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二十年目のデッサン 02
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多英にまたデッサンを始めると言うと、彼女は大きく眼を見開き驚いていた。そして言う。
「今さら、何でまた?」
「栗塚晃司にデッサンの講師を頼まれたんだ」
「それでまたデッサンを?」
「うん、昔の勘を取り戻すためにね」
「本当は未練があるのでしょう、その世界に」
「ないとは言えないが、これは飽くまで頼まれたからだ。それなりのアルバイトにもなるしね」
多英は昔を思い返すような眼をして言う。
「お互いが家庭のために犠牲を払ったものね。好きなことも諦めて」
「多英も何かを諦めたのか?」
「私がいたバンド、メジャーデビューの話もあったのよ。でもそんな話の矢先に、私の妊娠が判明したものだから····」
「そして僕は妻と子供のためを思い、会社勤めを始めたんだったね」
「それからは穏やかだけど退屈な人生が続いたわ」
「退屈だけど、それなりに幸せだったろう?」
「果たしてこれを幸せと呼べるのかしら。世間的にはそう見えるかも知れないけど、何というか、生きている実感というものが持てなかったわね」
淡々とそんな会話を続けながら、この結婚は間違いとは言えないながら、二人が満ち足りたものではなかったのは確かである。それならばどうすれば良かったのか、それもまた判らない。
デッサンの手を休めてふと後の壁の方を見ると、何枚かの参考作品としての石膏デッサンが掛けられてあるのに気がついた。
その中の一枚には確かに見覚えがある。近付いてよく見ると、それは友作自身のものであった。彼がまだ二十歳にもならない頃に大学で描いたものである。画面の右下に小さく日付とサインがあるのを確めた。確かに技量としてはそこそこに優れてはいるが、今ならもっと上手く描けるのではないかと友作はそう思うのだ。
すると先ほどの受付の若い女性が友作のもとに立った。そして言う。
「これ、栖原先生が若い時にお描きになったんですってね、とても素晴らしいです。私、ずっと思っていたんです、これをどんな方が描いたのだろうって。だから今日お目にかかれてとても嬉しいですわ」
友作がその女性の方を見ると、彼女は頭を下げて続けた。
「申し遅れました、私は西尾美鈴と申します。一昨年N芸術大学を出て今年からここのアトリエの受付をしております。ですので栗塚先生や栖原先生は私の大先輩に当たりますのよ」
「ああ、そうなんですか」
改めて見ると、この西尾美鈴という女性は美しい。友作の中の美術家としての眼が西尾美鈴の持つ均整の取れた身体や顔立ちを見逃さなかった。
陽が傾くまで石膏像のデッサンを続けた。実際に二十年振りで描く石膏像に友作は苦戦していた。何度も形を取り直し、構図を変えたから、なかなか捗らない。それでも運動後の汗のように気持ちの良い疲れが友作に訪れた。画面に向かい無心に描くことで、友作の心の中が洗われるような気がするのである。
家に戻ると台所で家事をしていた多英が言う。
「何だか機嫌がいいわね」
「え、どうしてそう思うんだい?」
「表情もだけど、足取りがいつもと違うわ」
「まあ、そうかな。久しぶりに絵を描いて、すっきりしたのかも知れない」
「あら、そう。いいわね。私もすっきりしたいものだわ」
「明莉も大学の推薦が決まりそうだし、少しは時間も作れるんじゃないかな。これからは好きなことをすればいい」
「自分も好きなことをしたいから、そうおっしゃるのね?」
「ま、それもある、はは」
夫婦でテーブルに着き、コーヒーを飲みながら友作は思う。お互いがそれぞれ我慢しながら、それでも悪い夫婦生活ではなかった。むしろ円満とさえ言える。少しくらいの不満は堪え、なるべく口にしないようにしてきた。
結婚が早かった分だけ子供も大きくなり、二人の大学生を抱えて経済的には大変だが、人生でも一段落した感じだ。そして多英も自分も四十を過ぎたばかりでまだまだ若いのだ。決意さえすれば若い頃に思い残したことをまだ取り戻せる年齢だ。そんなことを考えるうちに友作は自分の前の展望が少し開けてきたような気がするのであった。
「今さら、何でまた?」
「栗塚晃司にデッサンの講師を頼まれたんだ」
「それでまたデッサンを?」
「うん、昔の勘を取り戻すためにね」
「本当は未練があるのでしょう、その世界に」
「ないとは言えないが、これは飽くまで頼まれたからだ。それなりのアルバイトにもなるしね」
多英は昔を思い返すような眼をして言う。
「お互いが家庭のために犠牲を払ったものね。好きなことも諦めて」
「多英も何かを諦めたのか?」
「私がいたバンド、メジャーデビューの話もあったのよ。でもそんな話の矢先に、私の妊娠が判明したものだから····」
「そして僕は妻と子供のためを思い、会社勤めを始めたんだったね」
「それからは穏やかだけど退屈な人生が続いたわ」
「退屈だけど、それなりに幸せだったろう?」
「果たしてこれを幸せと呼べるのかしら。世間的にはそう見えるかも知れないけど、何というか、生きている実感というものが持てなかったわね」
淡々とそんな会話を続けながら、この結婚は間違いとは言えないながら、二人が満ち足りたものではなかったのは確かである。それならばどうすれば良かったのか、それもまた判らない。
デッサンの手を休めてふと後の壁の方を見ると、何枚かの参考作品としての石膏デッサンが掛けられてあるのに気がついた。
その中の一枚には確かに見覚えがある。近付いてよく見ると、それは友作自身のものであった。彼がまだ二十歳にもならない頃に大学で描いたものである。画面の右下に小さく日付とサインがあるのを確めた。確かに技量としてはそこそこに優れてはいるが、今ならもっと上手く描けるのではないかと友作はそう思うのだ。
すると先ほどの受付の若い女性が友作のもとに立った。そして言う。
「これ、栖原先生が若い時にお描きになったんですってね、とても素晴らしいです。私、ずっと思っていたんです、これをどんな方が描いたのだろうって。だから今日お目にかかれてとても嬉しいですわ」
友作がその女性の方を見ると、彼女は頭を下げて続けた。
「申し遅れました、私は西尾美鈴と申します。一昨年N芸術大学を出て今年からここのアトリエの受付をしております。ですので栗塚先生や栖原先生は私の大先輩に当たりますのよ」
「ああ、そうなんですか」
改めて見ると、この西尾美鈴という女性は美しい。友作の中の美術家としての眼が西尾美鈴の持つ均整の取れた身体や顔立ちを見逃さなかった。
陽が傾くまで石膏像のデッサンを続けた。実際に二十年振りで描く石膏像に友作は苦戦していた。何度も形を取り直し、構図を変えたから、なかなか捗らない。それでも運動後の汗のように気持ちの良い疲れが友作に訪れた。画面に向かい無心に描くことで、友作の心の中が洗われるような気がするのである。
家に戻ると台所で家事をしていた多英が言う。
「何だか機嫌がいいわね」
「え、どうしてそう思うんだい?」
「表情もだけど、足取りがいつもと違うわ」
「まあ、そうかな。久しぶりに絵を描いて、すっきりしたのかも知れない」
「あら、そう。いいわね。私もすっきりしたいものだわ」
「明莉も大学の推薦が決まりそうだし、少しは時間も作れるんじゃないかな。これからは好きなことをすればいい」
「自分も好きなことをしたいから、そうおっしゃるのね?」
「ま、それもある、はは」
夫婦でテーブルに着き、コーヒーを飲みながら友作は思う。お互いがそれぞれ我慢しながら、それでも悪い夫婦生活ではなかった。むしろ円満とさえ言える。少しくらいの不満は堪え、なるべく口にしないようにしてきた。
結婚が早かった分だけ子供も大きくなり、二人の大学生を抱えて経済的には大変だが、人生でも一段落した感じだ。そして多英も自分も四十を過ぎたばかりでまだまだ若いのだ。決意さえすれば若い頃に思い残したことをまだ取り戻せる年齢だ。そんなことを考えるうちに友作は自分の前の展望が少し開けてきたような気がするのであった。
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