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4.異常な同居生活
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——俺は一体この人に何をされているのだろう。
鏡に映る自分の姿を見てつくづく思う。
冬麻は時々自分の立場がよくわからなくなる。今、自分の髪を慣れた手つきで乾かしているのは久我朔夜だ。この春から新入社員として冬麻が就職した会社の代表取締役社長。
「冬麻の髪はいつ触っても気持ちがいいな」
鏡越しに見える久我の顔は満面の笑みを浮かべている。乾かし終えたあと、クシを入れながら冬麻の髪をひたすらに撫で回すこと早三分は経過しただろうか。
「あの……もういいですか」
不服そうに言うと「ごめん、つい」とやっと久我が離れてくれた。
「この瞬間が終われば、今日一日のうちで冬麻に触れるチャンスが終わってしまうのがさみしいんだ」
「はぁ。そうですか……」
なんと答えたらいいのかわからない。でもこの人に間違っても「俺なんかでよければいくらでも触ればいいじゃないですか」などと言ってはいけない気がする。
「明日の朝食は何かリクエストある?」
「いえ、俺はなんでも食べますから」
「わかった」
この一ヶ月、冬麻が朝食のリクエストをしたことなんてない。いつも「なんでもいい」と答えているのに久我は律儀に毎回訊ねてくる。
冬麻は冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出した。久我セレクトのなんだか高価そうな水だ。それをまた久我セレクトの高級そうなグラスに注いでリビングまで運ぶ。寝る前に冬麻が水を飲む習慣があると気がついたのか、久我はいつもミネラルウォーターをストックしてくれている。冬麻としてはこんな高価な水でなくてもいいのに。
引っ越してきたばかりのときは冷蔵庫を開けることすら緊張していたが、もう慣れた。今ではリビングでCassina(カッシーナ)のソファに足を伸ばして座り、大きなディスプレイで昨日のドラマの続きを見るくらいにはくつろげている。
ただいつも気になるのは呼んでもないのにもれなく久我がそばにいることだ。
「久我さん、早く寝たらどうですか」
と追っ払おうにも「これ、面白いね」と冬麻の見ていたドラマを隣で眺めながら冬麻のそばを離れない。
「俺、冬麻が好きなものは全部好きだよ。知らなかったものでもなぜか好きになるんだ」
「へぇ……」
好みが全て同じなんてこと、ありえないだろ。
「冬麻を構成するあらゆるものを共有したい。この一ヶ月でそれを少しでも知ることができた。本当に幸せだよ」
冬麻は絶句……。
ダメだ。この人には何を言っても響かないのだろう。
翌朝。久我の用意してくれた朝食を食べ、支度を終え、いざ出勤というときになって冬麻はさっきから久我に引きとめられている。
「俺は電車で行きますからっ!」
「なんで? 俺に送らせてよ。満員電車で冬麻が他の奴に触られるなんて耐えられないっ」
いや、おかしいだろ。満員電車なんて誰もが経験したことのある日常だ。そもそも冬麻が冤罪防止で両手を挙げなきゃならない立場だ。
「とにかく今日は社外研修なんで本社には行きませんから。久我さんとは目的地が違いますからっ」
ついでだと言われて毎朝久我の車で会社まで送ってもらっていたが、今日は別々だ。それなのにわざわざ送ってもらう義理はない。
「わかった。じゃあ今日は俺も電車に乗る」
「へっ?」
「冬麻。さ、一緒に行こう。もう時間ないんだろ?!」
「いや、久我さんはいつも通り車で行ってください!」
「あー、秘書があんまり自分で運転しないようにってうるさいから今日は車をやめることにした。さ、行こう!」
久我に背中を押されて、急かされる。
——マジでこの人ついてくる気なのかよ……。
予想通りの満員電車に久我と乗っているのだが、久我は身を挺してやたらと冬麻をガードするようにしているような……。
そんなことはいいから普通に乗ってくれと思うが、気がつくと久我との距離は0センチ。当然身体が触れ合う距離だ。
すぐ近くにいる久我の顔をチラッと見上げてみると、目が合った。久我は「大丈夫か」とでも言いたげに冬麻の頭をぽんと軽く触り、優しい視線を投げてくる。
絶対におかしい。新入社員を守ってどうする。お前はボディガードじゃないだろ。社長なんだから反対にボディガードに守られる立場じゃないのか!
その日の社外研修が終わり、同期のみんなと行きたい人だけ集まって、夕食がてらファミレスに行くことになった。
冬麻も『今日は同期とファミレスで夕食を食べて帰ります』と久我にLINEで連絡を入れてから参加をすることにした。
「なぁ、今日のトップニュース知ってるか?」
同期男女六人、ひとしきり注文を終えたあと、同期の檜原が開口一番話しだした。みんな「なになに?」と檜原に注目する。
「今日、社長が電車で通勤したんだってよ!」
「うそっ!」
「マジか!」
「俺がインターンの時にお世話になった先輩が、同じ電車だったらしくてマジでビビったって。あの社長が普通に満員電車に乗るとかありえなくねぇ?!」
「えー! なんで?!」
「わっかんねぇ、車壊れたのかな……」
「いや、社長の車は最低でも三台はある。ランボルギーニとか、ポルシェとか、ベンツも乗ってるの見たことある」
「なんだろ、評価のために社員をこっそり見てたとか?」
「いや、無理だ。背も高いし、あの顔面だろ? すげぇ目立ってたらしいから」
「だろうな」
久我なら変装したってすぐにバレるに決まっている。
「なんで……?」
「さぁ……」
同期のみんなは社長の奇行に首を傾げているが、まさかここで「今日は俺が電車に乗ることにしたから、社長が車出勤をやめてついてきた」だなんて理由を説明できるわけがない。社長と同居していることはもちろん誰にも言っていない。
それにしてもせめてタクシーを使うとか、他にもやり方あるだろうが。恰好の噂のネタになってるぞ!
「社長は前は秘書が運転した車に乗ってたのに、最近自分で運転してるらしいぜ?」
「え?! どういうこと?!」
「それも謎なんだ。最初は秘書の人が左手に包帯を巻いててさ、手を怪我したからって理由だったけど、今はもう包帯はしてないのに、社長が運転してるらしい」
「へぇ……」
そうだったのか。以前は秘書の送迎つきだったのか。今の久我がそうしないのはまさか冬麻のせいなのか……?
「ホント社長ってわからないこと多いよね。あんなにイケメンなのに結婚とかしないのかな?! 彼女いないっていう噂は本当?」
同期の佐藤はすっかり乙女の顔になっている。
「信じられないけど、ホントだと思う。しかも今だけじゃなくてずっといないらしいよ。今まで誰とも付き合ったことないのかな……」
同期の村野もどこかで社長の噂を聞きかじったようだ。
「えー! あのスペックでそれはありえないって。きっとバレないように付き合ってるんじゃない?」
「だよねぇ。いるに決まってるよね。いいなぁ。どうしたらあんな人の彼女になれるんだろ」
村野がはぁ、と溜め息をついた。
そういえば久我に恋人がいるかどうか聞いたことがなかったなと冬麻は思う。同時に、もしいるのなら、あんなに冬麻に構っている暇はないのではとも思う。
「ねぇ! そういえば、あたしたち新入社員が配属された店舗には必ず一回は抜き打ちで社長が訪問するんだって! エリアマネジャーにもその情報は知らされなくって、新人チェックだけじゃなくて店舗チェックまでされるらしいから、上の人たちもみんな怯えてるらしいの」
知らなかった。そんなことがあるのか。村野は情報通だな。
「うわっ、怖ぇっ!」
檜原は本気で怯えている。
たしかに社長が自ら新入社員を見て回るなんてすごい慣習だな。何か粗相があれば、社長の鶴の一声でエリアマネジャーまで左遷させられたりするのだろうか。
この会社では総合職として入社した者のほとんどは店舗へ配属される。そこでまずは店長を目指し、その後社内公募や試験などをクリアしてさまざまな職種へとステップアップしていく仕組みになっている。
冬麻は久我から希望を聞かれたが、店舗配属を希望した。みんなと同じスタートを切り、じっくりと自分の道を模索したいと思ったからだ。
久我は「冬麻の好きにしたらいいよ」と冬麻の頭を撫でてにっこり笑ってくれた。冬麻が進路を迷ってるときは「本社にいてほしいから本部系の仕事はどうだろう。社長秘書とか社長秘書とか社長秘書とか」と遠回しに圧力をかけてきていたのにも関わらずだ。
久我はいつも冬麻に笑顔を向けてくれるが、久我の笑顔はどこかいつも営業スマイルのような造りものに感じる。
表情から久我の本心がまるで見えてこないのだ。
あの笑顔を信じていいのかわからないまま久我と暮らし始めてもう一か月が過ぎてしまった。
冬麻が同期会から帰宅したとき、部屋は暗く電気はついていなかった。LINEの返事もなかったし、久我はまだ仕事で帰って来られないのかとばかり思っていた。
リビングに入ってライトコントロールスイッチを押す。明かりがついてすぐ、ソファに倒れている人の姿が目に飛び込んできた。
「うわっ!」
冬麻は思わずのけ反った。それはスーツ姿の久我だった。
暗闇でまさか人がいるとは思わず、姿を見つけて心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。
「く、久我さんっ! 大丈夫ですか?!」
久我の容態を確認しようと冬麻は久我にかけ寄った。身体を揺さぶると久我は「ううん……」と気怠そうな声。
「ああ、冬麻。よかった……帰ってきてくれたんだね……」
ひどく疲れた顔。目を腫らしてせっかくのイケメンが台無しになっている。
「どうしたんですか、電気もつけないで!」
「ちょっと、耐えられないことがあって……でももう大丈夫。こうやって俺のもとに戻ってきてくれるってわかったから」
耐えられないことってなんだ……?
「とにかく俺は驚きました。いるならせめて電気くらいつけてくださいね」
「冬麻が俺の心配をしてくれてるの……?」
久我は弱々しく両手を冬麻に伸ばしてそっと冬麻の頬に触れた。
「当たり前ですよ。こんな真っ暗な部屋でぶっ倒れてたら病気なのかと思って心配になりますよ!」
本当にさっきは軽くホラーだった。
「そっか。そうだね。まぁ俺は冬麻に出会った時からずっと病気みたいなものだけどね」
冬麻は怪訝な顔になる。久我の言っている意味がわからない。
「冬麻がいないと生きていけない病に冒されているんだよ。だから死ぬときも俺と冬麻は一緒だよ」
冬麻の頬から久我の両手が落ち、今度は冬麻の首を優しく両手で包み込んだ。まるで冬麻の首を絞めるように。
「首輪が欲しいな……。冬麻を支配して俺のそばから離さない、そんな首輪がいい……」
久我がぶつぶつと何か独り言を呟いているが、これは絶対に聞き流したほうがいいと防衛本能が働いている。
「く、久我さん! 明日も仕事ですし早くお風呂に入って寝ましょう!」
やんわりと久我の両手を離して冬麻は立ち上がった。久我は「それって一緒にお風呂に入ろうって誘ってるの?」と急に目をキラキラさせて、とんでもないことを言い出したので完全に否定をした。
鏡に映る自分の姿を見てつくづく思う。
冬麻は時々自分の立場がよくわからなくなる。今、自分の髪を慣れた手つきで乾かしているのは久我朔夜だ。この春から新入社員として冬麻が就職した会社の代表取締役社長。
「冬麻の髪はいつ触っても気持ちがいいな」
鏡越しに見える久我の顔は満面の笑みを浮かべている。乾かし終えたあと、クシを入れながら冬麻の髪をひたすらに撫で回すこと早三分は経過しただろうか。
「あの……もういいですか」
不服そうに言うと「ごめん、つい」とやっと久我が離れてくれた。
「この瞬間が終われば、今日一日のうちで冬麻に触れるチャンスが終わってしまうのがさみしいんだ」
「はぁ。そうですか……」
なんと答えたらいいのかわからない。でもこの人に間違っても「俺なんかでよければいくらでも触ればいいじゃないですか」などと言ってはいけない気がする。
「明日の朝食は何かリクエストある?」
「いえ、俺はなんでも食べますから」
「わかった」
この一ヶ月、冬麻が朝食のリクエストをしたことなんてない。いつも「なんでもいい」と答えているのに久我は律儀に毎回訊ねてくる。
冬麻は冷蔵庫を開けて、ミネラルウォーターを取り出した。久我セレクトのなんだか高価そうな水だ。それをまた久我セレクトの高級そうなグラスに注いでリビングまで運ぶ。寝る前に冬麻が水を飲む習慣があると気がついたのか、久我はいつもミネラルウォーターをストックしてくれている。冬麻としてはこんな高価な水でなくてもいいのに。
引っ越してきたばかりのときは冷蔵庫を開けることすら緊張していたが、もう慣れた。今ではリビングでCassina(カッシーナ)のソファに足を伸ばして座り、大きなディスプレイで昨日のドラマの続きを見るくらいにはくつろげている。
ただいつも気になるのは呼んでもないのにもれなく久我がそばにいることだ。
「久我さん、早く寝たらどうですか」
と追っ払おうにも「これ、面白いね」と冬麻の見ていたドラマを隣で眺めながら冬麻のそばを離れない。
「俺、冬麻が好きなものは全部好きだよ。知らなかったものでもなぜか好きになるんだ」
「へぇ……」
好みが全て同じなんてこと、ありえないだろ。
「冬麻を構成するあらゆるものを共有したい。この一ヶ月でそれを少しでも知ることができた。本当に幸せだよ」
冬麻は絶句……。
ダメだ。この人には何を言っても響かないのだろう。
翌朝。久我の用意してくれた朝食を食べ、支度を終え、いざ出勤というときになって冬麻はさっきから久我に引きとめられている。
「俺は電車で行きますからっ!」
「なんで? 俺に送らせてよ。満員電車で冬麻が他の奴に触られるなんて耐えられないっ」
いや、おかしいだろ。満員電車なんて誰もが経験したことのある日常だ。そもそも冬麻が冤罪防止で両手を挙げなきゃならない立場だ。
「とにかく今日は社外研修なんで本社には行きませんから。久我さんとは目的地が違いますからっ」
ついでだと言われて毎朝久我の車で会社まで送ってもらっていたが、今日は別々だ。それなのにわざわざ送ってもらう義理はない。
「わかった。じゃあ今日は俺も電車に乗る」
「へっ?」
「冬麻。さ、一緒に行こう。もう時間ないんだろ?!」
「いや、久我さんはいつも通り車で行ってください!」
「あー、秘書があんまり自分で運転しないようにってうるさいから今日は車をやめることにした。さ、行こう!」
久我に背中を押されて、急かされる。
——マジでこの人ついてくる気なのかよ……。
予想通りの満員電車に久我と乗っているのだが、久我は身を挺してやたらと冬麻をガードするようにしているような……。
そんなことはいいから普通に乗ってくれと思うが、気がつくと久我との距離は0センチ。当然身体が触れ合う距離だ。
すぐ近くにいる久我の顔をチラッと見上げてみると、目が合った。久我は「大丈夫か」とでも言いたげに冬麻の頭をぽんと軽く触り、優しい視線を投げてくる。
絶対におかしい。新入社員を守ってどうする。お前はボディガードじゃないだろ。社長なんだから反対にボディガードに守られる立場じゃないのか!
その日の社外研修が終わり、同期のみんなと行きたい人だけ集まって、夕食がてらファミレスに行くことになった。
冬麻も『今日は同期とファミレスで夕食を食べて帰ります』と久我にLINEで連絡を入れてから参加をすることにした。
「なぁ、今日のトップニュース知ってるか?」
同期男女六人、ひとしきり注文を終えたあと、同期の檜原が開口一番話しだした。みんな「なになに?」と檜原に注目する。
「今日、社長が電車で通勤したんだってよ!」
「うそっ!」
「マジか!」
「俺がインターンの時にお世話になった先輩が、同じ電車だったらしくてマジでビビったって。あの社長が普通に満員電車に乗るとかありえなくねぇ?!」
「えー! なんで?!」
「わっかんねぇ、車壊れたのかな……」
「いや、社長の車は最低でも三台はある。ランボルギーニとか、ポルシェとか、ベンツも乗ってるの見たことある」
「なんだろ、評価のために社員をこっそり見てたとか?」
「いや、無理だ。背も高いし、あの顔面だろ? すげぇ目立ってたらしいから」
「だろうな」
久我なら変装したってすぐにバレるに決まっている。
「なんで……?」
「さぁ……」
同期のみんなは社長の奇行に首を傾げているが、まさかここで「今日は俺が電車に乗ることにしたから、社長が車出勤をやめてついてきた」だなんて理由を説明できるわけがない。社長と同居していることはもちろん誰にも言っていない。
それにしてもせめてタクシーを使うとか、他にもやり方あるだろうが。恰好の噂のネタになってるぞ!
「社長は前は秘書が運転した車に乗ってたのに、最近自分で運転してるらしいぜ?」
「え?! どういうこと?!」
「それも謎なんだ。最初は秘書の人が左手に包帯を巻いててさ、手を怪我したからって理由だったけど、今はもう包帯はしてないのに、社長が運転してるらしい」
「へぇ……」
そうだったのか。以前は秘書の送迎つきだったのか。今の久我がそうしないのはまさか冬麻のせいなのか……?
「ホント社長ってわからないこと多いよね。あんなにイケメンなのに結婚とかしないのかな?! 彼女いないっていう噂は本当?」
同期の佐藤はすっかり乙女の顔になっている。
「信じられないけど、ホントだと思う。しかも今だけじゃなくてずっといないらしいよ。今まで誰とも付き合ったことないのかな……」
同期の村野もどこかで社長の噂を聞きかじったようだ。
「えー! あのスペックでそれはありえないって。きっとバレないように付き合ってるんじゃない?」
「だよねぇ。いるに決まってるよね。いいなぁ。どうしたらあんな人の彼女になれるんだろ」
村野がはぁ、と溜め息をついた。
そういえば久我に恋人がいるかどうか聞いたことがなかったなと冬麻は思う。同時に、もしいるのなら、あんなに冬麻に構っている暇はないのではとも思う。
「ねぇ! そういえば、あたしたち新入社員が配属された店舗には必ず一回は抜き打ちで社長が訪問するんだって! エリアマネジャーにもその情報は知らされなくって、新人チェックだけじゃなくて店舗チェックまでされるらしいから、上の人たちもみんな怯えてるらしいの」
知らなかった。そんなことがあるのか。村野は情報通だな。
「うわっ、怖ぇっ!」
檜原は本気で怯えている。
たしかに社長が自ら新入社員を見て回るなんてすごい慣習だな。何か粗相があれば、社長の鶴の一声でエリアマネジャーまで左遷させられたりするのだろうか。
この会社では総合職として入社した者のほとんどは店舗へ配属される。そこでまずは店長を目指し、その後社内公募や試験などをクリアしてさまざまな職種へとステップアップしていく仕組みになっている。
冬麻は久我から希望を聞かれたが、店舗配属を希望した。みんなと同じスタートを切り、じっくりと自分の道を模索したいと思ったからだ。
久我は「冬麻の好きにしたらいいよ」と冬麻の頭を撫でてにっこり笑ってくれた。冬麻が進路を迷ってるときは「本社にいてほしいから本部系の仕事はどうだろう。社長秘書とか社長秘書とか社長秘書とか」と遠回しに圧力をかけてきていたのにも関わらずだ。
久我はいつも冬麻に笑顔を向けてくれるが、久我の笑顔はどこかいつも営業スマイルのような造りものに感じる。
表情から久我の本心がまるで見えてこないのだ。
あの笑顔を信じていいのかわからないまま久我と暮らし始めてもう一か月が過ぎてしまった。
冬麻が同期会から帰宅したとき、部屋は暗く電気はついていなかった。LINEの返事もなかったし、久我はまだ仕事で帰って来られないのかとばかり思っていた。
リビングに入ってライトコントロールスイッチを押す。明かりがついてすぐ、ソファに倒れている人の姿が目に飛び込んできた。
「うわっ!」
冬麻は思わずのけ反った。それはスーツ姿の久我だった。
暗闇でまさか人がいるとは思わず、姿を見つけて心臓が止まるかと思うくらいびっくりした。
「く、久我さんっ! 大丈夫ですか?!」
久我の容態を確認しようと冬麻は久我にかけ寄った。身体を揺さぶると久我は「ううん……」と気怠そうな声。
「ああ、冬麻。よかった……帰ってきてくれたんだね……」
ひどく疲れた顔。目を腫らしてせっかくのイケメンが台無しになっている。
「どうしたんですか、電気もつけないで!」
「ちょっと、耐えられないことがあって……でももう大丈夫。こうやって俺のもとに戻ってきてくれるってわかったから」
耐えられないことってなんだ……?
「とにかく俺は驚きました。いるならせめて電気くらいつけてくださいね」
「冬麻が俺の心配をしてくれてるの……?」
久我は弱々しく両手を冬麻に伸ばしてそっと冬麻の頬に触れた。
「当たり前ですよ。こんな真っ暗な部屋でぶっ倒れてたら病気なのかと思って心配になりますよ!」
本当にさっきは軽くホラーだった。
「そっか。そうだね。まぁ俺は冬麻に出会った時からずっと病気みたいなものだけどね」
冬麻は怪訝な顔になる。久我の言っている意味がわからない。
「冬麻がいないと生きていけない病に冒されているんだよ。だから死ぬときも俺と冬麻は一緒だよ」
冬麻の頬から久我の両手が落ち、今度は冬麻の首を優しく両手で包み込んだ。まるで冬麻の首を絞めるように。
「首輪が欲しいな……。冬麻を支配して俺のそばから離さない、そんな首輪がいい……」
久我がぶつぶつと何か独り言を呟いているが、これは絶対に聞き流したほうがいいと防衛本能が働いている。
「く、久我さん! 明日も仕事ですし早くお風呂に入って寝ましょう!」
やんわりと久我の両手を離して冬麻は立ち上がった。久我は「それって一緒にお風呂に入ろうって誘ってるの?」と急に目をキラキラさせて、とんでもないことを言い出したので完全に否定をした。
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