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62.犠牲を払うなら

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 冬麻は誰もいない給湯室に駆け込んだ。
 梶ヶ谷からの電話は一度切れてはまたすぐにかかってくる。着信は既に五回目だ。
 さっきから冬麻は震えるスマホを見つめたまま、何もできずにいた。
 逃げるわけにはいかないとわかっているが、どうしても覚悟がいる。

 冬麻は書類を置き、ゆっくり深呼吸をした。
 そして意を決して梶ヶ谷の着信に応じる。



『冬麻くん! あれからどう? 俺に会いたくなった?』

 梶ヶ谷の妙に明るいテンションに冬麻は嫌気がさす。

『久我くん、あれから全然駄目だね。このままならM&Aは頓挫だね』
「まだ始まったばかりじゃないですか」
『あー、出た出た。また久我くんを庇ってる。でも無理だと思うよ?』
「そんなことないですから」

 思わずそう言い返したが、久我に余裕はないかもしれない、と冬麻は思う。

 久我はさっき遠波たちとグラビティの件について画策している様子だった。あれは多分M&Aを成功させるために動いているのだろう。
 久我はグラビティ獲得のために、遠波に協力を仰いだ。
 その協力の見返りとして、久我は遠波の希望を叶えようとしている。

 遠波は久我を欲しがっている。久我の恋人になりたいとはっきり言っていた。でもそれは久我に断られ、次にふたりは一日限りホテルで会う約束をした。もしかしたら遠波は、久我に性的なものを求めた……?


『冬麻くんが俺に抱かれれば、それで解決するんだよ?』

 そうだ。冬麻が梶ヶ谷の提示した条件をのめば、梶ヶ谷はM&Aに協力すると言っていた。梶ヶ谷の妨害がなければ、グラビティとの話し合いも上手くいくはずだ。
 それなら久我は遠波に協力してもらう必要がなくなり、遠波の誘いを断ることができるんじゃないのか……?



『あ、そうそう! あのね、冬麻くんに予告しようと思って連絡したんだ。俺ね、今度の土曜日に友達に会うことになったんだよ』
「友達……?」
『久我くんのワイロの件の証拠が揃ったから、特捜(検察庁特別捜査部)の友達に会って情報をタレ込んでやろうと思ってさ。そいつに久我くんの話をしたら是非話を聞きたいってせがまれたんだ。久我くんの性接待のことも興味深そうに聞いてきたよ』
「それって、どういうことですか……」
『ん? 久我くんが収賄の罪に問われるってことだよ? まぁ、仕方ないよね。悪いことしちゃったんだから』
「嘘ですよね?!」
『そう思うなら無視しなよ。俺は優しいから冬麻くんに予告しておいたよ? これで久我くんが捕まって、そんなの聞いてませんでしたってのはナシだよ?』
「……証拠はあるんですか? あるなら見せてください」
『いいよ。でも極秘書類だから俺のとこまで見にきてよ』

 梶ヶ谷は余裕の返事だ。梶ヶ谷の言うとおり証拠は既に取り揃えてあるということなのか。

『期限は明日の夜までね。もし俺と会う気があるなら連絡して。ホテルの部屋をおさえておくから。もちろん証拠の書類も持っていくよ』

 明日は金曜日だ。その日の夜を逃したら次は土曜日で、梶ヶ谷は久我への制裁の第一弾を開始する、ということか。

『大丈夫。痛いことはしないよ? 冬麻くんのこと、ちゃんと気持ちよくしてあげるから』

 そんなことを言われてゾッとした。梶ヶ谷だけは絶対に嫌だと思っているのに。




「二ノ坂くん?」
「うわぁ!」

 いきなり久我に声をかけられて驚いて冬麻は手からスマホを落としてしまった。
 久我は小林と遠波の応接に使っていた食器が載ったトレイを持っている。

「ごめんなさいっ! 俺の仕事ですよね、今すぐ片付けますからっ」
「いいよ。大事な電話ならそっちを優先してくれて構わないから」
「いえっ、もう終わりました!」

 冬麻はスマホを拾って梶ヶ谷との通話を終わらせた。



「ちょっとだけ、いい……?」

 久我はトレイを置いたあと、冬麻に迫り、そのまま冬麻を抱き締めてきた。

 ここは給湯室だ。オープンな場所だし、いつ誰が来るともわからないのに。

 久我の腕の中を懐かしく思った。最近久我とはすれ違いばかりで全然触れ合っていなかったから。


「こんなところでごめん。でも俺、少し疲れた……」

 久我が弱音を吐くなんてことは滅多にない。ずっと心配だったが、やはり久我はここ最近無理をしていたようだ。

「久我さん……」

 冬麻も遠慮がちに久我の腰に腕を回して久我の身体を引き寄せた。
 久我は強いし、なんでも卒なくこなしてしまうから、ついつい頼ってしまうけれど、それは久我の努力や我慢の上に成り立っていたものだったのかもしれない。

「大丈夫です。きっと何もかも上手くいきますよ」

 冬麻は久我の腰に回した手に力を込める。

「だから頑張り過ぎないでください。M&Aも上手くいくし、久我さんの未来は俺が守りますから」

 そう言い終えて、冬麻はサッと久我から身体を離した。

「冬麻……?」
「こっ、これ以上は誰かにみられますよっ! 食器、洗いますね!」

 冬麻は久我から逃れるようにして目の前の仕事をこなし始めた。

「いいよ、俺がやる」

 久我が洗い物に手を出してきた。

「いえ、俺がやりますよ。いつも久我さんばっかり大変な目に遭って犠牲を払っていて……少しくらい俺がやるべきだったんですよ……」

 冬麻は久我の手を払いのけて、食器を洗う。


「久我さん。遠波さんとはどのようなお知り合いなんですか?」

 食器を片付けつつ、冬麻は久我にさりげなく訊ねる。

「え? 遠波さんは心配要らない。彼女は俺の味方だよ」
「遠波さんはどんな会社の人なんですか? なんか、会社勤めっぽくない雰囲気でしたけど」
「ああ。銀座のクラブのオーナーだからね」
「クラブ?! なんでそんな人と……」

 銀座のクラブといえば、夜のお仕事のイメージだ。久我はそういう人とも交流があったのか。

「彼女も俺と同じ飲食店経営社長だからね。そういう集まりで知り合ったんだ」
「へー。そうですか。久我さんは知り合いも多いし、おモテになるんですね」

 嫌味たらしく久我に言うと、久我は「彼女とはそんな関係じゃない」とすぐさま否定してきた。

「でも、遠波さんは久我さんの恋人になりたいって言ってましたよ? 久我さんのことめちゃくちゃ好きみたいじゃないですか」
「冬麻。もしかしてさっきの話聞いてたの……?」
「はい。だって、久我さんとすごく仲良さそうにしてるから気になって……」
「気にしないで。遠波さんはしょうがない。俺は彼女とビジネスがしたいだけ。なのにいつもああなんだ」
「ビジネス? ホテルで会う約束もビジネスですか?」
「そうだよ。ビジネスは対価交換が基本でしょ?」
「何を交換するんですか?」
「え……?」
「遠波さんに協力してもらって、それに対して久我さんは何してあげるんですか?」
「何もしないよ。ただホテルで少し喋って帰るだけ」
「わざわざ最高にかっこいい姿で、ですか?」
「そうだよ」

 久我は言い切るが、冬麻は何か腑に落ちない。絶対にそれ以上の何かがある気がする。


「……行かないでください」
「えっ?」
「来週の金曜日。遠波さんと会わないでください」
「いや、でももう約束したんだ。彼女は協力者だし……」
「グラビティの件で、ですよね?」
「冬麻……。俺を困らせないでよ……彼女に協力してもらえれば、なにもかも上手くいくところなんだから」
「じゃあ、もし、それより前にグラビティとの話が決まったら、遠波さんの力は必要ないってことですよね?!」
「ごめん、それは無理なんだ……少し強引な手を使うしかないんだよ……」
「大丈夫です。俺に、心当たりがありますから」
「え……?」
「グラビティのことは俺がなんとかします」
「冬麻が?!」
「はい。だから久我さんは、来週の金曜日、ホテルに行かないでください。いいですね? 俺、久我さんのこと一日中見張ってますから」

 久我のことを誰にも触らせたくない。まして身体の関係とか絶対に嫌だ。そうなるくらいなら——。
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