どうあれ君の傍らに。

湖霧どどめ

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4.七月の仙崎要。

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 夏も始まって、蝉がうるさくなってきた。生物の授業ノートに汗の雫が落ちて文字を滲ませ、ああもう本当暑いなと思いながら黒板を見やる。
 浦見先生が黒板にチョークで文字を書き足していく。彼はチョークを持つと一瞬口を閉じる癖がある。恐らく話すか書くか、どちらかにしか集中出来ないのだろう。

「はい、というわけでここまでが次の小テストの範囲や。何か質問あるかー?」

 関西から来た、という彼はこの高校に赴任してからというものの一切標準語になる気配がない。最初こそは生徒達に物珍しそうにされていたが、最近となってはそれでも馴染みきってしまったようだった。
 浦見和也は、この学校にこの春赴任してきた生物教師だ。朗らかでよく表情がころころと変わる。少し低めの身長とさっぱりした短髪のせいか、幾分若く見える。まだ二十代中盤とのことで、若いといえば若いのだが。
 小テストの説明が終わると同時に、タイミング良くチャイムが鳴った。六時間目ということで彼はそそくさと用意を済ませると、教室を出て行った。
 担任が戻ってきてあっさりとした終礼も終わり、クラスメイトが皆帰宅準備を始める。部活もしていない私はすれ違う友人とある程度の挨拶を交わしながら、教室を出た。
 べったりと、汗が制服のシャツに張り付く。早く帰って、シャワーを浴びたい。しかしその前に、アルバイトだ。
 校舎を出て百メートルもしないところに、アルバイト先であるコンビニがある。少し余裕を持ちながら着替え、出勤する。これが週に三度の、いつものルーティンだ。
 シフトで言えば一日4時間の実働。高校三年生でありながら未だに焦りを覚えない勤務形態だけど、そろそろまずいのかもしれない。別に辞める事に対して気が引けているわけではないけど、単に馴染んだ生活を崩すのはどこか躊躇われる。
 いつものように業務をこなし、そこそこの来店客を捌き。そしていつもの通り、21時手前。

「よぉ、仙崎」
「先生」

 先生はにこやかな顔で、レジに向かってきた。その手には、早くも炭酸ジュースが握られている。彼が何故校内の自販機ではなくこんなコンビニで買い物をするのかは、未だに分からない。

「頑張っとるやん」

 レジにバーコードを読ませる要を見ながら、浦見は笑った。彼は毎回私のレジに並ぶ。やはり生徒だから親しみを込めて、という事なのだろうがそれがどこかむず痒く感じられる。私は「そろそろシフト減らそうかなって」と小声で呟いた。先生は少し不思議そうに首を傾げる。

「何や。受験勉強か」
「そろそろちゃんとしなきゃ駄目かなあって思って」
「んー、お前そんな他やばかったっけ? 生物の成績は悪くないやろ、良くもないけど」

 ほんの少しの棘すらも、嫌味が無い。確かに先日受けた期末テストも手ごたえが無かったわけではない。ただ周囲が焦りだしているのを見ると、自身もどうにかつられてしまう。希望校すらもまだ定まっていないせいか、それは着実に加速していた。
 先生は小銭入れを開きながら、口にした。

「お前さえ良ければ、補習組むで? まあどっちにしろシフト減らさなあかんか」
「あ、ありがとうございます。また危なくなったらお願いします」
「ええよええよ。お前だけじゃなくて学年で希望取ってもいいしな」
「ですね」

 袋にペットボトルを入れながら、私は苦笑した。こんな一人の生徒の話でここまで進展してもなぁ、というほんの少しの引け目。でも先生はそんな私の気持ちなど察してもいないようだった。

「今日もいつも通り?」
「あ、はい。もう上がりです」
「気ぃつけや、夏は変な奴多いからなぁ。俺も疑われん内に学校戻るわ」

 そう軽口を叩きながら、彼はコンビニを後にした。その背を見送ってから、要は同僚に挨拶をしてタイムカードを切る。
 ……彼は、良い人だ。本当にそう思う。何というか、明るくて素直で。人間の悪いところなど濾過しきったような、そんな魅力を凝縮した人間のように感じる。知り合って数か月程度の自分に、何が見えているのかは分からないけど。
 帰り支度を終えて、裏口からコンビニを出る。じめじめとした夏の夜は、とにかく嫌いだった。制服の汗臭さも、数時間放置していたせいで悪化している。うんざりしながら、駅へと歩いていく。

『変な奴多いからなぁ』

 そんな人間、夏どころじゃなく……一年通して多い。そう言えなかったのは、やっぱり彼なら心配すると思ったから。そしてその人間が、まさか家の中にいるとは。そんな事は、言いづらい。
 信号の赤が、陽炎に揺れる。こんな時間にすら陽炎など、やはり温暖化の進展を感じざるを得ない。
 そして、確かに……また再び、揺れた。

「え」

 ぐらり、と。後頭部から、アスファルトへ落ちる。

「がっ……」

 脳の奥が潰れたとすら錯覚してしまう程の痛み。後頭部にそっと手を這わせると、生暖かいぬめりと激痛。後頭部の皮膚が、裂けている。
 確かに首の後ろから何かに引っ張られる感触を感じた。そして、殴られて……アスファルトに、頭を打ち付けた。何事だ。あたりを見回そうにも、世界が眩んで目が回る。激痛に思考が邪魔される。

「だ、れか……」





「……う」

 目が覚めるとそこは、見慣れない部屋だった。いや、知らないわけではない。白い天井、棒状の蛍光灯、そして薄汚れたカーテン。今寝私がそべっているのは、ベッド状にされたソファだった。
 頭にそっと手をやる。荒い目の布の感触。包帯か。視力が未だ安定しない。ぐらぐらと揺れたままだ。耳を澄ますと、カタカタと小気味良い音。キーボードを叩く音なのかもしれない。

「起きたか」

 音が止むと同時に降ってきた声。先生だ。彼は、スリッパで足音を立てながらこちらへと歩み寄ってきた。ソファの上に腰かけて、私を心配そうに眺めた。

「俺の言った直後にこれか。何か俺のせいみたいやな」
「何が、あったんですか……」
「通り魔みたいなもんらしい」

 先生が言うには、犯人はそのまま逃走。監視カメラなどはあの辺りになく、目撃者も全然いないらしい。そのため、犯人の特定は不可能かもしれないとの事だった。
 まさか、その手のタイプの不審者だったのか。内心ぞっとしたが、今ここにいる状況の不思議さにも追いつけずにいる。そんな私の様子に気付いたのか、先生はまたにこやかに笑った。

「あそこ俺帰り道でな、店長か? が気付いた直後くらいに通りかかったんやわ。救急車呼ぶかってなったんやけど、学校の方が近いからって連れてきた」
「え、じゃあこれって先生が?」
「ちゃうよ、保健の田崎先生。もう帰りはったけど。またお礼言っときや」

 頷く。同時に、急に恐怖が戻ってきた。もし、気付かれていなかったら。そもそも、何故自分が狙われたのか。
 ……奴か。いや、まさか外でこんな真似はしないだろう。悪寒が全身を覆いだす。私の震えに気付いたのか、先生が心配そうに覗き込んできた。そしてそっと、手を握られる。彼の体温は、あまりにも熱かった。

「怖かったでな。警察が話聞きたいって言ってたから、明日ちょっと学校来るみたいやわ。今日は遅いからって遠慮してもらった」
「あ、それは……はい。でも私、何も言えないかもです。いきなり背後から来られたわけだし」
「せやな。でも一応ってとこやろ。俺か、担任相沢先生やんな。同席すると思うから、頑張ろ」

 仕方ないので頷いた。その様子を見て、心底ホッとしたように浦見は息をつく。そのまま、包帯の巻かれていない私の髪をそっと撫でた。感覚が、どうもくすぐったい。

「今日は送るわ。行けそうか」

 その言葉に、全身が粟立つ。立ち上がろうとした先生の腕を力任せに掴み、首を振った。

「や、やだっ……帰りたくないっ」
「え?」

 ハッとして、先生を見る。彼はただ驚いたのか、目を見開いていた。「すみません」と呟き、手を離す。先生は戸惑った様子ながらも微笑み、要の背を撫でた。

「いやーさすがになあ、でも俺ん家は……いやもっとあかんよなぁ。何? 家やばいん?」
「や、やばいというか」

 口ごもる私を見て、先生は首を捻った。しかしすぐに、頷く。

「よし、じゃあ今日はここ泊まろ。一応バレんようにしやな俺の首とぶから、頼むで」
「いいんですか?」
「何か訳有りっぽいし。でも親御さん大丈夫なんか? それとも、親御さんがアレな感じか?」
「親はふたりともずっと仕事で、私どころじゃないから大丈夫。何日も連絡すら取ってないし」

 問題点だけは意識的に伏せたけど、先生はとくに気付いていないらしい。彼は頷いても、その顔は未だにどこか迷いが見えた。

「でも風呂とかないけど大丈夫か? ほら一応、今夏なわけやしお前女子やし」
「う……あ、でも水道とか借りられればなんとかなるかも。頭どっちにしろ洗えないし」
「そやな、あとでタオル貸すわ。どうする、明日病院行くか? お前寝てる間ちょっと見せてもらったけど、もうかさぶたなってたし大丈夫かなーとは思うんやけど」

 正直、大事にしたくないというのはある。その理由は面倒というより……家の、彼に知られるのがどうも気が引けた。
 先生は察したのか「大丈夫やな」と呟くと、扉の鍵を閉めた。そうだ、ここは生物準備室だ。生物教師が彼ひとりなため私室と化しているとは聞いていた。普段から寝泊りなどもしているのだろう、ソファベッドにはタオルケットや枕まで備えられている。

「さすがにお前ひとり置いていけんし、俺も残るわ」
「いいんですか」
「その代わり絶対内緒やで。明日日直で早めにきたって装ってここ出てくれな」

 頷く。それだけで、心の底から安堵した。まさかこうなるとは思っていなかったが、家に帰らずに済むのは大変ありがたい。こんな、怪我なんかが彼にバレたりしたら。「ありがとうございます」と頭を下げると、先生は歯を見せて笑った。

「そういや腹減ったやろ、飯は? 一応買い溜めしてるカップ麺あるけど、それでいい?」
「わ……何か、すみません」
「かめへんかめへん」

 先生は慣れた手つきでポットの湯を沸かしだした。何だか世話を焼かれっぱなしな感じがして気恥ずかしかったが、ただ単に今は感謝が勝っている。
 ……嫌な話だが。今回彼が自分を拾ってくれなかったら、私はどうなっていたのだろう。いつもの通り帰宅して、彼に嫌味を言われ。今回はこの怪我の事をダシにより罵倒されたかもしれない。『俺と同じ顔を持って生まれながら何故こんなにグズなんだ』と。

「味噌と醤油どっち派?」

 先生の呑気な問いに意識を引っ張り戻される。「どっちでも」と応えると先生は「そういうのが一番困る」と笑った。しかし怒っている様子はなく、むしろ楽しんでいる様子すら見えた。
 ……そういえば。ソファの傍に私の鞄が置かれているのが見えた。手を伸ばす私を見て、先生が声を投げて来る。

「中身、一応確認しといて。見付けた時から閉じられてたし何も取られてないとは思うけど」
「あ、はい」

 鞄を開く。財布の中身、スマートフォン、教科書類。すべて無事だ。つまり、強盗目的ではなく完全に愉快犯だったという事か。恐ろしい話だ。
 スマートフォンの画面を点灯させる。するとやはり、うんざりする程の通知。バイブレーションを切ったマナーモードだったため気付かなかったが、十分に一度置きに止めどなく、彼からの通知が来ている。メッセージを開くのは躊躇われたので、何もせずに画面を消した。再び着信で点灯した画面には目をつむる。
 カップ麺が完成したらしく、先生が運んできた。私の前に、味噌味が置かれる。二人で手を合わせて、箸を手に取った。

「そういやお前さ、彼氏とかおらんの?」
「ぶっ」

 唐突な問いに驚くも、彼は至って真剣なようだった。何故かいつものような笑みが消えている。正直に「興味があまりなくて」と答えると、先生は困ったように苦笑した。

「えー、そういうもんなん? 高3の女子ってっほら、そういうのに色めきたつ年頃ちゃうの」
「それは偏見と思うんですけど……先生はいるんですか」

 その問いに、先生は「おらんよ」と即答する。あまりにもさらっとした受け答えに思わず笑いそうになるが、彼の話は続いた。

「いやー、ほんまは先月までおってんよ」
「最近じゃないですか」
「そうそう。でも他に好きな人出来てさ、俺に」
「先生に?」

 頷かれる。彼は少し気恥ずかしそうに目を逸らしながら、カップ麺をすすった。

「まあ俺の話はええやん、俺はお前らの方が気になんの。何か周りとかに面白いネタとかないん?」
「ネタって……」

 とくにクラスメイトのそういった色恋話には詳しいわけではない。さしてクラスで目立つわけでもない自分には、あまりそんな情報が回ってくることはない。

「そういえば最近凪野さんが……」
「え、なになに」

 時折カップ麺をすする音を挟みながら、脳内でかき集めた情報を差し支えない程度に話す。そして先生自身も、他のクラスなどで得た情報を笑いを含めながら話してきた。どうやら彼はその親しみやすさから、生徒たちの相談まで受けたりしているらしい。赴任してきてまだすぐだというのに、コミュニケーション能力が成せる業なのだろうか。
 先生はスープまでしっかり飲み干すと、かけてある時計に目をやった。時計はすでに十一時を回っている。

「どうする、寝るか? 俺まだテストの採点するから起きとくけど」
「あ、じゃあ体拭いてきます。タオル借りてもいいですか」

 その言葉に、先生は少し気まずそうに目を逸らした。そのまま、タオルを差し出してくる。

「あー、ちょっと外の水道じゃなくてここの水道使ってほしいんよ。外やと警備回ってるし」
「え」
「大丈夫やで、絶対振り向かんようにするから」

 さすがにそれは躊躇われた。しかし彼は何も言わずにデスクに向き直った。確かに彼の背中の向こう側に水道はあるけど、しかし。ただ、昼間からこの汗ばみはずっと気になっていた。まあ彼は教師だ、さすがに変な事などしないだろう。
 水道の水でタオルを濡らす。念のために彼に完全に背を向けて、ブラウスのボタンを開ける。一応インナーは着ているが、やはり汗でじっとりと湿っていた。クーラーが効いてはいるが、やはり暑いことには変わりない。ブラジャーのホックだけを外し、胸部をさらけ出す。背を向けているので、彼には気付かれていないはずだ。念のため顔を向けてみるが、彼はパソコンのデスクトップに見入っているだけだった。
 冷たいタオルを肌にこすりつける。勿論シャワーを浴びたいが、仕方ない。それでも汗を拭けるのはありがたかった。ボタンを留め、次は背中を拭く。そして足や首などすべて拭ききった。

「先生、ありがとうございます」
「おう、もういいか?」
「はい」

 ようやく、彼は振り向いた。同時になぜか開いていたフォルダを閉じてデスクトップを戻していたが、それについて言及する前に彼は手を差し出してきた。彼にタオルを預けると、タオルをハンガーにかけて窓に吊るした。

「そろそろ寝ぇや、眩しいやろし俺も続き明日やるわ」
「すみません」
「ええよ。むしろソファで悪いな」

 首を振る私を見て先生は微笑んだ。本当に、表情のレパートリーが多い。それも、明るい方の。
 ソファに横になる。すると、先生は準備室の照明を落とした。カーテンをかけていても窓から差し込む月明りがそこそこに眩しいが、仕方ない。
 先生もまた、ソファに近付いてきた。まさかとは思ったが、彼も寝そべってくる。比較的小柄な彼なので添い寝されても苦しくはないが、それでも……近い。しかしこの部屋の主に他で寝ろとは言えない。

「わ、私……椅子とか、借りられたら」
 慌てて身を起こす。しかしその反動で、忘れかけていた痛みがよみがえった。顔をしかめる要に、先生は苦笑を向ける。

「ええよええよ。もう今更やし」

 そしてそのまま私の腕を引き、再びソファに倒させた。そして。

「せんっ」

 彼の首筋に、顔を埋めさせられる。背中にしっかりと腕が巻き付けられ、密着させられる。心臓がいきなりうるさくなりだした。彼の体温が、じっとりと絡みついてくる。温かいを通り越して……熱い。
 同時に聞こえた、溜息。

「……俺な、これでも善人ちゃうよ」

 彼の手が、震えている。何故かは分からない。ただ、気付いた。これは……どちらかといえば、戦慄いている。

「別に普段が猫被ってるとかそんなんちゃうし、嘘ついてるとかは無い。でもな、不謹慎な事で喜んだり、利用出来るものは利用するし」
「先生?」
「こんなん、俺心配やわ」

 首筋に感じる、吐息。あまりにも熱い。その囁きも。

「……こんな無防備で。よそに出したくなくなったわ余計に」

 蕩けるような、というよりはその声自体がとろけきっているような印象だった。
 吐息が移動する。そのまま、口づけられる。

「……っ!?」

 突然の事にパニックになるも、動けない。ただ唇の柔らかさが、温もりとして伝わってくる。同化してしまいそうな熱に、心臓が汗をかいているかのように熱くなりだす。
 キスを、している。先生と。
 そっと離される。慣れてきた目が捉えた彼は、いつも以上に熱っぽく……笑っている。

「ごめん、ほんまにごめん。俺、仙崎の事ずっと好きやった。って言っても、お前らの授業受け持ってからやけど」

 唐突な展開に、脳内がちかちかする。しかし彼は至って真剣な目で、要を見ていた。逸らす事は、許されない。手が握られる。その手はさっきのように震えていた。緊張でもしているかのような、細かな動きだった。

「ごめん、気持ち悪いよな。お前にとっては俺なんか十も年上やし、それ以前に先生なわけやしな」
「先生」
「しといて言うのも何やけど、忘れて」

 そうとだけ言うと、浦見は手を離した。そのまま、私に背を向けて横になる。そこからは何も、言わなかった。

「先生」

 呼びかけても、応えない。仕方ないので、私も背を向けた。追及する勇気は無かった。
 ……忘れろ、などと。出来るわけもない。さっきまでのあの温もりが、切ない程唇に残っているというのに。そもそも、さっきの言葉が本当なら忘れさせる前提でしてきたのだろうか。
 そんなのは、おかしい。

「先生」

 眠っているわけはないはずなのに。それでも先生の体は反応しない。寝返りを打って、彼の服の背を引いた。びくり、と体が動く。やはりわざとだ。

「本気ですか?」

 問いに、一瞬の間。しかし彼は、こちらに向かって寝返りを打ってきた。その顔は、赤い。余裕のある笑みなど消えている。

「じゃなかったら、わざわざお前のおるコンビニなんか行かんやろ。学食で足りるのに」
 そういう事だったのか。いざ自覚すると、顔がかなり熱くなる。同時に、頭痛。うずくまるように丸まった要を、慌てたように先生が抱きしめた。

「大丈夫か」
「だ、大丈夫です」

 ハッとしたように、彼の体が離れようとする。そんな彼に、しがみついた。そんな私に驚いたのか、先生は慌てたように要の肩を揺らす。

「は、離れろて」
「嫌です」
「仙崎」
「あんな事しておいて忘れろって、無茶です」

 それを言われると弱るのだろう、先生は口をつぐんだ。諦めたのか、私を抱き寄せる。そっと頭に巻かれた包帯を避けるようにして髪に触れてくる。その手は、震えていた。

「いいんか」

 すぐには頷けない。しかしどうにも出来ない。拒否する事も。
 単純なだけだ。嫌いではない。ただ、教師というだけで。きっとこのまま進むのも、容易ではないのだろう。しかし、拒む理由が……無い。
 抱き締められる力が強まった。そのまま、囁く。

「……俺、すっげぇ幸せ」

 その熱にはまだ追いつけないのだろう。それでも要は、戸惑いながらも彼の背に手を回した。





 付き合うに当たって、先生はいくつかの提案をしてきた。それは至極真っ当な内容で、私もそれをきちんと呑んだ。

「はい、今回ついに浅田が百点出したぞー」

 六時間目。期末テストを返却しながら、先生はクラスのどよめきを笑って流す。
 あの件からもう1週間と少し。事情聴取も落ち着き、普段の生活に戻ってきた。そう、表面上は完全に普段の生活だ。
 普段通りの生物の授業。1学期最後の授業で、内容は主に大学入試傾向の説明だった。彼いわく、生物の成績が受験に直接関わる学校が少ないので宿題が出ないという事らしい。勿論希望者には夏休み中の補講も行われる、という伝達もあった。つまり夏休みも、先生は変わらず仕事三昧という事らしい。

「少し早いけど今日はもう終わろか。各自自習しとき」

 時計を見ると、まだ二十分以上時間はあった。歓声の上がる教室を、先生が出ていく。その背をぼんやり眺めながら、ここ一週間の事を思い出した。
 先生の提案の一つ目は、「絶対にバレないようにすること」だった。それは当然だ。教師と生徒の交際など学校が許すわけもない。だからこそ表面上はいつも通り、ただの先生と生徒を演じている。そのため未だに外にデートに出かけたりしておらず、夏休みになったら旅行に行こうという話になった。今は夜に家で電話したり、程度でとどまっている。
 バイトはあの事件があってから、しばらく休ませてもらっていた。頭の包帯もまだ取れていない状態で行っても、という店長の判断だった。次の出勤は明後日だ。

「仙崎さん」

 自習とは名ばかりの自由時間の中、声が降ってきた。見上げると、同じバイト先で働いている元林くんが立っていた。学校では全然話した事はなかったのだけど。

「なに? どうしたの」

 彼は少し気まずそうにしながら、私に目線を合わせて少し屈んできた。

「いや、その。今日の放課後って暇?」
「え、バイトは明後日からだから……うん」
「ごめん、急なんだけどさ。ちょっと放課後、すぐに体育倉庫の前行ってあげてくれないかな」

 その言い方に、少しの違和感を感じる。あくまで棘が立たないように、口を開いた。

「行ってあげてって……元林くんは来ないの?」
「うん。9組の井沢って奴分かる?」
「あ、うん。去年同じクラスだったし委員会一緒だよ」
「だよね。その、そいつが呼んでる。なんか伝えてくれって言われたんだ、バイト一緒だろって」

 ……成程。このクラスで接点のある男子といえば、私にとっては元林くんしかいない。

「分かった、行くね」
「ごめん、ありがとう。あと店長がすごく心配してたよ、怪我のこと」
「もう大丈夫だよ」

 少しだけ他愛のない話をしていると、すぐにチャイムが鳴った。慌てたように彼は席へと戻っていく。担任が戻ってきてそそくさとホームルームを終わらせると、私はすぐに荷物を持った。教室を出る際一応元林くんを見ると、彼はすまなさそうに手を合わせていた。
 部活に向かう生徒達に混じって、体育倉庫へと向かう。井沢くんはすでに居た。私に気付くと、裏へと手招きしてくる。彼についていくと、人影の見えなくなったところで止まった。

「ごめん、急に」

 彼の謝罪に「大丈夫」と答える。そういえば、全然彼とは話した事はない。下手をすれば初めてかもしれない。

「あの、さ。急で本当、悪いんだけど。仙崎さんってその、今付き合ってる人って居ないんだよね」

 まさかだった。確かに誰にも先生の事は話していない。しかしここで嘘をつくのもよくないだろう。

「そ、その……先週出来た」
「え!?」

 井沢くんは驚きのあまりか、目を見開かせる。そもそもそんなに驚く事だろうか。すぐに頭を抱えだす。

「えー、マジか……その、誰か聞いていい?」
「えっと、その。年上の人」

 うん、嘘はついていない。大丈夫。
 井沢くんは舌打ちすると、私の肩を掴んできた。急な衝撃に驚くも、すぐに彼の声が降る。

「それ、別れられないの?」
「え」
「いや、付き合いたてなら別にいいだろ。『思ってたのと違う』とか言って、適当に捨てりゃいいじゃん」

 少し、イラッときた。何故そんな言い方をされなければならないのか。しかしそれが目線に出てしまったのか、再び舌打ちが聞こえる。

「んだよその目は。俺なにも間違ったこと」
「はいはい言ってる言ってる」

 急に聞こえた声にぎょっとしてそちらを見ると、何故か白衣を来て人体模型を担いでいる先生が居た。彼はいつものように笑顔のまま、こちらに歩み寄ってくる。

「ごめんなぁ、聞こえてたわ。でも井沢それはどう考えてもおかしい理論やって」
「せ、先生には関係ないだろ」
「いやあるんやて」

 気付いた。先生の目が、かなり冷たい。井沢くんに向けられているのに、傍目で見た私ですらゾッとするような。しかしすぐに先生は、私を見た。普段通りの目で。そして、笑った。

「今補習に遅れてる奴一人ずつ回収して回っとんねん。健気やろ俺。頑張ってるやろ俺。なあ、今回のテスト31点の仙崎」

 いや82点、と訂正しようにもさすがに空気を呼んだ。井沢くんは歯を噛んで、振り払うようにして私の肩を離した。そのまま駆けていく。呆然とした私の頭に、先生の掌が置かれた。

「ちゃんとほんまの点数覚えてるで。中間よりも上がってて俺は嬉しかった」
「補習って……」
「ああ、ほんまやで。って言ってもヤバい奴らだけ個別で声かけてるだけやけどな。お前のクラスでいえば凪野とか」

 凪野さんは前半休んでいたので、まあ仕方ないだろう。いや、それよりも。

「なんで分かったの?」

 私の問いに、先生は恥ずかしそうに目線を逸らした。そのまま、ぼそぼそと呟きだす。

「いやその、補修の準備のために早めに俺準備室出てたら妙に急いでるお前見えたから。こっそり追ってきた。そしたら井沢おるし、あっこれ告白の空気やんって」
「告白」
「いやそうやろあれ。最初から聞いてたけど」

 よくよく考えれば、確かにそういう状況にしか見えない。思い返すと、とたんに恥ずかしくなってきた。先生はそんな私の頭を荒々しくなでた。

「ちょっと井沢って時点で嫌な予感してんよ。あいつ評判悪いから」
「そうなの?」
「生徒間では知らんけど、職員間ではな。よく俺らの世間話に上がる」
「何それ怖い……」

 でも、状況的に見れば。

「……ありがとうございます、助けてくれて」

 私の言葉に、先生は歯を見せてニカッと笑う。それはあまりにも眩しくて。

「好きな女やからな。そりゃ手ぇ出す奴からは守るよ」

 その言葉に、胸の奥が熱くなる。そんな私の体温上昇に気付いているのかいないのか、先生は背を向けた。

「でも井沢にああ言った以上、お前補習連れて行かな見つかったら面倒そうやなぁ」
「じゃ、じゃあ行く。単に危機感覚えてるって設定で」
「お、ええんか。じゃあ行こか」

 歩き出す彼の後ろを、私は駆け足気味で追った。
 ……私は、この人を好きになり始めている。そう納得するのに十分な胸の高鳴りを、感じていた。先生は、背中を向けたままだった。だからこの時の私は、先生の抱えてる感情や闇には気付けないままだった。
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