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第8部 妄執のハーデス
#8 悪魔の提案
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己のふがいなさに恥じ入ったのか、さすがの大山も、
「舐めてきれいにしろ」
とまでは言わなかった。
そそくさとズボンを穿き直すと、床に飛び散った自分の精液を、ロッカーから取り出した雑巾で拭いた。
汚れた雑巾をくず入れに放り込み、何事もなかったように、ソファにふんぞり返る。
服装を調えた杏里がその前に腰を掛けると、
「前原くん、いいぞ、入りたまえ」
扉の外に向かってそう声をかけた。
灰皿から葉巻を取ってくゆらせ始めたのは、匂いをごまかすためだろう。
ガチャリ。
扉が開いて、揉み手をしながら小男が入ってくる。
「いかがでしたか?」
よだれを垂らしそうな表情で杏里を一瞥し、おもねるような口調でそうたずねた。
「ああ。間違いない。この子は真正のタナトスだ」
紫煙の行く先を眼で追いながら、大山が答えた。
「この歳で、あのテクニックとは…」
己の痴態を思い出したのか、さすがにそこで言いよどむ。
「さようでしたか。では、計画通り」
好色そうに微笑む前原。
「何ですか? その計画って」
前原が隣に座ってくるのを距離を置いて避け、杏里は訊いた。
「私に頼みたいことというのに、何か関係が?」
「ああ」
禿げあがった頭頂をハンカチで拭いながら、前原がうなずいた。
「君も気づいただろう。クラスのあの異様な雰囲気に」
「まるで盛りのついた動物だ」
横から大山が口をはさんだ。
「数日前、私も様子を見に行ってきたが、あれはあまりにもひどい」
人のこと、言えるの?
吹き出しかけて、杏里は口を手で押さえた。
「それが、あのクラスだけではないのです。今やあの淫靡な空気が、学校中に広がりかけています」
深刻そうに、前原が言う。
「レイプ未遂まで起こっているそうだな」
しかつめらしくたずねる大山。
「はあ。ほぼ毎日」
「由々しき事態だ。やはり、美里先生の影響か?」
「たぶん」
大山の問いに、重々しく前原がうなずいた。
「後で委員会に聞いたところ、あの女はタナトスとしてはどうやら失敗作だったようです。外来種の因子が表面に強く出過ぎていたとか…。だからどうやら、夏休みに起こった殺人事件も、用務員の失踪も、あの女の仕業らしいということです」
委員会はそこまでつかんでいるのか。
ならば、小田切の言う通り、今度は美里失踪の件で、杏里に声がかかるのも時間の問題だろう。
”研修”のことを思い出して、杏里は少し重い気分になった。
調子の出ないこの身体で、今更タナトスとしての研修など、受けたくはない。
「つまりは、こういうことでしょうか。美里先生の代わりに、私にこの学校を浄化しろと」
薄々想像はついていたので、事務的な口調で、杏里は訊いた。
大山にあんなひどいことを言われた直後だけに、腹が立つ。
何も自分が見ず知らずの人間たちのために、この身を削る必要はないのだ。
「簡単に言えば、そうだ。美里先生の行方は警察に任せることにして、まず校内の浄化が最優先だ」
あっさりと大山が答えた。
自分の言動を忘れてしまったのか、全く悪びれる様子もない。
「ただし、時間がかかるのは困る。来月頭に、文部科学省の役人が視察に来るんだ。地域のモデル校である、わが校をな。だから、なんとしてでも、それまでに頼みたい」
「たった1ヶ月じゃ、無理です」
勝手なことを。
杏里はかぶりを振った。
役人の視察?
それがどうしたというのだ。
そんな大人の事情、私には関係ない。
ここで、「いやです」と宣言して、席を立つことだって、できるのだ。
が、杏里はそうしなかった。
理由は、自分でもよくわからない。
小さくため息をつくと、慎重に選びながら、言葉を紡いだ。
「学校中となれば、生徒だけでも500人近くいますよね。浄化は、できてせいぜい一日に10人です」
それも、集団を相手にする特別なシチュエーションを用意できて、10人がやっとである。
「わかってるさ、だから学園祭を使うんだ」
と、杏里のほうに身を乗り出し、前原が勢い込んで言った。
「学園祭?」
確か、この学校の学園祭は今月の中旬だったはずである。
それまであと二週間しかない。
「学園祭の二日目は、外部の者は完全にシャッタウトする。そこで、全校を上げての大イベントを行うんだよ」
「イベント、ですか?」
なんとはなしに、嫌な予感がした。
それと私の”任務”と、どんな関係があるというのだろう?
「今流行りの、脱出ゲームというやつだ。昔風にいえば、鬼ごっこさ。もちろん、この場合、鬼は全校生徒。そして、逃げるのは、笹原君、君ひとりということになる」
くっくっくと大山が笑った。
笑いは次第に大きくなり、最後には哄笑に変わった。
「想像してみたまえ。あられもない姿で必死に逃げる君を追う、500人の色情狂たち。うまくいけばその500人を君は一気に浄化できるんだ。君としても、タナトス冥利に尽きるというものだろう。どうだ、素晴らしい案だと思わないかね?」
「舐めてきれいにしろ」
とまでは言わなかった。
そそくさとズボンを穿き直すと、床に飛び散った自分の精液を、ロッカーから取り出した雑巾で拭いた。
汚れた雑巾をくず入れに放り込み、何事もなかったように、ソファにふんぞり返る。
服装を調えた杏里がその前に腰を掛けると、
「前原くん、いいぞ、入りたまえ」
扉の外に向かってそう声をかけた。
灰皿から葉巻を取ってくゆらせ始めたのは、匂いをごまかすためだろう。
ガチャリ。
扉が開いて、揉み手をしながら小男が入ってくる。
「いかがでしたか?」
よだれを垂らしそうな表情で杏里を一瞥し、おもねるような口調でそうたずねた。
「ああ。間違いない。この子は真正のタナトスだ」
紫煙の行く先を眼で追いながら、大山が答えた。
「この歳で、あのテクニックとは…」
己の痴態を思い出したのか、さすがにそこで言いよどむ。
「さようでしたか。では、計画通り」
好色そうに微笑む前原。
「何ですか? その計画って」
前原が隣に座ってくるのを距離を置いて避け、杏里は訊いた。
「私に頼みたいことというのに、何か関係が?」
「ああ」
禿げあがった頭頂をハンカチで拭いながら、前原がうなずいた。
「君も気づいただろう。クラスのあの異様な雰囲気に」
「まるで盛りのついた動物だ」
横から大山が口をはさんだ。
「数日前、私も様子を見に行ってきたが、あれはあまりにもひどい」
人のこと、言えるの?
吹き出しかけて、杏里は口を手で押さえた。
「それが、あのクラスだけではないのです。今やあの淫靡な空気が、学校中に広がりかけています」
深刻そうに、前原が言う。
「レイプ未遂まで起こっているそうだな」
しかつめらしくたずねる大山。
「はあ。ほぼ毎日」
「由々しき事態だ。やはり、美里先生の影響か?」
「たぶん」
大山の問いに、重々しく前原がうなずいた。
「後で委員会に聞いたところ、あの女はタナトスとしてはどうやら失敗作だったようです。外来種の因子が表面に強く出過ぎていたとか…。だからどうやら、夏休みに起こった殺人事件も、用務員の失踪も、あの女の仕業らしいということです」
委員会はそこまでつかんでいるのか。
ならば、小田切の言う通り、今度は美里失踪の件で、杏里に声がかかるのも時間の問題だろう。
”研修”のことを思い出して、杏里は少し重い気分になった。
調子の出ないこの身体で、今更タナトスとしての研修など、受けたくはない。
「つまりは、こういうことでしょうか。美里先生の代わりに、私にこの学校を浄化しろと」
薄々想像はついていたので、事務的な口調で、杏里は訊いた。
大山にあんなひどいことを言われた直後だけに、腹が立つ。
何も自分が見ず知らずの人間たちのために、この身を削る必要はないのだ。
「簡単に言えば、そうだ。美里先生の行方は警察に任せることにして、まず校内の浄化が最優先だ」
あっさりと大山が答えた。
自分の言動を忘れてしまったのか、全く悪びれる様子もない。
「ただし、時間がかかるのは困る。来月頭に、文部科学省の役人が視察に来るんだ。地域のモデル校である、わが校をな。だから、なんとしてでも、それまでに頼みたい」
「たった1ヶ月じゃ、無理です」
勝手なことを。
杏里はかぶりを振った。
役人の視察?
それがどうしたというのだ。
そんな大人の事情、私には関係ない。
ここで、「いやです」と宣言して、席を立つことだって、できるのだ。
が、杏里はそうしなかった。
理由は、自分でもよくわからない。
小さくため息をつくと、慎重に選びながら、言葉を紡いだ。
「学校中となれば、生徒だけでも500人近くいますよね。浄化は、できてせいぜい一日に10人です」
それも、集団を相手にする特別なシチュエーションを用意できて、10人がやっとである。
「わかってるさ、だから学園祭を使うんだ」
と、杏里のほうに身を乗り出し、前原が勢い込んで言った。
「学園祭?」
確か、この学校の学園祭は今月の中旬だったはずである。
それまであと二週間しかない。
「学園祭の二日目は、外部の者は完全にシャッタウトする。そこで、全校を上げての大イベントを行うんだよ」
「イベント、ですか?」
なんとはなしに、嫌な予感がした。
それと私の”任務”と、どんな関係があるというのだろう?
「今流行りの、脱出ゲームというやつだ。昔風にいえば、鬼ごっこさ。もちろん、この場合、鬼は全校生徒。そして、逃げるのは、笹原君、君ひとりということになる」
くっくっくと大山が笑った。
笑いは次第に大きくなり、最後には哄笑に変わった。
「想像してみたまえ。あられもない姿で必死に逃げる君を追う、500人の色情狂たち。うまくいけばその500人を君は一気に浄化できるんだ。君としても、タナトス冥利に尽きるというものだろう。どうだ、素晴らしい案だと思わないかね?」
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