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番外編『忘れられない』
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「いったいどうしたんだよ神尾。連絡もなしに俺んちに来るなんてさ」
樋口は呑気に冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら神尾に声をかけてくる。
樋口は綺麗好きだ。樋口のマンションに行くといつもすべてのものが整っていて気持ちがいい。聞くと掃除や片付け、インテリアに凝るのが趣味なんだそうだ。
今夜は突然、神尾が樋口のマンションに押しかけた。それでも綺麗なのだから、本当に普段から気をつけているのだろう。
「樋口に会いたくて」
ボソッと小さな声で言ったのに、樋口はそれを聞き逃さず「神尾が!? 俺に会いたかったの!?」と弾んだ声を出した。
「悪いか?」
「悪くないよ、神尾はいっつも自分のことあんまり喋らないからさ、ちょっと嬉しくて。いや、かなり嬉しいな」
素直に喜んでいる樋口を見ると胸が痛む。
こんな顔をされたら別れられなくなる。
神尾は部屋のベッドをソファー代わりにして座る。ここに座るのも今日で最後になるのだろうと思うと、なんでもない日常が急に惜しくなる。
しばらくのあいだ、樋口とたわいもない話をした。その隙に、神尾は話をさりげなく切り出す。
「なぁ、樋口。もしもお前が佐上さんと結婚したらさ、お前、俺が働いてる会社に転職して、俺の上司になんの?」
樋口の本音が聞きたかった。本当に結婚するつもりなのか。
ならば二股をかけていることになる件についてどう思っているのか。
そんなことを真っ直ぐぶつけることはできないから、匂わせ程度に聞いた。
「あー。そういうことになるよな。それって良いな。神尾、毎日お前と会社で会える」
そういうことになるとは、どういうことだ……?
結婚するという意味なのだろうか。
元彼とその妻の下で毎日働くなんて、地獄のような毎日だ。
ただでさえ、樋口のことを諦められそうにないのに、仲睦まじい姿まで見せつけられたらやっていけそうにない。退職だ。
「俺は会いたくない」
「えー、なんでだよ。お前と同じ会社で働くか。考えたこともなかったけど憧れるな。しかも上司。俺がお前に色々命令してやるよ」
憧れる……?
ああ。それが本音か、と思った。
樋口は女もいけるバイセクシャルだ。だったら結婚して普通の家庭に憧れることだろう。
「お前に命令されるなんて嫌だ」
そう返すのが精一杯だった。
強がっていないと、樋口に泣きついてしまいそうだった。
居た堪れなくなって樋口の家を飛び出した神尾は、重い足取りでひたすらに歩いていた。
どうしても顔を上げる気にならない。うつむき加減に延々と目的もなく歩いていた。
もう樋口とは会わない。連絡も取らない。そうすればこの関係は自然消滅するだろう。
樋口は果穂と結婚すればいい。樋口なら良き夫で良きパパになるに違いない。
神尾と一緒にいたら、樋口は幸せにはなれない。
そもそも樋口と付き合えたことが奇跡だった。
諦めかけていた恋が再燃し、恋人として過ごした一年弱は本当に楽しかった。
お互いの家を行き来して、一緒にご飯を作って食べて、樋口に甘えながらお互いの話をして。
寝る前には身体を重ねる。あの樋口が神尾の身体で欲情してくれるのが、なによりも嬉しかった。
「はぁ……」
神尾は大きなため息をつく。
泊まらずに帰ると言ったときの、あの樋口の少し寂しそうな顔が忘れられない。
最後に樋口にキスをすればよかった。
そうすればこの先、樋口との最後を思い出すとき、寂しそうな樋口の表情ではなくて、キスの瞬間だったはず。
「あんな顔されたら、忘れられない……」
嫌われて、喧嘩別れならよかった。
喧嘩別れなら、思い出すのは険悪なことばかりで、もう二度と戻りたくないと思えたのに。
「樋口と別れたくない……」
つい本音が溢れる。
二股をかけられていることに気がついても、神尾はずっと黙っていた。それは、下手なことを言って樋口に捨てられたくなかったからだ。
二番目でもいいから、樋口のそばにいたかった。
でもダメだ。樋口には幸せになってもらいたい。
あんないい女性に好かれたのだから、このチャンスを必ずものにするべきだ。
そうして神尾は樋口への連絡を絶った。
この誤解が解除されるのは、数週間後の話。
——番外編『忘れられない』完。
樋口は呑気に冷蔵庫から缶ビールを取り出しながら神尾に声をかけてくる。
樋口は綺麗好きだ。樋口のマンションに行くといつもすべてのものが整っていて気持ちがいい。聞くと掃除や片付け、インテリアに凝るのが趣味なんだそうだ。
今夜は突然、神尾が樋口のマンションに押しかけた。それでも綺麗なのだから、本当に普段から気をつけているのだろう。
「樋口に会いたくて」
ボソッと小さな声で言ったのに、樋口はそれを聞き逃さず「神尾が!? 俺に会いたかったの!?」と弾んだ声を出した。
「悪いか?」
「悪くないよ、神尾はいっつも自分のことあんまり喋らないからさ、ちょっと嬉しくて。いや、かなり嬉しいな」
素直に喜んでいる樋口を見ると胸が痛む。
こんな顔をされたら別れられなくなる。
神尾は部屋のベッドをソファー代わりにして座る。ここに座るのも今日で最後になるのだろうと思うと、なんでもない日常が急に惜しくなる。
しばらくのあいだ、樋口とたわいもない話をした。その隙に、神尾は話をさりげなく切り出す。
「なぁ、樋口。もしもお前が佐上さんと結婚したらさ、お前、俺が働いてる会社に転職して、俺の上司になんの?」
樋口の本音が聞きたかった。本当に結婚するつもりなのか。
ならば二股をかけていることになる件についてどう思っているのか。
そんなことを真っ直ぐぶつけることはできないから、匂わせ程度に聞いた。
「あー。そういうことになるよな。それって良いな。神尾、毎日お前と会社で会える」
そういうことになるとは、どういうことだ……?
結婚するという意味なのだろうか。
元彼とその妻の下で毎日働くなんて、地獄のような毎日だ。
ただでさえ、樋口のことを諦められそうにないのに、仲睦まじい姿まで見せつけられたらやっていけそうにない。退職だ。
「俺は会いたくない」
「えー、なんでだよ。お前と同じ会社で働くか。考えたこともなかったけど憧れるな。しかも上司。俺がお前に色々命令してやるよ」
憧れる……?
ああ。それが本音か、と思った。
樋口は女もいけるバイセクシャルだ。だったら結婚して普通の家庭に憧れることだろう。
「お前に命令されるなんて嫌だ」
そう返すのが精一杯だった。
強がっていないと、樋口に泣きついてしまいそうだった。
居た堪れなくなって樋口の家を飛び出した神尾は、重い足取りでひたすらに歩いていた。
どうしても顔を上げる気にならない。うつむき加減に延々と目的もなく歩いていた。
もう樋口とは会わない。連絡も取らない。そうすればこの関係は自然消滅するだろう。
樋口は果穂と結婚すればいい。樋口なら良き夫で良きパパになるに違いない。
神尾と一緒にいたら、樋口は幸せにはなれない。
そもそも樋口と付き合えたことが奇跡だった。
諦めかけていた恋が再燃し、恋人として過ごした一年弱は本当に楽しかった。
お互いの家を行き来して、一緒にご飯を作って食べて、樋口に甘えながらお互いの話をして。
寝る前には身体を重ねる。あの樋口が神尾の身体で欲情してくれるのが、なによりも嬉しかった。
「はぁ……」
神尾は大きなため息をつく。
泊まらずに帰ると言ったときの、あの樋口の少し寂しそうな顔が忘れられない。
最後に樋口にキスをすればよかった。
そうすればこの先、樋口との最後を思い出すとき、寂しそうな樋口の表情ではなくて、キスの瞬間だったはず。
「あんな顔されたら、忘れられない……」
嫌われて、喧嘩別れならよかった。
喧嘩別れなら、思い出すのは険悪なことばかりで、もう二度と戻りたくないと思えたのに。
「樋口と別れたくない……」
つい本音が溢れる。
二股をかけられていることに気がついても、神尾はずっと黙っていた。それは、下手なことを言って樋口に捨てられたくなかったからだ。
二番目でもいいから、樋口のそばにいたかった。
でもダメだ。樋口には幸せになってもらいたい。
あんないい女性に好かれたのだから、このチャンスを必ずものにするべきだ。
そうして神尾は樋口への連絡を絶った。
この誤解が解除されるのは、数週間後の話。
——番外編『忘れられない』完。
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こんなにたくさんの感想ありがとうございます✨
とても励みになります!!!
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山本!よかったな山本!
こんなに愛されて……作者は感無量です✨