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『三田園子』という人

173話 なんとも言えない

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「まあ、どうせモタモタするだろうから、ゆっくりしてから向かおう」

 そう言ってまったりと一希さんは「シェアしない?」とフレンチトーストを頼まれました。二十代OLか。おいしかったです。
 物件の場所は徒歩でも二十分かからないくらいだとのことで、雨も一時的に止んでいたので、じゃあ歩きますかとなりました。移動中、学生時代に過ごしたイギリスの話をしてくれました。なんでイギリスだったんでしょうか。しかもスコットランドですって。のどかなイメージ。「ハイランド地方まで行くと、もう北欧と見分けがつかないよ。とても美しいんだ」と懐かしむような瞳でおっしゃいました。「どちらの学校だったんですか?」とお尋ねしたら、「セント・アンドリューズっていう古い大学だよ」とのこと。ふーん。名前からして古そう。ていうか有名校じゃないかな。知らんけど。

「どうしてまた、そちらの大学へ? 行きたかった理由あったんです?」
「……うん。まあ。正直なところを言うと、両親の希望が強かった」
「へえ!」

 わたしたちの親御さんって、子どもの進路とか興味あったんですね! そりゃあるか。なかったら中学受験させないか。
 話はスコットランド料理に移行しました。わたしは「ハギスですね」と言いました。「よく知ってるね! 美味しくないのに!」と一希さんは笑いました。ええ、ハイランダーのロマンス小説を少々嗜んだことがございまして。はい。

「私が酒飲みになったのは、スコッチウイスキーのせいだろうなあ。ハギスはあのために作られたと言っても過言じゃない。どうにもこうにも、合うんだよ」
「たしかに、おかずっていうよりおつまみってイメージです」

 小雨がちらついて来たころに、「ここだよ」と言われました。キレイなマンションが建ち並ぶ中のひとつで、築年数自体は多いのかもしれませんが、よく管理されているのが一目でわかるマンションでした。シックな茶色と黒でオシャレ。玄関ホールに入り、一希さんがインターホンで部屋番号を押します。三コールで『はい』と応答が。「来た。開けて」と一希さんがおっしゃると同時くらいに、自動ドアが開きます。あの、愛ちゃんちの入り口みたいに生体認証とかじゃなくていい感じだと思います。

「四階だから、高さ的にもちょうどいいかな? どうだろう、怖い?」
「えーっと、えーっと、はい。だいじょうぶです」

 エレベーター内で言われました。べつに高所恐怖じゃなくてホテルのお高い部屋を選ばれないために低層階がいいって言ったなんて言えない。どちらかというと高値段恐怖です。別名庶民感覚です。はい。
 戸数は各階に六軒でしょうか。それの一番南側のドアへ向かい、一希さんはためらいなく開けて中に入ります。ちょっとためらったわたしに笑顔で「おいで」とおっしゃることも忘れません。はい。
 玄関で靴を脱いでいると、むせるような咳払いが奥で聞こえました。ちなみに靴もステキなハイヒールを買ってくださったんですが、さすがに今履き回すのは気が引けたので、普通に前橋から履いてきたスニーカーです。玄関入ってすぐ右手に、たぶんお手洗いとお風呂の入り口。廊下を通って中へ。採光が最高でした。窓がおっきくて、小さいルーフバルコニーがあるお部屋。二面採光ってやつですかね。うわー、しかももう一間ある。
 わたしが見回し終えたあたりで、一希さんが「いい部屋でしょ?」とおっしゃいました。

「ええ、まあ。ステキですね」
「こいつが大学時代に住んでた物件なんだ」

 言われた『こいつ』の方を向きました。隣の部屋から一希さんが引っ張り出してきていました。びしっと紺のスーツを着込んでいるその男性に、わたしはちょっと頭を下げて「こんにちは、三田園子です」と言いました。

「……こんにちは」

 電話の声です。はい。滝沢さんってお呼びすればよいでしょうか。
 一希さんがこれまでになくとっても白々しく、「あー喉が渇いたなー。飲み物でも買ってくるかなー。コンビニあるしなー」とおっしゃって、玄関へ踵を返されました。えっ、ちょっと待ってそれはムリ。と滝沢さんも思った空気感でした。はい。
 ふたり残されて。沈黙が落ちました。どうしろと言うの。とりあえず「あのー、すみません、いろいろお世話になりまして」と言ってみると、「いや! いえ、それは、いえ!」と、とりあえず否定したいことだけが伝わる言葉が返ってきました。それからまたしーん。うむ、どうしよう。

「……あの。せっかく見せていただいているんですけど。これ以上やっぱり、ご迷惑おかけできないので」
「迷惑とかないです、ぜんぜんないです!」

 かぶせ気味に言われました。なんでこの人わたしへ敬語なんでしょうか。気持ちはわかるけど。ちょっとためらうような間があって、自称滝沢さんは「……あの、迷惑とかは、ぜんぜん」と同じことを言いました。わたしも「え、でも、ほんとお世話になったんで」と繰り返しました。

「……空けておいても、しかたないですし」
「どなたかに貸せばよくないです?」
「なので、あの……園子さんに」

 いやムリ。ここいくらよ。都心のめっちゃいいところじゃないか。びっくりしたわ。「わたしは、もう少し身の丈に合ったところへ住みたいと思います」と言いました。

「その、次の物件が決まるまで、一時的にでも使うのはどうですか」
「そんな何度も、引っ越しするのも手間なので」
「引っ越しは、うちのグループ会社を出しますんで」
「うーんと、そういうんじゃなくて」

 なんでそんなに推してくるんでしょうか。しかも「もちろん、家賃とかはいらないので」とか言いやがられました。

「……そういうのが、もう、ちょっと、ムリです。あの、前橋のマンションあのままにしてくださってありがとうございました。本当に感謝しています。わたし、もうこれ以上みなさんに借りを作るの、嫌なんです」

 ちょっと冷たい言い方になってしまいましたが、本心です。自称滝沢さんこと、勇二さんは、ちょっと下を向いて「借りとか、そんなのはないです」とおっしゃいました。

「俺も、兄貴も、そういうこと、考えてないんで。なんか、できることはしたいって、だけなんで」

 わたしにはその言葉の意味とか、気持ちとか、ちょっとわからなくて。「そうですか」と突き放したような声が出てしまいました。勇二さんの瞳が、悲しそうに曇りました。
 一希さんが戻られるまで、なんとも言えない空気感で二人過ごしました。いちおうお名刺をいただいて、勇二さん本人だと確認できました。「あの、電話とか、すみませんでした」とめっちゃ小さい声で言われました。はい。

「愛ちゃんとは……んーと、群馬の中川さんとは、ずっと勇二さんがやりとりされていたんですか」
「はい。昨年ご連絡いただいたとき、兄はザンビアに赴任したばかりだったもので。私がずっとお話ししています」
「管理とか、中川さんにお願いしてくれてありがとうございます」
「いえ、なんか……俺たちが入るのは、ダメかと。全部そのまま残したかった、ので」

 なんとなく、鞍手町の壊されたお家のことを考えてくれたのかな、と思いました。わたしの手元に、わたしのものはなにも残されなかった。今回、なにひとつ損なわれずそのままだったことに、心底安堵したことは間違いありません。今断捨離中ではありますけど、自分の手で処分するのと、他人の手で奪われるのでは、まるで意味が違う。
 そう考えて、自分の気持ちの流れがわかりました。きっとこの物件に入ることは、わたしにとって、わたしを害する人たちの傘下へ入るような気分になるんだ、と。もやもやが言語化できて、ちょっとスッキリしました。わかってます。一希さんも、勇二さんも、わたしを害する人ではないって。鞍手町のことは、まるで二人は関係ないって。わかっています。それでも、心のどこかが、これじゃないって言ってじゃまをするんだ。

「あの、もう十分してくださっています。多いくらいです。ステキなお部屋なので、だれか他のふさわしい方にお願いします」
「園子さん以外に、ふさわしい人はいません」
「それってどうしてですか」
「……俺に、機会をくださいませんか」

 ずっと直立不動だったのに、勇二さんはさらに背を正してわたしに向き直りました。機会ってなんだろう、とぼんやりわたしは思いました。深呼吸をして、勇二さんはわたしへとおっしゃいました。

「――子どものころ。俺は、あなたを殴った」

 小一のときです。わたしがテレビを観ていたら、うしろから。「はい、覚えています」とわたしがつぶやくと、勇二さんは息を呑んでからおもいきり腰を折り、深々と頭を下げました。「申し訳なかった」と。

「……俺に、機会をください。あのときをつぐなう、チャンスを」
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