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最終章~桜~
桜⑤
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一瞬たりとも思い留まる事は出来なかった。ナオさんは被った水を顔から滴らせている。周りの話し声が消えた。ナオさんは落ち着き払って右手の甲で滴を拭った。目を見開いて気まずそうにしている店員は頭を下げるとそそくさと立ち去っていった。
「君にもうひとつ聞きたい」
私はグラスを置いて震える両手を膝に乗せた。
「この写真を撮ったのが誰なのか、僕以外に思い当たる人はいる?」
「私に聞かないで下さい。……横山さんと付き合ってるんですか?」
「彼氏とか友達とか、そういう関係じゃないよ」
「じゃあ何なんですか」
ナオさんは黙り込んだ。答えを持ち合わせていないように見える。
「横山さんが私を撮るよう頼んだ理由は?」
「それもわからない」
「だから、どうしてわからないのに引き受け…」
ふと過った、私はまさかと思いながらナオさんの顔をじっと見た。
「そういう事だから。こんなみっともないところ、君に知られるなるなんてね」
ナオさんは窓の外を見た。
「どうかしてたんだ。何年もの間、ずっと…」
その横顔はこれまでに度々見たのと同じ表情をしている。
「悪いと思うなら、誤解を解くように横山さんに言って下さい!」
「それは多分出来ない。連絡がつかないんだ」
「いつからですか」
「君の写真を撮った次の日に、もうこんな事はやめにしたいって言おうと思って電話した。出ないからメールでそう伝えた。それ以降連絡がつかなくなった」
「そんな勝手な、会社には来てます」
「そっか」
ナオさんは手の指を組みなおし俯いた。
「もう今後君の前には現れないようにする。この間撮った写真は削除したから。本当に申し訳ない、やめておくべきだった。こんな時に言うべきじゃないとは思うけど、ありがとう、今まで」
「…… 私と出会ったのは計算だったんですか?」
「それは違う、偶然だよ」
込み上げる感情を必死で抑え、鞄を抱えて席を後にした。
エレベーターのボタンを押したのにじっとしていられず非常階段を駆け下りた。外は大雨になっていた。傘を置いてきたのを悔やむ事なく飛び出した。興奮を抑えようと歩き続ける。息が荒くなり心臓は痛いほど激しく鼓動している。ナオさんは最後まで私のことを『君』と言っていた―――――
目に雨が流れ込んで前が見辛い。道行く人は皆傘を持っていて私を見る。
後ろでクラクションが鳴って足を止めた、振り向くのを躊躇っているとまた呼び掛けるようにクラクションが軽く鳴った。
「おーい!」
声が聞こえる。後ろを見た、運転席のその人は車を降りてこっちに歩いて来る。
「柳瀬さん」
「何してんの?ずぶ濡れじゃないか」
「…ちょっと、色々あって」
「車乗って」
「でも」
「いいから!」
肩を覆われて車へ移動した。シートが濡れる事を気にして立ち止まっていると柳瀬さんはタオルを敷いてくれた。ドアを閉めると雨の音が遠くなった。
「どうして傘持ってないの?朝から降ってたのに」
「お店に忘れてきちゃって」
「店?誰かと会ってたの?」
「はい」
柳瀬さんは私の微妙な反応を察してそれ以上は聞かなくなった。
「こんな寒い中それじゃ絶対風邪引くよ、これ使って」
後部座席から取ってくれたのは膝掛けだった。
「すみません」
「家まで送るよ。こないだのマンションだよね」
「はい、ありがとうございます」
車は進み出した。寒さで震えが止まらない。渡されたオレンジ色の膝掛けを広げると花柄だった。
「これって」
「ん?ああ、沙織のだよ。車に置きっぱなしでさ」
「柳瀬さん、どうしてスーツを着てるんですか」
「ちょっと用事があって会社にいたんだ。年末に向けて下準備ってところかな」
「そうだったんですね。土曜なのにお疲れ様です」
髪から頬に流れ落ちる滴が温かい。
「橋詰さん、何かあったの?」
気まずくなって窓の外に顔を向けた。その時、頬を伝っているのが涙だという事に気が付いた。慌てて袖で拭き取った、それでも溢れ出す涙で前が見えなくなってついに私は嗚咽を出した。車がゆっくりと停車して柳瀬さんはサイドブレーキを引いた。
呼吸が落ち着いてきた頃、外は小雨になった。柳瀬さんはずっと黙って待ってくれている。
「すみません」
「なんか、気の利いた事言えなくてごめん」
「いえ。もう大丈夫です」
「どこか連れて行ってあげたいけど、その服じゃ早く帰ったほうがいいだろうから家に向かうね」
「はい、お願いします」
柳瀬さんがラジオをつけるとクリスマスソングが流れ始めた。さっきまでのどうしようもない空気がほぐれていくようで安心した。
先の方に大きな交差点が見えて車は三車線の左端に寄った。信号が黄色に変わって車は止まった、その横を単車が速度を上げて行ってしまった。傘をさした人が歩道を歩いている。
「柳瀬さん、あの人安西さんじゃないですか?」
柳瀬さんが「あ」と声を出した瞬間、横断歩道を渡りかけた安西さんが横目でこっちを見た。私は思わずシートベルトを外して車のドアを押し開け前に出た。
「安西さん!」
車のライトを浴びて安西さんは目を丸くした。私の足元を見て固まっている。下を見ると花柄の膝掛けが落ちていた。安西さんは首をゆっくりと横に振り後ずさりしていく。
歩行者向けの信号が点滅し始めた、安西さんはその場を動けずにいる。車のドアが開く音が聞こえて柳瀬さんが叫んだ。
「沙織、危ないからこっちに!」
2人ともが車を降りたことで後ろの車がクラクションを派手に鳴らしている。信号が変わった。隣車線の車が進み始め安西さんを避けながら通り過ぎていく。
「橋詰さんは歩道に行って!」
「はい!」
柳瀬さんは安西さんへ近付いていく。
「やめて… 来ないでよぉ!」
傘を捨てて横断歩道を走り出した安西さんに対して複数台の車がブレーキを踏み一斉にクラクションを鳴り響かせた。
「沙織!!」
―――――
大きな光が人を呑み込んだのが見えて両手で口を覆った。人が集まってくる、駆け寄りたいのに足の力が抜けてしまって私は水溜まりに座り込んだ。
「君にもうひとつ聞きたい」
私はグラスを置いて震える両手を膝に乗せた。
「この写真を撮ったのが誰なのか、僕以外に思い当たる人はいる?」
「私に聞かないで下さい。……横山さんと付き合ってるんですか?」
「彼氏とか友達とか、そういう関係じゃないよ」
「じゃあ何なんですか」
ナオさんは黙り込んだ。答えを持ち合わせていないように見える。
「横山さんが私を撮るよう頼んだ理由は?」
「それもわからない」
「だから、どうしてわからないのに引き受け…」
ふと過った、私はまさかと思いながらナオさんの顔をじっと見た。
「そういう事だから。こんなみっともないところ、君に知られるなるなんてね」
ナオさんは窓の外を見た。
「どうかしてたんだ。何年もの間、ずっと…」
その横顔はこれまでに度々見たのと同じ表情をしている。
「悪いと思うなら、誤解を解くように横山さんに言って下さい!」
「それは多分出来ない。連絡がつかないんだ」
「いつからですか」
「君の写真を撮った次の日に、もうこんな事はやめにしたいって言おうと思って電話した。出ないからメールでそう伝えた。それ以降連絡がつかなくなった」
「そんな勝手な、会社には来てます」
「そっか」
ナオさんは手の指を組みなおし俯いた。
「もう今後君の前には現れないようにする。この間撮った写真は削除したから。本当に申し訳ない、やめておくべきだった。こんな時に言うべきじゃないとは思うけど、ありがとう、今まで」
「…… 私と出会ったのは計算だったんですか?」
「それは違う、偶然だよ」
込み上げる感情を必死で抑え、鞄を抱えて席を後にした。
エレベーターのボタンを押したのにじっとしていられず非常階段を駆け下りた。外は大雨になっていた。傘を置いてきたのを悔やむ事なく飛び出した。興奮を抑えようと歩き続ける。息が荒くなり心臓は痛いほど激しく鼓動している。ナオさんは最後まで私のことを『君』と言っていた―――――
目に雨が流れ込んで前が見辛い。道行く人は皆傘を持っていて私を見る。
後ろでクラクションが鳴って足を止めた、振り向くのを躊躇っているとまた呼び掛けるようにクラクションが軽く鳴った。
「おーい!」
声が聞こえる。後ろを見た、運転席のその人は車を降りてこっちに歩いて来る。
「柳瀬さん」
「何してんの?ずぶ濡れじゃないか」
「…ちょっと、色々あって」
「車乗って」
「でも」
「いいから!」
肩を覆われて車へ移動した。シートが濡れる事を気にして立ち止まっていると柳瀬さんはタオルを敷いてくれた。ドアを閉めると雨の音が遠くなった。
「どうして傘持ってないの?朝から降ってたのに」
「お店に忘れてきちゃって」
「店?誰かと会ってたの?」
「はい」
柳瀬さんは私の微妙な反応を察してそれ以上は聞かなくなった。
「こんな寒い中それじゃ絶対風邪引くよ、これ使って」
後部座席から取ってくれたのは膝掛けだった。
「すみません」
「家まで送るよ。こないだのマンションだよね」
「はい、ありがとうございます」
車は進み出した。寒さで震えが止まらない。渡されたオレンジ色の膝掛けを広げると花柄だった。
「これって」
「ん?ああ、沙織のだよ。車に置きっぱなしでさ」
「柳瀬さん、どうしてスーツを着てるんですか」
「ちょっと用事があって会社にいたんだ。年末に向けて下準備ってところかな」
「そうだったんですね。土曜なのにお疲れ様です」
髪から頬に流れ落ちる滴が温かい。
「橋詰さん、何かあったの?」
気まずくなって窓の外に顔を向けた。その時、頬を伝っているのが涙だという事に気が付いた。慌てて袖で拭き取った、それでも溢れ出す涙で前が見えなくなってついに私は嗚咽を出した。車がゆっくりと停車して柳瀬さんはサイドブレーキを引いた。
呼吸が落ち着いてきた頃、外は小雨になった。柳瀬さんはずっと黙って待ってくれている。
「すみません」
「なんか、気の利いた事言えなくてごめん」
「いえ。もう大丈夫です」
「どこか連れて行ってあげたいけど、その服じゃ早く帰ったほうがいいだろうから家に向かうね」
「はい、お願いします」
柳瀬さんがラジオをつけるとクリスマスソングが流れ始めた。さっきまでのどうしようもない空気がほぐれていくようで安心した。
先の方に大きな交差点が見えて車は三車線の左端に寄った。信号が黄色に変わって車は止まった、その横を単車が速度を上げて行ってしまった。傘をさした人が歩道を歩いている。
「柳瀬さん、あの人安西さんじゃないですか?」
柳瀬さんが「あ」と声を出した瞬間、横断歩道を渡りかけた安西さんが横目でこっちを見た。私は思わずシートベルトを外して車のドアを押し開け前に出た。
「安西さん!」
車のライトを浴びて安西さんは目を丸くした。私の足元を見て固まっている。下を見ると花柄の膝掛けが落ちていた。安西さんは首をゆっくりと横に振り後ずさりしていく。
歩行者向けの信号が点滅し始めた、安西さんはその場を動けずにいる。車のドアが開く音が聞こえて柳瀬さんが叫んだ。
「沙織、危ないからこっちに!」
2人ともが車を降りたことで後ろの車がクラクションを派手に鳴らしている。信号が変わった。隣車線の車が進み始め安西さんを避けながら通り過ぎていく。
「橋詰さんは歩道に行って!」
「はい!」
柳瀬さんは安西さんへ近付いていく。
「やめて… 来ないでよぉ!」
傘を捨てて横断歩道を走り出した安西さんに対して複数台の車がブレーキを踏み一斉にクラクションを鳴り響かせた。
「沙織!!」
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大きな光が人を呑み込んだのが見えて両手で口を覆った。人が集まってくる、駆け寄りたいのに足の力が抜けてしまって私は水溜まりに座り込んだ。
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