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42.整理しましょう

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 『…情報過多だ』

 俺は会議室を見渡し思った。
一週間丸々休みを取って久々に出社してみると、それまで気付かなかった職場の様々な面が見えてくる。よくこんな所で一年も仕事してたものだと呆れた。

 新商品の開発会議、開発部と営業部の合同会議の場だった。専務と、不登校中の専務の弟と、営業部長の先輩、各課の長付き、それに手の空いている面々に、時々、社長。テーブルの上には、現在開発、企画中の試作品が所狭しと並べられ、試食する奴、企画書の手直しをしている奴、食い物で遊んでる奴。ホワイトボードには配達エリアの再配備と開拓計画が広げられている。✨専務✨の哀愁漂うスパニッシュギターによる生演奏が流れる中、半田課長が『コンクリートの様に硬い超硬豆腐→コンクリ豆腐』のプレゼンの真っ最中だ。その横では、コンクリ豆腐をなんとか建材に持っていけないかという熱い議論を交わす開発部員たち。✨専務✨の奏でる調べに合わせて、会議室を出たり入ったりする社長。もう、こうなってくると、会議室というよりだ。

 俺は、どの会話のグループに紛れ込むか考えていた。今、俺に最も有益な情報を発信しているのは誰なのか。半田課長が一番普通に仕事している。半田課長に付いて行くのが良さそうだ。

 「…それでね…」

 俺は隣に座る先輩を見た。この状況で、普通に仕事と関係ないお喋りを振ってくる辺り、もう、先輩が授業中にチョッカイかけてくる女子にしか見えなくなってきた。

 「先輩、今、俺、情報量について行けてないんで…会議に集中させて下さい」

 「うーん、でも皆も集中切れてきちゃってるし」

 「たかだか二時間の会議でここまで崩壊するのは、ちょっと我慢が足りないと思いませんか?」

 「人の集中出来る時間って、精々二十分らしいからね…」

 「いや、そう思うんだったら、もっと効率よくやりましょうよ?」

 「そうは言っても、長年このやり方で来ちゃってるからね…」

 さっきから先輩は、何故だか俺の左手首を掴んで揉み続けている。

 「そこ、骨なんで。どんなに揉んでも柔らかくなりませんよ?」

 「あ、ごめんね。手持ち無沙汰だったから、つい…でもココの出っ張ってるところが好きなんだ」

 先輩は、俺の腕を揉みながらニコニコ笑っている。俺は、呆れとも諦めともつかない心持ちで先輩を見た。

 先輩がこうやって俺に触れるのは、いわゆる付き合っているということを前提とした形式上のスキンシップだ。
一週間前の安二郎の一件以来、俺と先輩の関係は、どことなくギクシャクしたものになっていた。先輩が言うところのアンジーさんが俺の曾曾祖父の安二郎だと判ったことで、俺は、そして俺以上に先輩が戸惑っていた。現状の先輩のこうしたスキンシップは、その気不味さを埋めるためのものであって、それ以上の意味はない。元々スキンシップの多い人だったから、に振る舞おうとしている結果なんだろう。だが、それはどこか手探りで、臆病なものに変わっていた。多分、先輩は俺の気持ちの変化に気づいている。



 土日を入れて一週間の休みを貰っていた間、先輩は頻繁に俺の様子を見にアパートに寄ってくれていたから、顔こそは毎日合わせていたが、それまでの一日の少なくとも十二時間なんていう密着状態から開放され、俺はここしばらく寝る以外での一人の時間を過ごした。
その所為か、安二郎の件が明らかになった直後は、何と闘うのかは兎も角にして『全世界を敵に回しても先輩は俺が守る』ってくらいに盛り上がっていた気持ちが、この休みの間に大幅に下方修正されていた。

 アンジーさんと俺が全くの赤の他人の空似でないことに、ある種の運命のようなものを感じた瞬間もあったが、冷静に見れば、それは先輩が手繰り当てただけに過ぎない。どう取り繕っても、先輩にとって俺はいわばだ。今更そこを掘り下げてどうこう言うつもりはない。どのみち安二郎は、灰になってしまったのだ。俺は彼の代わりにはなれないし、先輩もそんなことを俺に望んではいないだろう。だが、突き詰めれば、先輩が必要としているのは、やはりアンジー(安二郎)なのだろうとも思う。俺は二人の間に何があったのか断片的にしか知らない。深く追求するつもりもない。知れば胸糞の悪い思いをするだけなのはわかっている。それでも完全に目を瞑ることが出来ないでいるのは、今あるこの閉塞感を打ち破る手掛かりが安二郎アンジーさんの存在一点に掛かっているからだ。現在、先輩が置かれている状況に少しでもヒントを付けられる誰かがいるとしたら、それは安二郎アンジーさんを於いて、他に見当たらない。俺にもわかる。これは俺には越えられない壁だ。
 安二郎アンジーさんこと先輩のマンションにあるスーツケースいっぱいの灰。先輩は自覚していないのかもしれないが、あれは先輩にとって、俺よりも遥かに重いものに思える。信じられないことだが、先輩という”今は謎の生き物”の正体を探る手掛かりは、あれだけなんだ。

 安二郎ショックの興奮から冷めてしまうと、否応なしに先輩との距離を実感させられた。この距離は、俺がどう足掻いたところで埋められるものではない。それは正に、先輩が以前俺に言っていたところの、映画のスクリーン越しに眺める幻影、蜃気楼そのものだった。現実的な感覚と隔絶されたところにあるのは、何も先輩一人ではない。俺だってそうだ。今では俺から先輩を見ても、その距離がはっきりと判る。俺の目にも確実に見えている、だがそれは重なり合うことのない”ねじれの位置”にあった。目の前に先輩が居て、その肉体も触れられるところにありながら、精神的な距離で異空間を認知するに至るだなんて、なかなか驚異的な体験だ。だが、それはきっと今に始まったことじゃない。俺が気付かなかっただけで、最初からそうだったんだ。それを安二郎が炙り出した。ただそれだけのこと。そうと気づいてからは、この先輩のギクシャクが、俺には心地よくさえ思えてきた。

 先輩が俺に対して抱く罪悪感が俺達を繋ぎ止めている。居心地の悪さを感じる一方で、俺は心の片隅で安堵もしていた。義務感、責任感、罪悪感。恋愛感情とはおおよそ程遠いものだが、俺と先輩を繋ぐかせは増している。考えようによっては、熱しやすく冷め易くて不安定な『好き』とかいうフワフワした感情よりは強固な結び付きとも言えなくはない。良いかどうかは別にして寧ろその方がわかり易い。俺も以前のように『なんとなくただ先輩が好き』という状態ではなくなっていた。
 どんなに互いの気持ちが変わろうとも俺たちが運命共同体であらねばならないというのであれば、好意頼みでこの関係を維持するのは困難に思えた。俺はすでに着地点を見失っていた。どうなりたいと思い描いたところで、もう俺にはどうにもならないという虚脱感が、俺の心を一気に平熱へと押し下げた。こんな状態で、それでも保たなければならないものならば、寧ろ義務感や罪悪感があるくらいが、丁度良い重石バラストになるだろう。なるようにしかならない。それが判って、俺はそれ以上、考えるのを止めた。



 俺は、手持ち無沙汰に手前にある資料を繰りながら、隣の先輩に何度か目を遣った。
 今日の先輩は、の先輩だ。このところ、二ヶ月ほどは順調に年取っていた先輩だったが、一昨日未明に終に入れ替わってしまったらしい。先輩によると、今回のは先輩の意志とは関係なく勝手に入れ替わってしまったものだという。当然だが、人間は通常二ヶ月ごときでは目に見えるほど老け込んだりはしない。その点では、先輩も殆ど変わって見えない筈なんだが……俺は、すぐ隣にある先輩の顔を横目で見た。

 『心做しか、なんとなくツヤツヤして、若返って見える…』

 予めそういう情報があるから、そう思えるだけなのかもしれないが、なんだろうな、この”生まれたて感”は?
普通の人間は、時間が逆行することなんてないから、知ることもないだろうが、人間というものは一日、一日老いていっているのだと改めて感じた。そう思って眺めていると、触ってみたい、どんな感じなんだろう?という好奇心が頭を擡げて来た。

 俺は、もう一度、辺りを見渡した。
会議室内の誰もが自分の作業に没頭している。この流れなら言える、何故だか急にそんな気がした。否、むしろ、このタイミングを逃したら、当分言えないんじゃないかってくらい、俺は瞬間的に駆り立てられていた。

 「あの…先輩、ちょっとキスしてみていいですか?」

 途端、会議室が静まり返った。

 「…え?」

 何故か全員がこっちガン見してるんだが…俺、そんなデカイ声出してない…ってか、なんで聞こえてるんだよ?

 「……冗談ですよ」

 俺に集まった何色か判らない視線に、目一杯愛想笑いを浮かべて見せると、すぐに元の喧騒が戻ってきた。

 「ユキちゃん、さすがにこれは拙いよ?!」

 先輩が声を潜めて耳打ちした。

 「…ぃゃだって、皆、さっきまでカオスだったじゃないですか」

 「でも、一応、会議中だし、職場なんだから…」

 「一応じゃなくても職場ですよ。ってか、なんっすか今の?!それに、セクハラ云々言うんだったら、先輩のこの手はなんなんですか?」

 「これは、業務上必要不可欠なスキンシップだよ」

 「…ああ」

 俺は、この話を続けるのが面倒になった。

 「先輩、半田課長の、どう思います?」

 話を変えると、先輩は気にする様子もなく乗ってきた。

 「うーん、本当にコンクリート並みに硬いとなると、普通のお家で、どうやって切ったり食べるのかな?って思うね」

 「…ちょ、それ、今言いましょうよ?」

 「でも、半田君が一生懸命やってるし…」

 「ちょっとそこ!!私語は謹んで!!」

 半田課長がビシッと俺達を指差した。私語とかなんとか言うより、いろいろ突っ込みどころがありすぎて、俺は黙った。だが、先輩はちょっと半田課長に向かって手を上げただけで、お構いなしだ。

 「…それでね、部屋を処分しようと思うんだ」

 「…部屋って?…あの梅北のマンションですか?」

 唐突な話に、俺は訊き返した。

 「うん、生活圏からも離れてるし…」

 「ああー」

 俺は、相槌をうったが、実際には何も考えていなかった。使っていない部屋だし、通勤にも不便そうだ。なのに立地は最高、眺めも最高。はっきり言って宝の持ち腐れだ。先輩もトラウマがあるみたいだし、持っていても良いものじゃないんだろう。

 「…そうですね、その方が良いかもしれませんね」

 俺は、ぼんやりと一度行ったきりのマンションを思い浮かべた。今のままじゃあ、一等地に建つ安二郎の墓だもんな。

 「うん、それでね…」

 先輩は、少し言い難そうに俺の顔を上目遣いで見た。先輩の方が俺より背が高いのに、何故だか座高は俺の方が高いのな。

 「のことなんだけど…ユキちゃんに了承を貰っておいた方が良いかと思って。ご家族だし…」

 「安二郎アンジーさんね…」

 「うん、そう」

 「ばーちゃんちの墓に入れましょう」

 「えっ…」

 先輩は少し驚いた様子で俺の顔を見返した。

 「さすがにそれは…」

 「いや、あれからずっと考えてたんですよ。名前まで変えて身元を明かすのを避けてた奴が、なんで免許証の住所をばーちゃんにしてたのかって。多分なんですけど、なんていうか、きっと何かの拍子で死んだりした時に、故郷に帰れるようにしたかったのかなって。わかんないですけど。一人で埋められるより先祖の墓に入った方が、きっとも嬉しいんじゃないかなって。思うんです。だから、そう出来るなら、そうしたい…っていうか、はそう望んだんじゃないかって」

 俺は、休みの間に漠然と考えていたことを話した。先輩は、俺の話を聞きながら、何か考えているようだった。

 「先輩は、何かプランでもあったんですか?」

 「…いや、まだ何も。やっぱり埋葬する方向で考えた方がいいのかな?って思っていて。お墓の場所なんかは、ユキちゃんのアクセスなんかも考えた方がいいのかなって思ってたんだけど…そうだね。ユキちゃんがそういうなら、それが一番良いのかもしれない。可能ならってことだけど…」

 「ええ。ばーちゃんちの墓なら俺、開けるとこ一度見てますし、多少混ぜてもバレないと思うんですよ」

 「…うん?そうだね」

 先輩は、少しだけ歯切れ悪く思い迷うような素振りをみせたが、すぐに思い切るように頷いた。

 「そうだね。出来るならそうすべきかな」

 先輩は、手元の分厚いファイルをパタンと閉じて立ち上がった。

 「じゃあ、今日はここまで」

 先輩の一声で、会議室の面々が一斉に立ち上がった。

 「…え?あ?ぁあ?ぁああ?」

 誰もがそそくさと身の回りを片付けて散っていく中、俺は大急ぎでテーブルの上の書類をかき集め、先輩の後を追った。




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