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6:幸せの終わり
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秋の終わりが見え始め、その代わりに冬がじわじわと近づいてきている。
ジャックは冬を思わせる冷たい風から身を守るようにマフラーに口元を埋めた。帰り道にある肉屋で必要な量の鶏肉とストック用のベーコンを買い、足早にモーリスの家へと向かう。
今日も笑顔でジャックに飛びついて出迎えてくれたトレイシーを抱きしめて、ジャックは笑って『ただいま』と言った。
3人とも家に居た数日前の休日。暗い顔をしたモーリスから話があった。話の内容は、トレイシーが今月末で実家に帰らなくてはいけないこと、モーリスが今月末に仕事で国境付近の街に赴任することの2つだった。ジャックもそうだが、トレイシーもなんとなく分かっていたのだろう。今の夢みたいに楽しい生活が長く続く筈がないと。話があった日から今月末まで10日程である。モーリスの暗く沈んだ顔を見るに、きっと言うに言えなかったのだろう。
トレイシーは泣きそうにくしゃっと顔を歪めたが、泣かなかった。ただ、無言で少し俯いているモーリスに抱きついた。無言で抱きしめ合うモーリスとトレイシーを眺めながら、ジャックは震えそうになる唇に力を入れた。幸せの終わりを悲しむのはもっと後でいい。あと少ししかない3人での生活を精一杯楽しんで、楽しい思い出ができたねと笑って別れられるようにしたい。
ジャックは無理矢理不細工な顔で笑って、2人に一緒にお茶を飲もうと声をかけた。
トレイシーと一緒に夕食を作り、帰宅したモーリスを『おかえりなさい』と出迎えて、先に出勤するモーリスを『いってらっしゃい』と見送る代わり映えのない日々を過ごした。
トレイシーが自分の家に帰る2日前から、ジャックとモーリスは揃って連休をとった。遠隔地に赴任するモーリスは、赴任直前で忙しいのだが、かなり無理をして休みをとったようである。
ジャックは自然といつもの起床時間に目が覚めた。いつもよりもずっと布団の中が温かい。目を開ければ、薄暗い中、布団から覗く鮮やかな赤毛と赤茶色の髪が見えた。2人揃って、布団の中に顔まで潜り込んで寝ている。息苦しくないのか少々心配になるが、寝姿も不思議とよく似ている2人が可愛くて、ジャックはだらしなく頬をゆるめた。
今日からジャックもモーリスも2連休だ。昨夜、トレイシーにねだられて、3人でモーリスの部屋のベッドで眠ることになった。初めて入るモーリスの部屋は物が少なく、ベッドは3人で寝ても大丈夫な位大きかった。
自然と寝落ちるまで布団の中でお喋りをした。一番最初に寝落ちたモーリスの寝顔を見て、トレイシーと一緒にクスクス小さく笑ってから、ジャックもトレイシーにくっついて目を閉じた。
いつもなら起き出して朝食を作り始める時間だが、もう少しこの温かなベッドの中にいたい。ジャックは静かに布団から腕を出して、2人を起こさないように、慎重に少しだけ布団をずらした。ちょっと涎が垂れているトレイシーの寝顔と、髭が伸びているのが分かるモーリスの寝顔が見える。モーリスの鼻がぴすーっと間抜けな音を出した。モーリスは数日前から少しだけ風邪気味のようだから、多分鼻が詰まっているのだろう。朝食は生姜をきかせた穀物粥にしよう。ここ数日で、朝晩が冷え込むようになってきた。身体が内側から温まるようなものがいい。
ジャックがゆるく口角を上げて2人の寝顔を眺めていると、トレイシーがもぞもぞと寝返りをうち、トレイシー側に横向きになっているジャックの喉下辺りにぐりぐりと額を擦りつけた。顎に当たる柔らかな子供らしい髪質の感触が擽ったくて、ジャックは小さく笑った。トレイシーは少し癖っ毛で、毎朝寝起きは髪がぼわっと広がっている。本人は結構それを気にしているのだが、ジャックはそれはそれで可愛いと思っている。寝癖がついてふわっと広がっている柔らかい髪を宥めるようにトレイシーの頭を静かに撫でると、トレイシーが不明瞭な小さな声を上げた後、ジャックを見上げて目を開けた。
ジャックは小さく笑みを浮かべ、寝呆けた顔をしているトレイシーに小さく声をかけた。
「おはよう。トレイシーちゃん」
「……うん。おはよ。おにいちゃん」
「まだ眠い?」
「んー。んー。うん」
「ふふっ。ゆっくり寝ておきなよ。朝ご飯は僕が作るから」
「やだ。一緒につくる」
「そう?」
「うん。おじ様は?」
「まだ寝てる」
「起こして一緒にご飯を作るわ」
「うーん。……まぁ、いいか」
ジャックは深く考えずに、トレイシーの言葉に頷いた。トレイシーがもぞもぞと寝返りをうち、モーリスの方を向いて、モーリスの身体に抱きついて、ぐりぐりとモーリスの顎に頭を擦りつけた。
「おじ様ー。朝ー。起きてー」
「んーー」
「一緒に朝ご飯作りたい」
「うん。うん?うん」
「おーきーて!」
トレイシーが小さな手でモーリスの頬を摘んで、むにぃっと引っ張った。モーリスがゆっくりと目を開けて、眠そうな瞬きを何度かしてから、トレイシーを見て、へらっと笑った。
「おはよう。俺の天使」
「おはよう。おじ様。朝ご飯を一緒に作りたいの」
「おぅ。いいぜ。ジャックもおはよう」
「おはようございます。モーリス部隊長」
まだ眠そうにとろんとしているモーリスの目がジャックを見て、なんだか嬉しそうに細くなった。ジャックは胸の奥が擽ったいような感じがして、ヘラっと笑った。
ジャックは身体を起こしてベッドから下り、スリッパを履いてカーテンが閉まっている窓に近寄った。落ち着いた色合いの茶色いカーテンを開ければ、柔らかい朝日が部屋の中に入り込んでくる。窓の外を見れば、雲一つない快晴である。絶好の洗濯日和だ。
ジャックはベッドの上に座って大きな欠伸をしているモーリスとトレイシーに声をかけ、2人がベッドから下りた後にシーツを外した。朝食を作り始める前に魔導洗濯機を動かせば、朝食を食べ終えた頃に洗い終わるだろう。今日からもう家政婦兼子守りの老婦人は来ない。
モーリスとトレイシーに、普通の服に着替えた後に寝間着を魔導洗濯機の所に持ってくるよう頼んでから、ジャックは丸めたシーツを持って、着替えの為に客室へと移動した。
洗濯を仕掛けてから、3人で朝食を作る。今朝の朝食は擦り下ろした生姜をたっぷり入れた穀物粥と温野菜サラダ、目玉焼き、蜂蜜入りのホットミルクである。お喋りをしながら手分けして料理を作っていく。モーリスもトレイシーも料理を作るのに随分と慣れ、格段に手際が良くなっている。3人でわいわい喋りながらサクサクと朝食を作り上げ、出来上がった料理を手分けして食堂のテーブルへと運んだ。
朝食を食べながら、今日は何をしようかと話し合った。今日は洗濯物を干したら、市場へ買い物に行くことになった。モーリスがピクニックに行きたいと言うので、明日は天気がよかったら、家から徒歩で1時間程の場所にある丘へ、3人でピクニックに行くことになった。弁当を作って持っていくので、今日はその材料を仕入れに行く。ついでに、昼食は市場の屋台で買い食いをすることになった。午後からはおやつにケーキとクッキーを焼いて、夕食は普段よりも手のこんだご馳走を作る。夜はクッキーを食べながらボードゲームで遊んで、また3人で一緒に眠る。明日は早起きをして、朝から弁当作りだ。
とても楽しそうでワクワクする予定が決まった。
話し合いがまとまると、3人揃って拳を握り、腕を伸ばして、笑って拳を軽くぶつけ合った。
------
楽しい時間程あっという間に過ぎ去ってしまう。
今年になって一番冷え込んだ朝。ジャックはモーリスと共に、モーリスの実家の馬車に乗り込むトレイシーを見送った。モーリスが実家まで送ると言ったが、トレイシーは1人で帰ることを望んだ。
涙はなかった。ただ、お互いの温もりを確かめ合うように抱きしめあって、顔を見合わせて、ちょっと歪んだ笑みを浮かべた。叔父のモーリスはともかく、ジャックとトレイシーはきっと二度と会うことはないだろう。単なる軍の事務員をしている一般庶民のジャックと、国内有数の商家の令嬢では、そもそも住む世界が違う。奇跡のような巡りあわせの結果、ほんの一時、縁が交わっただけだ。
ジャックはトレイシーに、『さようなら』とも『また会おうね』とも言わなかった。『ありがとう』の言葉だけを口に出した。トレイシーがくしゃっと顔を歪めて、同じように『ありがとう』と言って、ジャックに抱きついて、小さくすんと鼻を1回鳴らして離れた。
トレイシーはモーリスにも『ありがとう』と言って抱きつき、それから振り返らずに馬車へと乗り込んで、モーリスの家から去っていった。
頬を撫でる冷たい風が胸の中にまで入り込んできて、ジャックは少しだけ俯いて下唇を噛んだ。
ジャックには、トレイシーの行く末の幸福を祈ることしかできない。無力な自分が悔しくて、幸せの終わりが悲しくて、なにより大好きになった小さな友人との別れが寂しくて、ジャックは小さく震える息を吐いた。
モーリスに小さな声で名前を呼ばれて、ジャックは顔を上げた。モーリスの顔を見上げれば、モーリスが寂しそうな顔で笑った。
「ジャック。ありがとな」
「……いえ」
「何ヶ月も付き合わせて悪かった」
「僕もしたくてしてたことです。……楽しかったです。本当に」
「うん」
なんだか、モーリスが急に老けたように見えた。トレイシーがいる時は、あんなに輝いた笑みを浮かべていたのに。
ジャックは考えるよりも先にモーリスの手を掴んでいた。モーリスが驚いたようにきょとんと目を丸くして、ジャックを真っ直ぐに見た。
「今夜、飲みませんか」
「…………おぅ」
少しだけ迷うように目を泳がせたモーリスが、小さく頷いた。ジャックはゴツくて固く温かい手をぎゅっと少しだけ強く握ってから、モーリスの大きな手を離した。
ジャックもモーリスも、今日は普通に仕事である。4日後に国境へ向けて出立するモーリスは特に忙しいだろう。折角交わったモーリスとの縁も、多分今夜で解けて消えてしまう。
ジャックは、今夜まで幸せな夢の中にいることを望んだ。
ジャックは冬を思わせる冷たい風から身を守るようにマフラーに口元を埋めた。帰り道にある肉屋で必要な量の鶏肉とストック用のベーコンを買い、足早にモーリスの家へと向かう。
今日も笑顔でジャックに飛びついて出迎えてくれたトレイシーを抱きしめて、ジャックは笑って『ただいま』と言った。
3人とも家に居た数日前の休日。暗い顔をしたモーリスから話があった。話の内容は、トレイシーが今月末で実家に帰らなくてはいけないこと、モーリスが今月末に仕事で国境付近の街に赴任することの2つだった。ジャックもそうだが、トレイシーもなんとなく分かっていたのだろう。今の夢みたいに楽しい生活が長く続く筈がないと。話があった日から今月末まで10日程である。モーリスの暗く沈んだ顔を見るに、きっと言うに言えなかったのだろう。
トレイシーは泣きそうにくしゃっと顔を歪めたが、泣かなかった。ただ、無言で少し俯いているモーリスに抱きついた。無言で抱きしめ合うモーリスとトレイシーを眺めながら、ジャックは震えそうになる唇に力を入れた。幸せの終わりを悲しむのはもっと後でいい。あと少ししかない3人での生活を精一杯楽しんで、楽しい思い出ができたねと笑って別れられるようにしたい。
ジャックは無理矢理不細工な顔で笑って、2人に一緒にお茶を飲もうと声をかけた。
トレイシーと一緒に夕食を作り、帰宅したモーリスを『おかえりなさい』と出迎えて、先に出勤するモーリスを『いってらっしゃい』と見送る代わり映えのない日々を過ごした。
トレイシーが自分の家に帰る2日前から、ジャックとモーリスは揃って連休をとった。遠隔地に赴任するモーリスは、赴任直前で忙しいのだが、かなり無理をして休みをとったようである。
ジャックは自然といつもの起床時間に目が覚めた。いつもよりもずっと布団の中が温かい。目を開ければ、薄暗い中、布団から覗く鮮やかな赤毛と赤茶色の髪が見えた。2人揃って、布団の中に顔まで潜り込んで寝ている。息苦しくないのか少々心配になるが、寝姿も不思議とよく似ている2人が可愛くて、ジャックはだらしなく頬をゆるめた。
今日からジャックもモーリスも2連休だ。昨夜、トレイシーにねだられて、3人でモーリスの部屋のベッドで眠ることになった。初めて入るモーリスの部屋は物が少なく、ベッドは3人で寝ても大丈夫な位大きかった。
自然と寝落ちるまで布団の中でお喋りをした。一番最初に寝落ちたモーリスの寝顔を見て、トレイシーと一緒にクスクス小さく笑ってから、ジャックもトレイシーにくっついて目を閉じた。
いつもなら起き出して朝食を作り始める時間だが、もう少しこの温かなベッドの中にいたい。ジャックは静かに布団から腕を出して、2人を起こさないように、慎重に少しだけ布団をずらした。ちょっと涎が垂れているトレイシーの寝顔と、髭が伸びているのが分かるモーリスの寝顔が見える。モーリスの鼻がぴすーっと間抜けな音を出した。モーリスは数日前から少しだけ風邪気味のようだから、多分鼻が詰まっているのだろう。朝食は生姜をきかせた穀物粥にしよう。ここ数日で、朝晩が冷え込むようになってきた。身体が内側から温まるようなものがいい。
ジャックがゆるく口角を上げて2人の寝顔を眺めていると、トレイシーがもぞもぞと寝返りをうち、トレイシー側に横向きになっているジャックの喉下辺りにぐりぐりと額を擦りつけた。顎に当たる柔らかな子供らしい髪質の感触が擽ったくて、ジャックは小さく笑った。トレイシーは少し癖っ毛で、毎朝寝起きは髪がぼわっと広がっている。本人は結構それを気にしているのだが、ジャックはそれはそれで可愛いと思っている。寝癖がついてふわっと広がっている柔らかい髪を宥めるようにトレイシーの頭を静かに撫でると、トレイシーが不明瞭な小さな声を上げた後、ジャックを見上げて目を開けた。
ジャックは小さく笑みを浮かべ、寝呆けた顔をしているトレイシーに小さく声をかけた。
「おはよう。トレイシーちゃん」
「……うん。おはよ。おにいちゃん」
「まだ眠い?」
「んー。んー。うん」
「ふふっ。ゆっくり寝ておきなよ。朝ご飯は僕が作るから」
「やだ。一緒につくる」
「そう?」
「うん。おじ様は?」
「まだ寝てる」
「起こして一緒にご飯を作るわ」
「うーん。……まぁ、いいか」
ジャックは深く考えずに、トレイシーの言葉に頷いた。トレイシーがもぞもぞと寝返りをうち、モーリスの方を向いて、モーリスの身体に抱きついて、ぐりぐりとモーリスの顎に頭を擦りつけた。
「おじ様ー。朝ー。起きてー」
「んーー」
「一緒に朝ご飯作りたい」
「うん。うん?うん」
「おーきーて!」
トレイシーが小さな手でモーリスの頬を摘んで、むにぃっと引っ張った。モーリスがゆっくりと目を開けて、眠そうな瞬きを何度かしてから、トレイシーを見て、へらっと笑った。
「おはよう。俺の天使」
「おはよう。おじ様。朝ご飯を一緒に作りたいの」
「おぅ。いいぜ。ジャックもおはよう」
「おはようございます。モーリス部隊長」
まだ眠そうにとろんとしているモーリスの目がジャックを見て、なんだか嬉しそうに細くなった。ジャックは胸の奥が擽ったいような感じがして、ヘラっと笑った。
ジャックは身体を起こしてベッドから下り、スリッパを履いてカーテンが閉まっている窓に近寄った。落ち着いた色合いの茶色いカーテンを開ければ、柔らかい朝日が部屋の中に入り込んでくる。窓の外を見れば、雲一つない快晴である。絶好の洗濯日和だ。
ジャックはベッドの上に座って大きな欠伸をしているモーリスとトレイシーに声をかけ、2人がベッドから下りた後にシーツを外した。朝食を作り始める前に魔導洗濯機を動かせば、朝食を食べ終えた頃に洗い終わるだろう。今日からもう家政婦兼子守りの老婦人は来ない。
モーリスとトレイシーに、普通の服に着替えた後に寝間着を魔導洗濯機の所に持ってくるよう頼んでから、ジャックは丸めたシーツを持って、着替えの為に客室へと移動した。
洗濯を仕掛けてから、3人で朝食を作る。今朝の朝食は擦り下ろした生姜をたっぷり入れた穀物粥と温野菜サラダ、目玉焼き、蜂蜜入りのホットミルクである。お喋りをしながら手分けして料理を作っていく。モーリスもトレイシーも料理を作るのに随分と慣れ、格段に手際が良くなっている。3人でわいわい喋りながらサクサクと朝食を作り上げ、出来上がった料理を手分けして食堂のテーブルへと運んだ。
朝食を食べながら、今日は何をしようかと話し合った。今日は洗濯物を干したら、市場へ買い物に行くことになった。モーリスがピクニックに行きたいと言うので、明日は天気がよかったら、家から徒歩で1時間程の場所にある丘へ、3人でピクニックに行くことになった。弁当を作って持っていくので、今日はその材料を仕入れに行く。ついでに、昼食は市場の屋台で買い食いをすることになった。午後からはおやつにケーキとクッキーを焼いて、夕食は普段よりも手のこんだご馳走を作る。夜はクッキーを食べながらボードゲームで遊んで、また3人で一緒に眠る。明日は早起きをして、朝から弁当作りだ。
とても楽しそうでワクワクする予定が決まった。
話し合いがまとまると、3人揃って拳を握り、腕を伸ばして、笑って拳を軽くぶつけ合った。
------
楽しい時間程あっという間に過ぎ去ってしまう。
今年になって一番冷え込んだ朝。ジャックはモーリスと共に、モーリスの実家の馬車に乗り込むトレイシーを見送った。モーリスが実家まで送ると言ったが、トレイシーは1人で帰ることを望んだ。
涙はなかった。ただ、お互いの温もりを確かめ合うように抱きしめあって、顔を見合わせて、ちょっと歪んだ笑みを浮かべた。叔父のモーリスはともかく、ジャックとトレイシーはきっと二度と会うことはないだろう。単なる軍の事務員をしている一般庶民のジャックと、国内有数の商家の令嬢では、そもそも住む世界が違う。奇跡のような巡りあわせの結果、ほんの一時、縁が交わっただけだ。
ジャックはトレイシーに、『さようなら』とも『また会おうね』とも言わなかった。『ありがとう』の言葉だけを口に出した。トレイシーがくしゃっと顔を歪めて、同じように『ありがとう』と言って、ジャックに抱きついて、小さくすんと鼻を1回鳴らして離れた。
トレイシーはモーリスにも『ありがとう』と言って抱きつき、それから振り返らずに馬車へと乗り込んで、モーリスの家から去っていった。
頬を撫でる冷たい風が胸の中にまで入り込んできて、ジャックは少しだけ俯いて下唇を噛んだ。
ジャックには、トレイシーの行く末の幸福を祈ることしかできない。無力な自分が悔しくて、幸せの終わりが悲しくて、なにより大好きになった小さな友人との別れが寂しくて、ジャックは小さく震える息を吐いた。
モーリスに小さな声で名前を呼ばれて、ジャックは顔を上げた。モーリスの顔を見上げれば、モーリスが寂しそうな顔で笑った。
「ジャック。ありがとな」
「……いえ」
「何ヶ月も付き合わせて悪かった」
「僕もしたくてしてたことです。……楽しかったです。本当に」
「うん」
なんだか、モーリスが急に老けたように見えた。トレイシーがいる時は、あんなに輝いた笑みを浮かべていたのに。
ジャックは考えるよりも先にモーリスの手を掴んでいた。モーリスが驚いたようにきょとんと目を丸くして、ジャックを真っ直ぐに見た。
「今夜、飲みませんか」
「…………おぅ」
少しだけ迷うように目を泳がせたモーリスが、小さく頷いた。ジャックはゴツくて固く温かい手をぎゅっと少しだけ強く握ってから、モーリスの大きな手を離した。
ジャックもモーリスも、今日は普通に仕事である。4日後に国境へ向けて出立するモーリスは特に忙しいだろう。折角交わったモーリスとの縁も、多分今夜で解けて消えてしまう。
ジャックは、今夜まで幸せな夢の中にいることを望んだ。
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