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前編
しおりを挟むーーおかしい、私なんで…キス、してるの…?
パン屋の仕事が終わってすぐ、常連客の騎士様に会って送って貰うだけだったのに…気が付いたら帰り道の途中でキスをしている。薄暗い路地は街灯がポツポツあり、所々暗い所が出来ている。私の背中に回った大きな手が支えて、私は彼の胸板に手を添えた。
何度も何度も角度を変えて貪られる口内。お互いの舌が絡み、舌を強く吸われヒリヒリとする。上顎や内頬、口内全体を、大きな舌が舐めまわし息も上手く出来ずに苦しい。
ーーおかしい…なんでこんなことになってるの…?
**************
それは遡る事数時間前。
「マチルダ!これを片付けたらもう上がっていいわっ!」
「あ…はいっ!」
私はマチルダ、少しだけおしゃれが好きな19歳の名字もないセミロングの赤髪の平民だ。ココは街1番の味と価格を自負する焼き立てベーカリー[ROSE]。
毎朝パンを求めて行列は出来るし、この人気店で働く事は一種のステータスとなっていた。
ーー私がこのパン屋で働けるのも…奇跡だわ、だから頑張らないと
このパン屋に勤め始めて3ヶ月。可愛い茶色のロングワンピースの上に白いエプロンがこのお店の制服だ。それまではお偉い男爵家の洗濯係や侯爵家の屋敷内清掃係をやっていたのだけど、何故か毎回執事長からクビを宣告されてしまう。
ーー今度はクビにされないようにっ、失敗はしないようにっ
と言うのも、クビの宣告される時にこっちも生活がかかっているから解雇の理由を聞くのだけど、いつも濁され有耶無耶のまま追い出されてしまうのだ。
10ヶ月働いた洗濯係の時は、教わった初日に小さな失敗を数回しただけだったけど初日ならしょうがないと思うし、1年3ヶ月働いた屋敷内清掃係の時は、真面目に働いてベテランの域に達していたのにクビになったのだ。人生何が地雷か分からなくなっている、マチルダだったのだ。
そんな事を考えて、売れ残ったパンを籠に詰めて、まとめてセールの札を付けていると、カランコロンと、お店の出入口にある低い鈴の音が出る音が聞こえ来客を知らせた。
「いらっしゃいま…あらっ!騎士様っ」
入ってきたお客さんにそう言ったのは、このお店を切り盛りする女主人のアガサさんだ。彼女はこの店のーーいや、この周辺の頼れるお母さん的存在でもあり、サバサバした性格とは裏腹に美味しいパンを毎日味見して彼女が満足した品物しか出さないおかげで品質良好安い!と人気が出た秘訣…だと思う。
そんな彼女のお店に通うのが常連客の1人、騎士様だーー銀色の艶のある長い髪を一つに束ね、キリッとした眉が下がった優しい顔立ち、青い瞳は吸い込まれそうなくらい綺麗でいつもぼうっと見惚れてしまう。シュッとしたスタイルで私よりも頭3つ分くらい高い身長。シンプルなYシャツとカーキー色の長ズボンを履いた、週に一度この店のパンを買いに来る常連さんだ。
「こんばんは、まだやってますか?」
柔らかな声でアガサさんに問いかけると、アガサさんは
「大丈夫大丈夫、まだ閉店時間じゃないからゆっくりしていって」
そう言ってお店の会計する所に、移動した。私はアガサさんに言われた通り、パンなどが載っていたトレーなどを重ねて洗い場まで持って行き、売り場を整理したら仕事が終わった。
「アガサさん、終わりました」
私は彼女のいる元へ行き、指示された仕事を終えた事を報告した。
「ご苦労さま、じゃっ上がっていいよ、また明日ね」
「はい、お疲れ様でした」
白いエプロンを外し、彼女にペコリと頭を下げて帰ろうとしたら、お会計の所まで数個のパンを載せたトレーを持って来た騎士様がやってきた。
「…もう帰るの?」
そう言われて、はい、と短く返事をした。
「暗いけど…送ろうか?」
いつもの優しいお言葉に、私は即座に反応をした。
「いえ…いつもこの時間ですし…騎士様のお手を煩わせるわけにはいきません」
と言うのは建前で、今の時代平民なんかが王国騎士団に勤める騎士様と歩いている所を見られたら、後々何を言われるか分からないのだ。
この国の騎士団は最近特に力をつけていて、建国史上最強の指揮者ーー今の騎士団長が、騎士団のトップに立ってからは、負け知らずとして知られている。国境付近の蛮族をやっつけた、大胆な作戦で他国の部隊を全滅させた、的確な指示で最小限の被害ですんだ等、毎週更新される噂話は、脚色もされているのだろう。そんな彼ら(女性もいるらしい!)は騎士団に所属しているだけで、尊敬され人気となっている。騎士団員とお近づきになりたい女性も多く、この間この常連の騎士様からいつも購入するパンの陳列場所を聞かれただけで、彼が店を出てすぐ他の女性からアガサさんに苦情が私の目の前で入ったのだ。
『従業員という立場を利用して騎士団員に色目を使うなんて、信じられない!』
と。もちろんアガサさんは、とんでもないと否定してくれたけど、その場に居た私はショックのあまり次の日休んでしまった。
ーーそのあと休んでしまったから、職を失うかもって思って…気持ちを入れ替えたけど。
そんな出来事が起きたので私はこの騎士様だけじゃなく、他の騎士団員ともなるべく喋らないようにしていたのに…
「本当に大丈夫ですので」
「…だが」
なかなか引き下がらない彼にどうしようと困っていると、
「…別にいいんじゃない?マチルダ、最近物騒な事件も起きているし」
アガサさんが私達の間に入り、彼の味方をする。
「で…でも、この間みたいな…のが、来たら」
「そうしたら、また謝ればいいさ」
この店の評判が落ちてしまうと危惧する私に、アガサさんは明るく気にするな、と言ってくれる。
「…この間みたいとは?」
私とアガサさんの会話の内容が分かっていない騎士様は、アガサさんに問いかけるのだが、その声が何故かいつもより低く冷たく感じた。
「なあに、騎士様とお喋りをしたら嫉妬したお客さんに色々言われただけだよ」
と、あっけらかんと話すアガサさん。
「…それは…本当ですか?」
と、今度は私の方を見て聞いてくる彼の顔は少しだけ眼差しが鋭くなった気がした。
「…はい…ですからっ」
送ってもらわなくていいです、と言おうとしたら騎士様が私の言葉を遮ってしまう。
「…そうでしたか、申し訳ありません…しかし、やはり送らせていただきます」
と有無を言わせない雰囲気を出され、私は彼と帰る事にしたのだった。
**************
とまぁ、こうして一緒に帰る事になったのだが、本当に気が付いたらキスをしていた。私の唇から離れようとしない、彼の情熱的な口づけに全身の力が抜けていく。彼に寄っ掛かると腰を引かれ身体が密着した。
「家…は、どの辺ですか?」
と私の耳元で囁く声は艶っぽくて熱い。場所を聞いているだけなのに、ゾクゾクと背中に悪寒が走り、彼の胸に頭を付けて身体を預けたくなる。
「…この…先の…角を左です」
そうですか、と呟いた彼は、私の膝の裏に手を差し込み横抱きに私を持ち上げると、歩き出した。
「この赤い屋根の家です」
落ちないように彼の首元のシャツを握っていた私は、あっという間に着いてしまった事に寂しさを覚えていた。
ーー何?!寂しいって
常連さんとしか知らない、こうして長時間一緒にいる事も初めてなのに、この感情は…何?
そんな事を思っていると、玄関先でそっと下ろされた。
「誰か…と一緒に暮らしているのか?」
「…いいえ、こちらでは一人暮らしで…家族は田舎に住んでいます」
いつもなら長時間労働の後の徒歩での帰りに身体がクタクタのハズなのに、抱き上げられていたから、それほど疲れてはいない。下ろされて振り向き、彼を見上げると、視線が絡まった。
「ありがとうございました…あの、宜しかったら…お茶でも」
「…………いや…今日はだいぶ遅いので…今日はこれで……それにこれ以上側にいたら自制が」
とごにょごにょ早口で喋った後半の声が聞こえない。
「そう…ですか…では」
彼に断られ凄く残念な気持ちが、溢れてしまっている気持ちにもびっくりした。
ーー今日の私、どうしたの?!
ドキドキとしたり寂しがったり、こんなに心の中の感情がコロコロ変わるなんて、生まれて初めてだ。
「では、マチルダさんが中へ入ったら帰りますので」
そう言われてしまったら、そうするしかない。
「…はい、ありがとうございました、騎士様」
ペコリと頭を下げてお礼を言うと、騎士様の口が開いた。
「…あー…あの、その騎士様じゃなくて…エンと呼んで下さい」
「…エン様…?」
コテンと首を傾げると、彼の顔が真っ赤になり慌ててしまう。
「ぐっ…そうです、様もいらないのですが」
彼から恐ろしい事を言われ、すぐに否定する。
「いいえ!今女性の憧れの的である騎士様を呼び捨てにしてしまったら、世の女性に殺されてしまいますわっ」
くすくすと笑いながら、彼にも笑って欲しくて冗談を言ったら、
「…なら返り打ちにしますよ」
と今まで聞いたこともないような低い声が返ってきて、驚いて彼を見ると真剣な眼差しで私を見ていた。
「……で…したら…もう少し仲良くなってから…でもっ」
「ええ、期待に添えられるように頑張ります」
何を頑張るのか、と聞く前に背中を押され、家の中へと入る事を促された。
「…また明日、マチルダさん」
去り際に額に触れるだけのキスを落とし、玄関の扉を閉めた彼。「鍵を掛けるように」とくぐもった声がして、ぽうっとしていた私は、我に返り慌てて扉の鍵を掛けたのだった。
それからというもの、毎日毎日私の仕事が終わる頃にやって来ては他愛のない話をして家まで送ってくれ、帰宅途中の路地裏に寄り道して、キスをしてからまた帰るというのが日課になっていた。彼は聞き上手で、私に困っている事はないか、と良く聞いてくれる。
例えばある時は、働き始めてからいる酷いセクハラおじさんに困っていると言えば、数日後セクハラおじさんが逮捕された事を聞いたり。
例えばある時は、来店の多い常連のご婦人の宗教の勧誘がしつこくてと言えば、後日真っ青な顔をしたご婦人が、二度と勧誘しないからっ、と泣きそうになってたり。
流石にエン様に送ってもらうのがひと月経つ頃には、おかしいと感じるようになった。
そんな事が続くと、自分の頭を悩ます存在が居なくなっていくのがなんだか怖くなり、エン様に逆に相談を持ち掛けてしまう。
「エン様、なんだかエン様に悩みを相談すると解決してしまうの…エン様は」
「…私は?」
ゴクンと、エン様が唾を飲み込んだ気がする。
「エン様はもしかして運気が上昇する方でしょうか?!」
「…え」
「今巷で話題なんです!その人の側に居たりすると、不運だった人が、たちまちお金持ちになったり、生き別れの兄弟と…」
拳を作り、顔の横まで上げて力説していると、
「ちょっ、ちょっと!急にどうしたの?」
とエン様は突然早口で喋り出した私を心配し始めた。
「あれ…?知りませんか?今常連さんの間で人気の小説に、側にいるだけでラッキーな事が起こったり、幸せに…エン様
?」
私が自信満々で告げる度に、エン様は右手を顔につけて覆い隠してしまう。少しずつ歩く速度が遅くなり、完全に立ち止まってしまえば、自然と隣を歩く私も立ち止まった。
「…マチルダ」
「はい」
彼は私と向かい合わせとなると、私の頬に手を添えた。
「っ…エン様っ、ここはっまだっ」
まだパン屋から歩いてすぐのところで、誰が見ているか分からないのだ。
ーー最近はエン様と歩いていると言われなくなったけど、用心に越した事はないわ
一緒に帰り始めた頃は、アガサさんにも苦情というか苦言を言っていた人もいたらしいけど、パタリとそれも聞かなくなった。
いつもならパン屋と私の家路の半分くらいの人気のないところでキスをするのに、やはり今日のエン様は少し様子が変だ。
「…誰も見ていないし、私は気にしない」
ゆっくり自分や周りに言い聞かせるように告げるエン様。不思議に思っていると、エン様は私の頬に触れている親指の腹を左右に動かし、私の目元を撫でた。
「…マチルダ、私は強運の持ち主でも、他の誰かを手助けするような聖人ではありません…私は強欲で、欲しいと思ったモノを何がなんでも手にしないと、嫌なタイプですよ」
キリッとした眉の間に皺がより、優しい雰囲気が一変して鋭い眼差しとなる。こんな彼を見るのは初めてで、驚きで目を見張る。
「…エン様…?」
「マチルダ…愛おしい、君だけの騎士になりたいんだ」
彼の口がパクパクと動き、あとから耳から頭へと彼の発した言葉が遅れて脳に届いた気がする。驚きで固まっている私の事などお構いなしに、彼の顔が近寄り私の唇に彼の唇が重なる。触れただけの淡いキスだったが、くっついている時間は長く永遠とも感じた。
「マチルダ」
彼がまた私の名を呼ぶと、私は彼の胸に手を置いた。
「…エン様…私は平民です…よ?お貴族様とは違い、笑われたり後ろ指差されるのは…エン様です」
「私の事などどうでもいいんだ、マチルダ…私に好感を持ってくれるのならば…いや、ほんの少しでも…どうか…私の側に居てくれないか…」
「エン様に好感を持てない方なんて…この世に居ません」
たかが平民の私の言葉に自信を無くす姿が、捨てられそうになるワンちゃんみたいで可愛くって、くすくすと笑ってしまうと、彼は呆然と私を見下ろしていた。
「…じゃあ」
ぱぁっ、と笑顔になるエン様は、さらに可愛くなり胸のときめきも大きくなっていく。
「はい、私はエン様の事…好きです…その…初めて会った時から…優しくて、その美しい瞳にいつも見惚れていました」
みんなの憧れの騎士様に告白するなんて恥知らずで無鉄砲と言われてもいいと思う。初めてするキスも、仕事で関わる人以外とこんなに長く毎日居てーーそれも素敵な人と、好きにならない方がおかしいと思う。
私が告白をすると、彼は私の右手を取ると急に地面に片足を付けて、騎士が忠誠を誓うポーズをした。
「マチルダ…なら私と付き合ってくれないか」
そう言って、私の手の甲に唇を寄せると、ちゅっと触れるだけのキスを落とした。不安そうに眉を八の字にした彼を見て、その光景にここがお店の近くだとか、人の目がとかどうでも良くなってしまい、胸がいっぱいになり言葉が詰まる。
「………はっ…はい…っ、はい」
それだけ伝えるのが精一杯で、こんな幸せがあっていいのかと、涙が溢れてぽろぽろとこぼれ落ちる。
そんな私を見て彼は、ふっと笑った顔はいつもの優しい顔になった。
「なら、これから私の家へと行こう」
スクッと立ち上がった彼は、そう言って私が何かを言う前に私を横抱きに持ち上げて、スタスタと歩き出したのだった。
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