上 下
94 / 170
3章 「正義と信じた戦い」

94話 「想定外の想定」

しおりを挟む
 ――この事態は、全く予想できない訳ではなかった。スキルという超常的な能力が存在している時点で、相手がたとえどれだけ非力そうに見える人間であれ、自分より強大な誰かを凌ぐ力を秘めていてもなんら不思議なことはない。それ故に、今犯人が言った通り、メルトを迂闊に近づけるわけにはいかないというのは正しい。
 不用意に近づけてしまって、それが己にとって不利益になる可能性があるなら警戒すべきである。だが、今の犯人は激昂状態にある。正常な思考ができているとは思えず、だからこそ、そこまで頭が回るような人間だとは思っていなかった。
 頭に血を登らせながらも現状を把握できているという事実に驚きつつも、メルトはニヤリと口角を上げる。

 想定外は常に想定する。メルトもその思想に倣って自分なりに考えうる可能性全てを考慮していた。当然、犯人がこうやって警戒してくるという可能性も。

「貴方の言うことももっともです。私のスキルを開示しないと人質としての価値があるか分かりませんからね。だから私も自分のスキルを示さずに人質の代わりになると言っている訳じゃありません」

 失敗ができない交渉なだけにメルトは心底から緊張感が湧き上がってきているのを感じる。少しでも気を抜けば、恐怖に負けてなにも言葉を発せられなくなるだろう。言葉一つに人一人の命がかかっている状況だ。そんな緊張は生まれて初めて味わうものだった。
 自分の中にある勇気を振り絞って、逃げ腰になりそうな思考を無理やり引き戻す。

「といっても、私のスキルはそこまで大それたものでもなく、貴方にとっては蚊ほどの影響も与えないものですが」

「それは俺が判断するっつってんだろうが! さっさと証明しやがれ! 本気で人質交換する気ならな!」

 腕に一層力が込められたのか、苦しそうな人質の青年は暴れる手足が次第に力なく勢いを失っていく。
 焦りと緊張を表に出さないように努めながら、メルトは間を作らないように会話を続ける。

「私のスキルならもう見せてるわ」

 ゆっくりと手を振ると、犯人の元へ小さな小石がフワフワと近づいていく。そして、犯人の目の前までいくと、突然支えを失ったかのように重力に引かれて地面に落ちる。

「私の力なんてこの程度。能力を簡単に説明すると……『念力』とでも呼ぶのかもしれないわ。小石ぐらいなら浮かせて多少自由に動かせる」

 メルトは常識でも語っているかのような表情で話すが、当然嘘だ。犯人に対して話しかける直前に念のため拾っておいた小石を軽くし、浮かせた上で腕を振るい、その風圧で移動させただけのこと。
 ルナみたいにメルトの本当のスキルを知っている者なら絶対に騙されない嘘だ。だが、相手はメルトのスキルを知らない。だから、彼からすると本当に念力で移動させているようにしか見えない筈だ。

 犯人は不満げに鼻を鳴らして、

「それで証明だぁ? スキルはともかくとしても、小石だけかどうかは今のだけじゃ判断できねえなあ」

「そもそも、こんな力を持っていて貴方に対抗できるとしたら、もっと前から行動しているし、それに……こうやってわざわざ名乗り上げる必要もないと思うわよ。つまり、私がこうして人質交換を提案しているこの状況そのものが私のスキルの証明と言えるんじゃないかしら」

 抵抗できるだけの力はない。その証明になるようにメルトは必死にアピールする。
 相手の返答を待つ間、時間が引き延ばされているかのような感覚に陥っていたメルトだったが、歯を食いしばって耐える。

 しばらく経って、大きくため息を吐く音が聞こえた。それは犯人が行ったもので、血を上らせた頭を冷まそうとでもしたのかもしれない。

「仕方ねえなぁ……まあ俺からすりゃあこいつだろうがお前だろうが人質さえいりゃあ関係ねえからな」

 渋々といった様子で頷く大男は、先ほどより声量を落として言う。だが、声を荒げなくなったことでより一層ドスの効いた声になり、メルトの緊張感は高まるばかりだった。

 ともあれ、メルトの目的だった人質交換は成された。その事実に、安堵して小さな息を漏らす。
 人質の男性が苦しそうに喘いでいたのが少しだけ緩んで、それを合図にメルトは大男の元へ歩き始める。

 近づくたびにその巨躯から放たれる威圧感に圧し潰されそうになるが、誰かを助けるため、という理由がメルトの身体を支えてくれる。

「さあ、来たわよ。だから早くその人を離してあげて」

 メルトは両手を上げて無抵抗をアピールする。それを鋭い目で睨む男は、メルトの細い腕を掴むと強引に引き寄せる。
 その後、煩わしそうに人質にしていた男性を突き飛ばすと、

「これで満足か?」

 腕の中にすっぽりと収まったメルトを見下して、そう言った。

「ええ、これなら――」

 メルトがそれ以上の言葉を発することはなかった。その理由は、

「なん、で……」

「別に人質が起きてる必要はねえ。意識がなくても、人質は成立するんだぜ」

 メルトの鳩尾にめり込んだ、男の拳だった。不意の一撃を食らったメルトは一瞬視界がブラックアウトする感覚を覚え、思わず疑問の言葉を呟く。

「お前がなんか企んでたがるのは分かってたんだよ。だからなんかされる前に一撃食らわせただけだっての。これでたとえお前がどんなスキルを持ってたとしても、使うこたあねえだろ。何せもう意識がなくなるんだからな」

 男は勝ち誇ったように語る。実際、メルトはもう意識が朦朧としているのを自覚している。
 スキルは集中してなければ発動しない。だからこそ、男はメルトに渾身の一撃を与え、意識を飛ばそうとしたのだ。そうすれば集中などできるはずもないから。

 だから、今からメルトが必死になってスキルを発動しようとしても、それは不発に終わるだろう。――今から発動しようとするなら、だが。

「――なんだあ? お前」

 男は何かに感づいて、疑問の言葉を呟く。彼の視線の先には、口角を上げて不敵に笑みを浮かべる、メルトの姿があった。

 どう考えても逆転の目がないはずのこの状況で笑うメルトはしかしおかしくなったわけではない。
 何故なら、

「狙い通りにできて、安心した……だけよ……」

 笑みはそのままに、男を見上げながらそう言って、メルトの意識は暗闇の中に呑み込まれていく。
 意識を失った。つまり、そこでメルトの集中の糸は完全に途切れて――

「……ッ!?」

 ――直後、上空から落ちてきた人の頭ほどの大きさの煉瓦が男の後頭部に狙い違わず直撃した。

しおりを挟む

処理中です...