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263.小さな石鹸、カタカタなった〜
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「こんばんは、唯子さん」
「こんばんは、田村さん。今夜は冷えますね」
保護猫犬施設から徒歩10分の場所にある、昔ながらの銭湯。
今日も良いお湯を頂いて、のれんの外に出ると……いつも通り、田村さんが待っていてくれた。
「予報では、雪が降るかもって言ってましたよ」
「ああ、どうりで……田村さん、先に帰ってくれて良かったんですよ? 湯冷めして、風邪でもひいたら大変です」
「僕の事は気にしないで下さい。女性の一人歩きは危ないですよ。冬の夜道は真っ暗だし。僕の家は施設のすぐ近くですし。帰宅のついで、ですから」
田村さんは施設のボランティアさんの一人。
本業は会社員さんらしいのだけど。ほぼ毎日、お仕事が終わった後に手伝いに来て下さる。
そして、私の銭湯通いに付き合って下さる。
「それじゃあ……お言葉に甘えて、一緒に帰らせて頂きます」
軽く会釈をしてから、いつもの道を歩き始める。
「こうして毎日つきまとってるから、施設長に、唯子さんを狙ってるんじゃないの? なんて言われちゃうんですよね」
「ああ……ふふ。そんな事もありましたね」
田村さんがボランティアさんになってくれたのは、私が住み込みで働き始めてから、数日後。
だから私達はほぼ同期、みたいな感じで、お話しをする事も多くて。いつも一緒にいる私達は、施設長にからかわれがち。
「よく笑えますね? 僕みたいなのに狙われてる、なんて言われて、普通なら気持ち悪がると思うんですけど」
言いながら、目元を暗幕のように隠している長いウネウネの前髪を触る田村さん。
「田村さんは優しくて素敵な人です。そんな人に狙われているなら光栄です。……でも、そうじゃないですよね?」
田村さんからはそういう……男性のいやらしさは感じ取れない。
「どうしてそう思うんですか?」
「雰囲気……ですかね? 田村さんの優しさは、下心とは違ってもっと深くて大きくて……本当に、純粋に、思い遣ってくれてるんだろうなって、わかるっていうか……。あ、でも、私の勘違いだったらすいません」
「いえ。少なくとも隙あらばどうこうしてやろうとは思って無いので、正解に近いのかもしれません。唯子さん、人を見る目があるんですね」
優しい言葉に、首を左右に振る。
「無いから、こうなってるんです。私、長年夫を苦しめ続けて来て。それに気付きもしないで」
「ああ、そう言えば、ご家族がいらっしゃるって仰ってましたね、この前」
そう。田村さんにはチラっとそんな話をした事がある。
だから今日、施設長にもポロっと子供達の話をしてしまったんだよね。
「そうなんです。私なんかには勿体ない旦那さんと、可愛い子供達と……」
今でも大好きな、元・旦那さん。大切な人達に囲まれた、幸せすぎる暮らしだったのに。
「でも……見捨てられちゃったんです。誰も私の事を、迎えに来ないのがその証拠っていうか」
「そんな事ないんじゃないですか? 唯子さんきっと、素敵な奥さんでお母さんだったろうし。今頃ご主人もお子さんたちも心配してますよ」
私のダメダメぶりを知らない田村さんの優しいフォローが、浸みる。そんな事はありえないとわかっているだけに、尚更。
「ごめんなさい。この話は終わりにしましょう。空気重くしちゃってすいません」
わざとらしく明るくそう言って歩を速め、田村さんの1メートル位前をずんずんと進む。
でも、背の高い田村さんには大股で数歩歩いただけで追いつかれてしまって。
「ご家族の皆さん、あえて放っておいてくれてるとか、ないですか? 出て行ったのは唯子さんの方だし。うちも昔あったんですよ。母親が仕事と育児でパンクして家出して。その時父が言ってたんです。無理に連れ戻すよりも、しばらく一人で自由にさせてあげた方がいいって」
「一人で……自由……?」
思いもよらぬ意見。
成程。そういう対応が嬉しい人も世の中にはいるのかもしれない。でも私には、よく理解できない。
「田村さん、施設の猫ちゃん達、いるじゃないですか」
「ん? 猫、ですか?」
「あの子達、施設の中に閉じ込められて、可哀想だと思いますか? 保護して、里親さんに譲渡するんじゃなくて、外に放して自由にしてやった方が幸せだと思いますか?」
「思いませんよ。時々一般の方からそういう事を言われるらしいですけど。こんな住宅街で放しても、餌も満足に食べられないかもしれないですし。交通事故や病気で命を落とす危険だってあります。家猫になる事で、本来の野生の暮らしは失われるかもしれませんけど……生き物の究極の目的は生きる事ですから。安全な場所で愛情と食料を与えられる暮らしに、猫が不満を感じているかどうかはわかりませんよね」
「……そうですよね。逆に、いきなりポーンと、さぁ自由だよと放されても……それが幸せじゃない場合だって、あると思うんです。毎日誰かと関わって、何かにとらわれて、感情を交わし合って。面倒で煩わしいかもしれないですけど、その中で幸せを感じる人だって、いるんじゃないでしょうか」
「……唯子さんが、そういう人って意味ですか?」
「……えへ、すいません。終わりにしようなんて言いながら、つまらない話をしちゃいました」
誤魔化すような笑顔を田村さんに向けると、田村さんはもう、何も言って来なかった。
手に持っているビニール袋の中で揺れるシャンプーとコンディショナーのボトル。銭湯に通い始めた頃に比べて大分軽くなってきた気がする。
4人家族じゃ、あと3日と持たないかな。
新しいのを買って、詰め替えなきゃな。
でも夢ちゃんも明君も、自分達のこだわりが出て来てるし。相談して買った方がいいかな。
そんな風に考える必要が無い、今の暮らし。
私にとっては自由というよりも……丸裸で宇宙に投げ出されたような、途方もなく孤独で、虚無な世界だった。
「こんばんは、田村さん。今夜は冷えますね」
保護猫犬施設から徒歩10分の場所にある、昔ながらの銭湯。
今日も良いお湯を頂いて、のれんの外に出ると……いつも通り、田村さんが待っていてくれた。
「予報では、雪が降るかもって言ってましたよ」
「ああ、どうりで……田村さん、先に帰ってくれて良かったんですよ? 湯冷めして、風邪でもひいたら大変です」
「僕の事は気にしないで下さい。女性の一人歩きは危ないですよ。冬の夜道は真っ暗だし。僕の家は施設のすぐ近くですし。帰宅のついで、ですから」
田村さんは施設のボランティアさんの一人。
本業は会社員さんらしいのだけど。ほぼ毎日、お仕事が終わった後に手伝いに来て下さる。
そして、私の銭湯通いに付き合って下さる。
「それじゃあ……お言葉に甘えて、一緒に帰らせて頂きます」
軽く会釈をしてから、いつもの道を歩き始める。
「こうして毎日つきまとってるから、施設長に、唯子さんを狙ってるんじゃないの? なんて言われちゃうんですよね」
「ああ……ふふ。そんな事もありましたね」
田村さんがボランティアさんになってくれたのは、私が住み込みで働き始めてから、数日後。
だから私達はほぼ同期、みたいな感じで、お話しをする事も多くて。いつも一緒にいる私達は、施設長にからかわれがち。
「よく笑えますね? 僕みたいなのに狙われてる、なんて言われて、普通なら気持ち悪がると思うんですけど」
言いながら、目元を暗幕のように隠している長いウネウネの前髪を触る田村さん。
「田村さんは優しくて素敵な人です。そんな人に狙われているなら光栄です。……でも、そうじゃないですよね?」
田村さんからはそういう……男性のいやらしさは感じ取れない。
「どうしてそう思うんですか?」
「雰囲気……ですかね? 田村さんの優しさは、下心とは違ってもっと深くて大きくて……本当に、純粋に、思い遣ってくれてるんだろうなって、わかるっていうか……。あ、でも、私の勘違いだったらすいません」
「いえ。少なくとも隙あらばどうこうしてやろうとは思って無いので、正解に近いのかもしれません。唯子さん、人を見る目があるんですね」
優しい言葉に、首を左右に振る。
「無いから、こうなってるんです。私、長年夫を苦しめ続けて来て。それに気付きもしないで」
「ああ、そう言えば、ご家族がいらっしゃるって仰ってましたね、この前」
そう。田村さんにはチラっとそんな話をした事がある。
だから今日、施設長にもポロっと子供達の話をしてしまったんだよね。
「そうなんです。私なんかには勿体ない旦那さんと、可愛い子供達と……」
今でも大好きな、元・旦那さん。大切な人達に囲まれた、幸せすぎる暮らしだったのに。
「でも……見捨てられちゃったんです。誰も私の事を、迎えに来ないのがその証拠っていうか」
「そんな事ないんじゃないですか? 唯子さんきっと、素敵な奥さんでお母さんだったろうし。今頃ご主人もお子さんたちも心配してますよ」
私のダメダメぶりを知らない田村さんの優しいフォローが、浸みる。そんな事はありえないとわかっているだけに、尚更。
「ごめんなさい。この話は終わりにしましょう。空気重くしちゃってすいません」
わざとらしく明るくそう言って歩を速め、田村さんの1メートル位前をずんずんと進む。
でも、背の高い田村さんには大股で数歩歩いただけで追いつかれてしまって。
「ご家族の皆さん、あえて放っておいてくれてるとか、ないですか? 出て行ったのは唯子さんの方だし。うちも昔あったんですよ。母親が仕事と育児でパンクして家出して。その時父が言ってたんです。無理に連れ戻すよりも、しばらく一人で自由にさせてあげた方がいいって」
「一人で……自由……?」
思いもよらぬ意見。
成程。そういう対応が嬉しい人も世の中にはいるのかもしれない。でも私には、よく理解できない。
「田村さん、施設の猫ちゃん達、いるじゃないですか」
「ん? 猫、ですか?」
「あの子達、施設の中に閉じ込められて、可哀想だと思いますか? 保護して、里親さんに譲渡するんじゃなくて、外に放して自由にしてやった方が幸せだと思いますか?」
「思いませんよ。時々一般の方からそういう事を言われるらしいですけど。こんな住宅街で放しても、餌も満足に食べられないかもしれないですし。交通事故や病気で命を落とす危険だってあります。家猫になる事で、本来の野生の暮らしは失われるかもしれませんけど……生き物の究極の目的は生きる事ですから。安全な場所で愛情と食料を与えられる暮らしに、猫が不満を感じているかどうかはわかりませんよね」
「……そうですよね。逆に、いきなりポーンと、さぁ自由だよと放されても……それが幸せじゃない場合だって、あると思うんです。毎日誰かと関わって、何かにとらわれて、感情を交わし合って。面倒で煩わしいかもしれないですけど、その中で幸せを感じる人だって、いるんじゃないでしょうか」
「……唯子さんが、そういう人って意味ですか?」
「……えへ、すいません。終わりにしようなんて言いながら、つまらない話をしちゃいました」
誤魔化すような笑顔を田村さんに向けると、田村さんはもう、何も言って来なかった。
手に持っているビニール袋の中で揺れるシャンプーとコンディショナーのボトル。銭湯に通い始めた頃に比べて大分軽くなってきた気がする。
4人家族じゃ、あと3日と持たないかな。
新しいのを買って、詰め替えなきゃな。
でも夢ちゃんも明君も、自分達のこだわりが出て来てるし。相談して買った方がいいかな。
そんな風に考える必要が無い、今の暮らし。
私にとっては自由というよりも……丸裸で宇宙に投げ出されたような、途方もなく孤独で、虚無な世界だった。
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