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第二話

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 森番として与えられた屋敷は、とても小さなものだった。
 小高い丘の上に屋敷が立ち、その前方には湖が、後方には深い森が広がっている。
 セレスティア王女の結界によって守られているそこには、アランの他に武術の覚えがある者はいない。人数を増やせば増やすだけ、情報が漏れる危険が増すからだ。
 それに、療養する芽吹きの乙女のこともあった。幽閉されていた彼女は、体だけではなく心もひどく傷付いているだろう。武装している者が周囲をうろついては、安らげるものも安らげない。

(失敗は許されない。殿下のためにも、乙女のためにも)

「アラン様」

 黄昏時。屋敷の前で湖の向こう側に見える王城を眺めていると、屋敷の中から声をかけられた。
 振り返ると、出窓を開けて使用人のジゼルが顔を覗かせていた。

「お食事の支度ができましたので、あの方のお部屋に運んでくださいませ」

 アランは「今行く」と答えて、屋敷の中へ入っていった。
 長年勤めてくれている中年のジゼルは、アランの実家では、できないものはないほどの優秀な仕事ぶりだった。芽吹きの乙女のことは詳しく説明していないが、察してくれているのかあちらも詳しく尋ねてはこない。
 厨房へ入り、ジゼルが用意してくれたスープを盆に載せる。湯気に混ざった魔法薬の独特の香りが鼻孔をくすぐった。

「すまないな、ジゼル。こんな辺鄙な場所で、不便も多いだろう」

 その上、芽吹きの乙女の食事や世話は、普通の病人のそれよりも余程気を遣うものだ。実家で仕事をするのに比べて大変に違いない。アランはそう思ったのだが、ジゼルはその気の強さを表すように、眉の片方を吊り上げた。

「何をおっしゃいます。この程度で私が苦労するとでもお思いなのですか? 幼かった頃のアラン様のお世話に比べれば、何倍も何十倍も楽なものです」
「それは……その、頼りにしている」

 少し恥ずかしくなってしまい、アランは頬をかいた。彼としては、そんなに手のかかる子供だったつもりはないのだが。

 盆を手に、芽吹きの乙女の寝室へと向かう。
 返事ができないのを分かっていつつも、彼は扉を叩き、一言断りを入れてから扉を開いた。
 ふわりとカーテンが膨らみ、部屋の中に吹いていた夕暮れ時の風がアランの頬を撫でた。
 くすくすと忍び笑いをする気配に、アランは眉尻を下げた。

「君達、そろそろ神樹へ帰ってもらえないか」

 アランがそう言うと、芽吹きの乙女の周囲に漂っていた妖精達が抗議するように舞った。

『もう窓とカーテンを閉めてしまうの? 星空が見えないじゃない』
「夜風は人間の体にはよくないんだ」
『ずっと部屋に一人きりなんだもの。星空くらい眺めたいはずよ。ね?』

 ベッドの上、敷き詰められたクッションを背もたれにして、乙女は上体を僅かに起こしていた。
 魔法薬の効果もあってか、骨と皮の間に肉一枚は甦ったように見える。薄く開かれた瞼の間から、若葉色の瞳が妖精の動きを追っているのが見えた。

 アラン達が暮らし始めてからまもなく、妖精達は興味津々で屋敷へとやってきた。
 妖精は悪戯好きだ。今日も、アランの靴の紐を全部抜いてけらけらと笑っていた。
 だが、弱っている者を痛めつけたりはしない。アランは何も言っていないが、芽吹きの乙女に優しく接してくれていた。
 ジゼルはこの屋敷でたった一人の使用人で、家のことで朝から晩まで忙しく働いてくれている。アランもそのジゼルの手伝いをしたり、形だけではあるが森番の仕事もある。そのため、どうしても芽吹きの乙女は部屋で一人きりになってしまうことが多かった。その彼女のそばにいてくれる妖精達の存在はありがたい。ただ、乙女がそれを嬉しく思っているのか、それともうるさく思っているのかは分からなかった。



◇◇◇◇



 アランと、ジゼルと、乙女と妖精達。変わり映えのない面子で、穏やかな日々が続いた。
 幸いなことに、誰かが乙女を狙ってくる気配はなかった。

 夏の始まりが見えた頃、乙女はうなずくことと首を振ることができるようになった。
 夕暮れ時に秋の風が吹き始めた頃、液状でないものを食べられるようになった。
 そうすると、咲き始めた花のように速かった。
 芽吹きの乙女は、そもそも魔力の源泉のようなものだ。その魔力と魔法薬が上手く作用してくれたのだろう。
 冬支度を始める頃には、話をし、壁にもたれながらであれば歩けるようにもなっていた。

(今年は寒そうだな)

 貯蔵庫を出ると、重く垂れこめた灰色の雲から大粒の雪が落ちてきていた。例年に比べると早い雪だ。
 アランは周囲に張り巡らせている魔法道具の調子を確かめ、不審な点がないか見て回ると、屋敷へと入っていった。

「クレア殿」

 屋敷に入ってすぐ、アランは廊下に座り込んでいる少女の姿を見つけて駆け寄った。

「どうなさったのですか? どこか痛いところは?」

 少女は首を振ると、その若葉色の瞳でアランを見上げた。

「自分の足につまずいてしまっただけなのです。折角きれいになったお洋服が……申し訳ありません」

 見ると、確かに周りに服が散乱している。転んだ拍子に落としてしまったのだろう。

 芽吹きの乙女は、クレアという名だった。
 男か女か、生者か死者かすら分からなかった彼女は、今では十七か十八の少女の姿になっている。
 薄汚れた雪のようだった髪は陽光のような金色に生え変わり、黒ずんでいた肌は白く、けれど血の通いを表すように明るい。暗く澱んでいた瞳は今では透き通っていた。

 生きている。
 彼女の姿を見るたびに、それを実感してアランの胸の内に喜びが広がった。

「これは私が運びますから、どうぞ休んでいてください」

 アランが床の服を拾い上げようとすると、クレアは慌てたようにそれをかき集めた。ほんの少し前では考えられないほどの素早い動きに、アランは完全に出遅れ、驚いて口を開けてしまった。

「あ、あの、本当に大丈夫です」

 まだ少しこけている頬が、慌てたためか上気している。
 乱れた髪を耳にかけ、クレアは誤魔化すように笑みを浮かべた。

「まだ、この程度しかお役に立てないのですから……こんなことで、お手を煩わせるわけには」
「そんな……何もお気になさらず、お体を休めていただいていいのですよ。動けるようになったとはいえ、全快というわけではないのですから」

 しかし、クレアは首を振った。

「ジゼルさんが、少しずつでも体を動かした方が良いとおっしゃるのです。いつまでも寝込んでいては、良くなるものも良くならないと。私も、そう思います」

 彼女は壁に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。
 何かあればすぐに手を出せるようにと身構えていたが、幸いその必要もなかったようで、アランの口から安堵の息が漏れる。
 それに気付いて、クレアは少し口角を上げた。心配しすぎだと思われたのかもしれない。

「あの……明日は、よろしくお願いします」
「え? あ、ああ……はい、こちらこそ……」

 なんとも歯切れの悪い返事に、クレアは頭を下げた。
 壁に手をついて、ゆっくりと廊下の先へと歩いていく。
 それを見送りながら、アランは考えた。

(ジゼルも厳しいな。冬支度で忙しいとはいえ……)

 クレアが話せるようになると、ジゼルはあれこれと用事を言いつけるようになった。
 芽吹きの乙女であることは伏せているし、クレアの立ち居振る舞いからは、貴族らしさは微塵もない。だから、ジゼルにとっては自分とさほど変わらない身分の同居人といったところなのだろう。
 ジゼルなら負担をかけるほどのことを押し付けたりはしないだろう。そう分かってはいるものの、アランの目には少し危なっかしく映った。

(何にせよ、まずは明日を迎えてからだな)

 明日は、彼女を連れて登城しなければならない。
 会話ができるようになり、少しならば立って歩けるようになったため、話し合いの場を設けることになったのだ。
 ここは療養のための仮住まいだ。これからどうするのか、本人の意思を聞かねばならない。その結果によっては、ここを引き払う可能性もあった。

 この暮らしが終わるかもしれない。
 それを考えると、不意に物悲しさが胸に広がった。
 近衛騎士だった以前の生活も、仮の森番である今の生活も、どちらもそれなりに幸福で、小さいけれど不便や不満がある。それなのに、近衛騎士に戻ることを考えて寂しくなるとは、不思議なものだ。

『自覚がないなんて、びっくりするほど幼い男』

 突然耳元で声がして、アランはぎょっとした。妖精は、小さな体で大きな溜息をついた。

「わ、私はこれでも二十――痛っ」
『馬鹿ね』
『阿呆だ』

 後頭部を蹴り飛ばされた痛みに呻くアランをよそに、妖精達はけらけらと笑いながらクレアの後を追っていった。
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