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08 願い

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 ゼノが夢を見ている頃。ラウラは一人、祭壇の前に佇んでいた。
 穏やかな笑みを浮かべる女神像。信徒により建てられた厳かな神殿。神話を礎に守られ続けた信仰。全てが虚構だ。
 国一つ滅ぼす絶大な力を持った悪魔から生まれたラウラは、この地を目指す者を感じ取った。正確にはゼノを捕らえようとしている者を。
 地を駆ける馬蹄も、神殿を進む靴音も聞こえるわけではないが、わかっていた。もうじきこの広間にやって来る存在があると。
「……亡霊め」
 呟く声は地を這うように低い。ゼノが愛らしいと感じた女のものではなかった。
 しばらく待っていると、ラウラの耳に音が聞こえてきた。階段を降り、回廊を駆けるいくつもの足音が。
 騎士の制服に身を包んだ男達によって広間の扉が開かれる。騎士を引き連れた金髪の少女、その顔を見たラウラは笑った。
「貴女っ!」
 誰もいない筈の広間で彼女達の到着を待っていたラウラに騎士は驚愕し、ベルは憤怒した。兄を連れ去った女を見つけたのだ。
「ゼノはどこ!? ゼノを返して!!」
「ゼノはお前のものではない」
 ベル達を睨むラウラの眼が赤く、鋭い光を放つ。その目を見た、見られた瞬間、護衛達はばたばたとその場に倒れ伏した。
「……なにっ……」
 ベルも言い様のない眠気に襲われ、崩れそうになる体を鞭打ち、片手をついて耐える。
「……あら。根性見せるわね。でも諦めなさい。ゼノは歩き出しているの。妹の手を離して、彼の人生を見つけようとしているのよ」
「ふざ、けるなぁっ……! ゼノはっ……うっ……」
 呻き声と共にベルの意識は閉ざされてしまう。それを見て踵を返そうとしたラウラは、静かに駆け寄る存在に気付かなかった。
「ぐっ……うっ……」
「あら」
 騎士に支給される長剣がラウラの胸を刺し貫く。人間なら心臓を奪われていたことだろう。
 ラウラを刺したのはユーグだった。ベル以上の精神力で立ち上がり、幼馴染みを拐かしたラウラを殺そうとしたのだ。
「女の胸に剣を刺すなんて酷い人」
「っ、お前は……何なんだ……」
 胸を剣で刺されているというのに焦りも苦しみもせず、淡々として……微笑みすら浮かべた様子は人間ではない。
 ラウラは答えず影となった。貫く肉がなくなった剣は床に落ち音を立てる。影が逃げる先に扉を見つけたユーグは、力を振り絞って駆けた。そこにいるのだと、それだけ思って。



「んっ」
 過去の断片から目覚めたゼノはハウレスにキスされていた。今しがた見ていた記憶ではかつてのゼノを罵り、人を見下していた悪魔が、ゼノを掻き抱いて口を吸う状況に混乱する。
「ふ、う、あのっ……やめて」
「悲しいこと言うなよ。何年待ったと思ってるんだ」
「えっ? 待つ? 何を……?」
「思い出してないのか……うん……?」
 口付けから逃げたゼノを、赤い瞳がじっと見つめる。ラウラと同じ色をした切れ長の眼差しは、そうだ、いつもこうしてゼノを見ていた。
「抗っているのはお前か。小賢しい……」
「え?」
「ああ、お前ではなくて……」
 ハウレスの言葉を遮るように、扉の下を潜って影が――ラウラが部屋に入り込んで来た。ラウラはハウレスの影に同化してしまい、ゼノの視線が何があったのかとそちらへ向くと、ハウレスはわかりやすく顔を顰めた。
「今は俺を見ていろ」
「いや。いや。ラウラ変だったろ。ラウラ? 何かあったの?」
「肉体が軽度の損傷を負ったから俺の中に逃げて回復してるだけだ」
「軽度? 損傷? 怪我したのか?」
「ああ。ほら、来たぞ」
 扉がゆっくりと開かれる。そこには苦し気なユーグがいて、ゼノは「何で?」と呆けてしまった。どうしてプレガーレから遠く離れたレニーニにユーグがいるのか。
「お前っ……ゼノから離れろ!」
「離れるわけないだろう」
 ふらついた様子で、それでも騎士として剣を構えるユーグをハウレスは鼻で笑う。わざとらしくゼノに頬擦りをすると、ユーグの怒りが増した。
「ゼノ、帰ろう。ベルが心配してる。聖女になって巡礼しながら、お前を探して、毎日泣いてるんだ」
 怒りながらも冷静になり、ハウレスの腕の中のゼノへ揺さぶりをかける。妹思いのゼノの心は動くだろうと。実際、以前のゼノなら迷わずベルに駆け寄っていただろう。
「ユーグ……ごめん。俺、知らなきゃいけないことが出来たんだ」
「ゼノ?」
「封印の間に忍び込むのは……許された行為じゃないけど、それでも、何をしてでも……ベルを捨ててでも、俺は知りたいんだ」
「ゼノ」
 ユーグの顔は驚愕に染まる。幼馴染みが何を言っているのかわからなかったが、別離の意思だけは理解出来てしまった。
「身勝手な頼みだけど、ベルを支えてやってほしい。ごめん、ユーグ」
「もういいだろう」
「え?」
 ゼノの間抜けな声を残して、ハウレスとゼノはユーグの前から瞬く間に姿を消す。目を見張るユーグは、そこで精神力が尽きたように倒れ込み、意識を失ってしまった。

 気付いたらゼノは神殿の外にいた。薄暗い路地裏に人気はなく、突然現れた怪しい二人組の男に注目する人はいない。
「外に……あ、転移魔術?」
「ああ」
 ユーグの前からゼノを逃がした、隣に立つ男を見上げる。夜闇のように艶めいた長い黒髪と、血のように赤い瞳を持った端正な男の姿をした悪魔は、いつかの夢と同じようにゼノへ笑みを浮かべ、顔を寄せた。
「何ですぐキスしてくるんだよっ」
「久しぶりだからいいだろ」
「久しぶりって何だよわかんないよ!」
「……ああ。わかるようにしてやるよ」
 ゼノから体を離したハウレスは路地裏の外へ歩き始める。呆けてその背を見送ってしまうゼノへ「何をしてる」と同行を促す。
「宿へ行くぞ。お前の知りたいこと全て、俺が思い出させてやる」
 ハウレスの言葉に、ゼノは慌てて駆け寄った。


 昨夜泊まったのとは違う宿に、ゼノは一人で部屋を取った。ハウレスは姿を消しているが、常にゼノの隣にいる。部屋に入ると姿を現し、一つしかないベッドへ腰掛けるとゼノを手招きする。
 大人しく従い、傍らへ立ったゼノの体にハウレスの腕が伸びる。ハウレスはベッドへ寝転がり、囲うように抱き込んだゼノへ囁く。
「昔のお前は恐れている。忌まわしい過去を思い出すことを。本当は既に蓋は開けられているのに、開いていないと偽ってお前が思い出す邪魔をしている」
「……え」
 ハウレスの大きな手がゼノの瞼を塞ぐように添えられる。白い肌は体温を感じさせないが、触れてみると人と変わらずに温かい。
「夢に見るがいい。俺とお前の愛すべき記憶を……約束を思い出せ、ゼノ。俺はずっと待っていたんだ」
「は……う、れ……」
 ゆっくりと、ゼノは微睡みに包まれていく。意識が霞んでいく中、ゼノは温もりに包まれている。
 懐かしさに安堵しながらゼノは眠りに落ちていく。茜色に染まる記憶は、かつてのゼノのものだ。
 ゼノとハウレスはよく城壁の上で話をしていた。恋人達ならするであろう、他愛のない会話を楽しむ。魔術兵長と国を救った悪魔が睦まじく過ごす時間を、邪魔する者はいなかった。
「今日は遠出をしないか」
 いつからか塞ぎ込むようになったゼノの提案にハウレスが否と答える筈はなく、二人揃ってプレガーレから少し離れた森へ向かった。ゼノと何度か訪れたことがあり、ハウレスなら一瞬で転移出来る。
 森の爽やかな空気が少しでもゼノの心を癒せばいい。悪魔らしくない気遣いの甲斐なく、高かった陽が沈み、大空が赤らむまで森を散策しても、ゼノの表情は晴れなかった。
 森の奥には湖があり、二人は畔に倒れた大木へ腰掛けた。ぴったりくっつくように座り、ゼノの背にハウレスの腕が回る。
「ハウレス」
「ああ」
 夕焼けを映す湖面は炎のように赤い。
「私と一緒に死んでくれないか」
 一陣の風が吹き、湖面に漣が立っていく。答えを待つ男の体を抱く腕に、ハウレスは力を強めて声を返した。
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