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 人の命は儚く脆い。シミオンがそんな現実を思い知ったのは十二歳になったばかりのまだまだ幼い頃のことだった。
 実り豊かな国土に恵まれ、周囲を険しい岩山に守られるように囲まれたラトランド。賢王の治める都で暮らすシミオンの家は商家を営んでいた。
 父が若い頃から手探りに始めた商いは軌道に乗り、シミオンが生まれる頃にはなかなかに裕福な暮らしを送っていた。特に不自由なく育ち、学校に通い、休みの日は父の仕事を手伝い、このまま続いていくと疑わなかった幸福な日々はある日突然終わりを迎えた。

 学校から帰ったシミオンは、いつもなら家にいる母に向けて声を掛けるが、その日は返事がなかった。母を探して台所へ入ると机の上に書き置きがあり、手にすると父が早く帰れたので二人で買い物に行って来ると書かれていた。
 シミオンは自室へ向かい、宿題を解きながら二人の帰りを待っていた。外の喧騒も気にせず数字の羅列と戦うシミオンだが、家の扉を叩かれれば流石に体を動かす。誰だろうと玄関に向かい扉を開けるとそこには都を守る騎士の姿があった。父よりいくつも年を重ねているだろう、厳めしい顔に憐れみを浮かべた彼の方こそ悲壮であり、告げられた言葉はシミオンを奈落へ突き落とした。

 事故だった。
 シミオンの両親は息子の好物の材料が入った荷袋を抱えて、帰り道を歩いていた。大きな歩道は時折馬車が通るので通行人は端を歩く。二人もそうしていた。
 詳しい原因はわからないが、道を走っていた馬車が突然暴れ出したらしい。懸命に静めようとする馭者の努力も虚しく、暴れ馬は人を轢いた。シミオンの両親だった。
 人を傷付けてようやく理性を取り戻した馬はそれ以上被害を増やさなかった。

 シミオンの暮らしは一変した。幼い子供だけが残され、心配した隣人の好意により両親は弔われたが、葬式が終わった直後にシミオンを訪ねる人がいた。
 父の弟、シミオンの叔父を名乗る男性は隣人にシミオンを引き取りに来たのだと安心させて家へ返す。第三者がいなくなると幼い子供に向かって父の仕事も家も遺産も、何もかも自分の物だと主張した。
 険しい顔で捲し立ててくる見知らぬ大人に十二歳の子供にろくな反論が出来る筈もなく、何もわからないままに家を追い出され、路頭に迷ってしまった。隣人に話せば助けてくれただろうが、あの大人はシミオンにしたように暴論を喚き散らしてくるだろう。親の弔いを手伝ってくれた恩人にこれ以上迷惑をかけてはいけないと子供ながらに思い、助けを求められなかった。
 どうしたらいいのかわからず、当てもなくさ迷っていたシミオンは町の外れまでたどり着いた。あまり来たことのない場所だった。
 都の中心地から離れたそこには民家が少ない、というか一つしかない。
「……魔女が住んでるって、言ってたっけ」
 学友がそんな噂をしていた。町外れにある小さな工房には魔女が住んでいるのだと。
 怪しげな草や生き物を捕まえて、工房の中にある大釜で茹でるのだという。魔女は人の子も茹でるのだと恐怖を煽るように話す友人の顔は面白そうに笑っていた。
「魔女とは失礼だな。私は錬金術師だよ」
 呟きに返答があるとは思っておらず、慌てて振り向いた先には黒いローブ姿の老婆――ではなく、若草色のチュニックを着た妙齢の女性が佇んでいる。闇色の髪と瞳を持った美しい人だった。
「れんきん……じゅつし?」
「そう。古くは卑金属を貴金属……石ころを黄金に変えようとした者達のことだよ」
「えっ、そんなこと出来るの?」
「出来るわけないだろ」
「えっ」
 想定と異なる返答に驚くシミオンに、女性は「それより」と話を続けた。
「子供がこんな所で何をしてるんだい? もうじき日が暮れる。早く家に帰りなさい」
 見知らぬ子供を見かけた大人としては極当然といった台詞だったが、この時のシミオンには心臓を抉られるような言葉だった。帰る家はつい先程失ってしまったのだ。
 混乱から麻痺出来ていた感情が涙になって溢れ出し、突然泣き始めた子供を見て女性は驚いていた。
「おいおい、何も怒っちゃいないよ。泣くことないだろう」
「ちがうんです。ごめんなさい……ぼく、かえる家が……なくて……」
「…………ちょっと、おいで」
 訳ありと察したのか女性はシミオンを家に入れてくれた。言われるがままにテーブルに座り、しばらくすると琥珀色の液体が注がれたカップを出される。不思議な香りがした。
「気持ちを落ち着けてくれるお茶だよ。飲みなさい」
 女性が向かいに座り、自分のカップに口を付ける。シミオンもカップを取り、一口飲む。美味しかった。
 カップを空にしてぼうっとしていると、本当に心が落ち着きを取り戻していた。不安や悲しみは募っているけれど、それが飛び出してくる様子はない。
「……やっぱり、魔女だ」
「錬金術師だってば。それより、帰る家がないってのは?」
「両親が、事故で死んじゃって……家もなくなっちゃって……」
「天涯孤独の身か」
 ふむ、と女性は何か考えるように、綺麗な指で顎に触れる。
 起こったことを全て話していたら違う結果になったかもしれないと、後にシミオンは考える。この時女性はシミオンが親を失くしたため行き場がないとしか考えていなかった。自称叔父の横暴を伝えられていたら、彼女の行動も変わっただろう。
「行く所がないのなら、きみ、私の弟子になってみるかい?」
 いいことを思いついたとばかりに楽しげに目を細め、微笑む。
 シミオンは頷いた。真っ暗な世界の中に、眩く輝く救いの糸を垂らされた気分だった。


 シミオンは錬金術師に弟子入りし、師匠となった女性・ヘロイーズはズボラな人だった。
 錬金術のこととなると寝食を忘れて熱中し、商売にあまり興味がない。最低限食っていけたらそれでいいと思っている。シミオンも物欲は強くはないし仕事に関しては彼女のことなので意見はしないが、風呂くらいは言われずとも毎日入ってほしい。
 シミオンの一番の仕事はヘロイーズに人間らしい生活をさせることだった。毎食の用意をしたらヘロイーズを食卓へ引っ張り、風呂を沸かして入るよう言い、決まった時間になると寝るよう呼びかける。ヘロイーズが魔法薬を卸している商人とのやり取りはいつの間にかシミオンの仕事になっていた。帳簿の付け方も覚えるのは早かった。
 ヘロイーズは師匠としては優秀だった。基礎から応用まで、彼女の持つ錬金術の知識全てをシミオンに叩き込もうとする。わからなくて質問をすれば疎むどころか嬉々として語る。知識を蓄えたら実践に移り、初めて傷薬を作り出した時はシミオンよりも喜んで褒めてくれた。
 父ではない。母とも違う。姉が近いかもしれないけれど、それよりも近くて厳しく優しい師匠が大好きだった。共に暮らした五年間をシミオンが忘れることはないだろう。
 シミオンが十七になると、ヘロイーズの仕事は殆どシミオンが行っていた。大きく空いた時間を手に入れたヘロイーズは錬金術の研究を進め、ついには住み慣れた都を飛び出す決意をした。
「世界中を旅して新しい発明を見たい」
 目を輝かせて言われてはシミオンが止めることは出来ない。ついて行きたいと思ったけれど「その間、この工房を繁盛させてくれよ」と頼まれては残るしかなかった。
 師匠の旅立ちを泣いて見送るシミオンに、彼女は「今生の別れでもないだろ」といつも通りの顔で笑っていた。

 一人ぼっちになったシミオンはヘロイーズのもとで育ち、一人で生きていく術は手に入れた。彼女からまるまる継承したのは錬金術と工房だけではない。彼女の人脈も継がれている。
 ヘロイーズが魔法薬を卸していた商人は彼女の旅立ちの後も変わらずにシミオンから薬を買ってくれる。数年前からシミオンが薬を作っていると知っているからだ。
 ヘロイーズと交遊のあった人々は自然とシミオンとも関わりが生まれている。皆、シミオンにも優しく接してくれた。
 中でも一番良くしてくれているのはヘロイーズがよく通っていた食堂の店主家族だろう。ヘロイーズに連れられて来るようになったシミオンの顔を覚えて、時折話相手になってくれたり、ヘロイーズの世話の合間に給仕として雇って小遣い稼ぎをさせてくれた。一人になってからも請われれば食堂で働いている。二足のわらじだ。
 師匠のおかげで生まれた繋がりはシミオンの心を癒してくれたけれど、渇望を生むことにもなっていく。
 シミオンはいつしか家族がほしいと思うようになった。人として生きる以上当然の欲求であったが、シミオンには叶わない夢だった。

 それはシミオンが一人で暮らし始めて一年が過ぎたある日のこと。数日後に納品を控えた魔法薬の材料が足りないことに気付き、他に用事もなかったシミオンは近くの森へ採集に向かうことにした。
 都からそう離れていない森には下級とはいえ魔物が棲みついている。一匹二匹ならシミオンにも対処出来るが、群れをなせば現役の騎士団でも苦戦する。
 その為、錬金術で作成した傷薬や極小規模な爆薬、毒薬などを用意しておく。採集用の鞄に入っているだろうと思い、そのまま工房を出たシミオンは数刻後に悔やむことになる。
 たどり着いた森で目当ての薬草を探していると獣の唸りが聞こえ、辺りを見渡すと数頭の犬に似た魔獣に囲まれていた。何度も爆薬で追い払ったことのある魔獣だったので今回も大丈夫だろうと鞄の中を探るが、爆薬の入った筒がない。毒薬の瓶すらない。前回の採集でちょうど使いきってしまったようだった。
「えっ」
 シミオンにあるのは僅かな傷薬と手にした杖のみ。師匠に教えてもらった簡単な攻撃魔術は使えるが、専門家ではないシミオンに乱発する程の魔力はない。仕留めきれない。
 シミオンの焦りを察したのか、涎を垂らした魔獣達はじりじりと間合いを詰めてくる。万事休すと諦めの境地に至ったその時だった。
「大丈夫かい?」
 人好きのする笑顔を浮かべながらシミオンに声をかけるのは都の有名人だった。
 声の主である彼――テオドアの生家であるエヴァンズ家は貴族に名を連ねるものの、これまでに大きな功績もなく、取り立てることのない家だった。別にそういった家はエヴァンズだけではなかったので特に話題にもならなかった。彼が騎士になるまでは。
 エヴァンズ家の三男に生まれた彼は騎士学校を主席で卒業した。同年に入学した騎士の名門と謳われる名家の令息を抑えて。それだけで無名だったエヴァンズの名を一躍有名にしたのだ。
 加えて彼は見目も良く、人格も優れていると評判だ。金髪碧眼の美青年が騎馬に跨がる様は物語の王子のように凛々しく美しい。
 そんな人が、あっという間に魔獣を蹴散らしシミオンに声をかける。呆けてなかなか言葉を返せないシミオンに苛立つことなく、彼は辛抱強く待ってくれていた。
「あっ……ありがとう……助かりました」
「そう。良かった。今日は採集に来たの?」
 その通りなので頷くとテオドアは護衛を持ちかけてくれた。ろくな装備のないシミオンには願ってもない提案だが、用事があって森に来たのではないかと問い返す。
「――時折、散策に来るんだ。特に目的はないから大丈夫だけど……迷惑だったかな」
「そんなことない! あっ、いや、いいなら、お願いします」
「うん。行こう、シミオン」
 促されるままに森を歩き始めたシミオンは違和感を覚えるが、それが何かわからない。考えようにも愛想良く何かと話しかけてくれるテオドアのおかげで上手く頭が働かず、彼の問いかけに答えるのに精一杯だった。
 無事に目的の薬草を手に入れたシミオンはテオドアに都まで付き添われ、怪我もなく工房へと帰ってこれた。忘れないうちに爆薬と毒薬を鞄へ詰めていると違和感の正体に気付く。
「……僕、名乗ったっけ」
 テオドアは有名人なのでシミオンは一方的に知っていたが、シミオンは有名人でも何でもない。顔立ちは至って凡庸、くすんだ茶髪にヘイゼルの瞳なんてありふれた色の目立つもののない青年だ。
 接点らしい接点もない、と考えてそこを否定する。テオドアはシミオンの働く食堂によく通っている。あまり会話をしたことはないけれど、どこからかシミオンの名前を聞いて覚えたのかもしれない。
「……やっぱテオドアもメリッサ目当てなのかなぁ」
 メリッサは食堂の看板娘だ。厳めしい顔と逞しい体つきの店主であるビルを父に、愛想のいい笑顔が魅力的な奥さんのエイダを母に生まれた彼女は、ほっそりとした小柄な美少女で彼女目当ての客が多い。メリッサではなくシミオンが注文を聞きに行くと舌を打つ客もいる。
 可愛らしくて誰にでも優しい気立てのいい彼女なら、テオドアが夢中になっても仕方ない。むしろ当然のことだろう。
 そんなことを考えている自分にようやく気付き、シミオンは首を傾げた。どうしてテオドアのことばかり考えてしまうのか。命の恩人だからだろうか。
 それは毒のようにゆっくりと、シミオンの中に募っていく。自覚のないまま大きな感情に育ち上がる。
 目が合うだけで。名前を呼ばれるだけで。愛想良く微笑まれるだけでシミオンの心が舞い上がる頃には理解していた。シミオンは彼に、同性の青年であるテオドアに恋をしていた。


「シミオン、どうしたの?」
 昼時の忙しい時間帯が過ぎ、テーブルに座って休憩を取っていたシミオンに声がかかる。今日の賄いであるミートパイを手にしたメリッサが、シミオンの分も持ってきてくれた。
 礼を言いながらメリッサを見る。淡い赤毛と緑の瞳、可愛らしく整った顔立ちと鈴の鳴るような声。華奢な体には重たげに見える程に大きな胸。
 彼女に傾倒する男達が賛美する彼女の魅力をシミオンも理解しているが、彼らのような感情は生まれなかった。
 可愛いと思う。素敵だと思う。彼女自身を好ましく思うけれど、それだけだった。
「……ちょっと疲れちゃって」
「今日、忙しかったものね。大丈夫?」
 うん、と頷いて切り分けたミートパイを頬張る。小麦の生地の奥に広がる肉の旨味に、自然と口角を上げる。シミオンの表情を見て、メリッサも唇を緩く笑んだ。

 恋心を自覚し、他者との違いを理解し、シミオンはこの頃に異性へ恋愛感情を持てないことを察し、誰かと結婚して家族を作るという平凡な幸せを諦めた。
 塞ぎ込む日々の中、空いた時間に気紛れにヘロイーズの残した本棚を漁っていると装丁の傷んだ古い本が目に留まる。
 興味を持ち本を取り、中を見るととある錬成過程が記されていた。多種多様な素材をもとに一年近くの時間をかけて生み出されるそれは、理を曲げ神の領域に入り込むと謳われた錬金術の中でも最大の神秘。
「ホムン……クルス……人の手で創られる生命……」
 人工生命体を錬成したという、ホラ話としか思えない内容が綴られていた。
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