上 下
49 / 77
第2章 謝肉祭

#30 針のむしろ

しおりを挟む
 謝肉祭。
 燃えるような赤いチョークで縁取りされた黄色の文字。
 禍々しさを強烈に発散するその3文字から、私はしばらくの間目を逸らすことができなかった。
「杏里、授業後、逃げんなよ」
 声をかけてきたのは、立花理沙だった。
 机の上に腰かけて高々と足を組んでいるのは、杏里への対抗意識の表れか。
「いひひひひ、楽しみすぎて、おしっこちびっちゃいそう!」
 理沙の取り巻きの中から、奇妙に甲高い声が上がった。
 ネズミそっくりの顔をした小娘が、肩を震わせて笑っている。
 権藤千絵。
「いひひひひ」などと笑うやつは、頭がいかれているに決まっている。
 現にこの千絵という少女、いつもナイフを持ち歩いていることで有名なのだ。
「男子はどうなの? 全員出席するんでしょ?」
 理沙の声に、
「もちろん!」
「そりゃ、やるっきゃないっしょ!」
「据えマン食わぬは男の恥じゃね?」
 あちこちから浮かれた返事が返ってきた。
 私は横目で杏里の様子をうかがった。
 杏里は特に動揺する様子もなく、じっと黒板の文字に目を注いでいる。
「消そうか?」
 小声で訊くと、
「よどみはじっとしてて。これは私個人の問題だから」
 そう、平静な口調で答えた。
「でも…」
「そこのお化け」
 いきなり理沙が私のほうに顎をしゃくった。
「あんた、いつも金魚の糞みたいにそいつにくっついてるけど、あんたはとっと帰っていいからね。用があるのはそこのエンコー女だけだからさ」
 その物言いに、私は少なからずショックを受けた。
 お化け呼ばわりされるのは、実に久しぶりだった、
 別に、お化けと言われて傷ついたわけではない。
 モンスターペアレントの母の威光。
 それが消えてしまっていることに、衝撃を受けたのだ。
 理沙が、それほどまでに杏里を渇望している証拠なのかもしれなかった。
 いや、理沙だけではない。
 クラス中が妙にハイテンションになっている。
 先週までの不気味な沈黙とは、えらい違いだった。
 みんなまるでリミッターがはずれでもしたかのように、下卑たにやにや笑いを口元に浮かべ、杏里の全身をじろじろ眺めているのだ。
「謝肉祭って、何なの?」
 たまりかねて、私は理沙に向かってたずねた。
「授業後に何があるっていうの?」
「ひ・み・つ」
 理沙の代わりに、ネズミ少女が歌うように言った。
「お化けには関係ないんだよーん。これは人間世界のお祭りなんだからあ」
「お祭り?」
 訊き返そうとした時、前の引き戸が開いて、担任のすだれ頭が入ってきた。
「こら、何してるんだおまえら。早く席につけ」
 ハエでも追い払うみたいなしぐさで理沙たちを追い立てると、黒板一面の落書きを見てぽかんと口を開けた。
「何なんだ、これは? はあん? これ、全部笹原の写真じゃないか」
 熱心に写真を引きはがして集めると、まとめて自分のズボンのポケットに入れてしまう。
 おい、おっさん、そらねーだろ?
 そのパンチラは俺んだって!
 返せよ! このエロオヤジ!
 たちまちのうちに、写真提供者と思しき男子連中の間から、抗議の声が上がった。
「馬鹿者。勉強に関係ないものは全部没収だ。それより、まさかとは思うが、これ、笹原、おまえが自分で描いたんじゃないだろうな?」
 自席に座って姿勢よく背を伸ばしていた杏里が、無言で首を振る。
「だよな。そんなわけないよな」
 すだれ頭は口の中でボソボソそんなことをつぶやくと、だしぬけに手近な席の男子を指名した。
「よし、安田、お前消せ」
「えー、なんで俺なんだよ? 俺、おまんこの絵一個描いただけだっつーに」
「いいから消せ。連帯責任だ」
「くっそー、ガチでむかつく、このハゲ」
「2学期の内申点、下がってもいいのか」
「ひでー、今度は脅迫かよ」
 黒板が綺麗になると、出席を取った後、すだれ頭がおもむろに口を開いた。
「中間テストが近いの、おまえら知ってるな? 推薦入試に必要な内申点は、3年間の平均だ。つまり、一度でもしくじると、あとがきついというわけだ。だから今度の中間テストがいかに大切か、いくら脳味噌の少ないおまえらでも、わかるはずだ。そこで、今日から授業後、ひとりずつ面談を行うことにした。志望校も聞くから、ちゃんと答えられるようにしておくこと。順番は、いつも五十音順では青山や浅井がかわいそうだから、今回は逆から行く。えーと、そうすると今日はさしずめ鰐部の番ということになるな」
 え? 私?
 突然のことに、言葉が出なかった。
 教師との面談など、これまで一度もしたことがない。
 1年2年とずっと私だけスルーされてきたのだ。
 それが、よりによって、きょうの授業後とは…。
 理沙が振り向いて、勝ち誇ったような顔でにたりと笑った。
 まずい。
 これでは、謝肉祭とやらに出られない。
 杏里を単身、けだものどもの中に放り出すことになる。
「鰐部、都合が悪いのか? おまえひとりで職員室に来ればいいんだぞ。間違っても、あの母ちゃんは呼ぶな」
 露骨な当てこすりに、教室のあちらこちらから失笑の渦が沸き起こった。
「あの、どのくらい、かかりますか?」
 おずおずと、私は訊いた。
「まあ、問題がなければ、ひとり30分ってとこかな」
 30分…。
 そのくらいなら、杏里ひとりでも、なんとかなるか。
「わかりました」
 私は頭を下げた。
「授業後、職員室ですね」
 その時、隣の席から杏里がそっと声をかけてきた。
「私なら大丈夫。よどみはぜんぜん、気にしなくていいからね」
 

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

【連載再開】絶対支配×快楽耐性ゼロすぎる受けの短編集

あかさたな!
BL
※全話おとな向けな内容です。 こちらの短編集は 絶対支配な攻めが、 快楽耐性ゼロな受けと楽しい一晩を過ごす 1話完結のハッピーエンドなお話の詰め合わせです。 不定期更新ですが、 1話ごと読切なので、サクッと楽しめるように作っていくつもりです。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー 書きかけの長編が止まってますが、 短編集から久々に、肩慣らししていく予定です。 よろしくお願いします!

今日の授業は保健体育

にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり) 僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。 その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。 ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。

処理中です...