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#1 悪意
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バスを降りると、雪混じりの突風がコートの裾を舞い上げた。
夜8時を過ぎると、このあたりにはほとんど人影はない。
国道沿いの街灯が、アスファルトに孤独な光の暈を広げているだけである。
人気のない道を、コンビニへと急ぐ。
この時間に帰宅して食事の用意をする気にはとてもなれなかった。
贅沢することになってしまうけど、きょうは弁当でも買って帰ろう。
朝比奈芙由子は、肩でため息をついた。
ついてない、と思う。
芙由子は今年の10月で27歳になった。
市内の100円ショップに、パート社員として勤めている。
いつもより帰りが遅くなったのは、レジの集計が合わなかったせいである。
といっても、芙由子の仕事は主に商品の仕分け、陳列と在庫管理だったから、その件についての責任はほとんどないと言っていい。
だが、職場の空気はいつものように芙由子には冷淡で、いつのまにか、あの子が昼休みにレジを触ったせいだ、ということになってしまった。
先輩が休憩から戻ってこないので急遽10分ほど手伝っただけなのだが、感謝されるどころか、それが裏目に出てしまったのである。
周囲の暗さに引き立てられ、コンビニはまるで不夜城のように輝いて見えた。
風で乱れた髪を整えると、芙由子は自動ドアが開くのももどかしく、中に飛び込んだ。
客は作業着姿の初老の男がひとりだけ。
店員はレジの向こうの椅子に座って、競馬新聞を読んでいる。
弁当コーナーへ行こうとして、初老の男の横を通り過ぎかけた時だった。
ふいに悪寒を覚えて、芙由子は本能的に男のほうを振り返った。
雑誌コーナーで漫画雑誌を読んでいた男が顔を上げた。
その瞬間、芙由子はまじまじと眼を見開いた。
男の顔が、だしぬけにぐにゃりと歪んだように見えたのだ。
なじみの感覚だった。
この人、怒ってる…。
人を傷つけたいほど、怒ってる…。
男が芙由子から顔をそむけた。
漫画雑誌を脇に抱え、レジに向かって歩いていく。
右手が作業着のポケットに入っていた。
何かを握っているようだ。
おそらく、ナイフ。
あるいは、それに類するもの。
止めなきゃ。
芙由子は、ガラス窓に映る店の内部の風景を眼で追った。
今にも泣き出しそうな顔の、冴えないボブカットの女が、芙由子自身である。
その右側の通路を、背中を丸めて足早に男が歩いていく。
レジの中年男性が、気配を感じて眼を上げた。
もう一刻の猶予もない。
芙由子は手近な棚から男性化粧品をつかみ取ると、男の後を追った。
男がポケットから手を抜く寸前、勇気を振り絞って、その広い肩に話しかけた。
「あのう、これ、落としませんでしたか?」
男が芙由子を見た。
一瞬、目が泳いだ。
表情から、どす黒い悪意が風船がしぼむように抜けていくのがわかった。
成功だった。
ナイスタイミング。
気勢を削がれると、人間はおおむねこうなるものだ。
何度も失敗を重ねて、芙由子はそれを知っている。
「い、いや」
男が顔の前で手を振った。
「わしじゃない」
刃物は持っていなかった。
おそらくまだ、ポケットの中。
ポケットのふくらみ具合から、それとわかる。
ほっと息をついた時、レジの向こうの店員が、怒声を含んだ声を芙由子に浴びせかけてきた。
「あんた、何変なこと言ってるんだよ。それ、うちの店の商品だろ? 落とし物どころか、あんたが今さっき、そこの棚から取ったんじゃないか。俺はちゃんと見てたんだぜ。それを落とし物だなんて…。何考えてるんだよ。あんた、頭、おかしいんじゃないの?」
夜8時を過ぎると、このあたりにはほとんど人影はない。
国道沿いの街灯が、アスファルトに孤独な光の暈を広げているだけである。
人気のない道を、コンビニへと急ぐ。
この時間に帰宅して食事の用意をする気にはとてもなれなかった。
贅沢することになってしまうけど、きょうは弁当でも買って帰ろう。
朝比奈芙由子は、肩でため息をついた。
ついてない、と思う。
芙由子は今年の10月で27歳になった。
市内の100円ショップに、パート社員として勤めている。
いつもより帰りが遅くなったのは、レジの集計が合わなかったせいである。
といっても、芙由子の仕事は主に商品の仕分け、陳列と在庫管理だったから、その件についての責任はほとんどないと言っていい。
だが、職場の空気はいつものように芙由子には冷淡で、いつのまにか、あの子が昼休みにレジを触ったせいだ、ということになってしまった。
先輩が休憩から戻ってこないので急遽10分ほど手伝っただけなのだが、感謝されるどころか、それが裏目に出てしまったのである。
周囲の暗さに引き立てられ、コンビニはまるで不夜城のように輝いて見えた。
風で乱れた髪を整えると、芙由子は自動ドアが開くのももどかしく、中に飛び込んだ。
客は作業着姿の初老の男がひとりだけ。
店員はレジの向こうの椅子に座って、競馬新聞を読んでいる。
弁当コーナーへ行こうとして、初老の男の横を通り過ぎかけた時だった。
ふいに悪寒を覚えて、芙由子は本能的に男のほうを振り返った。
雑誌コーナーで漫画雑誌を読んでいた男が顔を上げた。
その瞬間、芙由子はまじまじと眼を見開いた。
男の顔が、だしぬけにぐにゃりと歪んだように見えたのだ。
なじみの感覚だった。
この人、怒ってる…。
人を傷つけたいほど、怒ってる…。
男が芙由子から顔をそむけた。
漫画雑誌を脇に抱え、レジに向かって歩いていく。
右手が作業着のポケットに入っていた。
何かを握っているようだ。
おそらく、ナイフ。
あるいは、それに類するもの。
止めなきゃ。
芙由子は、ガラス窓に映る店の内部の風景を眼で追った。
今にも泣き出しそうな顔の、冴えないボブカットの女が、芙由子自身である。
その右側の通路を、背中を丸めて足早に男が歩いていく。
レジの中年男性が、気配を感じて眼を上げた。
もう一刻の猶予もない。
芙由子は手近な棚から男性化粧品をつかみ取ると、男の後を追った。
男がポケットから手を抜く寸前、勇気を振り絞って、その広い肩に話しかけた。
「あのう、これ、落としませんでしたか?」
男が芙由子を見た。
一瞬、目が泳いだ。
表情から、どす黒い悪意が風船がしぼむように抜けていくのがわかった。
成功だった。
ナイスタイミング。
気勢を削がれると、人間はおおむねこうなるものだ。
何度も失敗を重ねて、芙由子はそれを知っている。
「い、いや」
男が顔の前で手を振った。
「わしじゃない」
刃物は持っていなかった。
おそらくまだ、ポケットの中。
ポケットのふくらみ具合から、それとわかる。
ほっと息をついた時、レジの向こうの店員が、怒声を含んだ声を芙由子に浴びせかけてきた。
「あんた、何変なこと言ってるんだよ。それ、うちの店の商品だろ? 落とし物どころか、あんたが今さっき、そこの棚から取ったんじゃないか。俺はちゃんと見てたんだぜ。それを落とし物だなんて…。何考えてるんだよ。あんた、頭、おかしいんじゃないの?」
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