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第9部 倒錯のイグニス

#28 真正タナトス

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「おまえ、何をしたんだ…?」
 近づいてきたルナが、床に転がった”それ”を見下ろして、茫然とした口調でつぶやいた。
「まさか…死んでいるのか?」
「ううん、死んではいないと思う」
 杏里は小さく首を横に振った。
 セミの抜け殻のようにしぼんだ怪物は、よく見ると、だらしなく伸ばした6本の脚を小刻みに痙攣させている。
「ただ、吸い取っただけ」
 ぽつんと言った。
「吸い取った? 何を?」
 ルナが、いぶかしげな視線を杏里の横顔に当てる。
「いのちのエキスみたいなもの。私には、そうとしか言えないんだけれど」
「いのちの、エキス?」
 ルナにはまるで理解できないようだ。
 ただ、呆けたように、杏里をじっと見つめている。
 それは精液だけを指すのではない。
 細胞が分泌する、もっと根源的なもの。
 ミトコンドリアたちがつくり出す、原初の生命エネルギー、とでも呼べばいいだろうか。
「いずなを含め、今まで何人ものタナトスを見てきたが、杏里、おまえみたいなのは初めてだ」
 ルナの声には、かすかに畏怖の念すらこめられているようだった。
「化け物は、そいつではなく、おまえのほうだな」
 そう言われるのも、無理はない。
 杏里の身体には、傷ひとつついていないのだ。
 6本の凶器のような脚で刺された脇腹も、蠍のような尾を突き立てられた陰部も、わずかな間に、すっかり元に戻ってしまっている。
「そんなことより、いずなちゃんを」
 杏里は窓辺にくず折れているいずなを助け起こすと、ルナの手にあずけた。
「これを着せてあげて。あなたのは、この前、私が借りちゃったから」
 床に落ちていた自分のブレザーを拾い上げ、いずなに肩を貸したルナに手渡した。
 いずなの制服もスカートも、怪物に引き裂かれてぼろぼろだ。
 せめて傷ついた身体を隠してあげたい。
「ひとまずわたしの家に連れて行こう。タナトスをそのへんの病院にあずけるわけにはいくまい」
「そうね。篠崎医院はここからちょっと遠いしね」
 篠崎医院とは、委員会の息のかかった個人病院であり、杏里も何度か世話になったことがある。
「急がないと、SATが来る」
 下着を身に着け、ブラウスを羽織り、スカートを穿くと、杏里はルナの反対側からいずなに肩を貸した。
 二人三脚のような恰好で美術室を出て、後ろ手に引き戸を閉めた時である。
 ガチャン。
 部屋の中で、ガラスの割れる音がした。
 SATの突入が始まったのだ。


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