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29.豊中へ行こう?

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 我社の営業開発部には、半田課長という人がいる。通称『パンダさん』。個性的な風貌を武器に課の連中の信頼と尊敬を一身に集めている人だ。課の誰もが彼を『男らしい』と褒め称える。
 スペイン人と日本人にルーツを持つ彼は、現在三十歳。スペイン男の甘さと日本人の塩加減が良い具合に合わさった、ぱっと見にもって感じのイケメンだ。彼の額が後退し始めたのは、二十代半ばの頃だったらしい。彼の中に流れるカステーリャの血がそうさせるのか、そこから彼の額は目覚ましい発達を見せ、三十歳を迎える頃には彼の頭頂部は完全に広大な額として開拓されきっていたという。そして、元々はサラサラだった残された部分の髪は、頭頂部の開拓が進むに伴い、何故だか縮み始め、あたかも失われた部分を補おうとでもするように、ボリュームを増していったのだという。日々、磨きが掛かっていく額と盛り上がるサイドヘア。刻々と変わっていく彼の姿を、課の連中は畏怖の眼差しで見送った。
 だが半田さんは、そんなことは歯牙にもかけなかった。彼は彼の祖父と父の姿から、既に自分の運命を悟っていたのだ。半田さんは、一連の自分の変化に臆することなく、無駄な足掻きも、恥じることも見せず運命に従った。その潔い姿を見守っていた同じ課の同僚たちは彼を讃えて言った。
 『男らしい』と。
 半田課長は今現在、丸い頭にボリューミーなサイドヘアが見事な、前から見ると綺麗な熊耳シルエットに収まっている。そして、畏敬の念を込めて誰言うとなく彼を『パンダさん』と呼ぶようになった。男気あふれるパンダ課長はその名の通り人気者だ。




 「…先輩、この間のテッペンハゲの写真、半田課長に自慢しましたね?」

 「バレちゃったww  (ノ≧ ڡ ≦)テヘ☆彡…ウケそうだと思って…」

 先輩は、悪戯っぽく笑った。
この間からどうも課の隅っこで他の社員達とクスクスコソコソやっていると思ったら、あろうことか先輩は、ひと月前に自分で頭の天辺を刈った記念セルフィー画像を見せて回っていたのだ。

 「そう思ったら、どうしても我慢できなくてwでもすごくウケたよww」

 先輩は、嬉しそうにクスクスと笑った。

 「信じられないっすよ。何考えてるんですか?今生えてるその髪、どう説明するつもりなんですか?」

 そりゃあ、切った髪が一日で元に戻った理由に『異次元から頭フサフサな別の体を丸ごと持ってきた』なんてことを考えるやつはいないだろうが、とはいえ、普通にオカシイと思うだろう。

 「それが案外気付かないもんなんだよ」

 先輩はのんびりと言った。

 「いや、気付きますよ」

 「大丈夫だよ。意外とみんな見てないもんなんだよ?…ユキちゃんは、よく気が付くだけだから」

 「そんなことありませんよ」

 「そうだって。実際に僕も気付かなかった」

 言ってから、先輩は『ぁ、』と口を噤んだ。そして、少し思い巡らすような顔をして、諦めたように言った。

 「前にユキちゃんに言ってたなんだけど、一緒に働いていた時、今から思えば、よく髪型が変わってたんだ。昨日は短髪で、翌日には長髪…みたいにね」
「ちゃんと出勤してる時は短髪なんだけど、朝まで無茶苦茶に飲んで次の営業時間ギリギリに出勤した時なんかは、長髪だったりしたんだよ。でも店にいた他の連中も、僕も全然気にしてなかった。後々思えば、オカシイんだけど。男って意外とそういうとこ見てないもんなんだよ?」
「…それに案外、本人が堂々としてると気付かないものなんだよ」


 思い出すのも嫌な奴なのかと思いきや、何故だか先輩は半笑いだ。どちらかというと、懐かしんでいるようだった。

 『アンジー、なんてデタラメなどうしようもない男なんだ』

 俺は腹の中で呟いた。
先輩を正体不明の異次元の何かに感染させた奴。確かに先輩の言う通り、普通の人間である俺達は、認識の枠を越えた現象に手前の理屈で太刀打ちする術はない。普通の人間は、自分の周辺の日常にそんなスーパーナチュラルが潜んでいるなんて戯れにでも考えるものじゃないんだ。
 こういった事態に未経験な俺が、既に経験済みの先輩に説教垂れるのは可怪しいのかもしれない。髪の毛一つといえば些細な話だが、それにしたって無防備すぎる。思わずため息が漏れた。

 「…だとしても、誰か気付く人が出てきたら、誤魔化すために、また余計な嘘をつかなきゃいけなくなるじゃないですか。はしゃぐのも好いですけど、節度を守って下さい」

 呆れながらもそれらしく説教してみると、先輩は素直に『ごめんね』と言った。

 「初めて二人で撮ったものだったから、誰かに見てもらいたかったんだ」

 「もう、しょうがないですね。アリバイ作りに写真から簡単に禿加工できるアプリでも探しておきましょう」

 「うん、ごめんね」

 「冗談ですよ。でも、俺は折角の『二人だけの秘密』だと思ってるんですから、ちゃんと守って下さい」


 配達の帰りだった。俺は助手席に収まって、高速道路の代わり映えのしない路面とノロノロと前を走るトラックの荷台を眺めていた。この先に豊中インターチェンジがある。正確に豊中のどの辺りにあるのかは知らないが、先輩の実家がある方面だ。先輩はいつもこの道を通りながら何を考えていたのだろうと思った。
 先輩から”世にも奇妙な感染症”のキャリアであることを告白されてから、一ヶ月が過ぎていた。だが、”件の感染症”については、最初に先輩から聞かされた情報以外は、何一つ新たにはわかっていなかった。その情報だって殆どが憶測だ。当の先輩だって何もわかっていないのだ。感染症といったって、あくまでも経験則だが、手繋ぎやハグや、常に行動を共にしている程度では感染はしないであろう、という推測も立っている。
 俺が把握する限りでは、この一ヶ月、先輩はずっと”同じ先輩”を使っている。つまり、今の先輩は『二十年と何ヶ月+感染後一ヶ月モノ』だ。幸いにして、ここ一月を見るに、先輩に吸血鬼っぽい怪しい動きも見当たらない。俺はそれよりも、先輩が俺に見せたところの、俺が勝手に名付けた“”の方が気になっていた。考えれば考えるほど疑問が湧いてくる。体は入れ替わっても、記憶はどんどん積み重なっていっているということは、元の体にあった意識は何処に行ったんだろう?新しく上書きされているのか、それとも書き加えられているだけなのか?そうなるとこの場合、先輩の二十六年+αの古い体の意識はどこか物理法則の伴わない一点に固定されていると考えた方が良いのだろうか?まさかとは思うが、今現在の先輩の中には、ここ六年の記憶が何乗にも蓄積しているのではないだろうかと一瞬思いかけ、恐ろしさに考えるのをやめた。わかったところでどうでもいい事だが、一般的に言われている、不老不死の仕組みって、今の先輩のような状態を言うんじゃないだろうか?なんてことも頭を過った。

 しばらく車窓の流れる風景をぼんやりと眺めていたが、ふと気付いて俺は呟いた。

 「先輩、この先、豊中インターです」

 「うん、そうだね」

 先輩は前を見たまま返事した。

 「先輩、ご家族は?兄弟とか?」

 「妹が一人いるよ。母と妹だね」

 「えっ?!妹さんいるんですか?」

 「うん、結構歳が離れてるけどね…今で…高校生。15歳くらいかな?」

 初耳だった。

 「先輩が今こうして近所で仕事してるのって、家族の方は知ってるんですか?」

 「仕送りはしてるよ?この辺で働いてるのはさすがに知らないかな。ウチは母子家庭でね。でも家はとっくに出てたから。まだ夜の仕事やってると思ってるんじゃないかな」

 「でも、道でバッタリなんて普通にありそう」

 「そうなんだよ。一度だけニアミスしたけど、僕の方が先に気付いたから…」

 淡々とした口調だった。

 「メールとか電話連絡とかもナシですか?」

 「してないね」

 「ぇえ…でも心配されてますよね?」

 「してるかもね」

 俺は段々この会話にイラついてきたていた。立ち入ったことだとはわかっていたが、どうしても気になって仕方がなかった。

 「先輩、なんで実家に帰らないんですか?」と俺が言うと、先輩は意外な早さで『帰れないよ』と呟いた。

 先輩の口調はのんびりとしていたが、有無を言わせぬ雰囲気があった。俺はそれを無視した。

 「だって、普通にしてたら感染りませんよね?」

 「…そういうことじゃないんだ」

 「だったら、なんでなんですか?」

 俺が言うと、先輩は『うーん』と唸った。だが何か考えているわけではなさそうだった。先輩は、はぐらかすように無言のまま首を振って車線変更すると、前のトラックを追い越した。あんまりスピードを出したら、すぐに豊中インターチェンジを通り抜けてしまう。別に今すぐ先輩に実家に行って欲しいわけじゃないんだが、何故だか俺は少しだけ焦った。話せる機会が今しか無い気がしていた。

 「…なんていうか、こんな事言うと変に思われるかもしれないけど、怖いんだよ」

 しばらくして、先輩がポツリと呟いた。

 「…怖い?ですか?」

 「うん、気付かれるのが怖かったんだ。以前の僕と違うって気付かれるんじゃないかって」
「それでズルズルと先延ばしにしていたら、今度はあまりにも僕が変わらなさすぎて、逆に不自然に見えるんじゃないかって…どっちにしても、今の僕は家族が知っていた僕とは多分違う。それに、もし気付かれたら…あるいは、僕だとさえ気付かれなかったら…そんな風に考えると、なかなか近寄れなくてね」

 「…そんな」

 自分から強引に聞いておきながら、俺は返す言葉がなかった。先週の出汁巻きの一件から先輩の実家のことが、ずっと俺の頭の中で引っかかっていた。こんな風に先輩が寂しそうな顔をするのを初めて見た気がした。俺みたいに実家に愛想を尽かしてるわけじゃない。寧ろ家族を気にしているからこその表情なんだと思えた。それだけに俺は気不味さに押されて口を噤んでしまうのが嫌だった。意地になってしまっていた。

 「でも先輩、このまま先延ばしにしていたら、この先はもっと会い難くなりますよ?」

 「そうだね」

 「駄目ですよ?」

 「しようがないね…」

 「駄目ですよ。そんなこと言っちゃ。会った方がいいです」

 「………」

 「会った方がいいです。そんな寂しそうな顔するんなら、会った方がいいです」

 先輩は押し黙っていたが、俺は食い下がった。

 「これからどんどん時間が経っていったら、ますます会い難くなくなります。今ならまだイメチェン失敗とか、若作りの範囲でなんとでも誤魔化せます。だから今の内に会った方がいいです」

 「このままだったらゼッタイ後悔しますから」
「俺、今日しか言いません。俺も一緒に行きますから、先輩実家の様子見に行きましょう?」

 「………」

 先輩は答えなかった。


 「…今度の休みでもいいです」
「すぐじゃなくてもいいんで。先輩がその気になったらで…いつでもいいです」
「…でも多分、早い方がいいです」
「なんなら俺が偵察に行ってもいいです」
「お節介だと思いますけど…」

 俺がボソボソと一人で呟いている内に豊中出口の看板が見えてきた。そこで俺は口を噤んだ。俺自身が自分のしつこさにウンザリしていた。先輩ならその倍、否、何十倍もウザったく感じているんじゃないか。そう思うと、先輩の事情に迂闊に口を挟んでしまったことを後悔した。もっとよく先輩のことを知りたいとは思っていたが、なんか方向間違えたかも。そんなことをつらつらと考え始めていた。『豊中出口』の分岐が見え始めると、俺は『ここを過ぎたら謝ろう』と考えていた。

 先輩は何も言わなかった。
だが一瞬の沈黙の後、指示器を出す音がして、車は高速の下り口へと向かった。

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