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『三田園子』という人
160話 言い逃げは卑怯
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「私はそうは思いませんね」
オリヴィエ様の最初のセリフはそれでした。暗転。理知的なそのバリトンボイスに続き、歩く足元をワイプするアニメーション。追いかけるアングルが切り替わり、束ねられた銀髪を映します。そして正面へ。涼やかな紫瞳に、引き結んだ意志の強そうな口元。銀縁のメガネ。その瞬間、演出だけによらず画面が静止したと思いました。挿入された『オリヴィエ・ボーヴォワール:冴え渡る智の若き宰相』という紹介文が、わたしの脳裡に刻まれました。一目惚れでした。
そうです。これまでいろいろオリヴィエ様のステキさを説いてきましたが、結局最初はそれでした。ステキ。かっこいい。顔がいい。声もいい。すき。
そしてどんどん深みにハマっていきました。オリヴィエ様ステキだしグレⅡおもしろい。
オリヴィエ様が亡くなったとき。最初、意味がわかりませんでした。ただ、闇夜の中走り抜けていく蒸気機関車から、放り出されたオリヴィエ様の体のムービーを見、その後に続いた開戦までの流れに圧倒されていました。それまでわたしはテレビゲームをしたことがなかったし、アニメらしいアニメも観たことがなくて、理解が追いつかなかったんです。なので、これは大きな伏線で、オリヴィエ様はきっと後ほどなにかの折に再登場されるだろうと思いました。――されませんでした。
リシャールのエンディングで。ラスト、リシャールが、墓石にお花をそっと置くんです。墓碑銘は示されませんでしたが、だれのものか、そのときはっきりと理解できて。……泣きました。
何回も何回も、最初からやり直して。どうにかオリヴィエ様が亡くならないルートへ進めないか、すべての選択肢を試して。けれど、そもそもが戦争シミュレーションゲームです。リシャールでもクロヴィスでも、グレⅡとしてのゲームの本番は、開戦してからでした。
そして、開戦は――必ず、『宰相オリヴィエ・ボーヴォワールの死』をもってもたらされました。
何度周回しても。何度選択肢を変えても。だめでした。必ず、行き着く先は――同じ。
よしこちゃんの手引きによってわたしは、二次創作に足をつっこみました。つたない文章で、亡くならなかったオリヴィエ様の将来を何通りも書きました。書きながら自分で自分の文章に解釈違いを起こして発狂するめんどくさいオタになりました。でも一番の解釈違いは公式でした。そもそも、オリヴィエ様が亡くなるとか公式が言ってるだけなので。
あんなに熱くて、冷静で、だれかのために本気で怒れて、名前も知らない人の福祉と幸せのために自分を差し出せる人。実兄ブリアックとの確執ゆえに痛む心を、それでも無私の気持ちで国に捧げて、だれよりもまっすぐ、ブレることなく歩める人。とてもすてきで。わたしにとっては、ゲームの中の人とは思えないくらいに形ある存在で。
二次創作をしていた影響で、いつでも「こんなとき、オリヴィエ様ならどうするかな」と考えるようになりました。心理学の本とかもたくさん読んで、想像が追いつかない部分を学んでまた想像しました。実際にそれを書いてみたりもして。高校生時代にコピー本二冊と、よしこちゃんの紹介で知り合ったグレⅡオタ仲間の同人誌に一度寄稿しました。ペンネームはないしょです。コピー本は二冊ともオリヴィエ様生存IF話を。寄稿の方は主従BLを頼まれたんですが、素養がなくてちゃんと書けませんでした。でも「なんか匂わせっぽくてかえってエロい」とたいへんよろこんでもらえました。はい。
そうやって、わたしの中で、オリヴィエ様は確固とした存在になりました。たくさんのIFを考えながら……でも実際には、オリヴィエ様は永遠に二十八歳のままで。
「うん……そうだね。言ってた。わたし二十八までかもって」
「うちら、今年二十八だし。どうしてるかな、って、ずっと気になってた」
「ありがとねー、なんか、感動!」
ぼんやりと、思っていたんです。あんなにステキなオリヴィエ様になかった未来。わたしにあるわけないよなあ、と。
たくさんのIFを考えました。オリヴィエ様が亡くならなかったあとのこと、たくさん。でもそのどれも、本当のことではなくて。可能性すらそこにはなくて。
だからまあ。わたしも、そのくらいでいいかなって。わたしに、そもそも可能性なんかないから。おぼろげに、わたしも終わるんだろうと思っていた。
「年食うなんてあっという間だね……ついこないだまでよしこちゃんに十六ページ折りの極意とか教わってたのにさ……」
「三田殿は賢な人やけん、一発だったな」
「古賀殿の教え方がすばらなだけでありましょう」
わたしはやさしい気持ちになって「古賀殿。今度はなに殿になるのですか?」と尋ねました。よしこちゃんはすっごくかわいい笑顔になって、「田中」と答えました。……わたしがなりたかった名前に、よしこちゃんがなってくれるって聞いて、ちょっと胸が詰まりました。
「では――田中殿。折り入っての頼みを聞いてくださらぬか」
「なんとした。ささ、言ってごらんなさい」
「今は何時でありましょう」
「ふむ。スマホがないというのはまことであったか。……十時三十八分であるが、いかがなされた」
「今日発の新幹線の時刻を知りたい。調べてはもらえぬであろうか」
「なんの、任されよ!」
すぐ行こうと思っていたんですけど、よしこちゃんもおばさんも「お昼食べていかんね」と言ってくださいました。しかも食べてすぐに動くのはよくないというおばさんの理念から、十四時代の新幹線を予約サイトでとってくれました。東京で乗り換えて高崎に行く感じです。代金を払おうとしたら「半分でよかよー」と言われましたが、ごねてごねてちゃんと受け取ってもらいました。それもこれも諭吉師匠を握らせてくださったマダムのおかげでできたことです。ありがとうマダム。ジョゼフィーヌちゃんとお幸せに。
「資さんうどんの冷凍あるー、あっついのと冷たいの、どっちがよか?」
「すけさんうどーん! うれしい、ひさしぶり! ばりあっついのがいい!」
「そのちゃん、うどんすいとーと? かまぼこはないから、代りにごぼう天ば揚げるね!」
「いいと? やったー! ありがとう!」
冷房の効いた部屋であつあつうどん。至高。お手伝いしようとしましたが「おばさんの生き甲斐とらんといて!」と言われて引き下がりました。お料理大好きでしたもんね、よしこちゃんのおばさん。
お昼めがけて、おじさんが帰宅されました。まだお仕事が変わっていなかったら、フリーランスのエンジニアさんだと思います。今は近所に事務所を借りて、そちらでお仕事をされているんですって。「うわあ、そのちゃんか! きれいになっとうなあ!」とめちゃくちゃびっくりされました。本気にしちゃうから褒めないで。てれる。
四人で食卓について食べました。おいしかった。あらためておじさんおばさんにも、よしこちゃんの結婚についてお祝いを言いました。
「この子ねえ。だいじょうぶかなー? この前、そうめんを水から茹でようとしたとよー」
「あっれーはー! 水に浸して茹でないレシピ見たからやってみようと思ったけんね、間違えたわけじゃない!」
「そげんことば言ってー。掃除だって角を丸くするし」
「だいじょうぶだってば!」
おばさんはあれもできない、これもできない、と並べ立てました。ちょっとどうしたらいいかわからない空気感です。おじさんが「せからしか、路子。そのちゃん前で言うようなことやなか」とおっしゃって止めました。そしたら、おばさん、堪えきれなかったみたいにうわっと泣いちゃって。
「……よしこはまだ一人じゃなぁもできん、嫁になんて行けん!」
……泣いた。もう全力でもらい泣きしました。これはエモい。母の愛。嫁になんて出したくないって。よしこちゃん本人も「もー! もー! なんだよもー!」とティッシュで鼻をかみました。わたしにもティッシュボックスを差し出してくれました。ありがとう。
ちょっとカオスになっちゃって、とりあえず食べ終わったお膳を下げ、時間もいい感じだったので、おいとますることにしました。そしたら「まって、送ってく」とよしこちゃんが真っ赤な目で車のキーを取り上げました。玄関までおじさんも見送りに来てくれて、「ぶっちゃくちゃになってごめんね。そのちゃんに会って、きっと昔んことば思い出したんやて思う」と言ってくれました。わたしは「いえ、なんかすみません。おばさんに美味しかったって伝えてください」と言いました。
「ごめえええええええん!」
「どげんもなかよ!」
黄色い軽自動車に二人で乗り込みました。やっぱり、アウスリゼの蒸気自動車とは違うな、と思いました。はい。主にクッション性とかが。はい。
「なんかさ……最近ずっと、当たりが強いな、とは思うとったんよね」
「さみしかったんだねえ、きっと」
わたしがそう言うと、よしこちゃんは黙ってハンドルを切りながら、なにかを考えているようでした。そして「わたしさ、先週までつわりがひどくて」と、ぽつりと言いました。
「――こんなに苦しいなら、妊娠しなければよかった、とまで思った。特に九週。ご飯が炊ける匂いも、いつも使っていた柔軟剤の香りもだめになって。今落ち着いて。それでさ、昨日エコーを見たの」
交差点の信号で停まって、よしこちゃんはさっとスマホを手に取りフリックして「見て」とわたしへ差し出しました。受け取り、画面を見ます。動画でした。エコーの。
「あっ、あっ、動いてるうううう!」
「でっしょおおおおおお!」
手を! 手を上下に動かしています! たぶん! 左手! 右手はもにょもにょしてる! すごい、生き物だ! ちゃんと人間っぽい形してる!
「……それ見てさ。すんごい反省して。それと。……ああ、わたし、お母さんになるんだ……て。この子がお腹にいるんだ、て思った」
ハンドルを切りながら、よしこちゃんは目をしぱしぱしました。どうしよう、免許持ってないから運転代われない。しばらくお互い無言でした。ナフコの前を通り過ぎて左折し、九州自動車道に入ります。それから深呼吸をして、よしこちゃんは言いました。
「あのさ。なんとなく……さっきの、母さんの言う気持ちが、わかった」
それはわたしには未知の気持ちでした。でも、すごく、すごく大切なものだっていうことはわかります。子を思う母の気持ちって、きっととても大きいもので。
「よしこちゃん……よかったねえ」
「なにが?」
「よしこちゃんはきっとおばさんみたいに、娘は嫁にやらん! って言えるお母さんになれる」
「いいのかよそれ!」
笑いを取れました。めっちゃ本気で言ったんですが。少なくともわたしは、おばさんはすごくいいお母さんだと思った。
「……そのちゃんは? どんなお母さんになりたい?」
「ええー?」
「これからさ。加西か、別のだれかかわかんないけど。いい人と出会って、結婚して。そして、子どもできたら」
「えええええええー?」
ただの一度も考えたことがない。だってわたし喪女ですからね。だれになんと陰で言われてようと、わたし自身は二十七年間だれともお付き合いしたことがない完全なる喪女ですから。それに、二十八くらいで終わるって思ってた、人生。それ以後のことなんて、これまで想像もしたことない。
なので、「本気でそれわかんない、想像つかない。わたしがお母さん? たぶんムリ」と返しました。
「――それに。そんなことは……ない気がする」
わたしがつぶやくと、もう一度沈黙が落ちました。車はそのまま福岡高速一号を軽やかに進みました。
高速道路の博多駅東出入口から、市街地へ入ります。とたんににぎやかになりました。高速の入口のところにあった看板を振り返って、料金を確認します。普通車600円! 承知しました! と思ったら「高速料もガソリン代もいらんけんね!」と即座に言われました。見抜かれた……。
「――決めた。わたし、この子の名前、園子にする」
「うええええええええええ⁉」
突然よしこちゃんが血迷いごとを述べました。これもつわりでしょうか。たいへんだな母体。こんなときどうすればいいのでしょうか。ラマーズ法は時期尚早に思えます。笑えばいいのか。笑うか。いえ、そのまま母親が血迷い続けたら若い命が犠牲になってしまうので、ここは説得しましょう。
「よしこちゃん……考えて。わたしたちの周りには、かわいい名前の女の子がたくさんいたね」
「いたね」
「明日香ちゃんに悠衣ちゃん、それに紗央里ちゃん」
「いたね」
「ともに互いのシワシワネームを嘆いた、あの日々を忘れたのですか」
「はっはっはっは」
よしこちゃんが勝ち誇り笑いをしてハンドルを切りました。母体たいへん。今ごろになって長距離運転をさせてしまったことを後悔し始めました。わたしが謝ろうと口を開きかけたとき、よしこちゃんは「名付けトレンドはわたしのが詳しいよ。ここ数年はレトロネームがずっと根強い人気」と言いました。
「筑紫口中央通りまで行っちゃうと、一時停車できないかも。中比恵公園のとこでもいい?」
「あっはい、ありがとうございます」
カチカチと車が停車合図を出しました。公園横の通りにスーと停車してくれたので、とりあえずわたしはバレないように、シートベルトを外すときにじゃっかん不自然な動作ながらもこっそり財布から三千円を出しました。「ありがとう、助かった!」と言いながらあとで気づいてもらえそうなドアポケットのところにねじ込みます。
「あのさー、そのちゃん」
なにか考えごとをしていたのか、よしこちゃんはわたしの挙動不審をスルーしてくれました。そして「わたしね、そのちゃんに幸せになってもらいたいよ。ずっと、そう思ってる」と言ってくれました。
「……ありがとう」
降りて、ドアを閉めました。窓が自動で開いて、アウスリゼにいた感覚が抜けていなかったためビビりました。もう一度お礼を言って、「会って、話せてうれしかった。おじさんとおばさんによろしくね。あ、あとご主人にも」と言いました。よしこちゃんは「わかった」とうなずきました。そして。
「――うちの娘の名前を、不吉にしないでよ。ぜったい、幸せになって」
びっくりしてわたしはよしこちゃんを見ました。よしこちゃんは満面の笑顔で「じゃあね!」と車を発進させました。
オリヴィエ様の最初のセリフはそれでした。暗転。理知的なそのバリトンボイスに続き、歩く足元をワイプするアニメーション。追いかけるアングルが切り替わり、束ねられた銀髪を映します。そして正面へ。涼やかな紫瞳に、引き結んだ意志の強そうな口元。銀縁のメガネ。その瞬間、演出だけによらず画面が静止したと思いました。挿入された『オリヴィエ・ボーヴォワール:冴え渡る智の若き宰相』という紹介文が、わたしの脳裡に刻まれました。一目惚れでした。
そうです。これまでいろいろオリヴィエ様のステキさを説いてきましたが、結局最初はそれでした。ステキ。かっこいい。顔がいい。声もいい。すき。
そしてどんどん深みにハマっていきました。オリヴィエ様ステキだしグレⅡおもしろい。
オリヴィエ様が亡くなったとき。最初、意味がわかりませんでした。ただ、闇夜の中走り抜けていく蒸気機関車から、放り出されたオリヴィエ様の体のムービーを見、その後に続いた開戦までの流れに圧倒されていました。それまでわたしはテレビゲームをしたことがなかったし、アニメらしいアニメも観たことがなくて、理解が追いつかなかったんです。なので、これは大きな伏線で、オリヴィエ様はきっと後ほどなにかの折に再登場されるだろうと思いました。――されませんでした。
リシャールのエンディングで。ラスト、リシャールが、墓石にお花をそっと置くんです。墓碑銘は示されませんでしたが、だれのものか、そのときはっきりと理解できて。……泣きました。
何回も何回も、最初からやり直して。どうにかオリヴィエ様が亡くならないルートへ進めないか、すべての選択肢を試して。けれど、そもそもが戦争シミュレーションゲームです。リシャールでもクロヴィスでも、グレⅡとしてのゲームの本番は、開戦してからでした。
そして、開戦は――必ず、『宰相オリヴィエ・ボーヴォワールの死』をもってもたらされました。
何度周回しても。何度選択肢を変えても。だめでした。必ず、行き着く先は――同じ。
よしこちゃんの手引きによってわたしは、二次創作に足をつっこみました。つたない文章で、亡くならなかったオリヴィエ様の将来を何通りも書きました。書きながら自分で自分の文章に解釈違いを起こして発狂するめんどくさいオタになりました。でも一番の解釈違いは公式でした。そもそも、オリヴィエ様が亡くなるとか公式が言ってるだけなので。
あんなに熱くて、冷静で、だれかのために本気で怒れて、名前も知らない人の福祉と幸せのために自分を差し出せる人。実兄ブリアックとの確執ゆえに痛む心を、それでも無私の気持ちで国に捧げて、だれよりもまっすぐ、ブレることなく歩める人。とてもすてきで。わたしにとっては、ゲームの中の人とは思えないくらいに形ある存在で。
二次創作をしていた影響で、いつでも「こんなとき、オリヴィエ様ならどうするかな」と考えるようになりました。心理学の本とかもたくさん読んで、想像が追いつかない部分を学んでまた想像しました。実際にそれを書いてみたりもして。高校生時代にコピー本二冊と、よしこちゃんの紹介で知り合ったグレⅡオタ仲間の同人誌に一度寄稿しました。ペンネームはないしょです。コピー本は二冊ともオリヴィエ様生存IF話を。寄稿の方は主従BLを頼まれたんですが、素養がなくてちゃんと書けませんでした。でも「なんか匂わせっぽくてかえってエロい」とたいへんよろこんでもらえました。はい。
そうやって、わたしの中で、オリヴィエ様は確固とした存在になりました。たくさんのIFを考えながら……でも実際には、オリヴィエ様は永遠に二十八歳のままで。
「うん……そうだね。言ってた。わたし二十八までかもって」
「うちら、今年二十八だし。どうしてるかな、って、ずっと気になってた」
「ありがとねー、なんか、感動!」
ぼんやりと、思っていたんです。あんなにステキなオリヴィエ様になかった未来。わたしにあるわけないよなあ、と。
たくさんのIFを考えました。オリヴィエ様が亡くならなかったあとのこと、たくさん。でもそのどれも、本当のことではなくて。可能性すらそこにはなくて。
だからまあ。わたしも、そのくらいでいいかなって。わたしに、そもそも可能性なんかないから。おぼろげに、わたしも終わるんだろうと思っていた。
「年食うなんてあっという間だね……ついこないだまでよしこちゃんに十六ページ折りの極意とか教わってたのにさ……」
「三田殿は賢な人やけん、一発だったな」
「古賀殿の教え方がすばらなだけでありましょう」
わたしはやさしい気持ちになって「古賀殿。今度はなに殿になるのですか?」と尋ねました。よしこちゃんはすっごくかわいい笑顔になって、「田中」と答えました。……わたしがなりたかった名前に、よしこちゃんがなってくれるって聞いて、ちょっと胸が詰まりました。
「では――田中殿。折り入っての頼みを聞いてくださらぬか」
「なんとした。ささ、言ってごらんなさい」
「今は何時でありましょう」
「ふむ。スマホがないというのはまことであったか。……十時三十八分であるが、いかがなされた」
「今日発の新幹線の時刻を知りたい。調べてはもらえぬであろうか」
「なんの、任されよ!」
すぐ行こうと思っていたんですけど、よしこちゃんもおばさんも「お昼食べていかんね」と言ってくださいました。しかも食べてすぐに動くのはよくないというおばさんの理念から、十四時代の新幹線を予約サイトでとってくれました。東京で乗り換えて高崎に行く感じです。代金を払おうとしたら「半分でよかよー」と言われましたが、ごねてごねてちゃんと受け取ってもらいました。それもこれも諭吉師匠を握らせてくださったマダムのおかげでできたことです。ありがとうマダム。ジョゼフィーヌちゃんとお幸せに。
「資さんうどんの冷凍あるー、あっついのと冷たいの、どっちがよか?」
「すけさんうどーん! うれしい、ひさしぶり! ばりあっついのがいい!」
「そのちゃん、うどんすいとーと? かまぼこはないから、代りにごぼう天ば揚げるね!」
「いいと? やったー! ありがとう!」
冷房の効いた部屋であつあつうどん。至高。お手伝いしようとしましたが「おばさんの生き甲斐とらんといて!」と言われて引き下がりました。お料理大好きでしたもんね、よしこちゃんのおばさん。
お昼めがけて、おじさんが帰宅されました。まだお仕事が変わっていなかったら、フリーランスのエンジニアさんだと思います。今は近所に事務所を借りて、そちらでお仕事をされているんですって。「うわあ、そのちゃんか! きれいになっとうなあ!」とめちゃくちゃびっくりされました。本気にしちゃうから褒めないで。てれる。
四人で食卓について食べました。おいしかった。あらためておじさんおばさんにも、よしこちゃんの結婚についてお祝いを言いました。
「この子ねえ。だいじょうぶかなー? この前、そうめんを水から茹でようとしたとよー」
「あっれーはー! 水に浸して茹でないレシピ見たからやってみようと思ったけんね、間違えたわけじゃない!」
「そげんことば言ってー。掃除だって角を丸くするし」
「だいじょうぶだってば!」
おばさんはあれもできない、これもできない、と並べ立てました。ちょっとどうしたらいいかわからない空気感です。おじさんが「せからしか、路子。そのちゃん前で言うようなことやなか」とおっしゃって止めました。そしたら、おばさん、堪えきれなかったみたいにうわっと泣いちゃって。
「……よしこはまだ一人じゃなぁもできん、嫁になんて行けん!」
……泣いた。もう全力でもらい泣きしました。これはエモい。母の愛。嫁になんて出したくないって。よしこちゃん本人も「もー! もー! なんだよもー!」とティッシュで鼻をかみました。わたしにもティッシュボックスを差し出してくれました。ありがとう。
ちょっとカオスになっちゃって、とりあえず食べ終わったお膳を下げ、時間もいい感じだったので、おいとますることにしました。そしたら「まって、送ってく」とよしこちゃんが真っ赤な目で車のキーを取り上げました。玄関までおじさんも見送りに来てくれて、「ぶっちゃくちゃになってごめんね。そのちゃんに会って、きっと昔んことば思い出したんやて思う」と言ってくれました。わたしは「いえ、なんかすみません。おばさんに美味しかったって伝えてください」と言いました。
「ごめえええええええん!」
「どげんもなかよ!」
黄色い軽自動車に二人で乗り込みました。やっぱり、アウスリゼの蒸気自動車とは違うな、と思いました。はい。主にクッション性とかが。はい。
「なんかさ……最近ずっと、当たりが強いな、とは思うとったんよね」
「さみしかったんだねえ、きっと」
わたしがそう言うと、よしこちゃんは黙ってハンドルを切りながら、なにかを考えているようでした。そして「わたしさ、先週までつわりがひどくて」と、ぽつりと言いました。
「――こんなに苦しいなら、妊娠しなければよかった、とまで思った。特に九週。ご飯が炊ける匂いも、いつも使っていた柔軟剤の香りもだめになって。今落ち着いて。それでさ、昨日エコーを見たの」
交差点の信号で停まって、よしこちゃんはさっとスマホを手に取りフリックして「見て」とわたしへ差し出しました。受け取り、画面を見ます。動画でした。エコーの。
「あっ、あっ、動いてるうううう!」
「でっしょおおおおおお!」
手を! 手を上下に動かしています! たぶん! 左手! 右手はもにょもにょしてる! すごい、生き物だ! ちゃんと人間っぽい形してる!
「……それ見てさ。すんごい反省して。それと。……ああ、わたし、お母さんになるんだ……て。この子がお腹にいるんだ、て思った」
ハンドルを切りながら、よしこちゃんは目をしぱしぱしました。どうしよう、免許持ってないから運転代われない。しばらくお互い無言でした。ナフコの前を通り過ぎて左折し、九州自動車道に入ります。それから深呼吸をして、よしこちゃんは言いました。
「あのさ。なんとなく……さっきの、母さんの言う気持ちが、わかった」
それはわたしには未知の気持ちでした。でも、すごく、すごく大切なものだっていうことはわかります。子を思う母の気持ちって、きっととても大きいもので。
「よしこちゃん……よかったねえ」
「なにが?」
「よしこちゃんはきっとおばさんみたいに、娘は嫁にやらん! って言えるお母さんになれる」
「いいのかよそれ!」
笑いを取れました。めっちゃ本気で言ったんですが。少なくともわたしは、おばさんはすごくいいお母さんだと思った。
「……そのちゃんは? どんなお母さんになりたい?」
「ええー?」
「これからさ。加西か、別のだれかかわかんないけど。いい人と出会って、結婚して。そして、子どもできたら」
「えええええええー?」
ただの一度も考えたことがない。だってわたし喪女ですからね。だれになんと陰で言われてようと、わたし自身は二十七年間だれともお付き合いしたことがない完全なる喪女ですから。それに、二十八くらいで終わるって思ってた、人生。それ以後のことなんて、これまで想像もしたことない。
なので、「本気でそれわかんない、想像つかない。わたしがお母さん? たぶんムリ」と返しました。
「――それに。そんなことは……ない気がする」
わたしがつぶやくと、もう一度沈黙が落ちました。車はそのまま福岡高速一号を軽やかに進みました。
高速道路の博多駅東出入口から、市街地へ入ります。とたんににぎやかになりました。高速の入口のところにあった看板を振り返って、料金を確認します。普通車600円! 承知しました! と思ったら「高速料もガソリン代もいらんけんね!」と即座に言われました。見抜かれた……。
「――決めた。わたし、この子の名前、園子にする」
「うええええええええええ⁉」
突然よしこちゃんが血迷いごとを述べました。これもつわりでしょうか。たいへんだな母体。こんなときどうすればいいのでしょうか。ラマーズ法は時期尚早に思えます。笑えばいいのか。笑うか。いえ、そのまま母親が血迷い続けたら若い命が犠牲になってしまうので、ここは説得しましょう。
「よしこちゃん……考えて。わたしたちの周りには、かわいい名前の女の子がたくさんいたね」
「いたね」
「明日香ちゃんに悠衣ちゃん、それに紗央里ちゃん」
「いたね」
「ともに互いのシワシワネームを嘆いた、あの日々を忘れたのですか」
「はっはっはっは」
よしこちゃんが勝ち誇り笑いをしてハンドルを切りました。母体たいへん。今ごろになって長距離運転をさせてしまったことを後悔し始めました。わたしが謝ろうと口を開きかけたとき、よしこちゃんは「名付けトレンドはわたしのが詳しいよ。ここ数年はレトロネームがずっと根強い人気」と言いました。
「筑紫口中央通りまで行っちゃうと、一時停車できないかも。中比恵公園のとこでもいい?」
「あっはい、ありがとうございます」
カチカチと車が停車合図を出しました。公園横の通りにスーと停車してくれたので、とりあえずわたしはバレないように、シートベルトを外すときにじゃっかん不自然な動作ながらもこっそり財布から三千円を出しました。「ありがとう、助かった!」と言いながらあとで気づいてもらえそうなドアポケットのところにねじ込みます。
「あのさー、そのちゃん」
なにか考えごとをしていたのか、よしこちゃんはわたしの挙動不審をスルーしてくれました。そして「わたしね、そのちゃんに幸せになってもらいたいよ。ずっと、そう思ってる」と言ってくれました。
「……ありがとう」
降りて、ドアを閉めました。窓が自動で開いて、アウスリゼにいた感覚が抜けていなかったためビビりました。もう一度お礼を言って、「会って、話せてうれしかった。おじさんとおばさんによろしくね。あ、あとご主人にも」と言いました。よしこちゃんは「わかった」とうなずきました。そして。
「――うちの娘の名前を、不吉にしないでよ。ぜったい、幸せになって」
びっくりしてわたしはよしこちゃんを見ました。よしこちゃんは満面の笑顔で「じゃあね!」と車を発進させました。
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失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。
目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。
二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。
一方、義妹は仕事でミスばかり。
闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。
挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。
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※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。
【完結】烏公爵の後妻〜旦那様は亡き前妻を想い、一生喪に服すらしい〜
七瀬菜々
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