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キリヒト様

キリヒト様4

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 塾は学校の先の住宅地の中にある。午後8時から1時間30分授業を受けて帰宅をする。
 今日は他の生徒の質問が多く、終わる時間がいつもより遅かった。教室をできる気に見た時間は9時45分だった。学校までは約5分。あと10分で家に帰るのは不可能だ。
 私と同じ方向に帰る人は誰もいない。いつもなら暗くても怖いとは思わないのに、今日はとても怖かった。10時になると『キリヒト様』が現れるから。
 歩いていたはずなのに、いつの間にか早足になっていた。足を止めることはしない。
 点滅する街灯の下を通り、風で揺れる木々の音を聞きながら前だけを見つめて歩く。助けてくれるジューダスの姿もどこにもない。
 もしかすると神社で待っているのかもしれない。そうだとしたら、このままだと間に合わない。走った方がいいかもしれない。
 そう思って走ろうとした。けれど、後ろから聞こえた物音に思わず振り返ってしまった。『キリヒト様』が来たのだと思ったのだけれど、誰の姿もなかった。
 ほっとして前を見て歩き出そうとした。その時、足元に何かが触れた。今度こそ『キリヒト様』だと思ったら声が出なかった。けれどこのままだと抵抗することもなく殺されてしまう。だからそれを確認するために足元を見た。
 そこにいたのは、金色の目をした黒猫だった。

「昨日の黒猫?」

 にゃーと返事をするように鳴く黒猫は、私の足に体を擦りつけている。先ほど聞こえた物音は、きっとこの黒猫が出した音だったのだろう。
 頭を撫でると、目を細めて喉を鳴らして大人しく撫でさせてくれた。
 けれど突然、喉を鳴らすことを止めて前方を黙って見つめて固まってしまった。いったいその先に何があるのだろうと思って、手を止めて見つめても何もない。しかし、黒猫は黙って見つめている。
 もしかしてこれって、この子には何か見えてるんじゃ……と思う。動物には、人間に見えないものが見えると聞いたことがある。
 私に見えない何かを見ているのか、もしくはその先から何かが近づいてきている音を聞いているのか。
 不安になってもう一度黒猫を撫でようと思った。けれど黒猫は、私に撫でられるのが嫌とでもいうかのように後ろを向いて走り去ってしまった。
 1人残された私は、黒猫が見ていた先をもう一度見つめたけれど何も見つけることはできなかった。
 このままここにいても『キリヒト様』に会うだけ。急いでジューダスに会わないと、と思い歩き出したのだけれど見えたものに足を止めてしまった。
 前方からゆっくりと何かが近づいて来ていた。黒猫が見ていたのはこれなのかもしれないと思いながら、私はそれの横を通り抜けようとは思えなかった。
 一歩後退りをした時、それは街灯の下に来た。はっきりと見えた姿に、それは人間ではないと確信した。それはきっと『キリヒト様』だ。
 郁に見た目を聞いていなかったので、確証はないけれど、私の前に現れたということは『キリヒト様』以外ではないだろう。
 街灯の下に立ち、ゆっくりと近づいてくるそれは白衣を着たメガネをかけた赤い目の男性だった。けれどその白衣は一部が白いだけで、赤黒い何かで染まってしまっている。きっとそれは人間の血。
 中には赤いものもあり、もしかすると最近誰かが『キリヒト様』に襲われたのかもしれない。ニュースや噂になっていないほど最近。
 一瞬クラスメイトの顔が浮かんだけれど、そんなはずはないと首を横に振る。時間的に今が10時だろう。それなら、最初に私の元へ現れたのだろうだから彼女達ではないと思う。
 私の知らない誰かの血なのだと思っても、近づいてくるそれからゆっくりと離れる。首が不自然に曲がり、見開かれた目は私を見ているように見えるけれど視線は交わらない。
 ゆっくりと血かすくそれは、手に何かを持っている。きらりと光りが反射して気がつくことができたそれは、赤黒いハサミだった。『キリヒト様』はハサミで切り刻んで殺すという言葉を思い出して、冷や汗が出た。
 逃げないといけない。
 もう『キリヒト様』を視界にいれていたくはなかった。見ているだけで恐怖に震えそうになる。
 ゆっくりと一歩を踏み出した『キリヒト様』を見て、私は後ろを振り返って走り出した。元来た道を戻るということは、ジューダスに会えないかもしれない。それでも、あれに近づくことなんてできなかった。
 走ればゆっくりと近づいてくる『キリヒト様』に追いつかれることはないだろうと考えて足り続ける。
 けれど、後ろからチョキチョキとハサミの音が聞こえた。それは遠くではなく、真後ろから聞こえてきた。
 後ろを見たくない。
 真後ろにいるのだろうから、振り返れば目が合うにきまっている。目が合うと動けなくなる気がして全速力で走る。
 息を切らせても足を止めることはしなかった。それなのに左腕に冷たい何かが触れた。見なくても分かる。それはハサミだ。
 このままだと切られてしまう。けれど、もう避けることもできない。覚悟をしながら走っていると、突然右腕が誰かに引っ張られた。
 チョキンと音が聞こえたけれど、痛みは無かった。
 引っ張る力は強く、私は右斜め後ろへと倒れそうになる足を踏ん張って、引っ張った人を見つめた。

「リカ!?」
「いいから走って!」

 そのままリカに腕を引っ張られて走る。私の腕を掴むリカの左手には、力が入っていて正直痛かったけれど今はそれどころではない。逃げなくてはいけないのだから。
 どうしてジューダスではなく、リカがここにいるのかを問いかけたかったけれど答えてくれはしないだろう。何時から走っているのか分からないけれど、リカは息を切らしている。
 もしかすると、なかなか姿を見せない私を心配してここまで探しに来てくれたのかもしれない。神社まではまだ距離がある。そこから走って来たのなら、これだけ息を切らしていてもおかしくはなかった。
 後ろからハサミの音が聞こえ、近づいてきていることが分かる。しかし、足音は聞こえないのでどれだけ近くにいるのかは分からなかった。
 時々リカは『キリヒト様』を確認しているようで、振り返りながら私を引っ張り続けた。
 何度か振り返った時、リカは小さく「あっ!」と言って目を見開いた。もしかすると後ろを見たから石につまずいたのかと思った。けれど、違った。
 右側からチョキンと音がした。それが『キリヒト様』のハサミであることは見なくても分かる。もうそんなに近くまで来ていたのかと思ったと同時に、リカが血しぶきとともに崩れ落ちた。

「っ!?」

 声も出せず、両手で口を押えてその場から動けなくなってしまった。私が狙われているのに、リカが血しぶきをあげた倒れたことにショックを受けた。
 私の近くにいたから、リカが狙われたと思った。
 私の所為だ。だからリカが死んだ。そう思うと足から力が抜けていく気がした。後ろに『キリヒト様』がいることを理解していたけれど、また誰かを巻き込んでしまうのならこのままそのハサミで切られてもいいのではないかと思ってしまった。

「何してるの!? 早く逃げなさい!!」
「どうして喋れるの!?」
「いいから、逃げなさい!!」

 死んだと思ったリカが私に向かって言う。彼女の手足はバラバラになっているのに、本人は気にしていないようだ。それどころか逃げない私に向かって怒鳴りつけている。
 どうして喋れるのかを知りたいけれど、確かに今はそれどころではない。
 右腕にハサミが触れた感触がして慌てて走り出した。先に右腕を前に出したから切られることはなかった。けれど後ろからチョキチョキと音がする。その音は離れて行くので、どうやら『キリヒト様』は近づいて来ていないらしいう。
 今のうちに距離をとれば逃げ切ることも可能かもしれないと思った。
 それなのに、右側から何かが通り抜けた。次の瞬間、『キリヒト様』が突然目の前に現れた。それで理解した。右側を通り抜けたのは『キリヒト様』だと。
 もう逃げられない。咄嗟にそれから離れようと両手で体を突き飛ばそうとした。けれど、できなかった。両手が体をすり抜けてしまった。
 ハサミが左腕に触れる。それは冷たいと感じられるのに、『キリヒト様』にはどうして触れないのか。
 切られる。最悪左腕を切られても逃げないと。そう思ったと同時に、何かが風を切る音が聞こえて『キリヒト様』が後ろへと下がった。そのお陰で切られることはなかったけれど、地面に金属がぶつかった音がした。

「間に合ったか」

 そう言って立ち上がったのはジューダスだった。左の塀から飛び降りたようで、その手には大鎌を持っている。それの先端が地面にぶつかった音だったようだ。

「ジューダス、リカが……」

 お礼を言わないといけないというのは分かっている。けれど、それよりもリカが心配だった。あの時は生きていたけれど、もしかするともう死んでいるかもしれないと思うと不安だった。
 それなのにジューダスは「大丈夫だ。暫くすれば戻る」と簡単に言ってしまう。心配する様子もない。

「それよりも、今はこいつだろ」

 両手で大鎌を持ち、私の前に出たジューダスは『キリヒト様』を見つめて言った。よく見ると、『キリヒト様』の持っているハサミは人の腕を切断できるようなものではない。
 何度も切らなくては切断なんかできない。それで切断されると思うと恐怖しかない。

「久しぶりだな、『キリヒト様』。昔より醜くなっちまってるじゃねえか」

 まるで昔からの友人に話しかけるように言うジューダス。昔を知っているということは、最低でも一度会ったことがあるということになる。
 ジューダスの言葉に『キリヒト様』は何かを呟いているようだけれど、それは言葉になっていない。

「昔はもう少し人間みたいな見た目をしてたんだけどな。これじゃあ、化け物じゃねえか」

 そう言ってジューダスは『キリヒト様』に近づいて行く。私はできるだけ『キリヒト様』から目を離さないようにしながら2人の様子を見ていた。
 私には逃げるということしかできない。けれど、ジューダスはその大鎌でどうにかすることができるのかもしれない。
 助けてくれると言っていたから、どうにかしてくれるはず。そう思えた。
 まるで苛立っているように何度もハサミを開閉する『キリヒト様』は、ジューダスに視線を合わせると急に近づいてきた。目の前に迫ったハサミをジューダスは大鎌で受け止めて弾き飛ばす。
 邪魔にならないようにゆっくりと下がった私を狙っているようには見えない。もしかすると邪魔になるジューダスを先に倒してしまおうと考えているのかもしれない。
 大鎌を振るジューダスに、ハサミで受け止めたり後ろに下がったりする『キリヒト様』を見て、もしかして彼は私から『キリヒト様』を離れさせようとしているのかもしれないと思った。

「こっちよ」

 突然右腕を引っ張られて驚いた。そこにいたのはリカだった。充分離れているような気がしたけれど、リカはもっと離れなさいと言う様に私を引っ張って行く。

「大丈夫なの? どうして?」
「それについては、また今度」

 聞いても教えてくれないリカに、もしかすると話したくない内容なのかもしれないと思った。それに、服には血もついていないし、切られた手には傷跡も残っていないことからリカは人間ではないのだと確信した。
 先ほどまでは人間だと思っていたけれど、こんなに元気に変わらず話しているということはそういうことなのだ。きっとジューダスも同じ。だから『キリヒト様』と渡り合えるのだろう。
 電柱を6本通りすぎて漸く立ち止まったリカは、振り返り2人の様子を見た。私とは視線を合わせなかったので、何も言わずに尾無用に振り返った。
 ジューダスはハサミを大鎌で躱したり、受け止めたり、大きく振り攻撃をしたりしている。怪我をしていないようだけれど不安になってしまう。
 私が『キリヒト様』の噂を聞かなければ、願おうと思わなければ、2人に会わなければこんなことにならなかったのかもしれない。
 ジューダスも人間じゃないのだろうと思ったけれど、もしも本当は人間だったら。そうだとしたら、あのハサミで殺されてしまうのではないかと思うと不安だった。

「大丈夫よ。ジューダスも、私と同じだから。それに……助けるって言ってたでしょ? 信じてあげて」

 信じていないわけではなかった。けれど、目を見て言われてしまえば頷くしかなかった。
 大鎌とハサミのぶつかる金属音が響く中、近くの民家からは誰かが出てくるっ様子もない。それどころか、家には電気がついていないことに気がついた。
 今までは『キリヒト様』に追いかけられていて気がつかなかったけれど、どうして電気がついていないのだろうか。黒猫が姿を現した時までは、たしか電気がついていた。
 それなのに、今は街灯の明かりしかない。
 これも『キリヒト様』が影響しているのだろうか。

「俺は、助けてやるって言ったんだ!」

 大きく大鎌を振ると、『キリヒト様』の手からハサミが離れた。それは勢いよく塀に当たり、ジューダスの後方へと滑って行く。
 しかしジューダスは、ハサミを失い隙ができた『キリヒト様』に大鎌を振った。体が半分になった彼は言葉にならない声をあげて闇に溶けるように消えた。
 そして、それを見るとジューダスはいそうでハサミに駆け寄った。
 リカがジューダスへ走って行くので、私もついて行った。『キリヒト様』が消えたのをこの目で見たといっても、また現れるのではないかと不安だった。だから1人ではいなくなかったのだ。
 ハサミを手にしたジューダスは、右手で大鎌を持ち、先端をハサミのリベットに当てていた。それで何をするのかは理解できた。リベットを切断してハサミを壊すつもりなのだ。

「これで、終わりだ」

 そう言うと、リベットを切断した。地面に落ちて、金属音が響いた。ジューダスがハサミから手を離すと、地面にぶつかり金属音を響かせてバラバラになると、まるでハサミなんか存在しなかったように消えてしまった。
 その時、耳元で唸り声が聞こえたけれど、それはすぐに消え去った。唸り声が『キリヒト様』のものだと気がつき、辺りを見回したけれど姿はなかった。
 ハサミが消えたことと『キリヒト様』の唸り声が聞こえたことに驚く私に、「これで、お前は助かった」と笑顔で言うジューダスに頭を下げてお礼を言った。
 本当に助かったのだ。そう思うと涙が出てきた。

「どうして泣いてるの?」
「だって、助かったって思ったら嬉しくて。本当に、ありがとうございます」

 泣く私に驚くリカと、言葉も出ないジューダスに何度も頭を下げた。
 それで家族を悲しませずに済むと思うと、さらに涙が溢れだしてなかなか止まることはなかった。

「ほら、今日はもう帰りなさい。家族も心配するわ」

 リカに軽く背中を押されて辺りを見回すと、いつの間にか家には電気がついていた。やっぱり『キリヒト様』が影響していたのだ。
 振り返るとリカが手を振っていたので、頭を下げて家へと向かって歩き出した。
 明日、改めてお礼をしに神社に行こうと決めてなるべく明るい街灯の下を通りながら家へと向かって行く。
 何事もなく家に着くことができた時、思わずほっとしてしまったのは仕方がないだろう。できればもう、あんな怖いことに巻き込まれたくはないと思いながら家の鍵を開けた。


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