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#42 懊悩

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 玄関をあがると、そこはすぐに板の間で、右側がバスとトイレ、左側がキッチンになっている。
 部屋はその奥の6畳間の和室がひとつだけ。
 正面のサッシ窓の外は隣のビルの壁なので、いつも厚いカーテンを引いてあった。
「おじゃまします」
 靴を脱いであがってくると、巧が周りを見回して、
「さすがに綺麗ですね。狭いけど、女性らしい、いい部屋だ」
 そんな、お世辞とも本音ともつかない感想を述べた。
「ごめんなさいね。殺風景で。あ、今コーヒー淹れますから、こたつに入って待っててください」
 エアコンのリモコンを手に取り、スイッチを入れると、芙由子はいそいそと台所に立った。
 なぜか手が震えて、コーヒーフィルターに粉を入れる時に、少しこぼしてしまった。
 胸が苦しく、湯が沸くまでの時間がとてつもなく長く感じられる。
「考えてみれば、私、無計画すぎましたよね」
 緊張を悟られないように、巧に背中を向けたまま、話題を振った。
「こんな狭い部屋に比奈ちゃんと暮らすなんて、最初から無理に決まってました」
「うーん、どうかな。あながち、そうとは言えないと思いますけど」
 のんびりした口調で、巧が答えた。
 巧はずいぶんリラックスしているようだ。
 私がこんなにどきどきしてるのに。
 そう思うと、少しばかり憎らしくなった。
 同時に寂しさがこみ上げてきて、芙由子は肩を落とす。
 緊張感のかけらもないということは、彼が芙由子を女として意識していない証拠だろう。
 ーほら、みなさいー
 頭の中で、もうひとりの意地悪な自分が嘲笑う。
 -いい歳して、何を期待してるのよー
 そんなこと、言ったって…。
 気弱なほうの芙由子が言い返す。
 私にだって、夢を見る権利ぐらい、あるんじゃない?
 そう、これは梦。
 でも、いいのだ。
 少なくとも、今の私は、この状況を楽しんでいる。
 こんなこと、これまでの人生で、一度もなかったのだから…。
 湯が沸く音に、はっと我に返った。
 コーヒーメーカーにお湯を注ぎ、粉を蒸らすように気をつける。
「お砂糖とフレッシュは?」
 たずねると、
「たっぷりがいいです」
 笑いながら巧が言った。
「僕、甘党なんで」
「じゃあ、私も」
 温かい気分が戻ってきて、来客用のカップに焦げ茶色の液体を注ぎ込む。
 奮発して、いつもより高価な粉を買っておいてよかったと思う。
 無駄遣いにも、たまにはいいことがあるという証明だろう。
 巧の正面に座り、蒲団の中に脚を入れると、こたつはすでに十分温まっていた。
「うん、おいしい」
 カップに唇をつけ、ひと口すするなり、巧が歓声を上げた。
「やっぱり、コーヒーはこのぐらい濃くなくちゃね」
 それはそうだろう。
 いつもより、粉を倍近く使ったのだ。
 巧が一緒でなければ、こんな贅沢な淹れ方はしないところである。
 でも、うれしかった。
 いい感じ。
 いい感じで、物事が進んでいる。
 私の人生では、こんなの珍しい。
 できればこの調子で、彼との間に良好な関係を築くことができたら…。
「あの,僕の顔に何かついてますか?」
 ふいに巧がドラマでよく聞く台詞を口にしたので、芙由子は初めて自分が彼の顔をじっと見つめていたことに気づき、赤くなった。
「い、いえ、あの…こんなことして、巧君に、その、彼女がいたら、彼女の人に、悪いなって…」
 焦ったせいだろうか、自分でも呆れるくらい大胆な台詞を口走ってしまい、芙由子はますます赤くなる。
「彼女?」
 鳩が豆鉄砲でもくらったかのように、巧が目を丸くする。
「残念ながら、そんなものはいませんよ。いたら、さすがの僕でも、こんなふうにノコノコ女の人の部屋に上がりこんだりしませんよ。いるのは妹だけです。だから、安心してください」
 何を安心しろというのか…。
 が、芙由子はこみあげる歓喜の念を抑え切れなかった。
 目尻に涙が浮かぶのがわかった。
 嬉し涙だ。
 巧の口調には、何かがある気がした。
 芙由子自身に向けてくる、ほんのかすかなメッセージのようなもの…。
「芙由子さんこそ、ご迷惑なんじゃないですか? だって、おつきあいしてる男の人、いるんでしょう?」
 冗談めかした口ぶりの割に、巧の眼は笑っていない。
 芙由子の反応をほんの少しでも見逃すまいと、こちらをじっと見つめているようだ。
「そんなふうに見えますか?」
 わざと拗ねた口調で、芙由子は答えた。
「こんな陰気で冴えない女に、いったい誰が声をかけてくれるっていうんです?」

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