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第4部 暴虐のカオス
#2 バツ②
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普通の人間なら、間違いなく出血多量で死んでいる。
いや、その前に激痛のあまり心臓が停止していてもおかしくない状態だ。
だが、杏里は"タナトス"だった。
喉に穴が開いたくらいで死にはしない。
このくらいの傷では、死ぬことなどできはしないのだ。
痛みがあるレベルを超えると、杏里の肉体は無痛状態になる。
今がちょうどそうだった。
由羅の顔を見た、という安心感も手伝ったのかもしれない。
ハンカチで首の穴をおさえながら、杏里はゆっくりと身を起こした。
少しずつだが、出血の量も減ってきていた。
由羅は相変らず見ているだけだ。
超ミニのスカートから下着が覗くのも気にせず、その場にヤンキー坐りをすると、興味深そうに杏里の様子を観察しにかかった。
「またやられたのか」
地面に落ちた血まみれの鋏に目をやって、訊いてきた。
杏里は2階の教室の窓を見やった。
「あそこから落ちてきたのか」
うなずくと、
「間抜けにもほどがある。口開けて上向くからだよ。ってか、だいたいそんなもんくらいよけろよな」
由羅が容赦なくいった。
まさにその通りで、元はといえば杏里の運動神経の鈍さが原因なのだが、今更指摘されても後の祭りだった。
「それに、なんでこんなとこに机があるんだよ。変な匂いもするし。杏里、おまえ、何やらかしたんだよ」
「私は何もしてない」
やっと声が出た。
「あんたこそ、授業中にこんなとこで何やってるのよ」
ちょっとまだ空気が漏れている感じがするが、発声に支障がないくらいまで回復してきたようだ。
「授業終わって、プールへ移動するとこさ。おまえの悲鳴が聞こえたんで、来てやったんじゃねえか」
なるほど、水着とタオルの入ったビニール袋を肩にかけている。
「ちょっといじめが強烈になってきて・・・」
杏里は今朝からの一連の出来事を由羅に話して聞かせた。
「まあ、そりゃ、自業自得ってやつだな」
訊き終わるなり、由羅が他人事のようにつぶやいた。
「ちょっと何よそれ? だいたい、翔太を殺したのは、由羅、あんたでしょ!」
かっとなって叫ぶ杏里を、
「シーっ! 声がでかいって」
由羅があわてて制止する。
「あいつが"外来種"だったなんていったってどうせ誰も信じないんだから、しょうがないじゃねえか」
そうなのだ。
小田切や冬美に聞かされた話によると、一般市民には外来種なるものの存在は知らされていないのだ。
それを知っているのは、各国とも、政府、各省庁、警察の上層部と、対外来種専門機関の者に限られているという。
そんな極秘情報を中学2年生の杏里と由羅が知っているというのは一見矛盾しているようだが、そもそもふたりは正確にいえば14歳の少女でもないし人間でもない。
対外来種用につくられたタナトスとパトスなのだから、これはある意味当然だった。
「とりあえず、保健室には連れてってやるよ」
由羅は腰を上げると水浸しの机に近づき、軽々とそれを片手で持ち上げた。
「おい、受け取れ」
叫ぶなり、2階の窓に向かってぶん投げる。
机が宙を飛び、開いた窓に吸い込まれると、物同士が衝突する派手な音とともに女生徒たちの悲鳴が聞こえてきた。
「誰だ?」
顔を出したのは、担任の山本先生だ。
「あ、先生、笹原、ちょっと怪我しちゃったんで、うちが保健室に連れていきます。誰かが窓から鋏放り投げたらしくて、それが喉に刺さっちゃったんですよ。ぶっそうなもん授業中に投げるなって、1組のバカどもにいってやってくださいよ」
「鋏? 喉に刺さった? おい、大丈夫なのか」
山本先生の顔が青ざめる。
「大丈夫です。昼まで安静にしてれば治ります。こいつはそういうやつですから」
「本当なのか、笹原」
杏里は喉を押さえてうなずいてみせた。
「あんまり無理するな。ひどいようなら帰ってもいいんだぞ」
「平気です」
杏里が声を絞り出すと、山本先生はようやく安心したようだった。
つれていく、といったくせに、由羅はただ保健室の前までついてきただけだった。
「どうも病院とか保健室とか、そういう薬臭いとこは苦手でね。また、昼休みに様子見に来るからよ」
それだけいい置いて、さっさっと行ってしまった。
杏里は少し傷ついた。
由羅は、密室で私とふたりきりになるのを避けているのだ。
なぜなら、私の気持ちに気づいているから・・・。
ここ塩見が丘中学の保健室の担当は、鈴木翠という名の三十過ぎの女性だった。
「ひどい血。どうしたの?」
杏里を見るなり、眼鏡の奥の細い目を大きく見開いた。
杏里は、洗面所の鏡に映る己の姿に苦笑せざるをえなかった。
白いブラウスが、喉の穴から溢れ出た血で全面赤茶色に染まっているのだ。
出血はほとんど停まっているのだが、これではまるでゾンビである。
鈴木先生は、小柄で少し暗い感じのする女性だった。
小太りの体を包んだ白衣は、気のせいか汚れてくたびれているように見える。
「それ、脱いで。洗濯しといてあげるから」
杏里を上半身裸にすると、椅子に座らせ、喉の傷を覗き込む。
手短に事情を説明すると、
「驚いたわ。それだけの大出血なのに、傷がほとんどふさがってる」
と、感心したようにつぶやいた。
「体質なんです」
杏里は答えた。
まさか、人間じゃないんです、とはいえやしない。
消毒とシップを済ませると、
「大丈夫そうだけど、少し横になってるといいわ」
ベッドを調えて、そこに杏里を誘った。
「一応、痛み止めの注射、打っておくわね」
左手の静脈に注射されると、すぐに眠くなってきた。
今朝からのいじめ攻勢に、さすがに疲れていたとみえる。
上はブラジャー、下は制服のミニスカートといった格好のまま、杏里はシーツをかぶった、
眠気が襲ってきた。
そのままどれほど眠ったのだろう。
ふと体に違和感を覚えて、目が覚めた。
見ると、手足を紐で縛られていた。
両手両脚が、ベッドの手すりに縛りつけられているのだ。
しかも、スカートを脱がされ、下半身は小さなパンティ一枚だけという姿になっていた。
「目が覚めた?」
鈴木先生が杏里の顔を上から覗き込んできた。
「笹原杏里。あんたに、折り入って訊きたいことがあるの」
ねっとりとからみつくような声で、いった。
「え?」
杏里は目をしばたたかせた。
この人もか。
よりによって、こんなところにも死の衝動を持て余す人間がいたとみえる。
「あたしの翔太を、どうしたの?」
静かな怒りのこもった口調で、鈴木先生がいった。
完全に、目がすわってしまっている。
杏里は茫然となった。
あたしの、翔太?
いったい、どういうことだろう?
「いわないなら」
先生の手で、何かがきらりと電灯の光を反射した。
杏里は息を呑んだ。
「痛い目を見ることになるけど、いい?」
針だった。
銀色に光る針が、眼に近づいてくる。
杏里は悲鳴を上げた。
いや、その前に激痛のあまり心臓が停止していてもおかしくない状態だ。
だが、杏里は"タナトス"だった。
喉に穴が開いたくらいで死にはしない。
このくらいの傷では、死ぬことなどできはしないのだ。
痛みがあるレベルを超えると、杏里の肉体は無痛状態になる。
今がちょうどそうだった。
由羅の顔を見た、という安心感も手伝ったのかもしれない。
ハンカチで首の穴をおさえながら、杏里はゆっくりと身を起こした。
少しずつだが、出血の量も減ってきていた。
由羅は相変らず見ているだけだ。
超ミニのスカートから下着が覗くのも気にせず、その場にヤンキー坐りをすると、興味深そうに杏里の様子を観察しにかかった。
「またやられたのか」
地面に落ちた血まみれの鋏に目をやって、訊いてきた。
杏里は2階の教室の窓を見やった。
「あそこから落ちてきたのか」
うなずくと、
「間抜けにもほどがある。口開けて上向くからだよ。ってか、だいたいそんなもんくらいよけろよな」
由羅が容赦なくいった。
まさにその通りで、元はといえば杏里の運動神経の鈍さが原因なのだが、今更指摘されても後の祭りだった。
「それに、なんでこんなとこに机があるんだよ。変な匂いもするし。杏里、おまえ、何やらかしたんだよ」
「私は何もしてない」
やっと声が出た。
「あんたこそ、授業中にこんなとこで何やってるのよ」
ちょっとまだ空気が漏れている感じがするが、発声に支障がないくらいまで回復してきたようだ。
「授業終わって、プールへ移動するとこさ。おまえの悲鳴が聞こえたんで、来てやったんじゃねえか」
なるほど、水着とタオルの入ったビニール袋を肩にかけている。
「ちょっといじめが強烈になってきて・・・」
杏里は今朝からの一連の出来事を由羅に話して聞かせた。
「まあ、そりゃ、自業自得ってやつだな」
訊き終わるなり、由羅が他人事のようにつぶやいた。
「ちょっと何よそれ? だいたい、翔太を殺したのは、由羅、あんたでしょ!」
かっとなって叫ぶ杏里を、
「シーっ! 声がでかいって」
由羅があわてて制止する。
「あいつが"外来種"だったなんていったってどうせ誰も信じないんだから、しょうがないじゃねえか」
そうなのだ。
小田切や冬美に聞かされた話によると、一般市民には外来種なるものの存在は知らされていないのだ。
それを知っているのは、各国とも、政府、各省庁、警察の上層部と、対外来種専門機関の者に限られているという。
そんな極秘情報を中学2年生の杏里と由羅が知っているというのは一見矛盾しているようだが、そもそもふたりは正確にいえば14歳の少女でもないし人間でもない。
対外来種用につくられたタナトスとパトスなのだから、これはある意味当然だった。
「とりあえず、保健室には連れてってやるよ」
由羅は腰を上げると水浸しの机に近づき、軽々とそれを片手で持ち上げた。
「おい、受け取れ」
叫ぶなり、2階の窓に向かってぶん投げる。
机が宙を飛び、開いた窓に吸い込まれると、物同士が衝突する派手な音とともに女生徒たちの悲鳴が聞こえてきた。
「誰だ?」
顔を出したのは、担任の山本先生だ。
「あ、先生、笹原、ちょっと怪我しちゃったんで、うちが保健室に連れていきます。誰かが窓から鋏放り投げたらしくて、それが喉に刺さっちゃったんですよ。ぶっそうなもん授業中に投げるなって、1組のバカどもにいってやってくださいよ」
「鋏? 喉に刺さった? おい、大丈夫なのか」
山本先生の顔が青ざめる。
「大丈夫です。昼まで安静にしてれば治ります。こいつはそういうやつですから」
「本当なのか、笹原」
杏里は喉を押さえてうなずいてみせた。
「あんまり無理するな。ひどいようなら帰ってもいいんだぞ」
「平気です」
杏里が声を絞り出すと、山本先生はようやく安心したようだった。
つれていく、といったくせに、由羅はただ保健室の前までついてきただけだった。
「どうも病院とか保健室とか、そういう薬臭いとこは苦手でね。また、昼休みに様子見に来るからよ」
それだけいい置いて、さっさっと行ってしまった。
杏里は少し傷ついた。
由羅は、密室で私とふたりきりになるのを避けているのだ。
なぜなら、私の気持ちに気づいているから・・・。
ここ塩見が丘中学の保健室の担当は、鈴木翠という名の三十過ぎの女性だった。
「ひどい血。どうしたの?」
杏里を見るなり、眼鏡の奥の細い目を大きく見開いた。
杏里は、洗面所の鏡に映る己の姿に苦笑せざるをえなかった。
白いブラウスが、喉の穴から溢れ出た血で全面赤茶色に染まっているのだ。
出血はほとんど停まっているのだが、これではまるでゾンビである。
鈴木先生は、小柄で少し暗い感じのする女性だった。
小太りの体を包んだ白衣は、気のせいか汚れてくたびれているように見える。
「それ、脱いで。洗濯しといてあげるから」
杏里を上半身裸にすると、椅子に座らせ、喉の傷を覗き込む。
手短に事情を説明すると、
「驚いたわ。それだけの大出血なのに、傷がほとんどふさがってる」
と、感心したようにつぶやいた。
「体質なんです」
杏里は答えた。
まさか、人間じゃないんです、とはいえやしない。
消毒とシップを済ませると、
「大丈夫そうだけど、少し横になってるといいわ」
ベッドを調えて、そこに杏里を誘った。
「一応、痛み止めの注射、打っておくわね」
左手の静脈に注射されると、すぐに眠くなってきた。
今朝からのいじめ攻勢に、さすがに疲れていたとみえる。
上はブラジャー、下は制服のミニスカートといった格好のまま、杏里はシーツをかぶった、
眠気が襲ってきた。
そのままどれほど眠ったのだろう。
ふと体に違和感を覚えて、目が覚めた。
見ると、手足を紐で縛られていた。
両手両脚が、ベッドの手すりに縛りつけられているのだ。
しかも、スカートを脱がされ、下半身は小さなパンティ一枚だけという姿になっていた。
「目が覚めた?」
鈴木先生が杏里の顔を上から覗き込んできた。
「笹原杏里。あんたに、折り入って訊きたいことがあるの」
ねっとりとからみつくような声で、いった。
「え?」
杏里は目をしばたたかせた。
この人もか。
よりによって、こんなところにも死の衝動を持て余す人間がいたとみえる。
「あたしの翔太を、どうしたの?」
静かな怒りのこもった口調で、鈴木先生がいった。
完全に、目がすわってしまっている。
杏里は茫然となった。
あたしの、翔太?
いったい、どういうことだろう?
「いわないなら」
先生の手で、何かがきらりと電灯の光を反射した。
杏里は息を呑んだ。
「痛い目を見ることになるけど、いい?」
針だった。
銀色に光る針が、眼に近づいてくる。
杏里は悲鳴を上げた。
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