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第2章 謝肉祭
#30 針のむしろ
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謝肉祭。
燃えるような赤いチョークで縁取りされた黄色の文字。
禍々しさを強烈に発散するその3文字から、私はしばらくの間目を逸らすことができなかった。
「杏里、授業後、逃げんなよ」
声をかけてきたのは、立花理沙だった。
机の上に腰かけて高々と足を組んでいるのは、杏里への対抗意識の表れか。
「いひひひひ、楽しみすぎて、おしっこちびっちゃいそう!」
理沙の取り巻きの中から、奇妙に甲高い声が上がった。
ネズミそっくりの顔をした小娘が、肩を震わせて笑っている。
権藤千絵。
「いひひひひ」などと笑うやつは、頭がいかれているに決まっている。
現にこの千絵という少女、いつもナイフを持ち歩いていることで有名なのだ。
「男子はどうなの? 全員出席するんでしょ?」
理沙の声に、
「もちろん!」
「そりゃ、やるっきゃないっしょ!」
「据えマン食わぬは男の恥じゃね?」
あちこちから浮かれた返事が返ってきた。
私は横目で杏里の様子をうかがった。
杏里は特に動揺する様子もなく、じっと黒板の文字に目を注いでいる。
「消そうか?」
小声で訊くと、
「よどみはじっとしてて。これは私個人の問題だから」
そう、平静な口調で答えた。
「でも…」
「そこのお化け」
いきなり理沙が私のほうに顎をしゃくった。
「あんた、いつも金魚の糞みたいにそいつにくっついてるけど、あんたはとっと帰っていいからね。用があるのはそこのエンコー女だけだからさ」
その物言いに、私は少なからずショックを受けた。
お化け呼ばわりされるのは、実に久しぶりだった、
別に、お化けと言われて傷ついたわけではない。
モンスターペアレントの母の威光。
それが消えてしまっていることに、衝撃を受けたのだ。
理沙が、それほどまでに杏里を渇望している証拠なのかもしれなかった。
いや、理沙だけではない。
クラス中が妙にハイテンションになっている。
先週までの不気味な沈黙とは、えらい違いだった。
みんなまるでリミッターがはずれでもしたかのように、下卑たにやにや笑いを口元に浮かべ、杏里の全身をじろじろ眺めているのだ。
「謝肉祭って、何なの?」
たまりかねて、私は理沙に向かってたずねた。
「授業後に何があるっていうの?」
「ひ・み・つ」
理沙の代わりに、ネズミ少女が歌うように言った。
「お化けには関係ないんだよーん。これは人間世界のお祭りなんだからあ」
「お祭り?」
訊き返そうとした時、前の引き戸が開いて、担任のすだれ頭が入ってきた。
「こら、何してるんだおまえら。早く席につけ」
ハエでも追い払うみたいなしぐさで理沙たちを追い立てると、黒板一面の落書きを見てぽかんと口を開けた。
「何なんだ、これは? はあん? これ、全部笹原の写真じゃないか」
熱心に写真を引きはがして集めると、まとめて自分のズボンのポケットに入れてしまう。
おい、おっさん、そらねーだろ?
そのパンチラは俺んだって!
返せよ! このエロオヤジ!
たちまちのうちに、写真提供者と思しき男子連中の間から、抗議の声が上がった。
「馬鹿者。勉強に関係ないものは全部没収だ。それより、まさかとは思うが、これ、笹原、おまえが自分で描いたんじゃないだろうな?」
自席に座って姿勢よく背を伸ばしていた杏里が、無言で首を振る。
「だよな。そんなわけないよな」
すだれ頭は口の中でボソボソそんなことをつぶやくと、だしぬけに手近な席の男子を指名した。
「よし、安田、お前消せ」
「えー、なんで俺なんだよ? 俺、おまんこの絵一個描いただけだっつーに」
「いいから消せ。連帯責任だ」
「くっそー、ガチでむかつく、このハゲ」
「2学期の内申点、下がってもいいのか」
「ひでー、今度は脅迫かよ」
黒板が綺麗になると、出席を取った後、すだれ頭がおもむろに口を開いた。
「中間テストが近いの、おまえら知ってるな? 推薦入試に必要な内申点は、3年間の平均だ。つまり、一度でもしくじると、あとがきついというわけだ。だから今度の中間テストがいかに大切か、いくら脳味噌の少ないおまえらでも、わかるはずだ。そこで、今日から授業後、ひとりずつ面談を行うことにした。志望校も聞くから、ちゃんと答えられるようにしておくこと。順番は、いつも五十音順では青山や浅井がかわいそうだから、今回は逆から行く。えーと、そうすると今日はさしずめ鰐部の番ということになるな」
え? 私?
突然のことに、言葉が出なかった。
教師との面談など、これまで一度もしたことがない。
1年2年とずっと私だけスルーされてきたのだ。
それが、よりによって、きょうの授業後とは…。
理沙が振り向いて、勝ち誇ったような顔でにたりと笑った。
まずい。
これでは、謝肉祭とやらに出られない。
杏里を単身、けだものどもの中に放り出すことになる。
「鰐部、都合が悪いのか? おまえひとりで職員室に来ればいいんだぞ。間違っても、あの母ちゃんは呼ぶな」
露骨な当てこすりに、教室のあちらこちらから失笑の渦が沸き起こった。
「あの、どのくらい、かかりますか?」
おずおずと、私は訊いた。
「まあ、問題がなければ、ひとり30分ってとこかな」
30分…。
そのくらいなら、杏里ひとりでも、なんとかなるか。
「わかりました」
私は頭を下げた。
「授業後、職員室ですね」
その時、隣の席から杏里がそっと声をかけてきた。
「私なら大丈夫。よどみはぜんぜん、気にしなくていいからね」
燃えるような赤いチョークで縁取りされた黄色の文字。
禍々しさを強烈に発散するその3文字から、私はしばらくの間目を逸らすことができなかった。
「杏里、授業後、逃げんなよ」
声をかけてきたのは、立花理沙だった。
机の上に腰かけて高々と足を組んでいるのは、杏里への対抗意識の表れか。
「いひひひひ、楽しみすぎて、おしっこちびっちゃいそう!」
理沙の取り巻きの中から、奇妙に甲高い声が上がった。
ネズミそっくりの顔をした小娘が、肩を震わせて笑っている。
権藤千絵。
「いひひひひ」などと笑うやつは、頭がいかれているに決まっている。
現にこの千絵という少女、いつもナイフを持ち歩いていることで有名なのだ。
「男子はどうなの? 全員出席するんでしょ?」
理沙の声に、
「もちろん!」
「そりゃ、やるっきゃないっしょ!」
「据えマン食わぬは男の恥じゃね?」
あちこちから浮かれた返事が返ってきた。
私は横目で杏里の様子をうかがった。
杏里は特に動揺する様子もなく、じっと黒板の文字に目を注いでいる。
「消そうか?」
小声で訊くと、
「よどみはじっとしてて。これは私個人の問題だから」
そう、平静な口調で答えた。
「でも…」
「そこのお化け」
いきなり理沙が私のほうに顎をしゃくった。
「あんた、いつも金魚の糞みたいにそいつにくっついてるけど、あんたはとっと帰っていいからね。用があるのはそこのエンコー女だけだからさ」
その物言いに、私は少なからずショックを受けた。
お化け呼ばわりされるのは、実に久しぶりだった、
別に、お化けと言われて傷ついたわけではない。
モンスターペアレントの母の威光。
それが消えてしまっていることに、衝撃を受けたのだ。
理沙が、それほどまでに杏里を渇望している証拠なのかもしれなかった。
いや、理沙だけではない。
クラス中が妙にハイテンションになっている。
先週までの不気味な沈黙とは、えらい違いだった。
みんなまるでリミッターがはずれでもしたかのように、下卑たにやにや笑いを口元に浮かべ、杏里の全身をじろじろ眺めているのだ。
「謝肉祭って、何なの?」
たまりかねて、私は理沙に向かってたずねた。
「授業後に何があるっていうの?」
「ひ・み・つ」
理沙の代わりに、ネズミ少女が歌うように言った。
「お化けには関係ないんだよーん。これは人間世界のお祭りなんだからあ」
「お祭り?」
訊き返そうとした時、前の引き戸が開いて、担任のすだれ頭が入ってきた。
「こら、何してるんだおまえら。早く席につけ」
ハエでも追い払うみたいなしぐさで理沙たちを追い立てると、黒板一面の落書きを見てぽかんと口を開けた。
「何なんだ、これは? はあん? これ、全部笹原の写真じゃないか」
熱心に写真を引きはがして集めると、まとめて自分のズボンのポケットに入れてしまう。
おい、おっさん、そらねーだろ?
そのパンチラは俺んだって!
返せよ! このエロオヤジ!
たちまちのうちに、写真提供者と思しき男子連中の間から、抗議の声が上がった。
「馬鹿者。勉強に関係ないものは全部没収だ。それより、まさかとは思うが、これ、笹原、おまえが自分で描いたんじゃないだろうな?」
自席に座って姿勢よく背を伸ばしていた杏里が、無言で首を振る。
「だよな。そんなわけないよな」
すだれ頭は口の中でボソボソそんなことをつぶやくと、だしぬけに手近な席の男子を指名した。
「よし、安田、お前消せ」
「えー、なんで俺なんだよ? 俺、おまんこの絵一個描いただけだっつーに」
「いいから消せ。連帯責任だ」
「くっそー、ガチでむかつく、このハゲ」
「2学期の内申点、下がってもいいのか」
「ひでー、今度は脅迫かよ」
黒板が綺麗になると、出席を取った後、すだれ頭がおもむろに口を開いた。
「中間テストが近いの、おまえら知ってるな? 推薦入試に必要な内申点は、3年間の平均だ。つまり、一度でもしくじると、あとがきついというわけだ。だから今度の中間テストがいかに大切か、いくら脳味噌の少ないおまえらでも、わかるはずだ。そこで、今日から授業後、ひとりずつ面談を行うことにした。志望校も聞くから、ちゃんと答えられるようにしておくこと。順番は、いつも五十音順では青山や浅井がかわいそうだから、今回は逆から行く。えーと、そうすると今日はさしずめ鰐部の番ということになるな」
え? 私?
突然のことに、言葉が出なかった。
教師との面談など、これまで一度もしたことがない。
1年2年とずっと私だけスルーされてきたのだ。
それが、よりによって、きょうの授業後とは…。
理沙が振り向いて、勝ち誇ったような顔でにたりと笑った。
まずい。
これでは、謝肉祭とやらに出られない。
杏里を単身、けだものどもの中に放り出すことになる。
「鰐部、都合が悪いのか? おまえひとりで職員室に来ればいいんだぞ。間違っても、あの母ちゃんは呼ぶな」
露骨な当てこすりに、教室のあちらこちらから失笑の渦が沸き起こった。
「あの、どのくらい、かかりますか?」
おずおずと、私は訊いた。
「まあ、問題がなければ、ひとり30分ってとこかな」
30分…。
そのくらいなら、杏里ひとりでも、なんとかなるか。
「わかりました」
私は頭を下げた。
「授業後、職員室ですね」
その時、隣の席から杏里がそっと声をかけてきた。
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