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第8部 妄執のハーデス

#41 杏里と由羅②

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 木陰から歩み出ると、杏里は由羅から距離を置き、その野生の猫のような顔をじっと見つめた。

 蝙蝠の翼を思わせる風変わりなヘアスタイル。

 シャドウを塗った大きな目。

 心持ち尖った顎。
 
 由羅は、ある意味、杏里とはまた違ったタイプの美少女である。

 が、その雰囲気は刃物のように鋭く、容易に他人を寄せつけない。

 杏里の本質が究極の受け身であるなら、由羅はその対極だった。
 
 触れるだけで怪我をしそうなほど、攻撃性に富んでいる。

 が、この半年のつき合いで、杏里にはそれも気にならない。

「どう? 調子は?」

 自分でも間の抜けた問いだと思ったが、何も言わないでいるのも気詰まりなので、そう声をかけてみた。

「調子?」

 案の定、由羅の返事はぶっきらぼうだった。

 何をくだらないことを訊くのだ、とでも言いたげに杏里を睨み返してきた。

「いずなのことなら、心配はいらないさ。あれはあれでうまくやってる」

 杏里の”後輩”にあたる稲森いずなは、駆け出しのタナトスとして、この近くの荘内橋中学に配属されている。

 由羅はそのサポート役として、現在、同じ荘内橋中学に在学中なのだ。

「外来種は? そっちの中学は、大丈夫なの?」

 タナトスの任務は、周囲の人間たちの浄化だけではない。

 浄化の過程で、人間社会に紛れ込んでいる外来種を摘発するのも、杏里やいずなの重要な任務である。

 由羅たちパトスは、その後始末を引き受けるために、常にタナトスとペアを組んでいるのだ。

「ああ、いまのところ、反応はないな。だからはっきりいって、うちは暇なのさ。零がいた頃が懐かしいよ」

 杏里に背を向け、サンドバッグに素手で軽いジャブを打ち込みながら、冗談とも本気ともつかぬ口調で由羅が言う。

「縁起でもないこと言わないでよ」

 杏里は露骨に顔をしかめてみせた。

 黒野零。

 この地球の生態系の頂点に立つ、雌外来種。

 残虐行為淫乱症で、杏里の不死身さと由羅の卓越した身体能力の両方を、ひとつの身体に併せ持つ。

 この夏の終わりのあの総力戦で、由羅やヤチカとともに間違いなく殺したはずだった。

 だが、正直、今でも夢に見てうなされることがある。

 はっきりいって、二度とお目にかかりたくない相手である。
 
「それで、何の用なんだ?」

 気のない素振りを装って、由羅が訊いてきた。

 杏里には、由羅の緊張が、手に取るようにわかった。

 肩のあたりに、不自然に力が入ってしまっている。

 以前の由羅には見られない変化だった。

 由羅は杏里を必要以上に意識している。 

 まるで、己の好意を寄せる対象が、すぐそばにいるかのように。

 おそらく由羅は、色々訊きたくてたまらないのだろう。

 杏里とヤチカの仲について。

 あるいは、重人の口から聞いているだろう、美里との一件のことも。

 以前の由羅なら、開口一番、単刀直入にそこを突いてくるはずだった。

 そして杏里を見下し、嘲笑い、からかったことだろう。

 なのに、きょうは妙に大人しい。

 そんな由羅を観察しながら、杏里は思った。

 私が変わったように、由羅の内面にも、何らかの変化が起きているのだろうか。

 それとも、由羅の好奇心を封じるほど、私自身が変わってしまったのか。

「重人は?」

 自分でも答えが見つからず、杏里はとりあえず、話題を逸らすことにした。

 今になって、思う。

 私はここへ、何をしに来たのだろう。

 触手の力を、由羅を相手に試すため?

 でも、今となってはその必要があるのかどうかさえ、わからない。

 美里からラーニングした触手は、確かに便利な道具である。

 でもそれは、どうやら”浄化”の妨げになってしまうらしい。

 では、本当の意味での”武器”として使うというのはどうだろう?

 受け身一方のタナトスが、身を守るために備えた究極の武器。

 その威力を、由羅を相手に試してみるというのは、アリかもしれない。

 そんなことを考えていると、由羅が馬鹿にしたような口ぶりで言ってのけた。

「重人なら、風邪で寝込んでるよ。だいたいあいつ、最近、変なんだ。妙に色気づいてきたっていうか」

 そこで由羅はいったん言葉を切ると、鋭い視線を杏里のほうへ投げかけてきた。

「部屋の壁にさ、おまえの写真、いっぱい貼っちゃったりしてさ」

 気まずさを覚え、杏里は足元に目を落とした。

 白いスニーカーのつま先に、蟻が一匹、よじ登ろうとしている。

 スニーカーについた染みが気になるようだ。

 染みの正体は、昼の放課、戯れに杏里が唯佳をなぶった時の名残りだった。

 つま先でスカートの下から股間をつついた時、唯佳の淫汁が付着したのに違いない。

「まあ、別にいいんだけど。でも、ひとつ言っておく。あいつはうちらの心のメンテを司るヒュプノスなんだ。そのヒュプノスの精神の安定を崩してどうする? あれじゃ、当分、役に立たないぞ。冬美の話じゃ、重人自身のメンテが必要なんだそうだ。次の連休を使って、本部に連れていくとか言ってた」

「次の連休?」

 杏里はどきりとした。

 その日は確か…。

「そうさ。うちらの研修の日だよ」

 杏里の心の中を読んだかのように、由羅が答えた。

「うちらって…・。由羅も? パトスもあるわけ? 研修が?」

「ああ」

 サンドバッグと向き合ったまま、由羅がうなずいた。

「今度の連休は、全国のタナトス、パトス合同の、総合研修なんだってよ」




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