごめん、彩。もう駄目だ」
「光くん」

 悲痛な声。置いていくしか出来ない。
 病室を出た俺を、修治も彩も追ってはこなかった。慎重に歩きながら、来た道を辿る。
 もう、引き返せない。その中で俺は、脳内を引っかき回しながら考えていた。
 束縛が辛かったから。いや違う。もし仮に葵が束縛をしてきたとしても、俺はきっとそれすら嬉しく思う。だって、葵だから。

「葵……」

 連絡を取るのは、きっとまずい。俺は必死に堪えながら、病院の敷地の外へと足を踏み出した。





 金曜日になった。俺の内心は、完全にささくれだっていた。
 葵も修治も登校してきていない。この一週間ずっと、来ていない。修治に連絡しても繋がらず、葵もまた同様だった。彩に連絡を取ったら早いかもしれないが、それだけは極力避けたかった。
 ただ、焦りだけが募る。

「はい、じゃあ卒業式まで気をつけて過ごすように」

 担任の最後の、それどころか高校生活最後のホームルームはあっさり終わった。もはや半分にも満たなくなっていた生徒達は、がやがやと話しながら教室に未だたむろしている。何せ次会うのは約二週間後の卒業式で最後になる。……もう、葵に会うのも難しくなる。
 スマートフォンが鳴った。画面を開き、心臓がどくりと跳ねる。

『18時には何とか抜け出して学校に行けると思う。だから、待ってて』

 葵の、言葉。久しぶりの連絡に、泣いてしまいそうになる。
 抜け出す、という事はいつも以上に監視されているということか。前回の修治の話がもし本当なら、この内容も恐らく筒抜けだろう。それどころか、これすらも修治の指示によるものの可能性もある。
 それでも、待つしかない。葵は危険を冒してでも、俺に返事をくれる気だ。あいつ自身が気付いているかは分からないが。





 時計の針はそろそろ六時を指そうとしている。俺は教室に居た。この時期は下級生が部活を遅くまでやっているおかげで、とくに怪しまれることもない。
 先週の修治と彩の件がある以上、不安要素はたくさんある。それでも、早くけりをつけたい。葵を、俺だけのものにしたい。
 扉が、開いた。

「葵」

 一週間ぶりなのにとても懐かしくて。葵はそっと元気なく微笑むと、教室に足を踏み入れた。そしてそっと、扉を閉める。

「ごめんね、遅くなって」
「いや、いい。いいんだ」

 色々訊きたい事は勿論ある。でもそれ以上に、俺は葵に会いたかった。強く葵を抱きしめると、甘い葵の匂いがした。

「会いたかった」

 俺の言葉に、葵の手が動く。抱きしめ返してくれた。その力に、泣きそうになる。
 欲しい。葵が欲しい。

「返事、いい?」

 葵は頷いた。そして、唇が動く。その、瞬間だった。

「え……」

 扉は開いていた。気配は無かったのに。そして、居た。

「彩」

 その顔は病院で見たとき以上に、修羅の顔をしていた。そしてまっすぐに、葵を見ている。

「思い出した、凪野葵。そうね、凪野なんてそうそうある名字じゃないもの」
「何、言って」

 俺を無視して彩は教室に入ってくる。さては、修治の差し金か。俺が葵を背中に隠すと、彩は吠えた。

「その女が元凶なんでしょ、光くん! その女が、その女が!」
「そんな言い方するな!」

 久しぶりの大声に、喉が裂けそうになる。でも。

「葵に何かしたら、絶対に許さない」

 彩の顔が崩れた。ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていくのが見える。それでも俺の意識は、背中に居る葵にすべて向いていた。
 元々そんな素質は感じ取っていた。彩は、何をしでかすか知れない。

「光くんは、優し過ぎるよ……弱ってる子に縋られたら、すぐに頼らせちゃうんだから……」

 違う。そうだ、今だから言える。彩に関しては同情で寄り添っていただけだ。確かに彩に縋られる事に、心地よさを感じていたのは事実だが……あれはもはや、ただの承認欲求だ。
 葵は。痛烈に惹かれていた。今思えば、初めて見た時からずっと。俺から、欲しいと思った。

「光くん、その女は修治のものよ。そのくせに光くんに手を出すなんて、ただのクズよ」

 握る拳に、力が籠もる。彩の顔が、急激に緩んだ。

「……許してあげる。全部、水に流してあげるから。そんな女おいて、帰ろう?」

 頭の中の血管が、切れた。葵の手を引く。

「っん……」

 葵を床に勢いよく押し倒し、口づける。勢いに任せて舌を絡ませれば、悲鳴があがった。

「っやだ! やだ光くんっやめて! やだやだやだやだやだ!」

 かまわない。彩の悲鳴がどんどん涙声じみていく。葵は状況が読めないのか、舌をいつも以上にぎこちなく動かしている。
 唾液の雫を垂らしながら、俺は唇を離した。彩を見ると、わなわなと震えていた。

「やだ……やだ、光くん……」

 呻き声に似た声。その手には、何かが握られていた。一歩ずつ、歩み寄ってくる。

「そいつが……そいつが、悪いのね。だってずっと……光くんは……私に、優しかったもの……私の、光くんが……あ、あ……」
「彩、ごめん」

 俺の声が届いていないのか、彩はひたすら呟き続ける。その目はどこか虚ろだった。

「な、なぎ、凪野、あお、い……あんたが、あんたが……」

 やっと見えた。輝く、刃物。

「彩、待てっ」
「あんたがぁあああああ!」

 きらめきが、揺れた。空間を凪ぐ。それも、俺を掠めて葵めがけて。
 ずぶり、と音が鳴った。肉を裂く音。ぐちゃり、と。俺は、目を疑った。

「しゅ……う、じ」

 葵の上に居る俺の上。修治が居た。いつのまに。何で気付かなかったんだ。いや、それより。

「っきゃあああああああ!!」

 葵の、絶叫。修治は膝から、崩れ落ちた。彩の持つナイフに刺されたのは、かろうじて伸ばされた左腕だったらしい。刃は半分以上刺さっていて、血が、血が。

「修治! 修治!」
「いやー……念のため葵を、尾行……してたけど、マジでよかった……」

 葵は泣き叫びながら、修治を抱きしめている。俺は彩を見ると、彩は何もうろたえた様子はなかった。そんな彩に苛立ちながら、俺はスマートフォンで救急車を呼んだ。
 ものの五分で、救急隊員がきた。あまりにも、早い。全員、救急車に乗っていくことになった。それも、修治の実家の。到着すると、修治はすぐに手術室に運ばれていった。救急車の中の時点で命に別状はないとは聴いていたものの、それでも気が気でない。
 俺たち三人は、待合いで待たされていた。あまりにも怒濤の流れ過ぎて、ただ呆然としか出来ない。何も、考えられない。

「凪野さん、いらっしゃいますか」

 突如現れた看護師の声に葵は返事する事もなく、立ち上がった。看護師に導かれるようにして、葵は出て行く。その背を、俺はぼんやりと眺めていた。

「光くん」

 しんとした空間で、彩の声だけが響く。その声は、もう落ち着いていた。

「何で今回こうなったか、分かる?」

 何で。そんなの、分かってる。
 さっき俺が彩に見せつけたから。俺が葵を抱いたから。俺が葵を好きになったから。葵が修治と付き合いだしたから。葵と修治を取り持ったから。俺が、葵と出会ったから。

「光くんとあの女が関わらなければ、こんな事にはならなかったよ」

 分かってる。でも、俺は。

「私と光くんは、何事もなく一緒に居られた。ずっと何も知らずにいて、幸せになれた」
「さっきから自分の事ばっかりだな」

 漏れ出した呟きに、彩は黙った。でも、すぐに口を開き直す。

「皆幸せになるには、それが大事なの」
「どういう事だよ」
「皆、自分が幸せになればいいの。人を不幸にせずに。ひとりひとりが個々の幸せさえ守れば、皆幸せになれるの。光くんは、わざわざ人を不幸にして自分が幸せになろうとした」

 彩を。修治を。そして。

「あの子も、光くんとの事がなければきっと修治と幸せになれてたよ。誰を犠牲にする事なく」

 俺と、ではなく。

「修治、本当にいい奴だから。不器用だし馬鹿だけど、すごく真っ直ぐなの。絶対、あの子は幸せになれる。光くんと居るより」

 心臓に、重みをもって染み込んでいく。その言葉は、あまりにも重い。
 嫌だ。認めたくない。俺は、葵が、欲しい。葵が、いい。
 彩の手が、添えられた。あまりにも冷たい手だった。

「ねえ、光くん」
「悪い、静かにしてくれ」

 彩は何も言わなくなった。代わりに、足音。さっきの看護師だった。彼女は少しだけ苦い顔をしている。

「修治さんの手術はもう少しかかりそうですが、仕上げに入っています。もう安心してもらって大丈夫です」
「そうですか」

 彩の声はどこか無感情だった。安心したというよりはそうであって当然、と言わんばかりに。
 看護師の話は止まらなかった。

「ところで、凪野さんの件ですが」

 俺の体が、反応した。看護師を見上げると、彼女はますます顔を苦くしている。

「……彩さん、言われた通り調べましたが」
「いいよ言って。ここだけの秘密にする。もっともその言い方ならやっぱりそうだったって事ね」

 何を言っているのか分からない。確かに修治といとこでなおかつ家同士が提携しているなら、ここが組んでいてもおかしくないだろうが。
 ……組んでいる?
 看護師は何かを彩に手渡した。何かの医療器具だろうか。彩はそれを見て、溜息を吐く。

「二本線、ということは」
「はい。凪野さんは」

 その先の看護師の言葉は、確かに聴いた。
 看護師は彩からそれを受け取って、踵を返した。

「光くん」

 駄目だ。何も、聞こえない。聞く気力もない。

「あの子とどんな感じでそういう事したかは、全部修治から聞いてる。修治とあの子のことも。つまりこれは」
「やめろ」

 彩は。ただ残酷に。

「修治との子供、よね?」
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